今日はたまたま
壱ノ瀬和実
三月二十二日
給料日前のじり貧っぷりは何故毎月繰り返されるのか。
俺はぼろアパートの六畳間に寝転がりながら、腹の虫の叫び声を聞いていた。
「腹減ったー。肉食いてー」
暫くちゃんとしたものを食べていない気がする。もやしの中華炒めとか、もやしの味噌炒めとか、もやしのカレー炒めとか。味付けを変えてももやしはもやしだ。昨日はもらい物のタマネギが入ったが、微々たる変化だ。金がないとは言え、さすがに飽きた。
お前はいい加減まともな職に就くべきだ。と耳に胼胝ができるほど言われてきた。が、どうにもその気にはなれなかった。人間、向き不向きというものがある。多様性がどうたらとか言われる世界なのだ、できないことを強制するのは多様性に反するだろう! と詭弁を弄し、労働に向かない自分になんとか理由を付けて日々を生きている。定職に就く、というのが兎角向かないのだから仕方がない。
今日も今日とて日雇いのバイトで小銭を稼いできたわけだが、振り込みはまだ三日後、苦行もここまで来ると気がおかしくなる。
がちゃがちゃ、と。玄関の錆びた鍵を開ける音がした。古いアパートだ。外の音なんざ丸聞こえで、何やらレジ袋の音のかしゃかしゃとした音も聞こえてくる。
「ただいま」同居人の帰宅だ。
「おせぇぞ
広哉は地元の印刷会社の正社員だ。俺と広哉は高校時代からの仲で、お互いの情けない給料を慰めるように、家賃を折半する約束でこうして一緒に住んでいる。
「喜べ
玄関から数歩で辿り着く六畳間で、広哉はレジ袋をがばっと開く。
空腹で力の入らない身体で這って行き、袋の中を覗き込んだ。
そして、俺は真っ先に目に飛び込んできたものを興奮気味に手に取った。
「おいお前これ、豚肉!」
「そそ。半額の豚バラ肉。ドラッグストア行ったらあってさ。二百グラムで二百円よ」
「最高かよ! マジでぇ? いやぁ肉食いたかったんだよ! もやしと炒めるか!」
「それが今日もやしが売り切れで」
「そんなことあんの?」
「まあ、ご時世? 不景気だしな、そういうこともあんのよ。でもその代わり……」
作業服姿の広哉は妙に自慢げな顔でこちらを見下ろす。
ぱきぱきと鳴るものを袋から取り出して、
「ほれ。卵、一パック百円」
「神じゃん」
「だろ? でもラッキーはこれだけじゃないんだよ。ちょっと待ってな」と言って、広哉は一度外へ出た。車に何かを取りに行ったのだろう。
玄関の扉が開く度に冷たい冬の風がひゅるりと入ってくる。
広哉が抱えて持ってきたのは、赤ん坊サイズの袋だった。
「お前それ、米袋か?」
「給料日前で苦しいんですよーって話を会社でしたらさ、そら可哀想だっつって社長が米を分けてくれたんだよ。ちょっと古い米だけど、臭うってこともないらしいからさ。これで腹一杯食えるだろ?」
俺は歓喜の声を上げた。「持つべきものは正社員の同居人!」
「おうおうありがたがれ。今日の飯はたらふく食わせてやるよ!」
作業服を脱ぎ、広哉は台所の蛇口を捻って手を洗う。洗面台はない。2DK、三十平米ほどの安アパートだ。家賃四万円も折半で何とかやっていける。広哉は正社員だが、高卒入社の給料なんざたかが知れている。
「今日の貧乏飯はちょっと贅沢だぞ」
袖を捲って、広哉は台所に立った。
この家での調理担当は、と言うか、家事全般は広哉の仕事だ。俺は何もできない。以前洗濯と皿洗いはしていたが、広哉から二度と触るなと言われたのが心外だった。出来を見て、腑に落ちたが。
六畳間から調理する広哉の背中を見ていた。その先に広がる肉と米と卵を待ち望む。
