ゴリラのフルスイング

澁澤 初飴

第1話

 九月最後の日曜日。


 ようやく涼しくなってきた今、真夏よりも熱い戦いが最終局面を迎えていた。

 青空の見える屋外の野球場は、熱気に包まれていた。


 観客でいっぱいのスタンドは、他球場に比べると小さいが、それでもここには何万人もの人がいる。そしてその全員が小さなボールの行方に一喜一憂する。

 小さな白球が紡ぐ物語を見続けてきた人々が、ついに結末を目の当たりにしようとしている。 


 9回表、ツーアウト二塁、だが1点のリード。


 勝てばリーグ優勝が決まるこの試合で、同じ東京が本拠地の人気球団に、1点のリード。ホームで優勝の瞬間を見届けようと詰めかけた人々が、息が止まるような思いで投手を見つめる。

 打席には球界一のホームランバッターと誰もが認める、年俸も球界一の男が静かに佇んでいる。彼は豪快な見た目に反してヒットも打てる、器用で冷静なタイプだ。

 ぶんぶん振り回してくれるなら楽なのだが。一塁側の観客が祈るようにエースを見守る。彼は今シーズン、この打者に3度もサヨナラを打たれている。そのうち2度はサヨナラホームランだ。


 変化球が売りのエースは、捕手のサインに首を振った。

 観客は息を呑む。彼は素晴らしい投手で、今日も味方の出会い頭のホームランで得た1点をここまで守り抜いてきた。が、いかんせん直情型の無鉄砲で、頭に血が上りやすい。メガネの捕手がタイムをとってマウンドに向かう。

 エースが首を振った後は直球を投げがちなことを、相手の打者はもちろん、この球場にいる全員が知っている。

 彼の直球は変化球の中でこそ生きる。来るとわかっている直球なら、プロは打てるのだ。

 口元をグラブで隠しながら、しかしエースの顔は冷静にはとても見えない。三塁側からますます煽るような野次が飛ぶ。


 メガネの捕手が首を振りながら守備位置に戻る。説得し切れなかったようだ。一塁側からああ、とため息のような声が漏れる。

 エースが帽子に手をやった。二塁の走者も、神経を逆撫でるようにリードを取る。捕手が懸命にエースを抑える。

 エースが投球の動作に入った。

 その球は火を吹くような直球で、しかしストライクゾーンを大きく外れ、のけぞって避けた打者の胸元すれすれを通過した。

 三塁側から大きなブーイングがあがる。エースは帽子に手をかけ、謝る仕草をした。しかしスッキリした顔をしている。

 打者は一旦打席を外し、軽く素振りをした。表情は冷静沈着、全く動じていない。

 その様子がまたエースのプライドを刺激した。捕手が何とか収めようとするが、もうタイムも取れない。

 エースはまた捕手のサインに首を振った。一塁側は天に祈った。


 その天に、白球で見事なアーチが描かれた。


 悲鳴と歓声、騒めきが収まらない球場に、ピッチャー交代のアナウンスが流れた。

 エースに代わってマウンドを任された男の名前に、球場が戸惑う。

佐藤豪太郎さとうごうたろう、背番号511」

 今日一軍に上がったばかりの男らしい。この大事な場面で、新人か。しかも何だその背番号。

 しかし男が姿を現すと、その戸惑いは怒号に変わった。


 男はゴリラだった。


 比喩ではない。二足歩行はできているが、上半身がものすご過ぎる。特注のユニフォームがはちきれそうだ。燕のマスコットも引いている。

 一塁側も三塁側も、ふざけるなとか何を考えているんだとか、とにかくすごい騒ぎになった。三塁側の監督も審判に食ってかかったが、意外と短時間で引き上げた。ルールには則っているらしい。

 メガネの捕手が、ゴリラの発達し過ぎている広背筋をぽんぽんとたたく。確かにものすごい球を投げそうだが、そもそもボールが握り潰されてしまいそうだ。


 投球練習が始まった。球場が一転、静まり返る。

 ゴリラはマウンドの感触を確かめるようにスパイクですっすっと表面をならした。そして、モーションに入った。

 アンダースローで投げられたボールは、何とか飛びついた捕手のミットにかろうじて収まった。ブーイングが球場に溢れる。


 ストライクも入らないじゃないか。人間を出せ。


 三塁側どころか一塁側からも野次が飛び、ゴリラは球場を見回した。捕手が立ち上がりマウンドへ向かう。内野陣も集まった。

 声をかけ合う中で、一塁手がゴリラの尻をぽんとたたいた。ゴリラがびっくりして振り返る。一塁手はまだまだ元気なベテランだ。こんな時にもニカッと笑ってみせるだけの肝っ玉がある。

