2  どうしたんだい

「どうしたんだい、君」


 春風さんの第一声だった。この時年齢は六十四歳。とうにリタイヤ済みで、気楽なポロシャツとスラックス姿でもいいはずなのに、春風さんは身体の線に沿った薄茶色のジャケットを着こなしている。


 病的に見えるほど、とっても痩せていて、失礼ながら年齢よりも年配に見えるのだけれど、その黒い瞳から注がれる眼差しの強さと淀みのない言葉選びが、不釣り合いなほど若々しい。そんな人だった。


 老いてはいるものの、小綺麗な装いの男性の姿をぼうっと眺めてから、僕は急速に恥ずかしくなって、顔を伏せた。男性は公園の砂を、手入れの行き届いた艶やかな革靴で摺りながら、僕に近づいた。


「ああ、大村証券の」


 どうしてわかったのだろうか。僕は怪訝に思って顔を上げたけれど、理由は直ぐに判然とする。


 ベンチの上、僕の右脇には、社名の入った水色の紙袋が無造作に置かれているのだ。中身は、ポスティング用の資料。名刺と、初心者に最もとっつきやすいと言っても過言ではないだろう商品、「個人向け国債」のリーフレット。それと、僕の自己紹介文を記した紙ぺらの三点を、クリップで一纏めにしたもの。毎日百部、配って歩くのだ。


 男性はしばし、思案気に斜め上に眼球を向けてから、ぽん、と手を打った。


「もしかして……遠山春吾とおやましゅんご君?」

「どうして」


 言い当てられた僕は羞恥心など忘れ、涙と鼻水に濡れた顔で、男性を凝視した。彼は根っからの紳士らしく、「ああ、失礼」と軽く腰を折った。一陣の風が吹き、男性のジャケットを揺らした。


「僕のことは、春風はるかぜと呼んでくれ。君の名前は、その資料で知った。家にポスティングしてくれたでしょう。ほら、名前に僕と同じ春が付くから、記憶に残っていた」


 春風、と言うのは偽名か愛称だろうか。季節は初夏。やや風流からは外れたような印象を覚えたが、僕の心臓は大きく脈打った。


 春風さんのポストに僕の資料が入っていたということは、この上品な男性は、営業エリア内の潜在顧客だということ。にもかかわらず、僕は無様にも涙を流しながら、公園でさぼっている。この姿を見られることは不都合だった。


 僕の顔色が悪くなったことに、春風さんは直ぐに気づいたようだった。彼は柔和な目元をさらに和らげて、言った。


「会社に言いつけたりはしないから、安心しなさい。良ければ少し話をしよう。何、老人の暇つぶしに付き合ってほしいだけだよ」


 潜在顧客と腰を据えて会話をしたのなら、今日の報告時のネタができる。我ながら現金な発想に嫌悪感を抱くが、要領良くならなければ社会の荒波を泳ぎ抜くことはできないと思い、ドロドロとしてどす黒い心に蓋をした。


 僕の目論見をよそに、春風さんは商品の話はしなかった。どうやら春風さんは十年ほど前に早期退職をして、現在は地区センターで図書館の司書をしているらしい。小学生の利用者が多いので、子供好きの春風さんは、ほとんど趣味でアルバイトをしているようだ。


 早期退職までは、初めて就職した会社に勤め上げたという。身なりが良いし、早期退職できるほどの資産があったということで、ある程度お金を持っているのだろう、と僕はそろばんを弾いた。


「ところで君は?」

「はい?」

「どうしてこの会社に入ったんだい。特に新規顧客開拓の仕事は精神的にも辛いだろう。どうして大村証券に?」


 春風さんの瞳が晴天の陽光を反射して、温かな光を纏っているように見えた。心が弱っているからだろうか。なぜか僕は、その目に父の姿を重ね見た。


「父と、約束したんです」


 初対面の潜在顧客に話すには、少々重たい話になるが、春風さんは全てを受け入れるような温和な視線で、僕を包み込んだ。まるで、雪解けを誘う春風のようだった。 


「あ、証券会社に入る約束ではありません。母に楽な暮らしをさせてやると、約束したんです」


 思い出すだけで、胸に漬物石でも乗せられたかのように息苦しくなるけれど、僕はか細い声で言葉を続けた。


「私が高校三年の時、父が病で亡くなったんです。私は両親が高齢になってからの子供なので、父が生きていればきっと春風さんくらいの年齢だったと思います。


私は大学受験に失敗して、東京の私立大学に通うことになっていました。しかも理系です。学費が、すごく高かったんですよ。それに、実家は山梨なので、一人暮らしの費用も掛かります。父の医療費も、当時は膨大だったと思います。


