第3話 暗殺者の仕事
シアが出て行った後、ジャックは数分、間を置いてから彼を追いかけた。
業界人の出入りするバーでは、すでにマスターの元までジャックの『買い物』の情報が回っていた。
買いつけたチャイニーズに口止めしたわけではないから、これは当然だ。当初は、ジャックもシアを買ったことを隠すつもりはなかった。
暇つぶしに買った子供だ。思いのほか気に入ったというだけで。
ただ、彼を買ったことでジャックに不利益を与えようという者がいるのなら、話は別だ。
『切り裂きジャック』はもう一人いる。実行犯であるジャックではなく、ジャックの犯行であることを知った上で、ジャックの存在を世間に知らしめた『自称ジャック』。新聞に手紙を送った主だ。
元々、ホワイトチャペルの件は秘密裏に進んでいた。娼婦が王族の子供を身ごもってしまったのだ。貧民窟に近いあの街で、王室の血を引く人間が興味半分に女を漁った上に孕ませたとなれば一大事である。
それだけなら、娼婦とその子供だけをひっそりと殺せばよかった。王室側の誤算は、王家の血を継ぐことになるその子供を理由に、複数の娼婦がぐるになって認知を迫ってきたことだ。
娼婦にも権利を。王族の子供を宿した彼女に、相応しい金と権力を。彼女たちはそう訴えた。
あわよくば彼女に取り入って、貧困にあえぐスラムから抜け出したい。そんな打算が彼女たちを大胆にした。
思わぬ方向に事態が大きくなったため、王室はなんとしても噂が広まる前に娼婦たちを始末しなければならなかった。あえて殺人鬼による派手な惨殺事件に仕立てたのは、事情を知る者には「余計なことを口にすればこうなる」という恐怖を与え、事情を知らない者には特別な恨みを持つ殺人鬼だと信じさせる効果を与える。
その効果を狙うだけなら、わざわざ新聞社に犯行声明文を送りつける必要などなかった。いくら普遍的で極めてありふれた名前とはいえ、ジャックの通り名を使う必要もない。
ジャックの犯行だと理解した上で手出ししてきたなら、間違いなく王族に絡む同業者、もしくは王室の血を引く誰かの差し金、ということになる。
一年も隠遁したのに、今になってもまだ探りをいれてくるくらいであるから、相当な執念だ。
ここまでくれば、シアも安全とは言い難い。
ジャックは雑踏に紛れて、シアを尾行する。
弟子といっても、彼は毒物と化した肉体以外はただの少年でしかない。ナイフを持たせておいたが、本気でその筋の者に狙われたらなすすべもないだろう。
(撒き餌に使うようで、シアには悪いことをするが……)
果物を見て、シアは機嫌よく笑っている。甘みだけは辛うじてわかる彼は、甘みが強い果物が好きだ。砂糖で果実を煮詰めたジャムも、美味しそうに食べる。数少ない好物だ。好きなだけ買えばいい。
微笑ましく見守っていると、マーケットを抜けたあたりでシアの姿が消えた。
(動いたか)
ジャックは静かに近場の建物の雨どいをつたってのぼり、屋根の上からシアの現在地を確認する。この手の連中が人をさらって連れ込む路地は、全て頭の中に入っている。
口を塞がれて、手足を縛られ、男に担がれていくシアの姿を屋根の上から追跡した。
霧の多いロンドン。昼間とはいえ曇天で薄暗く、屋根を行くジャックの姿に気付くものはいない。
やがてシアを抱えた男の姿は、メインロードの片隅にある小奇麗な一軒家の裏口に消えていった。
その家の前に、ジャックも降り立つ。
「まずいな、これは……。ここはさすがに、俺でも許可なく立ち入るわけにはいかない」
その場所は、王族の血を引く公爵家が所有する、ゲストハウスだった。どう見ても、暗殺者の根城ではない。
つまり、ジャックにとっても、依頼主の関係者だ。王室とことを構えるのは不味い。
「くそ、同業者かと思ったが、王室絡みが直接動いているなんて思わなかった」
ホワイトチャペルの殺人事件から一年、せっかく王室の頼みを聞いて大人しくしてきたというのに、ここで依頼人の信頼を損ねるのは悪手だ。この国において、王室以上の上客はいないのだから。
「シア、迎えにいくまで少し時間がかかりそうだ」
ジャックは再び、屋根へと上がり、駆けていく。
■
ふと気が付くと、シアは見知らぬ部屋に転がっていた。
買い物を終えて、少しだけ先も歩いてみようかと思ったのは覚えている。
人が少ない路地に来て、何もなさそうだから引き返そうと踵を返した。――そこで、何者かに襲われた。
