3 明日、朝九時に
「明日、朝九時に、開店に合わせて、口座を作りに行くよ」
春風さんはそう言って、肩越しに手を振りながら家に帰って行った。僕はその後、半ば放心状態で公園のブランコを眺めていた。やがて近所の小学校から終業のチャイムが鳴って、子供らが遊びに来た喧噪を耳にしてやっと、現実に引き戻された。
春風さんは、つむじ風のように現れて、微かな余韻を残して消えて行った。口座、作ってくれるって。僕は、あまりにも出来過ぎたお話に、あの上品な男性は人を騙す妖怪か何かだったのだろうか、とすら思った。
僕自身が半信半疑だったので、課長への報告も要領を得ず、「お前は本当に言語力がない奴だ」と叱られた。僕もそう思う。
しかし翌朝。始業開始時刻の三十分以上前から始まる朝会を終え、いよいよ
春風さんは相変らずにこやかだった。受付係の派遣社員さんが、「本当に上品な方。きっとお金持ちよ。良かったね」と僕の耳に囁いた。初めてのお客様だ。お金持ちじゃなくても、誠心誠意対応したいと思ったが、そういった発言は好まれないと理解しているので、僕は曖昧に微笑んだ。
口座開設書類を記入してもらう間、春風さんについて、二つのことが分かった。一つは、年齢が六十四歳であること。父の二歳年下だった。もう一つは、春風というのは本名であること。「
春風さんは、個人向け国債を5,000,000円買ってくれた。新入社員としては、まあまあな金額だと言われ、終業後に例の如く飲み会を開いてもらった。
いまだ狐に包まれた気分の僕は枝豆を頬張りながら、ビールのグラスを傾ける。気づけば空だった。上司や先輩の酒が減っていないかどうか、気を張っていたのだが、自分のグラスのことにまで気が向いていなかった。不意に床板が鳴り、斜め後ろから白い腕が伸びて、誰かが僕のグラスを指差した。
「飲むでしょ?」
美紀ちゃんだった。彼女とは、あの飲み会の日からずっと、疎遠な関係が続いていた。僕はいささか気まずさを覚えつつも、顎を引く。美紀ちゃんは瓶ビールを傾けた。七対三の黄金比。泡も細かく良質だ。
「よし」
美紀ちゃんは胸を張った。
「春吾君の注ぎ方、真似してみたの。最初にどばーと入れて、最後はちょろちょろ」
今日の美紀ちゃんは、とても清々しい顔をしていた。僕は、素直に礼を言って、我ながら不器用に微笑んだ。春風さんは、僕らの心に突き刺さった
ところで春風さんは、派遣さんの見立て通りのお金持ちだったようだ。口座開設時に金融資産額をチェックするのだけれど、一億円以上の欄に印をつけていた。新入社員の僕には想像もつかない金額だ。
その自己申告通り、彼はたくさんの取引をしてくれた。春風さんは僕のセールトークを聞いて、納得すれば買ってくれたし、腑に落ちなければ首を横に振った。時には話し方のアドバイスもしてくれた。
春風さんが好きな商品は、株式だ。結構な金額を毎日のように売り買いしてくれて、注文を出すか迷った時には、「今日の売り上げいくら足りない?」とお茶目に聞いて、ピッタリ手数料が上がるように売買してくれた。
春風さんのお宅にも、何度かお邪魔した。会社支給のタブレットと春風さん
その年の秋頃には、こんな僕にも、他何名かの大切なお客様ができていて、相変わらず辛い毎日ではあったものの、死にたいと思うことはなくなっていた。
順風満帆ではないものの、春風さんのおかげでなんとか仕事が続けられる。だから、あの人を裏切ることはしたくなかったのだけれど……。
「こりゃ重いな」
秋の長雨の中、支店長が呻いていた。どうやら、支店割り当ての販売額が大きく、人気もなさそうな商品が来たようだ。美紀ちゃんがこっそり僕に耳打ちする。
「
「IPO?」
「新規上場株式だよ。研修でやったでしょ」
頭に漢字が浮かんでからやっと、僕は頷いた。企業が新たに金融市場に上場する際に、証券会社を通じて株を一般投資家に販売するのだ。僕らはそれを、本社から指示された株数販売しなくてはならない。できない、は許されない。できなければ他の支店の誰かがその分を負担しなくてはならない。
「結構規模が大きいの?」
「うん。株数が多くて、
跳ねなそう、とは株価は大きく上がらなそう、と言うことだ。僕はパソコンで企業について検索する。美紀ちゃんが言う通り、株価的にはなかなか厳しそうな銘柄だった。
販売活動が解禁されると、支店は更に殺伐とした雰囲気になる。通常の手数料ノルマに加え、重い販売ノルマが課されて、僕らは夜遅くまで残業をした。21時過ぎに営業電話をして、とても迷惑そうな受け答えを耳にする。それでも受話器を握らないことは許されず、僕の心はまた一つ闇を抱えた。
販売最終日まであと二日、という日になって、とうとう支店長が吠えた。
「各自ノルマ分を完売するまで、帰ってくるんじゃねえぞ!」
日本の株式市場は15時で終わる。それ以降の時間に営業員が支店から全員いなくなっても、問い合わせ電話くらいは営業事務員さんが受けてくれるので問題なかった。
僕はとぼとぼと住宅地を歩く。全てのお客様に、購入を打診した。金融に詳しい春風さん以外は、少しだけ、お付き合いで買ってくれた。僕の残り販売株数は5000株。一株1,528円だから、7,640,000円。僕の年収の2倍くらい。
お客様がいないのなら、新規顧客を探すしかないのだが、バブル崩壊を経験した日本人には、投資嫌いの人が驚くほど多かった。箸にも棒にも掛からないやり取りが続き、気づけば時計は19時を回っていた。
お腹が空いた。疲れた。僕の脳内に住む悪魔が、春風さんの口座開設用紙の映像を再生した。「金融資産 一億円以上」。あの人なら、買えるだけのお金を持っているはず。でも、先日購入を断られたのだ。春風さんは僕なんかより、良く株を知っている。これは儲からないと、心底理解しているのだ。
春風さんの慈愛に満ちた瞳が、鮮明に浮かび上がるようだった。春風さんなら。お願いしたら、今回も僕を助けてはくれまいか。
気づけば僕はふらふらと吸い寄せられるように、春風さんの家に向かっていた。
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