第37話

「あ、笑った」

 純は呟いた。

 まるでそれが合図だったように、天使の微笑みを浮かべた小さな命を取り囲む大人達が、皆同様に微笑んだ。

「女の子でしたよね。名前はもう決められたんですか?」

 西沙織の質問に、ベッド上で上半身だけ起きた状態の美佳は、頭を振った。

「まだなんです。いくつか案があったんだけど、全部この子に却下されて。そのうち自分で決めちゃうんじゃないかしら」

 美佳は、傍らに佇む唯の頭を撫でながら笑った。

 個室とはいえ、そう広くない病室を埋め尽くさんばかりの大人達を前に、お姉さんになりたての彼女はいささか緊張気味のように見える。

「明日退院ですよね。子供の名前を決めるのに期限とかってあるんですか?」

 水谷心音の質問に、沖が口を挟んだ。

「確か出産から十四日以内に届けを出す必要があるから、まだあと一週間あるね」

「名前だけ後から届け出ることもできるんですよね。手続きが面倒らしいけど」

 どこから聞きつけたのか、この面々に加わっている福庭刑事が、得意げに豆知識を披露したが、皆から困惑の眼差しを向けられて、首をすぼめてしまった。どうやら皆「なぜお前がここにいるんだ」と思っているようだ。

「今日は皆さん、わざわざありがとうございます」

 美佳が改めて礼を言うと、純は自分で持ってきた出産祝いと退院祝いを兼ねたケーキを頬張りながら答えた。

「いえいえ、こちらこそこんな大勢で押しかけてきてしまって。打ち合わせしたわけでもないのに、まさかこんなに被るとは」

「だって出産直後に窺うのは悪いし、退院当日はバタバタするだろうし。今日しか無いかなって」

 西沙織の返答に、心音が「みんな考えることは同じね」と返すと、どっと笑い声が起きた。

 それを合図にか、歓談ムード開始といった雰囲気で美佳は沖と、心音は福庭と和やかに談笑を始めた。

 唯は、美佳の手に抱かれている赤ん坊をしげしげと眺めている。

余った純と西沙織は、お互い微妙な空気を漂わせながら語らい始めた。

「あの中西っていう人、どうなったんですか」

 純は開口一番、苦々しい口調で言った。

「ああ――福庭さんがあの後、真島さんに報告しようと何度電話しても、つながらなかった、て――もう大丈夫なんですか?」

 西沙織が心配そうに訊ねると、純は笑顔で答えた。

「あんな人の話なんてどうでもいいかな、て思ってたんですけど――でもやっぱり、先生が気になってるかな、と思って。私が代わりに聞いてあげないと」

 純の言葉に、西沙織は一瞬複雑そうな表情を浮かべた後、語り始めた。

「あの後、彼はすぐに捕まったのは知ってますよね。後から福庭さんに聞いたとこによると、事件の後すぐに警察が中西さんの自宅に踏み込んだところ、彼は夢中でテレビゲームをやっていたらしいんです。十何人の警察官に囲まれても、全く気付いていないかのようにゲームを続けてたって。福庭さんの話じゃ、異常性が強いから精神鑑定に出されるだろう、て」

 西沙織は思い出したくもない、といった様子で眉をひそめた。

「ああ、わかる気がします。あの日も西さんをつけまわしてて、告白シーンを目にして逆上したってとこでしょうかね?」

 純の問いかけに、西沙織の頬がほんのり桜色に染まった

「いえ。あの日はそもそも鈴木さんと中西さんは同じ出勤日で。勤務が終わって先に病院を出てきた中西さんが、門の外で鈴木さんを待ってた私の姿をたまたま見付けて、隠れて覗いてたらしいんですけど――でも結局私が告白なんかしなければこんなことには――」

「それは違うと思います」

 涙目の西沙織に、純はきっぱりと言った。

「居合わせたのはたまたまだとして、あんなナイフをたまたま持っていたなんて考えられません。あの人多分、元々先生を刺す気だったんだと思います。あの臭い人――じゃなくて小堤さん、ていう隊長さんも言ってました。『中西は最初からズバズバ物を言う鈴木に何度も恥をかかされて、気に入らない様子だった』と」

「そう言ってもらえると、少し心が軽くなります。私も小堤さんに尋ねたんです。あの中西さんという方、随分古くからあの病院にいらっしゃったらしいんですけど、私全く存じ上げなくて。私、この四月からこの病院で働き始めたばかりだし、いつから、どうして私に好意を持ってたのかなって。そしたら、小堤さんが『ウチの連中も誰も知らなかった。ていうか、誰もあいつに興味無いんですよ』て」

「誰も興味が無い……」

「だから『誰も悪くないんです。あなたも気を落とさないでください』て――あの、どうかされました?」

 心ここにあらずで考え事を始めた様子の純に、西沙織は困惑して訊ねた。

「いえ、いますよね。クラスに一人は、そういう人。ということは、どこでも起こりうること――」

 純の返答を不思議そうな表情で聞く西沙織に、純は気を取り直すように微笑んで言った。

「それより、聞きたいことがあるんです」

「何でしょう?」

 小首をかしげる西沙織の目を、純は真っ直ぐに見つめながら言った。

「先生、最期に言いかけたんです。西さんに告白されて、こう答えたんだと。『最近気が付いたんだけど、どうやら僕は――』ここまで言いかけて先生――寝ちゃったんです。続きが知りたくて。西さん、知ってるんじゃないですか?」

 純の問いかけに、西沙織は言葉を選ぶように、考えながら答えた。

「ううん、お教えするのは構わないんですけど――かえって辛くなるかも」

「――どういう意味ですか」

 純は少し表情を硬くした。

「それは――」西沙織は口を開いて、また少し考えてから、笑顔で言い直した。

「やっぱり止めた。あなた、私のライバルですもん。敵に『お砂糖』送るような真似、できません」

「ええ、何ですか、それ?それを言うなら『塩』でしょう?」

「いいんです、この場合」

 若い娘が二人、きゃっきゃとはしゃいでいるのを微笑ましく眺めていた美佳は、ふとベッド脇の唯に目を落とした。

 唯はなぜか真剣な表情で、真新しい妹の首筋を凝視している。

「唯、どうかしたの?」

 美佳の問いかけに唯は、妹の左耳の後ろにある小さく、しかしはっきりと存在を主張するホクロから視線を外すと、はち切れんばかりの笑顔で叫んだ。

「秘密!」

 そう叫んだ姉を、妹はびっくりした顔でしばらく見つめた後、にっこりと微笑んだ。

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