キレイな推しには毒 G I R L
桃波灯火
握手会には毒 G I R L
「うぉぉぉぉ! す、すごい……」
僕たちはヨコハの湾岸下にあるライブ会場に来ていた。水草やわかめで先が見えない壁、そこを抜けるとヒトデ種っぽい形をしたブロックが立ち並んでいる。いつもは多種多様の同族が住まう空間は異様な熱を持っていた。
思わずごくっと水を飲みむ。そのほとんどがエラから外に出ていく。まだ尿をするまでではない。というか、ここでは我慢しないといけない。
「でしょう、ヒョーモさん」
僕の横に並ぶタツノさんは興奮を隠せない声色でそう言ってくる。タツノさんはこのライブ会場に来るのは初めてじゃないはず。なのに、ここまで興奮しているんだ。
「すごいです……」
現地に来てようやくこの凄さに実感がついてきた感覚がある。僕はタツノさんの言葉に全部「すごいです」でしか返すことができなかった。
「す、すごかった……」
さっきから「すごい」としか言っていない。僕の語彙力はあのマリアナ海溝の深さから遠浅の海岸くらいにまで低下してしまっていた。
なんせあのライブを肌で感じたのだから。
「でしょう、やっぱりHGK48は神。僕らの心の支えですよね!」
タツノさんはテンションマックスだ。ライブ中も黙ることしかできなかった僕とは対照的で、完璧にコールアンドレスポンスをこなしていた。
さすが、ファンクラブわかめ一桁台だ。強者。
「も、もうやりきりましたよ。僕は」
アイドルたちの可愛さ、ファンのあの熱量。ライブ会場が、演者が観客がスタッフが、一つになっていたあの感覚を味わえた僕は感慨に浸っていた。
グッツも全部買えたし万々歳。タツノさんはいつごろショップの列に並べばいいのかも熟知していたのだ。だから速やかに戻ってこれた。待機列を振り返ると、気が遠くなるほどの行列ができている。ここからは最後尾が見えないほどだ。
「なにをいっているんですか、これから握手会がありますよ」
「あ、握手会……」
あの人たちをまじかで見て、その上喋ることができるあれか。
「そう、握手会。まだへばらないでくださいね」
テレビで見たことしかないあのイベント。本当にあったんだ……。
タツノさんに連れられて握手会の待機列に並ぶ。タツノさんも僕も買ったCDは三枚。自分の推し、お互いの推し、新たな推し候補と握手をするためだ。
言われるがままに三枚買ったが、そういうことだったのか。列に並びながらタツノさんが教えてくれた。
使う用、保存用、布教用だと思っていた。
多分それもなのかな?
「そろそろですね……」
前に視線を向けると、とうとうアイドルが見えた。まだ遠いのでシルエットだけで顔は詳しく見れない。
この列の先にはタツノさんの推し、まふちゃんがいる。
「ですね、はいこれ」
タツノさんがカバンから正方形の小さな袋を取り出した。
「これ…は?」
タツノさんは小さなシートを取り出して僕に渡す。
「布?」
渡されたのは目の粗い布だ。
「そう、なんでだかわかりますか?」
言われた通りその布で手を拭きながら考える。
「菌をうつさないためですか?」
タツノさんは僕の言葉を聞いて少し沈黙した。なにか間違えたかなと不安になってきて、話しかけようとした瞬間、
「その心は?」
タツノさんの質問が飛んできた。
「向こうはたくさんの人と握手しています。菌を移されるわけには……」
「ふむ、それもあります。しかし、一番はぬめりを取ることです。そして、ヒョーモさんは少し勘違いしています。私たちが第一に考えるべきは推しのこと。私たちが病気にかかることよりも、推しのこと大事にする。握手の連続でアイドルの皆さんは多くの人と接触しています。できるだけこちらの手を清潔にし、推しに負担をかけてはいけません」
「な、なるほど……」
タツノさんの熱い説明に驚く。こんなに長く彼が喋ることはあまりない。しかし、それゆえに僕にはすっとその話が入ってきた。
「ところで、除菌は終わりましたか?」
「はい」
「では、握手が終わるまでできるだけぬめりを抑えてください。握手した時に手が湿っていては、たとえそれがただのぬめりでも不快感を与えてしまいます。向こうはそれが何なのかわかりませんからね」
その後、僕たちは順番が回ってくるまでお互いの匂いチェックなどの身だしなみを整えていった。
「タツノさん……次、ですね」
もう目の前にまふちゃんがいる。HGK48のキャプテンである彼女は、とても明るい雰囲気でメンバーを引っ張るリーダーという印象。その様子は深夜の冠番組でもうかがえた。
「次の方、どうぞ」
タツノさんが呼ばれる。彼はスタッフに呼ばれてまふちゃんの前に行く前、こっちを見てきた。「さっき言ったことを忘れるな」というような表情。僕はそれに答えて力ずよくうなづいた。
「次の方、どうぞ」
「は、はい!」
スタッフの言葉と同時、まふちゃんがこちらを見てくる。目が合った。
その瞬間、緊張が跳ね上がる。
「今日はありがとう~、ライブに来てくれてうれしいな!」
まじかで見るまふちゃんはとてもかわいかった。映像とは違う輝きがある。映像の中は共演者でさえイケメンや美女。しかし、この場で一番なのは間違いなく彼女だった。実際のポテンシャルを余すことなく感じられるこの小さな空間では目に毒ともいえた。
「こ、こちらこそありがとうございます……。いつも見て元気をもらってます」
言いたいことは短く簡潔に、工夫をする必要はない。言葉を飾る必要もない、ただ簡単な表現で感謝を伝える。しっかりできただろうか。タツノさんはそう僕に教えてくれた。
「本当!? うれしいなぁ~。ライブに来たのは初めて?」
まふちゃんはそう言いながら僕の手を取った。まふちゃんの手はあったかい。しっかりと握手に力を込めてくれている事が分かった。それがうれしい。
ぬめりはでてないだろうか、心配だ。タツノさん曰く、彼女らはプロだから表情には出さない。だから実際は分からない。だからできる限りの準備をこちらがする必要があるのだと。
「はい、初めてです。また来たいと思います。ありがとうございます」
そう僕が言い切ると同時、スタッフがやってきて「お時間で~す」と言ってきた。
握手を解く。スタッフさんに言われたらすぐに、というのもタツノさんの教えだ。
自分は大量のファンの内の一人、個人として目立つことは絶対に避けろと言われていた。
「ありがとう! また来てね?」
まふちゃんが両手を振りながらこっちを見ている。目が合った。
すっごい笑顔だった。
「…………」
出口にタツノさんが待っていた。
「どうでした?」
「……」
僕はタツノさんを見て静かにうなづくことしかできなかった。
「……そうですか」
タツノさんはそれだけで察してくれたようだ。
キレイな推しには毒 G I R L 桃波灯火 @sakuraba1008
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