窓の外

石濱ウミ

...



 美術室は、校庭に面した東校舎の二階にあり、放課後は当然ながら美術部の部室にもなる。

 その教室の窓の一枚に、開ければすぐ目の前、手を伸ばせば届きそうなハナミズキの樹木があった。秋を迎えた今、真っ赤な紅葉も美しく水色の空によく映えて、儚げな白い花をつける春よりも、鮮やかなこの季節の方が僕は好きだ。

 イーゼルを二台用意した後、窓辺に椅子を二脚置いてその片方に腰を下ろすと、窓枠に肘を乗せ校庭を見下ろした。

 風が、ちらちらと赤い葉を揺らし、見え隠れする眼下の景色に目を細める。


 やがて廊下を美術室に向かって歩いてくる何人かの足音や話し声に続いて、扉の開く音が聞こえた。


あまねちゃん、早かったね」

 振り返り、笑顔で声を掛けた。


「そう? いつも那月タツキくんに準備させちゃうから今日こそは、って思ったんだけどなぁ。また負けたぜ」


 屈託のない笑顔を向け、僕の方へと歩いて来る彼女は、最近ようやく長年の片想いを実らせた。

 その相手は幼馴染で、彼女はいつもこの窓からその男がサッカーをする姿や、マネージャーの女の子と仲良くする姿を、胸を痛めながら見ていたのだ。

 その男が付き合っているのは馬鹿げたことに、彼女への当てつけとも気づかずに。



あまねと付き合ってんの?』


 マネージャーの子とあの男が付き合い始める前、昇降口であの男……理央りおにそう言って呼び止められた時、僕はその最初の餌に喰いついた喜びに、危うく声を上げるところだった。

 

『……そうだって言ったら、どうする?』

『や、別に、仲良さげだから、そうかと思って聞いただけ』


 込み上げる笑いを噛み殺すのに必死だった僕は、もしかしたら、にやける顔を隠しきれていなかったかもしれない。

 彼女を……あまねを僕が手に入れる為に撒いていた小さな種が、ようやく定着し始めたのを感じたからだ。

 ハナミズキに隠れて校庭が見下ろせる窓辺は、向こうを覗き見るに便利であると同時に、校庭から見上げた時も枝葉によって死角が出来る。

 理央りおは良く、僕とあまねが居る窓の方を見上げたり、気にする素振りを見せていた。そんな時、僕はあまね理央りおに気づかないように、彼女を自分の方へ向かせるのだった。

 それはそれは紛らわしい仕草で、絶妙な角度で、猜疑心を持って見ればそれはまるで、口付けを交わし睦言を囁き合っているように窓の下からは、そう見えるように。

 確かめずにはいられなくなった理央りおが、あまねに直接聞けないのは予測していたが、その通りだったことにも、ほくそ笑んだものだ。

 

理央りおくんと、上手くいって良かったね」

 僕はイーゼルにカンバスを立てかけながら、あまねに笑いかける。

那月タツキくんのおかげだってば。知ってたからでしょ? あたしが理央りおのことが好きって。それなのに言えないでいたから、あたし達が付き合ってるって嘘ついてくれたの知ってるよ。……それってさ、きっかけを作ってくれたんだよね? ありがと……ホント那月タツキくんは優しいんだもんなぁ」


 ……優しい? 

 まあ嘘は吐いていないから、そうかもね。

 理央りおに勘違いをさせただけ、だ。

 僕が有利に事を進めるために。

 だが、そんな風に自分に都合良く解釈するあまねは、嫌いじゃない。いや寧ろ、そんな彼女は素直で、とても可愛らしく愛おしい。

  

「あ、でも付き合い始めたなら、僕と仲良くしてたら理央りおくん、妬いちゃうんじゃない?」

「まさかー? 理央りおが? ないない」


 満更でも無さそうに、頬を赤らめて片手を振るあまねの可憐な様子に、僕は手を伸ばして抱き寄せたくなるのを我慢する。

 寛大さを装っているだけで、嫉妬心の塊である幼馴染くんのことを分かっていないとは、ね。


 とはいえ、そこに付け入ろうとしているのは僕だけど。


 想いが通じたことに満足しているあまねと、例え彼女の全部を手に入れたところで、満足どころか却って些細なことに不安になるだろう理央りおの増幅する嫉妬心と、その子供じみたプライドの高さから溜め込んでしまう性格を思えば、やがて二人の間に軋轢が生じるのは目に見えるようだった。

 そして僕はと云えば蒔いた種に、時折り水やりをするだけで良いのだから。



『なあ……あまねと付き合ってるって何で騙した?』

『何で? それ本気で聞いてる? そんなことも分からないとか、それこそ嘘だろ』


 あの時の、理央りおの顔。


「あ、あまねちゃん。ほら、下に理央りおくんがいるよ」

「ホントだ。おーいって手を振ってるとか、あたしって恥ずかしいヤツだな」

 

 僕は幸せそうなあまねの横顔を、眺める。

 これから楽しいばかりでなく、悲しいことや嫌な思いだってすることになるだろう彼女のその迷いの感情を利用し、どうやって懐柔してゆこうかと考えるだけで、快感に似た何かが身体を駆け抜けた。

 


『悪いけど俺とあまね、付き合うことになったから』


 そんな報告を、態々わざわざ僕にしなくちゃならないことの本当の意味を、理央りおは果たして気づいているのだろうか?

