あなたへ

酒田青

あなたへ

 あなたに会うために、準備をしなければならない。


 柔らかくなりすぎた皮膚を指で伸ばしながら電気シェーバーをかけ、洗面台の鏡で自分をよく見る。もう若くはない。白髪だし、そもそも額から頭の天辺まで禿げあがっている。口角は下がっているし、法令線は深く長く、唇の周りに細かいしわがある。歯は一応あるが、三分の一が部分入れ歯だ。鼻は生来の鷲鼻。ただし人より大きな目だけはきらきらしていて、それだけはましな要素だ。


 ぼくはぱりっとした白いワイシャツを着、自分がくすんで見えないよう気をつけて選んだベージュのズボンを履く。暦の上では一応春だが、まだまだ寒いのでモスグリーンの毛色のベストを着て、その上に紺色のジャケットを羽織る。


 居心地のいい一軒家は、きれいに片付いている。本はぼくの書斎で並んで眠り、居間にも寝室にも紙くずは落ちていない。台所も頻繁に使う割にはきれいだ。シンクはぴかぴかの銀色だし、床はリノリウムだが古びていない。ぼくはいつかあなたを迎え入れたいと思って、大きめの家を買ってしまった。中古家屋をリフォームしただけの家だが、あなたが来てくれることを待ちわびて、あなた好みに作った。結局、あなたは来てくれなかったけれど。あなたは去年、老人ホームに入ってしまった。


 黒い革の靴を履き、畳一畳分ほどの玄関のたたきに立つ。下駄箱の横にある大きめの細長い姿見でもう一度チェックする。少しでもみすぼらしかったら駄目だ。ぼくは年寄りだから若いときよりも一層気をつけなくてはならない。髪の乱れや目やにがないか丹念に見たあと、ジャケットの襟が裏返っていることに気づく。危なかった。ぼくは丁寧に時間をかけて直す。もう一度見て、まあましだと思えたのでやっと出発する。


 家のドアを開けると、春の匂いがした。遅い梅の花の匂い、早い桃の花の匂い、沈丁花の花の匂い、草の萌え出でる匂い。暖かな日差しのお蔭で、色々な植物が主張を始めていた。狭い庭には緑の草が生え、夏には草むしりをしなければならないことが思い出されて少しうんざりした。庭の年代物の梅には白い小さな花が咲き、メジロが二羽、戯れながら枝を行ったり来たりしていたが、ぼくを見ると部外者を見るような目をして庭の外に飛んで行ってしまった。庭を出る前に見ると、生垣のドウダンツツジが黄緑の若葉をつけているのがよくわかる。


 春なのだ、とぼくは思った。春までぼくは生きられた。春まであなたは生きられた。老境に至るとそんなことばかり考えてしまう。


 道に出ると、近所の四十歳くらいの若い女性が高校生くらいの娘と共に歩いていた。どうやらスーパーか何かに行くらしい。二人ともラフな格好をしている。


 あなたにもこんな時代があった。母親のほうと同じ時代があったし、娘のほうと同じ時代があったのだ。ぼくはその両方を知っている。あなたは母親にならなかったけれど。


 母親のほうは微笑みながら落ち着いた笑みを、娘のほうは弾けるような元気な笑顔を浮かべ、ぼくに挨拶をする。「先生、おはようございます」と言われると、いつも違和感がある。ぼくは大学で教師をしていたが、彼女らを教えたことはないからだ。彼女たちはぼくが昔から「先生」と言われるのを見て育ったので、ついそう言ってしまうのだろうが。昔の人は相手が教師というだけで「先生」と呼んだ。今はそう呼ばれることは少ない。もう教師はやめてしまったし、ただの隣人を「先生」と呼ぶべきではないという考えが浸透したからだろう。


 ぼくは挨拶を返して彼女らとすれ違い、道を歩いて川べりの道に出た。菜の花が咲いている。花をつけた菜の花は、まぶしいくらい鮮やかな黄色だ。あなたのために摘んでいこうかな、と考えたけれど、やめた。あなたの部屋にある花瓶はとても華奢なガラスの一輪挿しで、あなたが好むのは素朴な菜の花ではなくピンク色の愛らしい薔薇一輪だと決まっているからだ。ぼくはバス停までの道のりにある花屋に入り、一番きれいなピンクの薔薇を一輪買い、セロファンに包まれたそれを持ってバス停に並んだ。


