第2話 メタモルフォーゼの水

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています。」

水族館の閉館に伴い、ツェツィーリエ・ル・カインが出入り口のエントランスホールで客を見送っていた。

「ツェリちゃん、すっかり水族館の手伝いが板に付いたわね。」

ツェリという愛称で呼ばれるほど世話になっているご近所さんのマリアおばあちゃんが孫娘のイヴの手を引きながら、朗らかに笑う。ツェリは笑いながら頷き、イヴに手を振った。

「ありがとう。今度、庭の手入れの手伝いに行くから。イヴちゃん、またね。」

「頼りにしてるわ。」

今夜、夕飯のおかずを差し入れするから、と言いマリアはイヴと供に去って行く。夕飯を当てにしていいのなら、今日は水族館の清掃をして帰ることができるだろう。ツェリは最後の客を見届けて、気合いを入れて清掃道具がしまってある用務室に向かった。


とある海沿いにある小さな港町で、ツェリは生を受けた。それは夏のとても暑い日で、その気温で頭が痛くなるようだったと母親は笑って言った。その母親と父親は程なくして離婚した。父親は港町の観光名物として水族館を経営しており、経済的な理由でツェリは父親に引き取られることになる。

水族館は港町のシンボルとして人々に愛されていた。休日ともなれば、家族連れをメインターゲットにして集客をした。ツェリはその光景を母親のいない寂しさを募らせながら見守っていた。

母親の居ない幼少期を経てツェリは成長し、高等学校を卒業すると父親の水族館で働くようになった。


ツェリは鼻歌交じりに、水槽のある展示室を歩いて行く。同じ方向を向きゆらゆらと揺れるチンアナゴとニシキアナゴの群れに手を振って、月のように丸く波に逆らうことせず浮かぶクラゲの水槽のトンネルを抜けた。沢を彷彿とさせる流れを生む淡水魚の水槽を横目に、北の冷たい海に生きるゴマフアザラシの視線を受けながら用務室を目指した。「? あれ、鍵かかってる…。」

用務室の扉は観葉植物に隠れるようにある。普段、掃除用具しか置いていないために、かんぬき錠の鍵はかけないことが多い。

「珍しいな。」

ガチリ、と錆び付いた重いかんぬきを抜くようにして錠を落とすと、扉が内側からの重みに耐えきれず軋みながら開かれた。

「え…、」

傾れてきたのは、人間だった。

緩くウェーブが掛かった美しい黒髪が床に丸く広がる。臙脂色のワンピース越しに細い肢体に豊かな胸、長い手足を見て女性だということを知った。

ツェリは思わず女性の上半身を抱き起こそうと試みる。

潤んだ瞳の焦点は合わず、頬は朱に染まり、うめき声が零れる唇はカサついている。それでもその女性が容姿に恵まれていることは理解できた。

「だ、大丈夫ですか!?どうしたの…っ!」

伏せられた睫毛は長く、目元は涼しげ。鼻筋は通り、儚げだった。一瞬、その美貌に見惚れそうになるが、ツェリは女性の声にすぐに我に返る。

「…み…ず、」

「え?何…?」

女性の瞳に束の間力がこもり、ぐっと唇を痛々しいほどに噛みしめた。そして次の刹那、思いがけず強い力でツェリは突き飛ばされた。その弾みで尻餅をついている間に、女性は走り出す。

「ま、待って!」

女性が走って行く先には、熱帯魚の水槽があった。このまま錯乱したかのように走れば、正面から激突してしまう。ツェリが手を伸ばして制止しようと試みるも、するりとすり抜けるように女性は駆けていった。

熱帯魚の水槽は幼い子どもでも見られるように背が低く設計してあった。ぶつかるとおもった刹那、女性は意外にも冷静に水槽の淵に手をかけて、ぐい、と身体を持ち上げた。そしてそのまま、水槽の中に身を投げた。

