Champagne~うたかたの一夜~

猫のチャイ

第1章

残業を終えてビルを出ると、もう人通りはまばらになっていた。

木曜、22時過ぎ。

一杯だけ、飲んで帰ろう…駅とは反対方面へ向く。5cmほどのヒールだが、社員として歩く時の立ち姿ではない。足が痛いわけじゃないが、こつん、コツンと、ゆっくり呼吸をしながら歩いた。

夜の空気が心地よい。…ほどなく店に到着した。


「いらっしゃいませ」


低音で心地よい、落ち着いた声が出迎えてくれる。

「こんばんは。」

常連というほどではないが、バーテンダーの川上さんには顔を覚えられていた。空いていれば座る、いつものカウンターの席に浅く腰掛けると、ヒールのつま先がちょうどよくフロアについた。バッグを隣の空席に置く。


川上さんが差し出された温かいタオルで手を軽く拭きながら、

「からくない、スパークリングワインをください。」

とオーダーする。

カクテル類とは異なり、ボトルを開けることになるオーダーは大抵、確認が入る。ましてやすぐに泡が抜けて味が落ちる炭酸類は、他の客への提供も望めないので尚更だった。


「珍しいですね。ボトルを開けることになりますが、よろしいですか?」

「はい。でも多分1杯しか飲まないから、他はよければお店のほうで、お好きになさってください。」

「ありがとうございます。じゃあ私もいただいてよろしいですか?」

「どうぞどうぞ。有効利用してくださいね。」

今まで、店員におごったことは無い。一応まだ「女子」にカテゴライズされている自分が店員にごちそうするなんて、なんだか尊大な気がするからだ。

でも今日はスパークリングワインが飲みたかったのだから仕方がない。この店なら、価格が気になるほどの高価なボトルを出さないことも、何度か通って知っていた。


川上さんが、無駄の無い手並みでボトルのホイルを切り、針金を外す。

キュ、…ポ という控えめな開栓音のあと、スパークリングワインが注がれる音が聞こえた。涼やかな音。

「お待たせしました、どうぞ。スピネッタのモスカート・ダスティです。」

川上さんが目の前にサーブしてくれる。


フルートグラスだった。

グラスの底から、細かな泡がまっすぐ規則的に上がってくる様が美しい。


「じゃあ私も、お言葉に甘えていただきます。」

「ええもちろん。…では、乾杯。」

軽く顔の前にグラスを持ち上げると、川上さんはクープ型のグラスを手に持っていた。


「あれ?川上さんのはクープですね、どうして?」

川上さんのグラスを眺めながら質問する。

「フルート型は飲む時に顎が上がるので、カウンターの中にはあまり相応しくないんですよ。お客様を見下ろす感じになってしまいますので。」

「へぇ、色々と気遣いをなさるんですね。あんまり味わえなさそう…。」

「お客様からいただいたとはいえ、仕事中ですから。」

よく響く、けれど穏やかな低い声でそう言うと、川上さんは柔らかく微笑んだ。


他の客へのカクテルを作ったり、話したりしながらも川上さんは時々、クープグラスに口をつけていた。

普段はあまりカウンターの中を見ないが、今日は見るともなしに、川上さんが視界に入る。


違う。


クープグラスを持つ川上さんの指を目で追っている。

グラスを置いて、フルーツを持つ。

ペティナイフを器用に動かしてフルーツを飾り切りする。

ガラスの器にひとつずつ、美しく盛り付ける。

客へのサーブ。

ひとつひとつの所作が無駄なく、美しく動く指。


洗練されてるなー、とボーっと見ていると、

川上さんが、親指と人差し指の間に滴った果汁を一瞥し、ペロリと舐めた。


身体の奥がきゅうッ…となる。

え?


角度的に恐らく私にしか見えていない。

川上さんはその後すぐに洗い物を始めた。


視線を正面の棚にそらし、フルートグラスを傾ける。

なに?今の。

レアなものを見ちゃった?

それとも、見てはいけないものを見てしまった?

