テセウスの器・5

 ***


 声をあげることは許されない。強いていうなら、感情を持つことすら許されているわけではない。

 自分は特別だった。誰よりも恵まれていた。だから、多少のことは我慢しなければならない。そうでなくては不公平だからだ。


 小さな牢獄みたいに薄暗い部屋。

 ここはもともと倉庫だったらしく、簡易的なベッドと、質素な机と、山積みになった書物(頼んで集めてもらったものだ)が置いてある。最初にあてがわれたのはもっと豪華な部屋だったが、さすがに分不相応すぎて遠慮した。

 開いた窓から転がり込んできた、凶悪な拳大の石礫つぶてが目の前にある。雨上がりの土の匂いを感じながら、少年は無感情にそれを拾った。

 

 ──王のめかけの子。いつの間にか王宮中に知れ渡っていた自身の秘密は、人々の関心と嫉妬をごちゃごちゃに混ぜくった。

 外界からの罵詈雑言も、石を投げられる(ガラスが割れて危ないし、閉めるのも億劫になったので常に開け放っている)ことも日常茶飯事で、悲しいかな、だいぶ慣れてきたところだ。

 自分はただ、ここで学び、将来的には与えられた仕事を全うするのだ。だからなんの不満もない。同様に、望みも期待もない。


「こらッ! そこのあなた!」

「……っ」


 ハッと顔をあげた。突如として舞い込んだ非日常──それは、聞き覚えのある少女の怒声だった。ほぼ反射的に立ち上がり、ふらふらと窓から顔を出す。


「捕まえましたよ! さあ、あの子に謝るのです!」そう言ってこちらを指をさす彼女と目が合いそうになり、慌てて頭を引っ込めた。


 彼女は上質な絹のドレスを泥だらけにして、草取りの雑務をこなしていた召使いの首根っこを捕まえている。あれはたしか、先日雇われた小遣い稼ぎの若者だっただろうか。

 ここ最近の投石は奴の仕業か。なかなか体格がよろしいので、大きめの石ばかり投げ入れられるのも合点がいく。世が世で場所が場所なら、そういったスポーツの選手にでもなれるのではないだろうか。宝の持ち腐れというやつだ。

 対する彼女はこの部屋の主──いずれはこの城の、この国の主となる女性であり、躾中の犬とその飼い主を見ているような奇妙な光景に首を傾げる。

 

「石を投げ込むなんて、イタズラにしては度が過ぎます! もし当たり所が悪かったら、死んでしまうかも知れないのですよっ?」

「な、なんだよ、お前! 掃除中の侍女か!?」


 言動が危うい。危ういを通り越して、斬首待ったなしの失言だった。

 彼も、まともな教養が受けられない貧民区の育ちなのだろうか。もしそうならば、王族の顔を肖像画以外に知る術などない。様子をうかがうに、絵画を優雅に眺めるような性分でもなさそうだ。


「そ、そんなことはどうだっていいでしょうっ」


 彼女もそれに気づいたようで、敢えて正体を明かす必要はないと慌てて取り繕った。上擦ったセリフに畳み掛けるように、召使いが声を荒げる。


「あんなヤツ、死んだって誰も悲しまねえよ! 貧民区の奴らは皆んな言ってるぜ! 売女から生まれたクセに、急に王宮暮らしが決まってお高くとまりやがって……ちょっとばかり頭が良いからって、気に入らないんだよ! 大体なんだってんだ、急に──」


 ばちーん!


 乾いた音が、空気をびりりと揺らした。

 彼女はなぜ、下女の息子である自分を気にかけ、こんなにも優しくしてくれるのか。貧民区の捨て子に部屋を与え、住まわせてくれるのか──そんなことは、やはりわからない。

 ただ、事実は事実であるとだけ示すように、眼下の彼女は顔を真っ赤にして、肩を震わせていた。

 

「撤回なさい! さあ、今すぐに!」

「う、うるさいッ!!」


 ゴッ、と重い音がした。


(……!)


 ざわりと嫌な胸騒ぎがして、思わず窓から身を乗り出す。

 スローモーションのようにゆっくりと、少女がその場に倒れ込んだ。目の前には草刈り用のカマを振り上げた召使いが見え、視界がじわじわと白黒に染まっていく。


 何が起こった……?