父が亡くなって、悲しみから抜け出せもしない時期に、金銭的な問題が母子家庭に降り注ぐんことになるんです。父は、それをとても案じていたようでした。


母は、父と僕を心配させまいと、昼も夜も働いてくれました。私もアルバイトをしましたけど、高校生が稼げる額なんて、たかが知れていますよね。結局、母も過労で倒れたんです。だから僕は進学を諦めて、就職しようと思いました。それを言ったら、父は病室で激怒したんです。点滴のチューブを引き抜く勢いで」


 父は昔から、気性が激しかった。それは家族を抑圧するだとか、理不尽に何かを虐げるような方向には決して向かない。しかし、正義に反する者に対しては、容赦なく反発をする。そんな人だった。


「『金のことは心配するな。母さんもそのつもりで働いている。お前が進学を諦めることは、母さんの努力を踏みにじることになる』って。その代わりに、父は言ったんです。『大学を卒業して、立派に仕事をして、母さんを養ってくれ』。


高校生の私には今一つ実感が湧かなかったんですが、大卒と高卒だと、すごく年収に差があるんだって聞きました。私の中にも、やっぱり進学したい気持ちがあって……結局父と母の言葉に甘え、奨学金を借りながら大学に通って、無事卒業に漕ぎ着けました。でも、就活は地獄のようでした」


 僕は人付き合いが苦手だ。面接ではいつも上がってしまって、上手く話すことができない。書類選考を通っても、最初の集団面接でライバルに呆気なく敗退してしまう。そんなことが、何十回と続いた。辛うじて選考が進んだ会社の中で、一番年収が見込めたのが、この証券会社だった。今思えば、安易な動機で入社を決めてしまったことに、後悔しかない。


「……結局、私はお金のことだけを考えて、『就職しない訳にはいかない』『若くから母さんを養えるような会社に入らなければいけない』そう思ってこの会社に入ったんです。誰かの資産を増やしてあげたいとか、金融商品を取り扱って、経済を回したいとか、そんな利他的な気持ちなんて、これっぽっちもなかったんです」


 ひとしきり捲し立ててから、僕は俯く。膝の上に置いた拳が、手の甲が白くなるほど握りしめられていた。こんな自己中心的な気持ちで仕事をしている僕からは、誰一人何も買ってくれなくても、当然なのかもしれない。打ちひしがれた僕の耳に、温かな微風がそよぐ。その風に乗って、春風さんの優しい声が鼓膜を震わせた。


「じゃあ君は、何としてでも仕事を続けないといけないね」


 春風さんは相変らず、仏のような眼差しで僕を包み込む。


「お母さんのために働きたい。お父さんとの約束を果たしたい。素晴らしい動機じゃないか。経緯はどうあれ、君はこの会社に入った。三年は続けなさい。転職が盛んなこの時代、石の上にも三年だなんて、古臭い説教に聞こえるだろう。でもね、どの会社に行っても、辛いことはあるんだよ。それを乗り越えようともせず、その都度諦めてしまっては、君の中には何も残らない。だから、たった一つの場合を除いては、君はこの会社を辞めてはいけないよ」

「たった一つの場合?」


 春風さんは頷いた。


「死にたくなった時だ。生きていればどうにでもなる。死ぬくらいであれば、全てを投げ出したって、構わないさ」


 その言葉がすっと心に染み込めば、僕の唇からは幼い子供が駄々をこねるような、弱音が滑り出した。


「もう死にたい……かもしれません」


 軽々しく口にして良い言葉ではなかった。春風さんはおもむろに、水色の紙袋に手を突っ込んで、個人向け国債のリーフレットを取り出した。それから、耳を疑うようなことを言った。


「遠山君、僕が君のお客さんになろう。これを聞いても、ほんの少しも頑張れそうにない?」


 僕はただ目を丸くして、微笑みの形に皺が刻まれる春風さんの顔を、じっと見つめた。

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