寒空の雪カラス

鍋谷葵

寒空の雪カラス

 寒い寒い冬がネッスの世界にもやってきました。

 北からびゅうびゅうと吹いてくる風は、カラスたちの住んでいる大陸全体に吹き込んで、大陸全体を真っ白な雪と透き通る氷で閉ざしてしまいました。

 けれども、冬カラスのヤロスラ―ヴにとってそんな冬は毎年のことなのでへっちゃらでした。でも、それは例年通りの話です。今年の冬はやけに厳しく、毎日毎日嵐が訪れていました。ぼたんのように大きい雪が、横殴りに降り注ぎ、空は鉛色の雲と真っ白な吹雪で閉ざされてしまいました。

 このせいでヤロスラ―ヴたち冬カラスは、空に飛べませんでした。例年通りであれば、岩の横穴にこしらえた巣から飛び立ち雪うさぎを狩る所でした。ですが、御承知の天候です。ヤロスラ―ヴたちは春の内に摘み取って、巣に持ち帰った綿花を黒い羽に纏って巣の中でジッとしているばかりでした。

 巣の中はヤロスラ―ヴとその家族で一杯でした。ヤロスラ―ヴの妻ドブロスラーヴァ、ヤロスラ―ヴの子供リュボスラーヴァ、そしてヤロスラ―ヴが身を寄せ合いながら、綿花のふわふわとした綿の中で厳しい冬に耐えていました。


「お父さん、お父さん、ひもじいよ」


 小さなリュボスラーヴァはガラガラとした高い声で、ヤロスラ―ヴを見上げながら栄養失調のせいでひび割れたくちばしをぱくぱくと動かしました。それはヤロスラ―ヴに餌を求めているためでありました。

 ヤロスラ―ヴはこれをどうにかしてやりたいと思いましたが、どうすることも出来ませんでした。それはドプロスラーヴァも同じです。二人もリュボスラーヴァに負けず劣らずお腹が減っていたのでしたから。

 ご承知の通り、天候は荒れに荒れてとても冬カラスの翼で飛べるようなものではありませんでした。荒れ果てた天気の中に飛び込めば、何もせずとも翼が凍えて雪の上に死んでしまうことが目に見えていました。例え雪に強い羽を持つ冬カラスでも、例外ではありません。ヤロスラ―ヴたちももちろんこのことを承知でした。ですが、そのせいでヤロスラ―ヴとドプロスラーヴァは狩りに出かけられませんでした。このため、巣の中は飢えに溢れていました。もちろん、ヤロスラ―ヴもドプロスラーヴァも春の内に一杯の昆虫を掴まえて非常食として蓄えていました。しかし、その非常食も寒く長い冬の中で食べつくしてしまいました。このため、ヤロスラ―ヴの家族たちは三日三晩何も食べていませんでした。


「ごめんなドプロスラーヴァ、今、ちょっとだけ天気が良くなったから雪うさぎを捕まえてきてみせるよ」


 翼に纏った綿花を巣の中に置くと、ヤロスラ―ヴはぶるりと震えました。


「貴方、危険です」


 とんとんと、黄色い細い足で小さく跳ねるヤロスラ―ヴにドプロスラーヴァはリュボスラーヴァに聞こえない小さな声でヤロスラ―ヴを止めました。

 けれど、ヤロスラ―ヴは笑いました。


「大丈夫だよ。少し、外に出るだけだから。それにほら、日差しも差している。問題ないよ」


「絶対帰ってきてね」


 背を向けて飛び去ろうとするヤロスラ―ヴに、ドプロスラーヴァはほとんど泣きそうな声で呼びかけました。ヤロスラ―ヴは振り返ってドプロスラーヴァやリュボスラーヴァに抱きつこうとしましたが、せっかく決めた覚悟が無くなってしまうと思って、振り向きませんでした。

 黒い翼をばさりと広げて、ヤロスラ―ヴは白銀の雪と氷に覆われた世界に飛び立ちました。寒さになれた雪カラスでも、氷の世界は体に堪えました。翼を絶え間なくばさばさと動かしていなければ、体が一瞬にして凍えそうでした。そのため、ヤロスラ―ヴは普段よりも翼を大きく、力強く動かして何とか体の体温を保とうと精一杯翼を震わせました。

 今ヤロスラ―ヴは、鷹や鳶よりも力強く空を飛んでいます。寒々とした世界に差し込む暖かい日光に真っ黒な翼を輝かせて、雄々しく体を震わせています。

 そうしてヤロスラ―ヴはいつも雪うさぎを狩る時、目印として使っている一本のモミの木の天辺に止まりました。すると、モミの木のとげとげとした葉っぱの上に積もっていた柔らかい雪は、ぼとんと大地に降り積もる雪の上に落ちました。

 真っ白な世界でたった一点の黒点として、ヤロスラ―ヴは立っています。そして、小さな頭をきょろきょろと動かして、雪うさぎを探しました。雪原にぽつんと一本だけ立つモミの木でしたから、見晴らしは良かったのです。普段であれば、二三回首を回してあちらこちらに目を向ければ巣穴から出てくる雪うさぎが、一匹くらい見つかるものでした。

 ですが、いくら見回してもヤロスラ―ヴの目に雪うさぎが見つかることはありませんでした。それどころか自分以外の動物を見つけることが出来ませんでした。ヤロスラ―ヴは困りました。見つからなけれ巣穴に残してきたドプロスラーヴァとリュボスラーヴァを食べさせることが出来ませんし、吹き付ける寒風のせいで何時までもモミの木の上に立っていることも出来ません。それならば、飛び立って空を鳶のようにクルクルと回って探そうとも思いましたが、空腹のせいでそうすることも出来ませんでした。


