第2話 顔のない男

「『顔のない男』が、道楽で毒物を買いつけたって?」

「話が早いな、マスター」

 パブの片隅でシェリーのグラスを傾けながら、『顔のない男』はマスターと小声で会話をしている。ざわついた店内で、聞こえるかどうかギリギリの声音で交わされた会話を、耳ざとく聞きつけるものはいない。

 もっとも、本気で同業にすら聞かれたくない会話であれば、こんな場所では会話すらしない。別に適切な場所はいくらでもある。だからこれは、あくまでジャックとこのパブでマスターをするこの男の、とりとめのない世間話だ。

「仕事を休んでいる間に、趣味でも持とうかと思った。マスター、頼んでおいたものは届いているかな」

「うちの店は食材屋ではないんだが」

「いいじゃないか。パブの食材を買い付けるついでに、俺の分も少し余分に買っておいて欲しいっていうだけだ。表を歩いたところで、俺に気付くやつはそうそういないだろうが、念のため一般人の店は避けているのさ」

「うちは食堂でもないからな」

「だからきちんと、酒を飲んでいる。いい客だろう。本当はかわいい毒物の元に、いち早く帰ってやりたいところだが、義理は通すよ」

「かわいい毒物、ね。君にその手の趣味があるとは」

「誤解している。これは、純な子供はかわいいという話だ」

「そうかい」

 マスターはため息をつきながら、もうひとつのグラスを置いた。ジンだ。

「頼んでいないぜ」

「飲め。奢りではない。これは毒物とののろけを聞かされた腹いせだ」

「心が狭い。それと、のろけじゃあない」

 毒も効かないのに酒で酔う程繊細な身体ではないが、手間を少しかけただけでこの扱いはいただけない。

「俺はそれなりに、君たちに貢献してきたつもりなんだけどね」

「だからこの程度のあてつけで済ましている。それでなければ、帰り道でお前を後ろから殴りつけているところだが、あいにく外では君の顔がわからなくてね」

「それは失敬、何せ『顔のない男』なもんでね。顔を覚えられていたところで、簡単に後ろを取られることもないと思うけれど、念のため帰り道は気を付けておこう」

 これは――恐らく遠まわしな警告だ。『顔のない男』を探っている人間がいる。二杯目の代金は、情報料。格安だ。感謝しなければならない。

(さて、どうしたものか。表に出したらシアにも危険があるか? それとも、いっそおびき出してやろうか)

 『顔のない男』は考える。

 切り裂きジャックの事件は、本意ではなかった。派手な殺しは、本来暗殺の領域ではない。

 王室絡みから来た依頼だったので受けたが、不可解な点が多かった。殺しの相手は素人でも簡単に殺せるような、貧民街の娼婦だ。秘密を握られたところで、暗殺者を呼ぶほどではない。ましてや目立つように殺す必要などなかった。他に隠したいことがあったのだ。

 そして、ジャックの犯行であることを知りながら、『切り裂きジャック』の名で新聞社に手紙を送りつけ、無意味にジャックの名を広めた人間。その目的が見えない――。



 シアは、熱に浮かされながら夢を見ていた。『蠱毒』の巣である『壺』の中では、毎日誰かが放り込まれて、誰かが死んだ。行き場のない子供の中から、赤子や見目のよさそうな幼児が送りこまれる。

 『壺』の中で死んだ人間は、バラバラにされて『毒肉』『毒の骨』『毒の血』などとして売り払われた。『蠱毒』になれるまで成長する者はほとんどなく、遺体の方が用途ははるかに多い。