米を洗う音、釜に水を張る音、炊飯器にセットして、時間重視で急速炊飯を選びスタートする音。何度となく聞いた音は、脳に直接飯時を報せてくる。
「なあ、豚と卵で何するんだ?」
「家庭の味かな。俺が昔、よく家で食ってたやつ」
「じゃあ俺は知らねえな」
「おう。楽しみにしておけ」
***
スマホが鳴った。アラームをかけていたのだ。俺は目をこすった。飯を待っている間に寝る。これこそ至高。起きたら飯が待っていると思えばこれ以上ない睡眠が約束される。
三十分ほどが経っていた。広哉はまだ台所に立っている。
「起きろよ。飯だぞ」
「分かってる」ハッキリしない滑舌で答えた。
六畳間に折りたたみのテーブルが置かれていた。
「はい、お待ち」と言って広哉が机に置いたのは、黒い器の丼だった。
下の方に敷き詰められているであろう米の上に、焼かれた豚バラ肉数枚と、目玉焼きのようなものが載っていた。
「なに丼?」
「名付けて、たまたま丼!」
「下ネタかよ」
「んなわけあるか」
「たまたま出来た偶然の産物って意味か?」
広哉は首を振る。
「この目玉焼き、輪切りにしたタマネギの一番外側を枠に使って焼いてるんだよ。タマネギのタマ、卵のたま、略してたまたま! うちもあんま金のある家じゃなかったからさ、焼き肉するときもそんなに肉買えないわけよ。そうなると必ずこれをホットプレートで焼いてたんだ。肉の脂が溶け出したところにタマネギ置いて、卵落として両面焼き。味付けは塩胡椒だけ。だが、焼き肉のタレをどばどばかけた!」
「健康に悪そうだな!」
「それが良いんだろうが」
リング状のタマネギ以外は、それはそれとして焼かれて丼に載せられている。
「美味そうでしかねぇな」
「ったりまえだろ。ほれ、食ってみ」
「じゃ、いただきます」
手を合わせて、箸を握る。
いきなり肉を食うのは勿体ないから、まずは下ネタくさい「たまたま」とやらを食ってみる。箸で持つとタマネギが意外と柔らかいことに気付く。箸で切れてしまう前に、勢いよくかぶりついた。
ぷりっと、白身が弾けるように柔らかかった。タマネギのおかげで厚みがあるのだ。黄身は固焼きだが、それがタレと絡むとちょうどいい。
「うっめぇ」思わず声が出た。
タマネギが甘い。肉の旨味が移ったみたいだ。甘じょっぱいタレと淡白な白身、かけすぎなくらいの塩胡椒が米を誘ってきた。
白米を掻き込む。焼き肉のタレがたっぷりかかっているから、もはや米が古いとかそんなことはどうでもいい。ほっかほかの米と一緒に豚肉も口の中に飛び込んできた。やっぱり肉は格別だ。それなのに玉子の淡白さが消えていない。混ざり合って、全てが見事に引き立って合っているとさえ感じる。
「美味いだろう美味いだろう。焼き肉食うとき、実は肉よりこっちのが楽しみでさ」
「美味い。全部美味い。全部合う。玉子もタマネギも肉もタレも米も。全部美味い」
「お、おう。そこまで言われると、ちょっと照れるな」
吸引力の変わらない掃除機よろしく、口にはどんどんと米が入ってくる。箸は丼の内側を滑り続けた。咀嚼が追いつかない。仕事で汗を流しきった身体に、塩分の濃さがたまらなかった。
「おかわりあるか?」口いっぱいに詰め込んで次を要求する。
「肉はない」
「たまたまだけでいい。たまたまさえあればいい」
「その域に達するのが早いな。それなりに大きいタマネギがないと出来ないんだが、昨日のもやし炒めで使い切らなかったことを褒めて欲しいね」
「崇め奉るわ」
「今日は気持ちの良い一日だ」
広哉はまだ自分の分も食べきっていないのに、肉脂が残ったフライパンでたまたまを焼き始めた。