 防衛本能で低速を維持しようとする脳を無理矢理フル回転させ、なんとか状況を把握する。

 ここからではよく見えないが、刃物が致命傷になった様子はない。おそらくは、カマののほうで殴られたのだ。


「クソ、こんな仕事やってられっかよ! 王宮の贅沢暮らしを知れば知るほど、腹が立つぜ。アイツだってもとは同じ穴のムジナだってのに……!」


 冷たくなった爪先から、今度は身体が熱くなる。ぐらぐらと頭が沸騰する。知らず奥歯を食いしばり、拳を握りしめた。


 少年は、それが怒りの感情だと理解した。まだ手の内にある石を一挙動で放り投げる。それは大きく弧を描き、もといた地面にぼすんと還った。


「うわっ、危な──ってお前……、なんだよ、盗み聞きか!?」


 返事の代わりに、低く唸るような声が喉奥から滝のようにあふれでる。それは、自分以外の誰にも理解できない、古い書物に記されていた異国の言語だ。

 耳の奥で、ざわっと風が鳴った。初めて紡ぐ言葉なのに、これが呪いだと知っている。どういう原理か、聴いた者を死に至らしめる文言。長い間禁じられていた封が、ゆっくりと開いていく。


「う……ぐっ、がぁ──!」


 召使いは、不自然な体勢で仰け反り、喉をガリガリと掻きむしって白目を剥いた。力の抜けた手からするりとカマが落ちて、柔らかな地面にさくりと刺さる。


 覚えたての呪文を何度も何度も繰り返して、少年は一心にうたい続けた。

 彼が立ったまま動かなくなったのを確認すると、妙に冷静になって口を閉じる。


 こんなに簡単に、人は死ぬのか。


 まっさらな手のひらを見つめる。これは、腕力のない自分に与えられた武器だ。使いこなせれば、きっとどんな刃よりも強いに違いない。

 渇いた喉から、鉄の味が込みあげた。彼女の名を呼ぼうとしたが、掠れて声にならなかった。


「姫様──!!」


 すぐさま、自分ではない誰かの声がいしを代弁した。

 ダッダッダ、と砂を蹴る音がして、士官のひとりがやってくる。到着するやいなや、混沌とした現場を目の当たりにして困惑していた。


「こ、これは……ッ」


 まだ若い。こちらの気配に気づくと、手にした長槍を構える。


「貴様──!」

「待って」


 それを制したのは、目を覚ました彼女だった。赤く腫れた額を手で覆い、おずおずと士官の手を掴む。


「あの子がわたしを守ってくれたのです、シャマール。どうかこのことは内密に」

「……っ、しかし!」

「どこからか入りこんだ野犬に襲われて、怪我を……いいですね?」


 ***


 ──バシャン!!

 盛大な目覚ましの冷水を浴びると、同時に視界に飛び込んできたのは荒屋あばらやの一室だった。

 壊れた棚には雪のように埃が積もり、椅子もテーブルもことごとく傾いたり、ひっくり返ったりしている。


「起きて頂戴」


 幼い少女の声とともに、後頭部に人の気配。思い出したかのように手脚の関節が痛み始める。


「生身のからだは不便ね。少し捻れば痛みで動かなくなる」


 あらぬ方向に折れ曲がった手脚首を認識して、ライラは唇を噛んだ。


「縄の一本くらいケチらないでください。怪我を治すのも結構大変なんですから」

「こうする方が手っ取り早いのよ」


 スッと背後の殺気が消える。彼女はゆっくりと歩き、ライラの目前へと姿を現した。

 黒いアーミースーツに身を包んだ幼い少女の身体には、不似合いな青白い電光が奔っている。左胸に集約したそれが、血流のように全身を巡っていた。


「わたしはリリィ=マグダレム。この奇妙な出立ちは、言わずもがな。壁の向こうのマグノリア製よ」

 

 高い位置で結った、赤毛が一房。

 ふわりと揺れる。

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スクラップ・ジャーニー 八神 庵里 @yagami_ior

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