 皆、毒に苦しんで死んでいった。

 自分も苦しかった。幸せな時間など一秒もなかった。

 だから――ジャックに買われて、表面上は穏やかな日常を過ごしていることを、どこかで信じ切れていなかった。

 『蠱毒』の本来の使い道は、暗殺用。

 上手いこと相手の閨(ねや)へと連れ込ませて、接吻や性交の際に自分の毒に触れさせて殺すことだ。

 だから当然、シアにもその手の『仕込み』はされた。

 道具を使われたり、死んでもいい動物に犯させたりする。そこに快楽は存在せず、ただひたすらに苦痛しかない。やり方を身体の中に叩き込まれるだけだった。

 買われた『蟲毒』に待っているのは、死だ。暗殺者を生きて返すほど馬鹿なやつはいない。

 もし返されたところで、のこのこと戻ってくるような『蠱毒』は口封じに殺されて遺体の利用に回されるだけ。

 ジャックはシアに優しくしてくれる。少なくとも、暗殺のために死地へ送り込むようなことをするつもりはないらしい。

 わからない。わからないことは怖い。死ぬ以外の選択肢がない世界に生きて来たのに、弟子として生きていけると思わない。

 熱のせいだ。意識がまとまらない。殺す前に殺されるのと、殺した後に殺されるのと、鑑賞用にされた末に自分自身の毒で死ぬのと、どれが一番楽だろう。

 不意に、頬に温かい感触が触れた。その感触は、汗ばんだ額を拭って、首筋でしばらく脈をとったあと、ぽんぽん、と肩を叩く。

 目を開いた。傍に、ジャックが座っていた。

「帰って……いたんですね……」

「ああ。さっきね。お前は調子が悪そうだ。毒を食べさせないでしばらく経ったからだな。しばらくは苦しいと思うけれど、我慢してくれ」

 穏やかな声が耳に響いて心地よい。ぼんやりとした頭で彼の声を聞き流す。

 彼の弟子になったのに、弟子らしいことはほとんどしないままに日々が過ぎていく。

 わからないのは怖い。もしかして自分は死ななくてもいいのではないか。そう考えてしまう自分が怖い。

 甘やかされた分だけ遠ざかる死の匂いに、全てを諦めていた過去の自分が危機を訴えかけてくる。

 ――どうせ、最後には死ぬ以外にはない。諦めて、期待をするな。



「シア・ティエはこの国の人間には発音しづらい。表向きの名前を別に考えよう」

 シアの白い髪を染め粉で黒くしながら、ジャックは急にそうのたまった。

「サマー・バタフライだと直訳すぎるし、人名っぽくないな。こう、適当に語呂合わせをするか。サム……サミュエル・バートンなんてどうだろう?」

「……いいですけど」

「どうでもいいですけど、の間違いじゃないか? そう言う顔をしている」

「実際、どうでもいいですし、それでいいです」

 名前がいくつあったところで、使う機会が限られている。そもそも、シアには未だに彼の『弟子』になったという実感はない。何も教えられてはいないからだ。

 いや、教えられたことは一応あった。毒物が少ない食事をとること。そして、熱がある時はソファではなくベッドで寝てもいいこと。

 シアはジャックが呼ぶ「シア」という名前の響きを思い出して、そっと目をそらす。別に名前を呼ばれたいわけではない。呼ばれたいわけでは。

「これから、僕のことはサミュエルと呼ぶのですか……その、先生」

「うーん、これまでシアと呼んできたからなぁ。あくまで、対外的に名乗る時の話さ。お前はチャイニーズといっても、欧米混じりのようだし、顔立ちもそこまでアジア人ぽくない。肌も白いし、純粋な英国人を名乗ってもさほど疑われることもないだろう。外ではサミュエルを名乗りなさい。愛称はサムかサミー」

「……わかりました」

 ジャックはこれからも自分のことを「シア」と呼び続けるつもりでいるようだ。ほっとしたようなそうでもないような、複雑な気持ちだった。

 外向けの名前を作ってもピンと来ないのは、買われてから今日に至るまでの約一か月、一切外に出る機会がなかったからだ。

 『蠱毒』は毒を食べて、毒に身体を慣らし続ける。だから毒を抜いた状態では、正気を保てないほどの苦しみを味わう。

 ジャックが食事にほんの微量の毒物を混ぜて、正気を失わずに済むよう『適度に毒抜き』したのが今のシアだ。

 ようやく熱も下がり、寝込むことも少なくなった。

 ゆえに、いつでも外を出歩けるようにと、目立つ白髪を染められている。

「やっぱり、瞳の色が黒に近いから、金髪よりも黒髪が馴染むね」

「チャイニーズに見えません?」

「気にするほどにはそう見えないよ。黒系の髪も、アジア混じりも、ロンドンにはたくさんいる。お前は顔立ちが西洋人寄りだね。恐らく両親のどちらかがこちらの出身だったんだろう」

 物心つく前に売り払われたシアは、両親のことは出身どころか名前すらしらない。

 それでもいいし、これからも知らなくてもいい。だけど青みを帯びているという自分の瞳がジャックに気に入られたのかと思うと、多少はありがたく思ってもいい気がした。

「僕は長く生きられないと思いますが」

「目の前にお前と同じ毒物漬けの人間がいるのだから、俺が生きている限りお前にも生きる可能性があるということだよ」

 毒に耐性があるのと、体そのものが毒物になるのは、似ているようで雲泥の差がある気がする。だけどシアはもう、そのことを率直に尋ねることはしない。ジャックはシアの疑問によく答えてくれるが、説明してくれないことは徹底的にはぐらかすからだ。シアにも、ジャックがどんな話題をはぐらかすのか、だんだんわかってきた。