どっち?

そんなことを考えながら飲んでいると、あっという間にグラスが空になった。


「もう1杯いかがですか?ボトルを開けましたから、価格は同じですよ」

洗い物を終えた川上さんが、ボトルを片手に、カウンター越しの斜め前に立っていた。

いつもの柔らかな物腰。

一杯だけのつもりで来たからなぁ…明日も仕事だし。


「残っても勿体ないから、ください。」と言っていた。

フルートグラスを載せたコースターを、揃えた2本の指で前へ押し出す。

川上さんが再度、グラスを満たす。

「まだあるなら、川上さんもどうぞ」

「ありがとうございます…これでボトル、空になりました。」

ちょうど川上さんのグラスも満たした。


アイコンタクトを乾杯の代わりに、口をつける。

改めて冷たく美味しい。でも元々あまりお酒は強くないので、少しふわふわしていく自覚があった。

「スパークリングワインには何が合うんですか?私、マリアージュとか言われる組み合わせ、全然知らなくて。」

まっすぐに、でも穏やかに上がってくる泡を見つめながら、思いつくまま質問した。

「ソムリエのテキストに載っているような模範解答はありますが、本音を言えば、僕は美味しければ何だっていいと思うんです。」

半分ほど中身の減ったグラスを置いて、川上さんが話す。

「梅干しをかじりながらワインを飲んだっていいし、粕汁をアテにシャンパンだって、美味しいと感じるなら、その人にとっての正解ですから。」

笑いながら、浮かんだ疑問をそのまま口にする。

「川上さんは、日本酒派ですか?お話にでてくる肴が…」

「ええ実は。こんな店やってますがオフは日本酒が多いんですよ。それこそ梅干しや白菜の漬け物なんかをアテに。」

意外なのか、しっくりくるのかよく分からない。川上さんがどんな人なのか知らないのだから、当然だった。

色んな地方の日本酒の話を聞きながら、2杯目のグラスがほぼ空になった時、川上さんが

「今日はもう店を閉めますので、このあとよかったら2軒目行きませんか?明日もお仕事でしょうし、無理ならもちろん断ってください。」

と言った。

見回すと、いつの間にか客は私1人になっていた。え、そんなに居座ってしまったかと慌てて腕時計を見ると、まだ23時を少し過ぎたところだ。

「閉店には早いんじゃないですか?大丈夫なんですか?色々…」

「オーナーの私が気まぐれにやっている店ですから。他の常連さんも慣れてるから、今日は早めに閉めたんだなと思うだけですよ。次のご来店時に、サービスを少し手厚くすれば帳消しです。」

「ふふふ、いーなーオーナーさんは」

自由で、と口にするのはやめた。

自由は全てを自分で背負うことでもある。雇われの身だからこその気楽さも、私は知っていた。

「2軒目、行っちゃおうかなー」

フワフワした気分のまま口にしてしまった。口に出してから、帰宅後にするつもりだった諸々のことを思い出し、やっぱり断ったほうがと顔を上げると、ニコッという擬音が聞こえそうな笑顔がそこにあって。

「じゃあすぐ片付けて閉めるからそこで待っててください」

と、川上さんがバタバタと動き出した。


空のグラスもコースターも全て片付けられ、精算に使ったカードのトレイだけが、キレイに拭かれたカウンターにぽつんと残されていた。

断るタイミング逸しちゃったな…でもあの笑顔はズルいよね…。


店内に静かに流れていたBGMのジャズが止まった。


「お待たせしました。じゃあ行きましょうか」

カウンターの中ではスタンダードなワイシャツに黒のベストとネクタイだったが、カウンターの外に立ち、声を描けてきた川上さんは黒の上下でジャケットを片腕に掛け、腕まくりをした黒シャツの胸ボタンを1つ外したスタイルだった。

「川上さんて、チョイ悪オヤジ系?」

酔いに任せて思ったことをすぐ口にしてしまう。

「それがいいなら、それで。」

と、今度はワルそうな笑顔で、川上さんは店のドアの鍵を閉めた。


「2軒目はどの辺りにあるお店ですか?」

私の歩幅に合わせて、川上さんもゆっくり歩いてくれている。

「この先のLホテルです。」

ホテル…の、バーかな?バーだよね。確か3階にあったはず。



「どうぞ。今の時間なら夜景が綺麗ですよ」

そういって川上さんがドアを開けたのは、36階のクラブフロアの一室だった。

酔いの回った頭に一瞬で


え?部屋?お店じゃなくて?