 バスが来て、乗り込む。ぼくはわくわくし始める。あなたに会える。ただそれだけなのに。バスの中には人が少なくて、ぼくは悠々としていられる。若い人に席を譲られるのは気を遣ってしまって窮屈だ。だからこういうとき、ぼくはほっとする。バスが進み、窓の外の風景は住宅街から田園地帯に変わる。幸いバスは目的地に近い場所で停まるから、あまり歩かなくて済む。バスが停まった。ぼくは転びそうになりながら早足で降りた。


 老人ホームはそこにあった。三階建ての、悠々としたホーム。灰色で、窓の大きいそこは、あなたが暮らす場所だ。ぼくはジャケットの裾を引っ張って真っ直ぐにし、広い玄関の自動ドアを抜けた。受付のうら若い女性は、ぼくを見て「鈴木さんは談話室にいらっしゃいますよ」と言った。お礼を言って、受付からすぐのそこに向かう。広い談話室には呆けたようなぼくと同い年くらいの老人たちがたくさんいた。テレビを見たり、宙を見つめたりしている。もちろん元気な老人もたくさんいて、話をしたり、手芸をしたりしていた。


 でもあなたがそういうところに入りたがらないのをぼくは知っていたから、大きな窓のある日当りのいい場所に歩いて行った。淡いピンク色のお仕着せを着た介護士の女性がぼくを見て微笑んだ。ここの職員はぼくにいつも好意的だ。あなたは、大きな一人掛けソファーに座っていた。


「登紀子さん、久しぶり」


 ぼくが笑ってあなたに声をかけると、あなたは微笑んだ。あなたは大分丸くなった。一人暮らしをしていたころは、家を訪ねると「あら、また来たの」とつれなかった。あなたを訪ねたら笑って迎え入れてもらえるなんて、ぼくは幸せな男だ。


 ぼくは薔薇を差し出した。あなたは受け取り、しげしげとそれを見た。しみもしわもない、ただ緩やかに老いただけの顔は昔と変わらず美しい。上品な卵形だった顔は、少しふっくらとして優しみを帯びた。その小さな変化も、いとおしい。


「この間の薔薇、まだきれいにしてるわよ」


 あなたは柔らかな声で言った。ぼくは一週間前にもあなたに会いに来たのだ。ぼくは少し照れながら、


「まだ寒いからね。花がなかなか古びないんだね」


 と答える。あなたはふうん、と唇を尖らせる。


「わたし、一輪挿ししか持ってないわ。この薔薇、どうすればいいの?」

「無理矢理挿せないの?」

「駄目よ。一輪がいいの」

「じゃあ、持って帰るよ」

「それも駄目よ」

「どうすればいいの?」


 ぼくは訊いた。あなたはすねたような目でぼくを見つめ、薔薇を見て、


「また一輪挿しを買って、窓際に活けるわ。前の薔薇はベッドサイドに飾ってるから」


 と言った。ぼくはにっこり笑った。あなたはしばらく唇を尖らせたままだったが、突然ぱっとぼくを見て、探るように訊く。


「今日は、宝石持ってきてないの?」


 ぼくは面食らい、そういえば、と思い出した。ぼくはよくあなたに研磨したきれいな宝石を持ってくる。大きなものもあれば小さなものをブローチなどに加工したものもある。ぼくはあなたがそれらをあまり気に入っていないと思っていた。ぼくの自己満足であって、あなたはそれをビロードの宝石箱に入れっぱなしにしていたから。気にしてくれていたなんて、嬉しい。そう伝えようとしたら、あなたは言った。


「今までくれた宝石、質屋に入れちゃったわ」


 極めて意地悪そうな顔で、あなたは言った。ぼくは動揺し、しばらく黙った。


「だっていらなかったんだもの。ルビーも、ダイヤも、琥珀も、真珠も、トルコ石も、アメジストも、ぜーんぶいらなかったの。あなたがくれるのは、とっても迷惑だったの。だって置き場所に困るでしょう。わたしのホームの部屋は狭いから、持ってくるのに手間だったの」


 あなたはぼくのプロポーズを初めて断ったときのような、少女がいたずらをするかのごとき顔でぼくをいたぶる。ぼくはただただ黙っている。二度目も、三度目も、こんな風にして断られた。


