Ⅳ 二〇〇二年
ペレウス・フィデリオというギリシャ人が訪ねて来たのは、二〇〇二年のクリスマスだった。今のコブリーツ家には、降誕祭に特別催しをする習慣は無い。ヤヌスはそれでも書店のパーティに招かれ顔を出すが、後は教会で少しの寄付をして、二人で各々安ワインを空ける位だ。だから時節を弁えないストレンジャーの訪問を、殊更無作法とも思わなかった。
フィデリオは調査共有委員会の業務で偶然ズヴェスダの存在を知り、余暇を使って個人的に調べているという。既にその名前は誰の口にも上らなくなって久しいから、ヤヌスは若き日の自分を彷彿とさせる、好奇心旺盛で仕事熱心な青年をすぐさま気に入った。中でも彼が何より評価したのは、ペレウスがズヴェスダという他者に向ける関心と眼差しだった。ヤヌスはあの時妻子への関心を後回しにした自分の怠惰を、今でも独り後悔し続けているのだ。
しかしどれ程このギリシャ人青年に好感を抱こうとも、ズヴェスダとの思い出は、ダリアの記憶と不可分である。だからヤヌスは会話において用心深く核心を回避しつつ、図書館や資料館などの利用に際しては心尽くしの差配をした。相手も分を弁えて、無遠慮に質問攻めにしたりはしない。
ペレウスは翌夏にもリュブリャナを訪れた。その頃には、マリアンは彼が当初の印象よりずっと明朗な性格だと理解した。より正確に表現すれば、彼は敢えて愚昧で精彩に欠く人格を演じているらしい。マリアンにはその意図が分からない。厳格だが愛情深い両親、それなりに恵まれた心身と頭脳、正直でお人よしの性格は、善き人物像そのものなのに。それらは皆、嘗て自分にも継承されて然るべき要素だったが、実際にはそうならなかったものばかりだった。
ペレウスは次のクリスマス休暇にも顔を出したので、ヤヌスは妹に頼んで伝統料理を作って貰った。その間マリアンは彼とリュブリャナ市内を観光し、最後にイリリア人遺跡を見に行った。人気の無い展示室をぶらぶら歩きながら、マリアンは斜陽に目を細めつつ、予習しておいた知識をつらつらと考古学の専門家に披露した。
一通り回り終えると、ペレウスは仕事で携わってきたマケドニア名称問題が暗礁に乗り上げていると明かし、スロベニア人から見たユーゴスラビアに関して、いくつか踏み込んだ質問を投げて来た。当然マリアンはごく当たり障りのない回答しかできない。ペレウスはそれ以上追求せず、自分も軍事政権下のギリシャをよく知らないと補った。そんなの当然だ。軍事政権が打倒された年、彼はまだ三歳にも満たなかったのだから。
わざと矮小な人格を演じている友人が、ふとした時に本来の自分を垣間見せるのを、マリアンは尊敬と好感を抱きつつも、興醒めの気分で眺めるようになった。それは昔助けの手を差し伸べてくれなかった誠実な名望家に対する眼差しと同じである。それでも彼らと並ぶと、自分の稚拙さが恥ずかしいので、彼はいつもするように、志の低い俗物ぶりを示し続けた。だが上面だけを見れば、それは友の「擬態」と変わらないので、彼は一層馬鹿馬鹿しい思いをした。
成るべき人物に成れなかった心咎と、本来の自分が歪に変容させられたという自尊心の間で、マリアンは亡母の瞳をぼんやりと思い出す。無意味と理解しつつも、懐古にありがちな美化によって、マリアンはありのままに恐怖する自分に関心を向けてくれたのが、母だけだったかもしれないと思い始めていた。だが仮に母が息子を自身の鏡と見做していたならば、己を拒絶し放棄した彼女にとって、鏡の質など少しも感知すべき対象ではなかったに違いない。
Geistervariationen 江島 @fae_mel
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