もう「たまたま」なんて名前になんの違和感も抱いていない。紛れもなくたまたまだ。それ以外に考えられない。
二杯目もあっという間に平らげた。冷たい水で口の中に残った余韻を腹の中に落とし込む。おくびを出すことを厭わなかった。それさえも美味く感じるから構わない。
「しっかし良く食うよなホント。その方が作ってる身としては嬉しいわけだが、本当は焼き肉のお供だからなあ。牛や豚や鶏や、色々食ってる間に食うとなお一層美味いんだけど、ま、そこまで贅沢出来るようになるにはまだ何年もかかるな。零細企業の高卒社員なんてそんなもんよ」
「俺、これが美味いと思える人間で良かったわ」
「……は?」
「贅沢を知らないっていうかさ。貧乏な人間だからこそ、こういう男飯をバカうめぇっつって食えるわけじゃん。それって、充分に幸せなことだと思わないか」
「まーた定職に就かないための詭弁を」
「詭弁結構。幸せなんて人それぞれよ。誰に言われるもんでもねぇ。俺は今幸せだ。それでいい。部屋もぼろくて良いし、もやし炒めも何だかんだ嫌いじゃないし、たまにたまたま丼食えたら文句ねぇ!」
「十年後に同じこと言ってるとは思えないけど」
「だったら十年後に後悔すればいいさ。十年後の俺の為に今の幸せかなぐり捨てるなんてまっぴらごめんよ。未来は分かんねぇんだ。今苦労したからって未来で幸せになれるなんて限らないだろ?」
「くず人間だなあ」
「くず人間結構! 俺は俺よ。誰がなんと言おうと、詭弁を弄して惰眠を貪ってやらぁ!」
「そうか。じゃあ……いいか」
「そう。いいのいいの」
広哉は溜息を吐いて、
「実はさ。もう一個、お前に話を持ってきてやったんだが、お前が良いって言うならなかったことにするか」
「……聞くだけ聞こう」
「なに、うちの会社でさ、不真面目な連中が二人くらいとんずらこいちゃってよ。一人ならまだしも二人いっぺんにだからもう人手が足りないわけさ。で、俺からの紹介でって言うなら、社長がお前を正社員として雇っても良いって言うんだ。もちろん研修期間は三ヶ月くらいもらうけど……そうか、働きたくねぇってんなら仕方ないか」
話が変わった。
「行こう」
「何?」
「働こうじゃないの。印刷会社いいじゃないか。俺はね、毎日お堅いスーツ着て、同じ時間に電車に乗って通勤してってのがどうにも嫌なわけよ。それが何、お前のところならだるっだるの作業着で良いし? 車で一緒に行けば交通費浮くし? 言うことなしじゃないのよ」
「詭弁を弄してなんとやらは」
「ころころ都合良く変えられるから詭弁っつうんだよ!」
「何だよ、たまたま食えりゃ良いんじゃないのか?」
「うるせぇ! 焼き肉食えるならそっちの方がいいに決まってんだろうが!」
「おう、たまたまバカにするのは許さねえぞ」
「お前だって焼き肉と一緒の方が良いって言ったじゃねえか」
「良いに決まってんだろうが。たまたまはオマケなんだから」
「作った張本人がバカにしてんじゃねえか」
「してないって。お前雑誌はオマケ目当てで買ってただろう、そういうもんだよ」
「じゃあ良いじゃねえか」
「そうだな、問題ねえな」
馬鹿な二人だ。バカじゃないならもうちょっとマシな生活をしているに違いない。
だが、俺はこれでいい。
未来が明るい保証はないが、今は充分明るいんだから、これ以上何を望むか。
「とりあえず……焼き肉は食いたい。牛を食いたい」
今日はたまたま 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam
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