「うぅ、どうしてこんな冬になってしまったんだろうか? 狩りをするにも獲物は居ないし、食べられる植物も全部凍ってしまっている。どうして? 何か私たちが悪いことをしてしまったのだろうか?」


 冷たい風を受けながらヤロスラ―ヴは、目に涙を浮かべて空を見上げました。一点の曇りの無いどこまでも青い空は、ヤロスラ―ヴを見下ろすだけで救いの手を差し伸べてくれることはありませんでした。

 目から溢れるヤロスラ―ヴの涙は、いつの間にか凍って氷粒となっていました。温まっていたヤロスラ―ヴの体は、すっかり冷え切っていました。


「嘆いていたって何も変わらない。そうだ、こんな時は皆に頼ろう。きっと、少しくらい食料を分けてくれるだろう」


 他の雪カラスの巣穴に向かって一縷の希望を抱いたアガフォンは、飛び立ちました。ばっさばっさと翼を動かして、ヤロスラ―ヴは力一杯飛びました。飛んでいる最中、あまりもの空腹のせいで眩暈がヤロスラ―ヴを襲いました。けれども、ヤロスラ―ヴはここで眩暈に任せて、地面に落ちてしまえば自分の命はそれまでだということを知っていました。ですから、ヤロスラ―ヴは眩暈の耐えて、必死に飛びました。

 ほとんど無意識の中で飛び続けたヤロスラ―ヴは、ようやく仲間のシュルツの巣穴に辿り着きました。身悶えるほど寒い空の中を飛んできたヤロスラ―ヴにシュルツは、目を見開いて驚きました。シュルツの奥さんも驚いていました。

 平衡感覚が無くなってしまったヤロスラ―ヴは、横穴に辿り着くや否やばたりと倒れました。


「おい、ヤロスラ―ヴ! 大丈夫か!」


 筋骨隆々のシュルツの野太い声が横穴の中に響きました。同時にシュルツの奥さんのビアンカの悲鳴も聞こえました。

 シュルツとビアンカは綿花で作られた温かい巣から出ると、ヤロスラ―ヴの傍に立ち寄りました。そして、凍った涙が目に付くヤロスラ―ヴの顔を翼で拭ってやりました。ヤロスラ―ヴの目からは涙が零れました。


「大丈夫です。問題ありません」


「ヤロスラ―ヴさん、座っていてください」


「そうだヤロスラ―ヴ、座っていろ」


 そして、ヤロスラ―ヴは朦朧とした意識の中、立ち上がりました。瀕死の状態のヤロスラ―ヴに、シュルツとビアンカは大慌てで、座るように言いつけました。しかし、ヤロスラ―ヴは二人を心配させないために立ちました。

 一度、意地を固めたら決して負けないヤロスラ―ヴの意志の強さをシュルツとビアンカは知っていました。ですから、それ以上のことは何も言いませんでした。


「シュルツさん、お願いがあります」


「なんだ?」


 ヤロスラ―ヴは寒さに悶える声で、きちきちとくちばしを鳴らしながらシュルツに頭を下げました。唐突な行動にシュルツは驚き、少し抜けた太い声でヤロスラ―ヴに問いかけました。


「少しで良いから食料を分けてくれませんか? もう、私たちの家に食料は何もないんです。ひもじいのです」


 シュルツの問いかけにヤロスラ―ヴは、申し訳なさそうに答えました。


「すまん、実は家も食料が切れてしまっているところなんだ。旧知の仲でありながら、こんな対応しかできないのは酷く申し訳ない」


「貴方……」


 ですが、ヤロスラ―ヴの申し出は申し訳なく断られてしまいました。シュルツはヤロスラ―ヴの家族と何度も会っていましたから、心の奥底から悔しがっていました。ビアンカも同じです。二人は心の底から、ヤロスラ―ヴに対して申し訳なく思っていました。

 自身の申し出が断られたことにヤロスラ―ヴは、少なからずショックを受けました。しかし、それは当然のことだと思って心を入れ替えました。ですが、ヤロスラ―ヴの心にはぽっかりと、虚しい穴が開いてしまいました。何せシュルツの巣穴の奥には、乾いたラズベリーが枯葉の中にたっぷりと埋められていたのを見てしまったのですから。


「それでは他を当たってみます。マルコさん、ジョーンズさんの所にも行ってみます」


「すまない。こんな対応しかできなくて……」


 謝るシュルツに背を向けると、ヤロスラ―ヴは再び極寒の空に飛び立とうと真っ黒な翼をばさりと巣穴の中で広げました。


「待ってくださいヤロスラ―ヴさん。せめて、これだけでも持って行ってください」


 今にも飛び立とうとするヤロスラ―ヴをビアンカは止めました。ヤロスラ―ヴは振り返って、ビアンカから温かな綿花を受け取りました。


「ありがとうございます」


 ビアンカの優しさにヤロスラ―ヴは、再び涙を流しました。そして、ヤロスラ―ヴは首の周りに綿花をくちばしで器用に巻きました。


「それでは気を付けて」


「ヤロスラ―ヴ、気を付けろよ」


 シュルツとビアンカは、涙ぐむ声をヤロスラ―ヴの背中に掛けました。


「ええ、では行ってきます」


 そして、ヤロスラ―ヴは寒空の中に飛び立ちました。家族のために、危険を背負って飛び立っていきました。

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寒空の雪カラス 鍋谷葵 @dondon8989

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