大きくスプラッシュが上がり、水面が揺れる。熱帯魚たちは驚き、右往左往していた。

次の瞬間、女性の身体に変化が現れた。

海水に浸かったところから黒髪は白銀に染まっていき、ワンピースから伸びるすらりとして美しい足が爪先から滲むように魚の尾鰭に形を変えた。青銀色に鈍く輝く鱗がびっしりと肌を覆うように、尾鰭を彩っていく。

そこにいたのは、昔、母親に読んでもらった寓話に出てくる人魚そのものだった。

息を呑むツェリと目が合った女性が、ふっと自嘲気味に微笑んだ。ぷは、と息継ぎをするように水面に上半身を浮かべると濡れた髪の毛をかきあげながら言う。

「バレちゃった。」


その日、ウィロウ・セドゥは仕事仲間と供に水族館に訪れていた。バーで歌い手として働くウィロウは言葉数の少なさと人見知りをする性格だが、彼女の歌を目当てに訪れる客の多さによく他の歌い手から嫉妬されてしまう。故に孤立しがちだったが、今日は歌い手の親睦を深めようという名目で半ば強引に水族館観光に参加させられた。言い出したのは、リーダー格の女性だった。

「ウィロウ、今日はレトロチックな服装なのね。」

「本当。流行の服は嫌い?」

今日、ウィロウが着てきた臙脂色のワンピースは母親から譲り受けた物で、レトロと言えば聞こえは良いが型が古い流行遅れの品だ。クスクスと笑われるが、その笑みにはやっかみが含まれていた。ウィロウがそのワンピースを着れば自然と上品で洒落ているように感じられるからだ。今、巷で流行りのレースが多く使われた服を身にまとっても、人の目を引くのはウィロウであることが気にくわないらしい。

「…、」

返事に困り、ウィロウは言葉を探す。

「皆、やめなさいよ。ウィロウが困ってるわ。」

そう言って仲間をたしなめるのは、今日の観光を企画した

サラレギー・ザラだった。ウィロウの肩に手を置くサラレギーから、ふわりと甘い香りがした。彼女はいつも舶来物だという薔薇の香水を使用している。

「さあ、全員そろったようだから行きましょう?」

まるで子どもを引率する教員のように率先して、歌い手仲間を引き連れていく。ウィロウは皆の気がそれたことにほっと息を吐いて、最後尾を着いていった。

姦しい集団から一歩引いて、一人ゆっくりと水族館を楽しむ。これで本当に親睦が深まっているのか謎だが、ウィロウとしてはどうでも良かった。正直、気の合わない人間に気を使うのが苦痛だったし、幸いにもウィロウは一人が怖くない。

「!」

ふと気付くと、ウィロウのワンピースの裾を引っ張る者がいた。そこに立っていたのは小さな女の子だった。この女の子には見覚えがある。確か歌い手仲間の一人娘だったはずだ。いつの間にか母親の手から離れたらしい。

「なあに?どうしたの。」

女の子は黙って指を差す。ウィロウがその方向を目線で追うと、用務室と書かれた扉が僅かに開かれて中が覗けた。室内は薄暗く、扉からの一筋の光に小さな髪飾りが反射して輝いているのが見える。その髪飾りは丸いビーズでできており、ころんと転がっていた。

「…取ってきて欲しいの?落としちゃったのかな。」

女の子は頷く。人気の無い、薄暗い用務室は確かに幼子には恐怖に感じるだろう。

「待っていて。」

ウィロウは微笑み、女の子の小さな頭を撫でた。そして用務室に近づいて扉を開けて中に入る。髪飾りを目指して、コツ、と足を踏み入れた瞬間。唐突に背後で扉が閉まった。「え、」