 牽制せずにはいられないそれは、不安が既に彼を蝕んでいるという証拠だった。


『それ、僕と関係ある?』


 生徒ホールの片隅にある自販機の前で、呼び止められた僕はそれに構うことなくPASMOをポケットから取り出し、ゆっくりと翳す。


『……はあ? だって、おまえあまねのこと好きだろ』

『そうだよ。それとこれとは、何も関係ないと思うんだけど』


 結構な音と共に出てきたレモンティーを取り出すと、そこで初めて理央りおと真正面から向き合った。


『マジで言ってんの? 頭おかしいんじゃね?』

『ははッ。おかしいのは理央りおくんでしょ。付き合うことがゴールでも、全てでもないって分かってるよね? 不変が無いのと同じ。人の心だって、変わるんだよ』


 ペットボトルの口を捻る。

 理央りおの顔から視線を外さずに、ひと口飲んで、また栓をした。


『……俺は変わらない』

『へぇ? 僕、知ってるんだよ? 僕の言葉に惑わされて、好きでもない子と付き合ったりしてたの。それに理央りおくんが変わらなくても、あまねちゃんは? どうだろうね?』


 少し狼狽えるような顔をした理央りおに僕は、にっこりと笑ってみせた。


『俺も……あまねも、決まってる』

『そうだと良いね。でも、直ぐに分かるよ。そんなことは、無いって』


 好きな相手がいる人を、それも側から見ればそれと分かる両片想いをしている人を、僕は好きになった。

 そんな相手を、自分に振り向かせるのは難しいのは誰だって知っている。

 ……諦める?

 ……見守る?

 まさか、そんな選択肢しかないとは言わせない。

 少しずつ絡めとる、に決まってる。

 だから、付き合うようになる前にどちらか一方に猜疑心の種を蒔いておく。やり過ぎてはいけない。両方ではなく、片方であるのが肝心だ。

 そして付き合い始めたその瞬間から、その種が芽を出し根を張り花を咲かせるまで、じっくりと育てるのだ。

 それに加えて僕は、不協和音を奏でる一音になるべく、その場に居合わせる為のどんな些細なきっかけも逃さない。


 そう全ては、自分の為。

  


「なんか、理央りおがさ……」


 窓の外に目をやれば、落葉したハナミズキの曲線を描く枝の間に日没後の空が、その美しさ覗かせている。

 部活も終わり、髪を一つに結んだあまねが油絵の具を片付けながら、少し口籠もるようにして話始めたのは、理央りおが僕たちを怪しんでいるというものだった。


 俯くあまねの白く細い首筋に、普段は髪で隠れている赤い小さな花びらが幾つも散っているのを見てしまっては、流石に僕だって嫉妬心が込み上げない訳はないが、理央りおの焦燥感による印だと思えば悪くない。

 寒くなってきたこともあり、窓辺で校庭を見下ろすことも無くなった今はきっと、校庭から見上げる覗くことの出来ない窓の向こうが、気になって仕方がないのが手に取るように分かる。


「怪しむことなんて、少しも無いのにね」


 エプロンを外しながら、僕は困惑の表情を浮かべてみせた。あまねは結んだ髪を解きながら、そんな僕を見て安堵したように笑う。


「だよね? この頃、理央りおのことが良く分からないんだ」

「そっか、あんまり気にすることないんじゃない? そうだ、理央りおくんと一緒に帰るんでしょ? 早く支度しないとサッカー部、終わってるみたいだよ」

 校庭から喧騒が消えたのは、随分前だ。

「うん。着替えたら迎えに来てくれるって」


 そうなんだ、良かったねと言いながら込み上げる笑いを、自然な笑みに変える。

 不安ゆえに確かめずにはいられない、また自分の目で見たものしか信じられないという理央りおのその行動が、彼自身の首を絞めることになるとは思わないのだろうか。

 目で見たものが真実とは限らない。

 猜疑心というフィルターを通して目にしたたものなら、尚更。


 僕は床の上に置いた蓋の締まっていないペインティングオイルを、さりげなく足先で倒した。人によっては嫌悪を催す、その独特の匂いは、いつだって僕を高揚させる。


「うわぁ。やっちゃった」


 慌てて屈み込む僕に、あまねもまた手伝おうとして頭を突き合わせる格好になった時、廊下から足音が聞こえた。

 タイミングを計り、僕はあまねの髪に手を伸ばす。


「床に……髪が、汚れちゃうよ」


 僕の指先があまねの髪に触れ、彼女が顔を上げたその時、扉が開く音がした。


 果たして、そこには……。


 やましいことなんてないのに、疑われるのを畏れて理央りおの姿に慌てるあまねが、彼にどう見えているかなんて理央りおの顔を確かめるでもない。

 そこで僕は、勝ち誇るような顔をしてはいけないのだ。

 申し訳なさそうな顔で、二人を見る。

 するとどうだろう。あまねは、素直にそれを受け入れ、理央りおは……。


 ごめんね、あまねちゃん。

 きっと君がどれほど弁明をしようと、あるいは、それをすればするほど理央りおは疑いを濃くするだけになるんだよ。


 信じられないものを見た顔をした理央りおが踵を返し、後をあまねが追いかけるのを目の端で捉えながら、床を拭く。


 怒りのあまり逃げ出した理央りおの負けだ。

 その姿は、理性を失い、正しい判断が出来ていないことを物語っている。


 さて、どうやら僕の蒔いた種は、芽を出し始めたようだ。


 あまねの髪に触れた指先の、その甘い痺れを逃すまいと手を握り締め、暗くなった窓の外に目を向ければ、幾つかの星が瞬いているのが見えた。



 

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