5 黒いインターホンを押す
見慣れた黒いインターホンを押す。呼び鈴がいつもの通り二回鳴る。春風さんの声は、低かった。
「はい」
「春風さん、大村証券の、遠山です」
少しだけ、息を吞むような鋭い音がした。ちょっと時間を空けて、春風さんはいつになく低い声色のまま、言った。
「遠山君。すまないけど、今日は」
「申し訳ございませんでした」
春風さんの言葉を遮るようにして、僕はインターホンに向けて深く頭を下げた。カメラが付いていない、やや旧式のインターホン。僕の姿が見えた訳ではないだろうけど、春風さんはマイクを切るのを思い止まってくれたらしい。気が変わる前にと、僕は一方的に
「春風さん、申し訳ございません。あの夜、僕は自分の心の弱さに負けてしまいました。この株が、春風さんには合わないと知っていながら、それに気づかぬ振りをしてしまいました。春風さんのことよりも、自分の都合を優先してしまいました。僕は、社会人として失格です」
しばらく、間が空いた。とうとうマイクが切られてしまったのかと思ったほどだ。やがて小さく咳込む乾いた音が遠く響いた後、黒い機械から、春風さんの声が返って来た。
「失格ではないよ。気が乗らなくても、売らなければいけない商品はある。それは金融商品に限らず、どんな業種でも変わらない。あの株を買って損をした人は多いだろうけど、少なくともあの会社は無事上場したんだ。企業の資金調達を補助するのも、金融に携わる者の務めだろう」
僕は、少し頭を上げた。スピーカーが耳に近づいて、春風さんの声が良く聞こえた。
「君を気負わせてしまうと思って言ってなかったけどね、実は僕、証券会社のOBなんだ」
初耳だった。証券マンといえば熱血体育会系なイメージを持っている僕には、あの上品な男性が証券会社のOBだなんて、到底信じられなかった。
「と言っても、大村証券みたいな大企業ではない。零細の
僕はただ耳を澄ませ、機械的な音に変換されてしまった春風さんの声を聞く。
「君にはそのどれもになって欲しくはない。君は心優しい子だ。こうして僕に頭を下げに来てくれるほど。その人柄の良さはきっと、他のお客さんにも伝わるはずだ。営業には、人と人との心の触れ合いも大切なんだよ。……だから、本当に買って欲しい物があるのなら、夜に営業をしてはいけない。どうしてかわかるかい」
僕が思案している間に、ぷつ、とマイクが切れる音がした。おそらく、時間切れだろう。もう一度ボタンを押そうとした僕を止めるように、玄関扉の向こうで物音がした。扉の板越しに、くぐもった声が響く。
「遠山君。どう思う?」
「わかりません。……夜分に迷惑だからでしょうか」
「それもあるけどね。僕が思うに、本当にお勧めしたい商品があるのなら、日中に、心躍る顔で売りに来るものでしょう。あんな夜に憔悴した様子で販売に来られたら、悲しいよ。遠山君にとって僕は、その程度の商品をどうしても売りつけたいくらいの、取るに足らない顧客なんだなって思う。まあ、その指示を出したのは君の上司だろうから、遠山君だけのせいとは言い切れないけど」
春風さんは再び小さく咳込んだ。
「風邪ですか?」
「いいや……、失礼。大したことはない」
その割に、苦しそうな呼吸音が、閉じられたままの扉越しに微かに聞こえた。朝の電話で「体調が優れない」と言っていた。それは電話を切る口実だと思っていたけれど、本当に体調が悪いのかもしれない。突然押しかけてしまったことを思い出して、僕は一歩後ずさる。
「春風さん、あの」
「あの株、僕があと十歳若ければ喜んで買っていた」
話すのが辛そうな様子なのに、春風さんは言葉を止めなかった。
「長期で見たら、とてもいい銘柄だ。でも僕の好みではなかった。それだけだよ。
金融商品は、価格が上がるか下がるか誰にもわからない。それでも買う人がいるから値段が付く。どんな銘柄だって、好みが合って、欲しがる人はきっといる。本人が気づいていなくてもね。
だから遠山君。君はそれを探しに行くんだ。欲しい人に、欲しいものを売る。強引に売りつけるよりも、ずっと大変だ。だけど君にはきっとそれができる。
短い間だけれど、君から色んな銘柄を買って、誠実な君の姿をたくさん見て来た。僕はこれでも支店長までやったんだ。同業者を見る目は確かだよ。だから遠山君。約束して欲しい」
春風さんは一つ大きく息を吐き、一生忘れない教訓を、僕の心に刻みつけた。
「誠実であれ。どんなに苦しい時でも」
それが、春風さんと話した最後の日だった。
その日は金曜日だったので、土日を挟み、次の出勤は月曜日だった。朝九時に株式市場が動き始めると、僕はいつも通り、春風さんに電話を入れた。コール音が続き、しばらくしてから留守電に切り替わっただけだった。たまたま今日は留守なのかもしれないが、この時間、いつもは在宅しているはずなのに……。胸の中に一抹の不安が
翌日もその翌日も、電話は繋がらなかった。胸騒ぎがして家に行ってみたけれど、黒いインターホンマイクからの返答はなく、家も庭もしんと静まり返っていた。その理由が分かったのは、帰社後、営業事務員さんが驚きの声を上げたからだった。
「あれ、春風さん、移管だって」
移管とは、取引支店を移し変えることだった。移管をすれば、僕は春風さんの担当者ではなくなってしまう。僕の心は途端に冷えた。春風さんに失礼なことをしてしまったから、僕のことが嫌になってしまったのだろうか。だが、事情は異なっていたようだ。
「移管先は、東京か。春風さん、引っ越しされたのね」
僕のことが嫌になったのではないようで胸を撫で下ろしたのだけれど、よくよく考えてみれば、引っ越しの「ひ」の字も口にしなかった春風さんはやはり、とうに僕のことを見捨てていたのかもしれない。
だけど、あの日。扉越しに語ってくれたことは、紛れもなく僕を案じた助言だったはず。
結局春風さんからは何の音沙汰もなかったけれど、「誠実であれ。どんなに苦しい時でも」という恩人からの最後の言葉を胸に、僕は何とかこの仕事を続けていた。
時が過ぎ、正直春風さんの言葉はただの綺麗ごとだと感じる日もあるし、どうしても苦しくて、ズルを働いてしまおうかと思う日もある。危うく春風さんとの約束を
けれど、僕の中に住んでいる怠け者の悪魔が悪い言葉を囁く時には決まっていつも、仏様のような優しい目をした春風さんの姿が瞼の裏にくっきりと浮かんで、僕を諫めてくれる。春風さんは、僕の人生を変えた人だった。亡くした父を思わせるような、頼りがいのある人生の大先輩だった。
そしてあの突然の別れからもう、気づけば三年が経っていた。
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