 そのかわりに、答えてくれそうな質問を投げる。

「先生、ところで何歳なんですか?」

「何歳だと思う? 恐らく、シアからするともうおじさんではあるよ」

 わからない。ジャックを見ても、未だに顔の印象がまとまらない。若くも見えるし老けても見える。二十代から四十代の間なら、何歳と言われても信じる。

 多くの『蠱毒』は、成人するまで生きられない。シアは今、十五歳だから数年内に死ぬだろう。

 毒に慣れた人間であっても、毒にじわじわと冒されて死に至る運命には変わりがないのだ。

 でも、目の前にいるジャックを見ていると、この人なら無理やりにでも自分を生き延びさせそうな気もした。自分が生きる、というよりはジャックに生き延びさせられる、という方がしっくりくる。

「僕の毒抜きが終わったら、暗殺の方法を教えるつもりなんですか?」

「うーん、そうだね。せっかく取った弟子だから、教えないともったいないな」

「でも毒抜きが終わったら……、僕は暗殺者として役立たずですよ」

「いや、さすがの俺も、せっかくとった弟子を死地に送り込むことはしないよ。ちゃんと暗殺術を叩き込むから、そのつもりでいるように」

「もう一か月も、僕はここでゆっくり過ごしているだけですが」

「毒抜きに思っていたよりも時間がかかってね」

「はぁ、そうですか」

 シアは納得したような、しないような顔をした。年齢も結局答えてくれなかった。

「シア、俺はお前のことを、これでかなり気に入っているんだ。そうじゃなければ、こんなに毎日丁寧に食事や寝床を与えたりしないよ。大体、俺はその気になればいつだって一瞬でお前の喉笛を切ることができるんだ。面倒ならとっくにやっている」

 『殺さないこと』を好意の傍証にするのは、いかがなものだろうか。呆れたシアを見て、彼はまた笑った。ジャックは暗殺者なのに、よく笑う人だ。

「いや、先生である俺に言い返すだけの心の余裕がシアに出てきたのは、喜ばしいことだよ。最初なんて、本当に死にかけの虫みたいだった。ガリガリで、目に光がなくて、人の心なんて何一つ持っていなさそうだったからね」

「先生は、変わることなく最初からずっとひとでなしですね……」

「暗殺者に人間らしい情緒を期待するのはやめなさい」

 たしなめるポイントはそこでいいのだろうか。

 人間らしさというものがどういうものなのかについては、シアだって大したわかっていないのだから、問い詰めようがなかった。

「目立つ白髪を染めたということは、僕はもう外にでていいのでしょうか、先生」

「個人的にはもう少し閉じ込めておきたいところだけど、それじゃあ身体が弱るし、何よりもシアにはロンドンに慣れてもらわないといけないからな。買い出しくらいはやってもらおうかな」

「わかりました。安心してください。育ちはアレですけど、店で買い物をする方法くらいは知っています。生活上必要な知識がまるでないと、それはそれで不便ですから」

「それはそうだね。致死量ではないけれど、お前は汗も毒を含んでいる。手袋をあげよう。それと、念のため、護身用のナイフを用意した。持って行きなさい」

 ジャックが放って寄越した、薄手の革手袋と小さなペティナイフを受け取る。ナイフはポケットにも入れられそうな大きさで、厚い革製のカバーから取り出してみると蝶の刻印がされていた。

「いつのまにこんなもの」

「必要だと思って」

「買いだしにですか?」

「暗殺者たるもの、自分の命は常に狙われていると思った方がいい。何せ恨みを買いやすい仕事だからね」

 シアはまだ暗殺の仕事をしていない。ナイフの使い方ひとつ教えられていない。今のところジャックから学ばされたのは、味のしない食べ物でも噛み砕いて飲みこむ根性だけだ。

「いいね、自分の与えたものを持っていると、弟子なんだなという気分が高まる」

「先生の気分の問題でしたか」

「そうだよ、お前に与えるものは全て、俺の気分でできている」

 やっぱり、この人には人らしい感情はない。およそ人らしい生活をしたことがないシアですらそう思うのだから、相当だ。

 呆れ半分、納得半分のため息が漏れた。

「……買い出しに行ってきます」

「マーケットはこのアパルトマンを出て、右手にまっすぐ行った角を曲がったところにある。今、地図を書こう」

 メモ帳に簡単に書いた道順を、破ってシアに渡してくれた。これでは子供のお使いだ。

「お金は多めに財布にいれておいたから、好きな菓子や果物を買ってきなさい」

 ――ついでに言うと、子供に言い聞かせるような声音でそういうことを言い添えるのもやめてほしい。

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