そして、今何もない部屋で両手足を縛りあげられて転がされている。
あれからどれくらい経ったのかもわからない。
暗殺者は、いつ命を狙われてもおかしくない。ジャックはそう言った。
シアはまだ暗殺者とは言えない。しかし、ジャックの元にいることを知る、誰かがいないとは言い切れない。シアを使って、彼をおびき出そうとしているのか――。
(……きっと、先生は来ない)
ジャックはプロの暗殺者だ。シアを助けることはメリットより、デメリットの方が多いことをよく理解しているだろう。
金で買った暇つぶしの弟子。
あの驚くほどに印象が薄い彼の表情、声音を、少しも思い出せない。
シアにとっても、きっとその程度のものだったのだろう。たまたま買った人が暗殺者だった。それだけだ。
――本当に、そうだろうか。
期待するな、と何度も自分に言い聞かせている。それなのに心のどこかで、ジャックが助けに来てくれるのではないかと考えている自分もいるのだ。
わざわざ、蝶の彫り物をしたナイフまで持たせてくれた。
シアは『蠱毒』だ。ナイフを使うよりも、自分の血や涙、唾液、体液を使った方がよほど暗殺には役立つ。そういう風に育てられた。それなのに、毒物ではなくナイフで戦えと彼は言ったのだ。
『蠱毒』にとって、毒は武器であり、足枷だ。毒の濃度を上げるために、神経がおかしくなって味がわからなくなっても毒物を食べさせられ続けた。ストレスと毒の作用で髪は全て白髪になった。色事を教え込まれるのも、苦痛でしかなかった。
どうしてこんな場所に自分はいるのだろうと、何度も運命を呪った。
嫌がれば、仕置きに『毒抜き部屋』に入れられた。毒に慣らされた身体は、毒を抜かれると絶叫しそうなほどの苦痛に見舞われる。高熱、痙攣、嘔吐が続き、全身の痛みに夜も眠れず、いっそ殺してくれと泣き叫んだ。
だけどいつも、死ぬか死なないかのギリギリのところで連れ戻されて、口に無理やり毒物を押し込まれた。死にたいのに、死ねない身体になっていた。
先に死んだ仲間が羨ましかった。毒物には完全に適応できず、常に身体は熱と痛みで怠く重かった。
死にぞこないだからと『夏蝶』の名前を与えられた時も、死にぞこないではなく早く死にたいと思っただけだった。
『壺』から出された時、ようやく解放されたのだと思った。同時に今更のように死ぬのが怖くなった。やっと出られたのに、この先には自分の死しか転がっていない。
だけど、今でも死にぞこないの蝶は生きている。
シアの命を繋いでくれた人がいる。
(先生が、救ってくれた……)
気まぐれでも、ジャックに救われた命なのだから、ジャックのために使いたい。
助けにきてくれなくてもいい。どうせ死ぬのなら、自分はジャックのために死ぬ。それならまだ、自分の命は無駄ではないと思える。
せっかくのナイフは奪われてしまったけれど、自分にはまだ毒がある――。
その時、不意にドアが開いた。
「なんだ、起きているじゃないか」
ぞろぞろと、数人の男が入ってくる。先に来た屈強そうな男たちは軍人だろうか。その後ろから、茶色い髪を綺麗に撫でつけた身なりの良い男が入ったきた。
貴族だろうか。少なくとも、彼がこの一行の実権を持っているのであろうことは、シアでも予測がつく。
貴族らしき男は、シアを不躾にじろじろと眺めていた。
「あの『顔のない男』が大事に囲っていたというからどんな美人かと思えば、アジア混ざりの子供だ。顔の造形は悪くないけれど、痩せていて貧相で……これを抱けるかい? 私には無理だよ」
その男の言葉に、取り巻きの軍人たちが下卑な笑い声をあげた。
自分のことはいい。どうでもいい。『蠱毒』は悪趣味な観賞物か、使い捨ての暗殺道具だ。
――だけど、ジャックを馬鹿にするのは許さない。
そんな感情が、自分の中にまだ残っていたことに驚いた。
彼に与えられたのは、仮の名前とナイフ。
この期に及んで、自分の先生であるジャックの顔が、声が、思い出せない。未だに少しも印象に残っていない。
それでもこの頭をなでる彼の手の感触は、一秒だって忘れられない。
軍人と思しき男の片方が、髪を掴んでシアの顔を引き上げた。
「いやいや、顔だけならかわいいものですよ。これならヌけます。まぁ、毒人間じゃそっちはできませんがね」
再び、笑い声。笑い声。
――この距離なら、手足を拘束されたままでもやれる。