光源を失い、暗闇に染まる用務室でウィロウは振り向き扉に駆ける。慌てて、ドアノブに手をかけるが扉はびくともしない。

「どうして…っ!?」

扉を叩くも開く気配はなく、ウィロウは残り香に気が付いた。

薔薇の香り。

それはサラレギーが好み、身に付けている香水のものだった。舶来のその香りは他に嗅いだことのない芳香だったために、すぐに気が付いた。

「サラレギー?ねえ、そこに居るんでしょう?開けて!お願い!!」

ウィロウは叫ぶが、外の音は聞こえない。どうやら鉄製の扉が存外分厚いようだ。扉を叩くも、びくともせずにこの音も届いているかもわからない。

徐々に暗闇に目が慣れ、室内の様子が知れてくる。モップや箒、バケツなどの掃除道具が置かれ、壁際には木箱が積まれていた。窓はない。ウィロウは床に落とした自分のハンドバッグを求めて這いながら、手で探った。ようやく探し当てたハンドバッグから水筒を出し、振って中身の残量を確かめる。ちゃぷん、と揺れる重さからその量が半分もあるかどうかと知って、些か不安になった。水筒の中身は海水。命の水だった。海水を摂取しないと、ウィロウは乾いてしまう。

緊張により心臓が大きく脈打ち、鼓膜にうるさいぐらいに鼓動が響いていた。落ち着け、と深呼吸をしたかったが埃っぽい空気に躊躇われた。

掃除道具があることは人の出入りがあるはずだ。何日も閉じ込められることはない、せいぜい何時間で済むはず。

だから大丈夫、と無理矢理に心を落ち着かせてウィロウは扉を背に座り込んだ。体力は温存しておいた方が良い気がした。

懐中時計の秒針が時を刻む音が響く。少しずつ、海水を口に含んだ。ウィロウはこの仕打ちによほど自分は嫌われていたのだなと思い知った。子どもを使ってまで、罠に陥れたかったのか。せめて、あの女の子が何も知らなければ良いと思う。

どのぐらいの時が過ぎたのだろうか。水筒の海水は底をつき、喉が徐々に焼けるようなひりつきを覚える。不安に押しつぶされそうになりながら、ウィロウはカリカリと扉に爪を立てた。美しく整えられた桜色の爪の先が欠けて、血が滲む。だが、その傷さえも数分として治癒してしまう。

唐突に、ガチリ、と扉が軋んだ。扉がウィロウ自身の重みにゆっくりと開かれる。そのまま外の床に倒れ込み、急激な眩しさに目の前がチカチカと光が弾けるようだった。

力が入らない身体を、抱えてくれたのは太陽のような女性だったことを覚えている。

アンバーブラウンの髪の毛は電気の明かりに透けて、金髪に見間違うようだ。ボーイッシュに髪を短くカットし、猫っ毛なのか所々ぴょんと跳ねているところが可愛らしい。褐色の肌は港町で健康の証、印象深い瞳の色は鮮やかな赤だった。

その色彩に目を奪われつつ、ウィロウの視界の淵に熱帯魚の水槽が映った。断片的になる記憶は走馬灯の始まりなのだろうか。ウィロウはそこにある海水めがけて、最後の力を振り絞った。

背後で誰かが叫ぶ。それを振り切って水槽まで駆け、ウィロウは水中に身を投げた。

耳の奥で泡が弾けていく音が響いた。喘ぐように肺に水が満ちて、乾き始めていた皮膚が滲むように潤っていく。

足が。

熱を持ち、爛れるような感覚に襲われた。血液が沸騰して骨がドロドロに溶けていくようだった。

細胞が生まれ変わり、ウィロウの下半身が魚へと変化した。次に目をゆっくりと開くと、水槽のガラス越しに驚く太陽の女性がいた。人心地が付くと供に、絶望に襲われる。

「バレちゃった。」

ウィロウは自嘲気味に微笑み、呟いた。

純粋な人間でないことが、他人に知られてしまった。これからどうなるのだろう。見世物にされるのか、それならまだいいかもしれない。研究対象として実験動物にされ、死んだ方が良いとさえ思う羽目になるのだろうか。そうなる前に、死にたい。

瞳を伏せ、ため息を吐いた刹那のことだった。

「…きれいね。」

「…え…?」

聞こえてきた女性の第一声に、ウィロウは耳を疑った。

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君を殺す寓話 真崎いみ @alio0717

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