でも川上さん2軒目って言ったよね?

入る?帰る?

でも川上さんと2人で飲みたい気持ちもある…

でも部屋に入ったらいろいろOKって意味になるよね?

でも、…んーどうする??


様々なことがよぎったが、結局はフワフワした気分に上書きされてしまった。


促されるまま、先に部屋へ入る。

美しい夜景が見下ろせる、いちばん奥の大きな窓にもたれかかり、入り口の方へ向き直った。

「川上さんて、こーゆーこと、よくする人なんですか?」

窓にもたれたまま、首をかしげて聞いてみる。

「めったにしませんよ、まぁ初めてとは言いませんが。今なら気分が変わっても大丈夫ですよ?…お帰りはこちらです。」

少しふざけた調子で、入り口のドアを押さえて開けたまま、川上さんが立っている。

「どーしよっかなー」

川上さんを見上げながらそう言いつつ、イタズラっぽくヒールを片足ずつ、ゆっくりと脱いだ。

ドアから川上さんが手を離す。

バタン、と重めの音をさせてドアが閉まった。


「こちらで飲みましょう。」川上さんがテーブルセットの椅子を引く。促されるままその椅子に座った。

足元に部屋備え付けのスリッパを置かれたので、ありがとうございます、と足を入れた。

やっぱり手慣れている感じ。


「何にしますか?」といつもの調子で、川上さんが話しかけてくる。

ふふ、お店の延長みたい。

「オススメは、何ですかー?」店でよくあるやりとりを言ってみた。少しろれつが怪しい。

「唯さん、アルコールあまり強くないでしょう。店の2杯で酔ってきてる」

そう言って川上さんが目を覗き込んでくる。

「…名前、教えましたっけ?」

「いつもカードのお名前を拝見していますから。」

「やだそんなとこ見てたんですかー?やらしー」と、名前を呼ばれた気恥ずかしさを隠したくて、川上さんを指差しながら軽く咎めるように言った。

その手を川上さんが掴む。とっさに腕を引こうとしたが掴まれたまま、外せなかった。

川上さんはそのままゆっくりと、テーブルの上に腰を下ろし、足を組んだ。

すぐ目の前に川上さんのシャツから下だけが見える。

「唯さんも見てたでしょう?俺が指を舐めたのを。」私を見下ろす位置から声が聞こえ、掴んだままの私の人差し指を川上さんが口に含んだ。

指先にヌルリとした生き物のような舌を感じた。


また身体の奥がきゅうッ…となる。

ダメ。


「や、めてください…」目をつぶってそう言うのがやっとだった。指先だけのはずなのに、全身を川上さんの舌がなぞっていくような感覚。


「ずっと俺の指を見てたよね。なんで見てたの?」

私を見下ろしながら川上さんが話す。指からは舌の感触。

気づいてたんだ…。

「だからわざと指を舐めた。見たいなら見せてあげようと思ってね」

「私は…き、れいな指…だなって、見て…ただけ…」

「そう?そのキレイな指でどんなことして欲しいって思った?」

手のひらを舌先がなぞる。

声が出そうになって必死に首を横に振った。

「ハハッ、言えないようなことして欲しいんだ?」

そう言いながら川上さんは、私の指を自分の口から離した。

顔を上げて違う、と言おうとしたら今度は口に川上さんの人差し指を入れられて、話せなくなった。え、と思っているうちにもう1本、中指も口に含まされていた。

「ほら、舐めてごらん。上手に出来たらごほうびをあげるよ。」

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