その彼の喉笛を狙って、シアは渾身の力でかみついた。
「……なっ!?」
驚きの声は、一瞬。
シアは腹を蹴りあげられて、床に転がった。
転がった先で、軍人が泡を吹き白目を剥いて痙攣をしながら床をのたうちまわっているのを見た。シアの体液は、普通の人間には猛毒だ。少しの唾液でも、血管から侵入すればあっという間に回る。
「……っ、けほっ、ぼ、僕は……ジャックの、弟子だ。お前らに、先生を笑う権利なんて、ない」
腹の痛みに耐えながら、必死に強がった。
例の貴族らしき男が、まるでおぞましい汚物を見るような眼差しでシアを見ている。
「この死にぞこないの『蠱毒』は、毒を使えないようにして痛めつけておけ。飲食物は与えなくていい。死んでも、ジャックへの見せしめくらいには使えるだろう」
人質としての価値はない。そう告げられたところで、シアには大した痛手ではなかった。元々、シアはジャックにとってそれほど価値がある人間ではないはずだから。
救いに来て欲しいけど、救いにきてくれなくてもいい。
ジャックが自分を斬り捨てたとしても、それで恨むようなことはしない。恨みが湧く前に、きっと自分の命は尽きるだろうから。
それからのことはあまり覚えていない。
棒で叩かれ、鞭で打たれて、酷い言葉で罵倒されたことをなんとなく覚えている。
大丈夫だ、これくらいなら慣れている。『壺』にいた頃はもっと苦しかったはずだ。
少しくらい優しさ知ったからって、すでに知っている苦痛に耐えられなくなったわけではないはずだ。
そのはずなのに――心の中で、ずっと彼が早く来ますようにと願っている。
おかしい。来なくていい。来なくてもいい。本当にそう思っている。足手まといになるくらいなら、『蠱毒』らしく使い捨てされたい。
嫌だ。死にたくない。会いたい。会いたい。
どうして、相反する気持ちが自分の中で溢れ出すのだろう。死にたくないなんて、今更そんなこと。
会いたいなんて、せめて死ぬ前に一目見たいだなんて。
顔も声も思い出せないくせに、たった一か月見守られていた記憶にすがって、今にも叫びそうになっているなんて。
――たすけて。
その言葉が、脳裏を駆けた。
もう無理だった。自分を誤魔化せない。ジャックに会いたい。救ってほしい。優しくしてほしい。
毒を摂取せずに、どれくらい経ったのだろう。
寒気が酷い。冷や汗が出る。こみあげてくる吐き気は殴られたせいなのか、それとも。
全身が痛い。身体が自分の意思とは無関係に痙攣している。奥歯がカチカチと鳴るのが、やけに耳の奥に響く。
喉の奥からは絶えず苦痛の声が零れ落ちて、唾液も涙も何もかも垂れ流しになって床を汚した。
視界が真っ暗で、今自分が何をされているのかもわからない。ただ、絶望的な苦しみが身体の中で絶えず暴れまわっている。
どこかに、誰かにすがろうと、手を伸ばした気がする。
その手を、誰かがとった気がする。
誰かはわからない。誰かを望んでいた気がするのに、それが誰なのかを思い出せない。
身体の中にはもう、苦痛しかない。
「すぐに終わらせるから、もう少しだけ頑張るんだよ」
ただ、優しく懐かしい声だけが、絶望の世界にぬくもりをくれた。
■
浅い息と痙攣を繰り返すシアの手を撫でて、ジャックは立ち上がった。
「さて、俺の愛弟子をこんなことにしてくれた落とし前を、どうつけてくれるのでしょうか、クラレンス公」
ジャックがその部屋に辿りついた時、シアは暴行と毒抜きの禁断症状で意識もあるかどうかわからない状態だった。
近くにぞんざいに転がっていた軍人の遺体を見るに、どうやらシアはそれなりに抵抗を試みたようだ。その結果、酷く痛めつけられてしまったといったところか。
弱ったところに、毒抜きの禁断症状まで出ている。治療が必要だ。一刻も早く連れ出してやりたいところだが、犯人を野放しにもできない。
このゲストハウスに乗り込むために、わざわざ王室まで行く羽目になったのだ。
「クラレンス公よりも、もう一人の『切り裂きジャック』と呼んだ方がよろしいですか。貴方のおかげで、俺はずいぶんと仕事に困りましたよ」
「私はジャックではないよ。君の名を広める手伝いはしたがね。それで仕事に困るなんて、気が付かなかった。悪いことをしたね」
心にもないことを口にしながら、クラレンス公は優雅に笑った。
