第2話

 食休みのあと、お昼寝させるからと帰るよう促すと、寝かしつけを手伝うと言い、彼は我が家に居残った。夫がまったく家事子育てをしない人だったので、なんだか新鮮。


「……よし寝たな。ほんとこいつら、寝顔は天使だよなあ。遊んでる間はちっちゃい怪獣みたいだけど」


「ほんとにね。紅茶でも入れようか、職場でもらったいい茶葉があるの」


「俺が淹れるよ。食器洗いも残ってるし」


 私は目をぱちくりしたあと、破顔した。


「ごちそうさまも言わなかった不良少年がまあ」


「うるせぇよ」


 彼の家事は、とても手際が良かった。一人暮らしをしていることもあって、身の回りのことは一通りできるらしい。


(たいちゃんの奥さんになる人は幸せね)


 弟の成長を見守る姉のような気持ちで、そう思った。彼なら、奥さんを私のような目に遭わせることは絶対ないだろう。


「たいちゃんはエンジニアの仕事、どうなの。楽しい?」


「まあね。プロジェクトによっちゃあ忙しいけど。家でもできる仕事も多いし。帰る時間はそんなに遅くない」


 泡を纏った食器を、お湯できれいに洗い流していきながら、たいちゃんは答える。若くて頼りなかった手は、ゴツゴツしていて血管が浮き出ている。


「たいちゃんも、大人になっちゃったねえ」


 何気なくそう言ったのだが、たいちゃんは私のセリフに、手を止めた。


「でも、間に合わなかった」


「間に合わなかったって、何が」


 私の顔を不機嫌そうな顔で一瞥し、手についた泡を落とした彼は、私が座っているテーブルの方へやってきた。


「俺が中学卒業するときに言ったこと、覚えてる?」


「なんだっけ」


「俺が責任取るからって、言ったんだよ、その傷の」


 確かにそんなようなことを言われた気がする。でも、それがなんなのだろう。


「俺は早く、大人になりたかった。大人になって、早く沙織と肩を並べて歩きたかった。だから、悪いことからは足を洗って、ちゃんと勉強して、大学も出て。ちゃんと安定した職にもついた」


 私の隣の席に陣取ったたいちゃんは、肩幅が広くて、がっしりしていて。子ども子どもと思っていたから気がつかなかったけど、とても色気のある顔つきをしていた。


「それがいつの間にか彼氏なんか作っちゃってさ。ショックだった。でも、幸せならしょうがないと思った」


「ちょ、ちょっと」


 いつの間にか、たいちゃんの大きな手は、私の手を包み込んでいた。


「でもとんでもないクソ男だった。別れられてよかった。……ただ今度は、子育ても、仕事も一人で二刀流で頑張るって息巻いちゃってさ」


 彼は、どんどん、私との距離を詰めてきていた。彼の息遣いが聞こえる、すぐそこまで体を寄せてきている。


「近いって」


「なんで一人で頑張ろうとすんの。だって、結婚しててもずっと仕事と子育てと、二刀流で戦ってたわけじゃん。メンタル的には楽になったかもしんないけどさ、負担的には変わんないわけじゃん。一人で二本、持たなくて良くね。……俺に沙織の背中を任せてよ。俺、そのために、今まで頑張ってきたんだから」


 たいちゃんは、私の頬に軽い口づけをした。


「た……たいちゃん!」


「俺と結婚しよ、沙織」


 パニックになりながらも、大人としての対応を必死に模索しながら、私は答えた。


「でもたいちゃん、私35だし。もうおばさんだよ? それに、子どもたちだって何て言うか。いくらたいちゃんでも、お父さんになるって、そんなに簡単なことじゃないんだよ」


「沙織は沙織だし。婆さんになっても、ずっと好きでいる自信あるし。それにほら」


 たいちゃんは、ニヤリ、と笑ってリビングの方を指差した。すると、いつの間にか起きていた子どもたちが、ニコニコしながら画用紙をこちらに掲げている。


『ママ、おめでとう』


 画用紙には、そう書かれていた。


「沙織」


「これって」


「買収済みだ」


 そういって悪戯っぽく笑うたいちゃんを見て、最近よくうちに来ていた彼が、子どもたちとよく内緒話をしていたのを思い出した。あれはもしかして、水面下で交渉を進めていたのだろうか。


「沙織、さっさと刀を俺に渡せ。二刀流なんか頑張んないで。こんな優良物件ないから、とっとと決めちまえ」


 10年かけて積み上げられた想いの前に、私は胸がいっぱいになって。夫と別れて1年、まだまだ考えなければいけないことがあって、流石にすぐに返答はできなかったけれど。


「もお、たいちゃんてば……!」


 一生一人で仕事と子育てを頑張るという人生は、どうやら諦めなければいけなくなるのかもしれない。



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