 一度目から三度目は、ぼくを焦らすため。四度目は、親が決めた相手と結婚しなければならなかったから。五度目から八度目は、あなたに子供が授からないとわかったからだ。


 ぼくはあなたがぼくをいたぶるのは、ぼくの反応を見て楽しむためだけでなく、自分を嫌ってほしいからだとわかっていた。わかっていたから何度もプロポーズし、何度も断られ、今では老人ホームに逃げられた。でも、ぼくはまだまだ諦めないのだ。


「登紀子さん。あなたがぼくに何を言おうと、気持ちは変わらないよ。結婚しよう」


 あなたは茫然とする。それもそうだ。一年ぶりのプロポーズなのだ。もう言われることなどないと思っていたのだろう。


「ぼくは子供のころからあなたのことが好きだ。

 あなたはぼくより二歳年上で、ぼくをかわいがってくれた。意地の悪いあなたはぼくを置き去りにして友達と遊びに行ったりしたけれど、それでもぼくはあなたが好きだった。

 ぼくがまだ若造だったときに親の決めた相手と結婚してしまっても、好きだった。離婚して、あなたが周りから酷い言われ方をしても、ぼくはどうしてもそれが本当だと思えなかったし、会ったら相変わらずの登紀子さんだったからより一層好きになった。

 ねえ、登紀子さん。ぼくはあなたがぼくのことを好きだと知ってるんだよ。年上だとか、離婚歴があるとか、色々なことを気にしているけど、ぼくは何をされてもあなたのことが好きなんだよ。結婚しよう」


 あなたは目を伏せて、床を見つめていた。ぼくはあなたが「はい」とは絶対に言ってくれないと思っていた。今までがそうだったからだ。あなたは唇をすぼめ、小さくつぶやいた。


「あなたとは結婚しないわ。だって、わたしはおばあさんになってしまったんだもの」


 あなたは上目遣いにぼくを見た。目はきらきらと輝き、ああ、ぼくと同じだと思った。


「登紀子さん。言い訳はよそう。ぼくたちには時間がないんだ。ぼくたちはもう一緒に過ごせる時間が――」

「叔母さん。ここにいたのか」


 ぼくらの会話は、途切れた。周りはただの老人ホームで、老人たちはテレビを見、手芸をしていた。声の主である雄一郎は堂々と歩いてきて、ぼくらに手を上げた。彼はきちんとした背広を着た五十代の力強い若い男で、ぼくは彼によく嫉妬する。でも、彼はただのあなたの甥っ子で、ぼくはそう考えて安心しようとする。彼は手にしていた金色の箱を開き、ぼくたちに見せる。宝石がきらきら輝いた。


「叔母さん、注文の品、できたよ。ほら、宝石箱。内側には黒いビロードが張ってあって、仕切りがたくさんあるんだ。外側はきれいな金箔で包まれて、ちゃんと模様もある」


 宝石は、ぼくが贈った品ばかりだった。ルビー、ダイヤ、琥珀、真珠、アメジスト、その他のたくさんのカラフルな輝くものたち。ぼくはあなたを見る。あなたは顔を赤らめて床を見つめている。雄一郎は続ける。


「叔母さんに頼まれた通り、作ったんだよ。ちゃんと見て」

「雄一郎、お黙り」


 あなたは不機嫌そうに雄一郎を制した。彼は面食らった顔で彼女を見、ぼくを見、困惑した声であなたに言う。


「何だよ。もらった宝石を入れるちゃんとした宝石箱がほしいって言ってたから、特注で作ってあげたんじゃないか。宝物を入れるんだろ? ほら、宝石図鑑みたいじゃないか。きらきら輝いて、宝石図鑑みたいだって自慢してたじゃないか。奮発して買ったんだから喜んでくれたって――」

「雄一郎!」


 あなたは大きな声を上げ、ホームの人々の目を引いた。ぼくはただひたすら微笑んでいる。あなたは恥ずかしそうにぼくを見て、雄一郎を下がらせた。彼はあなたの横のテーブルに「宝石図鑑」を置くと、こう捨て台詞を吐いた。


「米寿の誕生日、おめでとう!」


 彼が去っていく中、あなたは言った。


「宝物なの」


 ぼくは少し涙が出た。


「あなたとの時間も全部全部、わたしの宝物なの」


 窓からそそぐ日差しは、部屋を明るくしてあなたをより美しく輝かせた。今日、ぼくらは婚姻届を出す。あなたはぼくとぼくの家で暮らす。これは、ぼくからあなたへの最後の手紙だ。


 だって、これからは毎日会えるのだから。












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