推され男のコンフリクト

野森ちえこ

未来に語るのは

 おれの彼女は人生を捧げるいきおいで、ある舞台役者を応援している。


 そいつが出演する公演が一週間あったなら、初日と中日と楽日の最低三回は観に行くし、公演DVDはセリフをまる暗記するくらい繰り返し観ている。また、自分のぶんだけでなく布教のためのチケットを複数枚押さえるのも忘れない。

 だが残念なことに、彼女がそこまで推すそいつは知名度というものが絶望的に低かった。

 劇団も無名なら役者も無名。彼女の推しはちいさな劇団の売れない役者なのである。

 さらに残念なことに、そいつは容姿が飛び抜けているわけでも、演技力がずば抜けているわけでもない。もし頭抜けたなにかがあったなら、とっくにブレイクしているだろう。

 よって彼女の思うようには布教活動もふるわない。むしろ友だちをなくしていってるような気がする。

 それでも彼女は推しのために働き、推しのために生きている。

 だから。

 だからもう――


「別れよう」

「なんでよ」

「おまえの推し活にはもうウンザリなんだよ」

「だから、なんでよ」

「……おまえ、人生棒にふる気かよ」

「だーかーらー! なんでそうなんのよ!」


 バシン! とテーブルの――というよりちゃぶ台といったほうがしっくりくるやつの天板を叩いた彼女はちょっと顔をしかめた。手が痛かったらしい。


「芝居やめる気ないんでしょ」

「ねえよ」

「なら問題ないじゃない」


 おおいにある。というか問題しかない。問題ないと思っている彼女からして大問題だ。


「わたしが最初に好きになったのは、舞台に立ってるユウちゃんなの。ふだんのユウちゃんも好きだけど、やっぱり舞台の上のユウちゃんは特別なの。わたしの生きがいなんだから、別れたって推し活はやめないもん。知ってるでしょ」


 そうなのだ。いちばんの問題は、彼女の推しが彼氏おれだということなのである。

 もとはといえば、ファンに手をだしたおれが悪い。んなことはわかってる。

 でも、見た目が好みの女の子に全身全霊で好意を寄せられて我慢できる男なんているのだろうか。すくなくとも、おれには無理だった。


 彼女が観客としておれのまえにあらわれたのは三年まえ。つきあいだしてそろそろ二年になる。


 公演期間中は働けないし、芝居をつづけながら定職につくのはむずかしい。芝居か安定か。どちらかをえらばなければならないとしたら、おれは芝居をえらぶ。おれにとって芝居をやめるということは、死ぬのとおなじだ。売れなくても、万年貧乏でも、命あるかぎりおれは舞台からおりるつもりはない。

 おれだけなら、その選択にはなんの問題もない。が、遊びの関係ではない彼女がいるとなれば話はかわってくる。


 常識的に考えれば、芝居などやめて就職しろといわれるところだろう。そうであってくれたなら、つっぱねることもできた。しかし彼女は真逆だった。

 生活の面倒は見てやる。女遊びも自由にすればいい。チケットは買うから招待券なんぞいらん。いいからあんたは舞台のことだけ考えてろ――という、今どき演歌の世界でもなかなかお目にかかれないのではないかと思うような一途につくす女。それが彼女、神尾かみお 志奈乃しなのである。


 自己犠牲かと思えばそういうわけでもないらしく、彼女のいうとおり『生きがい』なのだろう。

 じつのところ、別れ話はこれがはじめてではない。半年ほどまえに、ほかに好きな女ができた。遊びではない、本気なのだと切りだした。自分でいうのもなんだが、一世一代の熱演だった。

 そのかいあって、恋人関係は解消した。が、彼女の推し活はつづいた。いやがらせとか、ストーカー的な目的かと思えばそんな気配はなく、彼女いわく『それとこれとはべつ』らしい。

 彼女の強靭な意志をまえに、おれの脆弱な決意はあっけなく霧散した。


 もはや彼女の推し活をやめさせるには、おれが芝居をやめるしかないのではないかという気がしている。

 しかし、それはできない。それだけはできない。

 ならばもういっそ良心など捨てて彼女に甘えてしまおうかと思ったりもしたのだが、それはそれで救いがたいクズになってしまいそうで踏みきれない。

 どっちつかずというか、八方ふさがりというか、なんとも中途半端な気持ちで中途半端な別れ話をしてみても、却下されるのはわかりきっているというのに。

 いったいなんのアピールなんだか。まったく情けない。


「『それが今の奥さまですか』『そうなんですよー』ていうのがいちばんだけど。『あの元カノがいたから今のぼくがある』みたいなのでもいいよ」

「いや、いきなりなんだ」

「ほら、トーク番組とかでよくやってんじゃん。下積み時代のエピソードとか」


 どこからどう思考が飛んだのか。彼女の話は時々あらぬ方向に飛躍する。なんだその結婚バージョンと別離バージョンは。ていうか、トーク番組なんて。


「そんなの夢のまた夢だろ。死ぬまで叶わないんじゃねえか」

「叶うよ。ユウちゃんはすごいの。なんたってわたしの最推しなんだから」

「すごいのはおまえの自信だ」

「信じる者は救われる」

「今度は宗教か」

「ちがうけど。でもユウちゃんは、自分で思ってるよりちゃんとすごいんだよ。時がくれば絶対世に出ていく人だよ。その時がくるまで、投げださないでつづけてれば、絶対」


 これだから。

 これだから手放せないのだ。

 おれよりもおれのことを信じてくれている。

 あたりまえのように、自然に、なんの気負いもなく、おれの未来を信じている。

 彼女の信頼にこたえられない罪悪感をまぎらわせるために口先ばかりの別れ話をするような男なのに。

 卑怯な自分に目をつぶってでも一緒にいたいと願ってしまうような、情けない人間なのに。


「えい」

「どわっ」


 とうとつに飛びかかってきた彼女の重みを受けとめそこね、畳にひっくり返る。痛い。背中打った。


「重い」

「ひどい」


 むうと口をとがらせながら、わざと完全に脱力して全体重をかけてくる。わりと本気で重い。

 やわらかくて、あたたかくて、重くて、でも苦しくはない。


「ユウちゃんがめんどくさいこと考えだすのってだいたいたまってる時でしょ。抜いてあげようか」

「女の子が抜くとかいうな」


 いいわけにはしたくないと思う。

 やめる理由にも、やめない理由にも彼女をつかってはいけない。

 ただできることならこの先も、彼女に推してもらえる役者でいつづけたいと思う。

 そしていつか、結婚バージョンを語れる日がくればいいと、そんなことを思いながら、彼女のやわらかなぬくもりに腕をまわした。



     (おしまい)


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推され男のコンフリクト 野森ちえこ @nono_chie

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