割れる音の周波数

@ran_akadomari

第1話

おかしい。

そんなことがあるはずがない。

そう思いながら私は一人の女性の後をつけていた。彼女の事が誰なのか私は知らない。話した事も無ければ顔に見覚えがある訳でもない。他人同士なのである。例えばSNSのフォロワー数や昨日の昼ご飯のメニューが同じだったとしても、それでも埋まらないほどの他人という溝が弘樹とその女性の間にはあるのである。しかし私は彼女が歩くのを観察しながら尾行を続けている。私は6m先を歩く彼女に一目惚れをした訳では無い。

というか私は生涯一目惚れをした事は無い。学生時代に好きだった相手は皆、男子からの恋愛対象としての人気は多くないが少しユーモアのある事を言うタイプという点で共通していた。高校2年生の時に一度よく音楽の話をしていた同級生に帰り道に告白をし付き合うことになったのだが、結局お互いに受験勉強で忙しくなって(やる気はなくても受験勉強をやる体だけは取らなければならなかった)結局それ以上に仲が深まることはなく卒業とともに彼女から別れを切り出されることになったのだった。私はそれまで彼女の事を好きだと思っていた。しかしその恋について振り返ってみた時に私は自分の好意を相手に伝えていなかったのだと気づいた。普通ならばそこで次からは自分の気持ちを伝えるようにしようと反省するのかもしれないが、私はそこでもう一つの自分のを見つけてしまうのであった。私にとってはそもそも好意を伝えること自体が苦痛なのであった。恋人同士はお互いの好意の交わる世界に二人の居場所を見つけるのが一般的な形なのだろうが、それが出来なかった。自分の好意は相手には決して分からないという確信が私にはあったのだった。従って私は恋愛を相手が自分に好意を持っていると確信できる自分の世界の中でしか成立させることはできないのだった。異性に対する自分の好みも譲れないものがあったわけではなかったので、相手からアプローチがあったら承諾しようかななどという事を考えているうちに卒業から7年の月日が経っているのであった。私は元から人気のあるような容姿性格ではなかったし、休日は専ら一人家で過ごすような人間だったので当然である。ただ私にとってそもそも恋愛対象がいる事はそれほど大事なことではなかったという事に過ぎないのだ。

そして今、尾行している長髪の女性が私の湿った恋を着火させたという事も、これもまたないのだった。そもそも私は他人に興味を持つことは少ない方なのである。ただ彼女を見た時に生まれた疑問を弘樹はどうしても解消しなければならないのだった。彼女はアイスを食べながら歩いているのである。アイスを食べながら歩いている人が珍しいわけではない。むしろ今までにアイスを食べながら外を歩いたことの無い人の方が少数派かも知れない。多様性が各所で叫ばれ、声に出すだけでもいいのに大声で叫ぶが故に問題になるような程に叫ばれている昨今の流行以前からアイスを食べながら外を歩く人に対するインクルージョン空間は成立していたであろう。問題は彼女の食べているアイスの種類である。彼女が食べているのは間違いなくパキシエルである。森永製菓から発売されている、パッケージにパキッという擬音表現が大げさにプリントされている、あのパキシエルである。2011年に発売されて以降、超厚チョコ製法を使った食感で徐々に人気を伸ばし、今ではスーパーのアイスコーナーの定番ポジションに落ち着いているあのパキシエルである。私のパキシエルに関する知識に驚いただろうか。何を隠そう私は毎日twitterにパキシエルを食べる写真を投稿することを日課としているのだ。「#パキシエる毎日」で検索してもらえば私の取った漆黒の冷棒を1400本以上観測することが出来るだろう。もちろんユーモアとして続けているものではあるのだが、写真を撮り研究した方法で最も大きな音を立て咀嚼し食べきるまでの時間は特段ニヤニヤしたりするわけでもなく日常の一コマに落ち着くのだ。狂気を日常としてしまえば、自分にとっては狂気ではなくなるのである。しかしこの活動をやっているといい事もある。それはやはりあまり関係性のない相手との話題になるという事だろう。初めて私のtwitterを見た人は私の怒涛のチョコレートバー連打に驚き、初めは大体が笑ってくれる。それに追撃するように温めていたパキシエルジョーク(パキシエルは温めると溶けてしまうが)を放てばたちまち私は「毎日パキシエルを食べている愉快な人」と認識されることになるのだ。そうなるとその後の人間関係も円滑になるのである。

そんな私が見間違うはずもなく、あの女性が食べているのはパキシエルである。決してHERSHEY’Sではない。パキシエルだ。彼女が齧りチョコレートが割れる音(私は「パキ甲斐」と呼んでいる)は音量や音の澄み方では私のパキ甲斐には遠く及ばないが間違いなくパキシエルから発せられる音なのである。

そして私の抱く違和感とは、何故箱売りのパキシエルを外で食べているのかという事である。パキシエルは現在7本入りのボックスでしか販売されていない。つまりコンビニで1本だけ買ったという訳では無いはずである。ボックスで買って帰り道に我慢できずに買ったのかというと、彼女はウエストポーチしか持たずに歩いているわけで、そのようでもない。すれ違う人々の中でパキシエルフリークの私だけがこの状況に違和感を抱けたのである。アイデンティティをクリティカルに発揮できた私は無意識に心を踊らせていた。そしてこれもまた無意識に彼女が身に纏う謎に吸い込まれていくのだった。彼女と私は偶々車の通りが少なくなっている国道の信号を待っている。パキシエルの先端からは木の部分が小指の爪ほど顔を出していた。

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