推しになりたい
たぴ岡
その女
女はひとり、テレビの前で目を輝かせて座っていた。今にも立ち上がってしまいそうに尻を浮かせて、至近距離でその光を浴びていた。
『Are you ready?』
「いえーい!」
画面の中の王子のような赤い衣装を着た男性が、左手に持ったマイクを観客に向けて微笑んでいる。さらりと額から美しい汗が流れるが、気にせずに彼は興奮した様子でメンバーの方を向く。四人目を合わせると、すぐに大音量で音楽が流れ始める。
彼こそが、彼女の「推し」である。
ついに立ち上がった彼女の左手には、マイク代わりにリモコンがある。彼女は、右手を突き上げながら曲のタイトルコールをすると、彼らと同じく歌い、踊り始めた。まるでそこがステージかのように、目の前には大勢のファンがいるかのように。
彼女は、推しを自分に投影していた。
『まだまだ声出せるだろ!』
推しと彼女の声が被る。笑顔が弾けて、汗が星のように輝き、散る。
完璧に重なるふたりの動き。同一人物かと思えるほどリンクするダンス。微細な特徴すらも一致する歌い方。小さなミスすらも完全にコピーされている。彼女は、今この瞬間だけは、グループのセンターで歌い、踊り、盛り上げていた。
アンコールまで全てを終え、彼女はその場にへたり込んだ。
「違うの、何もかも」
急速に冷めていく興奮、重力に従って落ちる汗――そして、涙。
「私は、なれない。推しになれない私は、ただの、ひとりのファン」
全てを歌いきり、ライブは終わったのに、未だ映像は終わらない。ファンからの拍手や歓声がうるさいくらい部屋に充満していた。それはもちろん、彼女に向けられたものではない。
「どれだけ推しになりたくても、どれだけ推しのダンスを練習しても、どれだけ歌声を推しに近づけても、推しそのものになることは、絶対にできない……」
溢れ出る涙は止まりそうもない。彼女は拭うこともなく、フローリングにできていく水たまりを見つめていた。ぽたぽたと滴が落ちる度に苦しくなっていく、辛くなっていく。
わかっていても諦められない夢は、誰にあったっておかしくない。彼女にとってのそれが、アイドルだったというだけだ。それも、自分とは性別すら違う男性アイドルであって、グループのど真ん中で笑顔を降り注いでいる推しになりたい、たったそれだけなのだ。
彼女はテレビ画面に手を触れる。届くはずもない、その中へ、入ってしまいたかった。叶わない夢と知っていても、それでも、願わずにはいられなかった。
消してしまおう、そう思いリモコンを探そうと振り向くと、途絶えた夢への道が視界に入る。
デビュー当時の推しが来ていた王子のようでいてアイドルらしい真っ赤な衣装、セカンドシングルのときのカジュアルで私服に近い衣装、推しが主演のドラマ主題歌のときの真っ白でミステリアスな衣装、それから――。
ずらりと並んでいて壮観だった。彼女は、推しが着ていた衣装を全て再現し、それを部屋に並べていたのだ。録画した番組を何度も何度も注意深く見ては、様々な角度で停止させ、それを細かくスケッチする。
素材は何が良いのか、どんな風に縫い付けるのが一番本物に近づけるのか、納得のいくまで研究を重ねた。部屋には、幾度も修正を繰り返しやっと完成したものたちが、並んでいる。
彼女の見開かれた大きな瞳から、大粒の涙が落ちる。
「どうしたって、推しにはなれないんだよ……」
彼女の背後からは、まだ歓声が響いていた。
推しになりたい たぴ岡 @milk_tea_oka
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