クラレンス公――女王の孫。公爵の位を持つ彼は、度々市井にお忍びででかけては、女や男を買いあさる悪癖があった。ジャックが依頼を受けて殺した娼婦たちは、全員クラレンス公の馴染みか、その娼婦と深いつながりにあった女。殺しの中でも一人だけ若く、妊娠していた二十五歳のメアリー・ケリーが彼の『本命』であったのだろう。
ジャックの名前を売ったのは、クラレンス公の命令を受けた同業者だと思ってきた。だが違ったのだ。クラレンス公本人が、犯人だった。
「俺は上客からあずかった仕事を忠実に果たしただけだ。暗殺者には似合わぬ仕事をさせてくれたな、クラレンス公」
「私も、公爵には似合わない仕事をする羽目になった」
「屁理屈を言うな。本来、依頼人の事情は深追いしない主義だが、今回ばかりは手を回した。王室は貴方の行いについて、今後一切の感知をしないそうだ」
「その言葉は、メアリーを殺す前に聞きたかったね。私はこれで、真剣に彼女を愛していたんだ。身分違いの許されぬ恋だとしても、彼女がひっそりと王家の落胤を生むことくらいは許されていいはずだろう。私が認知しなければいいだけの話だ」
つまり、彼は自分の愛していた女が子供を産んでも、その子供が曲がりなりにも王室の血を引いていても、娼婦たちの訴えを絵空事と斬り捨ててしまうつもりでいたということだ。
これが愛とは聞いてあきれる。死を願うよりも残酷だ。
己の身分を明かして身の丈に合わない恋の炎を燃え上がらせておいて、自分には関係ないものとして知らぬふりをするつもりだったのだ。
「俺がいうのもどうかとは思うけれど、貴方もなかなかのひとでなしだ」
「そういう君は、随分と無礼を働くのが好きなようだね」
公爵は酷薄な笑みを浮かべた。その笑みは、とても愛する女を失った者には見えなかった。
彼は王家に縛られることを憎みながら、しかし王家の寵愛を捨てることを惜しんだ。権力や金を失ってまでは、愛に殉じることはできなかった。
玩具をとりあげられて駄々をこね、とりあげたものを糾弾し、そして相手の所有物を奪ってめちゃくちゃにすることで溜飲を下げる。
暗殺者よりも余程ひどい。ひとでなしのろくでなしだ。
「さすがに、許可を得るのは大変だったよ。しかし、貴方が『不審ではない死に方をする』分には、王家は問題ないと判断した」
「では、公爵である私を殺せるとでも?」
「喜んでくれ。貴方は、恋人と同じ手で天国へと旅立つ」
「何を――」
彼の最期の言葉は、終わらないうちに溶けて消えた。
頸動脈を切り裂かれた公爵の身体は、血しぶきをまき散らしながら倒れて、少しの間痙攣した後、動かなくなった。
公爵である自分は、王の血脈にある自分は、王室からは絶対に命を狙われることはない。それは彼の勘違いだ。訂正してやる前に殺したのは、面倒くさい御託を聞くのが嫌だっただけだ。
「処理屋には自殺の線で検死を。王家の公式発表では、病死ということにしてもらおう」
窓の外に話しかける。さっと一瞬だけ黒い影が動いて、姿を消した。
「さて、と」
血濡れのナイフは、捨てていく。後で処理屋が、クラレンス公の自害にみせかけて工作してくれるだろう。王家の息がかかっているから、警察は深追いをしないはずだ。
そして、対外的には自死では聞こえが悪いので、クラレンス公は流行病でこの世を去ったという告知がなされることになる。
実際がどうであっても、世間が邪推しようとも、死人に反論を唱える口はない。
それよりも、今はシアのことだ。
「シア……、しっかりしろ」
シアの拘束を解いて、抱きあげる。ずっと痙攣と冷や汗がとまらない。苦痛を訴える呻き声が、途切れ途切れに喉の奥から溢れ出る。
そのかすれた、弱弱しいうめき声の中に、時折中国なまりの英語がまざった。
せんせい、たすけて。
そう言ってるのが、聞こえる。
「ああ、ちゃんと待っていたんだね。大丈夫、俺たちの家に帰ろう。遅れてすまなかった」
抱きしめる腕に、力を込める。
気まぐれに取った弟子。偶然、知り合いのチャイニーズから話を振られただけだった。アジア人混ざりとは思えぬ青白い顔と、自分と同じ毒持ちの身体が何となく哀れになって、買い付けた少年。
「君は何も教えなくても軍人を一人屠ったんだ。弟子として見どころがある。簡単に死なせたりはしないよ」
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