 ゴリラは彼の笑顔で少し落ち着いたようだった。捕手の声にうなずき、帽子をかぶり直す。


 喧騒がおさまらない中、審判が試合の再開を宣する。

 捕手は低く、とジェスチャーで示した。ゴリラはうなずいた。

 次の打者はメジャーでも活躍した外国人だ。バットの素振りの音が外野まで聞こえそうだ。

 バッターが打席に立つ。捕手のサインに、ゴリラがうなずく。


 長い腕をしならせるようにして投げられたボールは、絶妙にバットを誘いながらすり抜けて、捕手のミットに収まった。

 球場からおおっ、というような、先程までとは違う騒めきが起こる。

 次は外に逃げる球だ。打者は泳ぐように空振りした。変化球も投げられるらしい。

 捕手が手を広げて、ストライクゾーンを広く使うことを意識させる。ゴリラがうなずく。

 サインの交換が終わり、ゴリラがグラブを構えた。

 美しいアンダースローからのボールは、針の穴を通すようなコントロールで、内角低めのストライクゾーンぎりぎりを見事にかすめて捕手のミットに収まった。

「ストライク、アウト!」

 審判の声が響き、バッターがバットを叩きつけた。ゴリラがほっと息をつく。球場は地鳴りのような歓声に包まれた。


 9回裏、1点リードされての攻撃。


 打たれたエースはベンチの隅に戻っていた。肩を冷やしている。ゴリラはそっと会釈してベンチに座った。

 この回で逆転できれば優勝なのだが、打順は下位打線だ。1人出塁できればゴリラにも打順がまわる。チャンスで投手に打順が回れば、通常であれば代打が出る。監督の采配が注目される。


 相手はもちろん抑えのスペシャリストを出してきた。ナイターが盛んだった頃からのベテラン、別名は8時半の男。


 1人目のバッターは三塁手の元気者だ。

 彼は早速初球に手を出し、ふらふらと打ち上げた。8時半の男の常套手段だ。いかにもおいしそうなボールを差し出し、しかしそれは手を出すと引っかかって酷い目に合う悪い女のような球なのだ。わかっているのに、どうしてもいけそうだと思ってしまうのがタチが悪い。

 早々にワンアウトを取られた三塁手は、しょんぼりと戻ってきた。エースがベンチを蹴り上げる。ゴリラはびくっと身をすくめた。


 2人目は一塁手だ。8時半の男とは同じチームにいたこともある。

 8時半の男は投げにくそうにしていた。一塁手もベテランだ、くさい球には手を出さない。それで釣れないと8時半の男も分が悪い。

 フルカウントからファールが5球続いた。その次のボールは、ストライクゾーンからボール半分だけ外れてしまった。一塁手の粘り勝ちだ。


 走者が出て、一塁側は俄然盛り上がった。今日勝たなければ順位は逆転、しばらくホームゲームはない。是が非でも今日決めてほしい。

 しかし次の打者はまた打ち急いだように引っ掛けて、ゲッツーにこそならなかったものの、アウト1つと引き換えに一塁手と走者を交代しただけになった。


 そして次の打者はゴリラだ。監督は変えなかった。球場が妙な雰囲気になる。

 先程の投球は見事だった。見事な技巧派だ。

 何となくゴリラで豪太郎なら、豪速球を期待してしまうではないか。それなのに、コントロール重視、球は速くなく、三振はとったもののおそらく打たせて取るスタイルの投手。

 バットを持つゴリラは、いかにも打ちそうではあるのだが、大胸筋も広背筋も見事なのだが、どうなのかなあ。


 ゴリラが打席に入った。8時半の男は挨拶のように胸元に投げ込んだ。

 内角高めのストライクを大袈裟に避けるゴリラに、一塁側からはため息が漏れた。やはりゴリラはゴリラか。


 ゴリラは起き上がって体を少しはたくと、ヘルメットをかぶり直し、バットを見つめた。ベンチから捕手が身を乗り出している。

「振れ、ストライクに来たら振れ!」

 ゴリラはうなずき、打席に入った。その声はもちろん8時半の男にも聞こえていた。


 それなら振らせてやろうじゃないか。


 一見甘く見える釣り球。8時半の男が投げ込んだそれを、ゴリラはしかし振り遅れ気味に空振りした。


 何だよ、全然ダメじゃないか。

 一塁側から席を立つ観客が現れた。ひとり、またひとり、試合を諦めていく。


 ゴリラはスタンドを見た。ぽつぽつと空き始める席。肩を落として歩く人々。ゴリラの胸が詰まる。

 その時、おい!とベンチから怒鳴り声がした。

「諦めるな!お前が決めろ、俺の代わりに!」

 エースがベンチの最前まで出て、ゴリラに向かって叫んだ。

「打て!ホームランしか許さねえ!」

 ゴリラは目をぱちくりした。しかし、その唇に少しだけ笑みが宿る。


 ゴリラは打席に立った。

 8時半の男はロジンバッグをそっとマウンドに叩きつけた。

 あのエースの脳みそ空っぽ男は、全くいけ好かない。いつまでも目立っていないで、投球の終わった投手はさっさと帰って布団のヒモでも噛んでいたらいいのだ。

 ゴリラが穏やかな瞳で8時半の男を見つめる。

 こんな穏やかな目で、試合なんかできるか。ゴリラは森の中で子育てしてろ!

 平常心を失って投げたボールは、球速もコントロールもしっかりしているのに、驚くほどの棒球となった。あっと思った時には遅かった。

 ゴリラは渾身の力を込めてバットを振り抜き、ボールはレフトを守る球界一のホームランバッターが呆然と立ち尽くす頭上を軽々と超えていった。


「今日のヒーローは佐藤豪太郎さんです!」

 頬を紅潮させたアナウンサーが叫ぶ。球場が揺れるほどの歓声がゴリラを讃える。

「色々お聞きしたいことはありますが、まずはひと言お願いします!」

 ゴリラはおずおずとマイクに向かい、はにかんで、小声で言った。


「ウホ」

 

 


 

 

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ゴリラのフルスイング 澁澤 初飴 @azbora

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