不確かで、確かなコト。

やまもと はる

不確かで、確かなコト。

あたしは、夏が好き。

四つ季節がある中で、一番好きな季節。それが夏。

どうしてなんて聞かれてもちょっと困ってしまうけど、多分一番の理由は、彼女が来てくれるから、だと思う。



彼女と初めて会ったのは、あたしが五歳の時。初めて見る同い年の子に、あたしは興味津々だった。なんてったって若い人が少ない場所なものだから、人一倍、そういうのには心惹かれた。

彼女は、一人で砂をいじりながら、時々海の向こう側を思い出したように眺めていた。その姿がすごく寂しそうで――どうしよう、とかそんなことを思う前に、あたしは声を掛けていた。


「あなた、どこの子?」

「え……え?」

「見たことないかおだったから。りょこう?」

「うん、まあ……。おばあちゃんちに来たの」

彼女はずっと困った顔をしていた。

「どこからきたの?」

「さいたま……とうきょうの、うえくらい」

東京の、上。行ったことがないから、いまいち距離感が掴みづらい。でも、東京の上という響きにあたしは、「じゃ、とかいなんだ」と言った。

けれども、うーん、と考え込む彼女の顔がそうではないことを教えてくれた。

「そういえば、名前は?」

「えいこ」

「えーこちゃんかあ、あたしゆーこ」

「ゆーこ……」

いい名前だね、と笑いながら、えーこちゃんはあたしの名前を褒めてくれた。

めちゃめちゃに、うれしい。

今までだって、名前を褒めてもらったことはあったような気がするけど、こんなにうれしいことはなかった。

「えーこちゃんもだよ。いい名前」

そう伝えると、彼女の顔はすこし赤くなった。かわいい子だな、って思った。

じっと彼女を見ていると。こっちまで赤くなりそうだった。

「あ、あのさ、海、すきなの?」

ちょっと耐えられなくなって、無理矢理話題を作る。無理矢理と言っても、さっきから

彼女はずっと海を見ていた。

「え、うーん……。すきというか、めずらしいから」

「めずらしい?」

不思議な答えだ。海が、珍しいだなんて。

「わたしがすんでるところって、海がないんだ」

「ホント?」

ほんとだよ、と彼女は返す。まさか海がない町があるなんて。じゃあ一体、彼女はどこで泳ぐことを教えてもらうんだろう? 

「ね、およげる?」彼女は首を振った。やっぱりだ。「じゃあさ、教えてあげるよ」

私もあんまり深いところまではいけないから、浅いとこで。身体の使い方とか、足の動かし方とか、教える度に彼女はすぐに覚えてくれた。多分、元々の運動神経がいいんだろう。

「えーこちゃん、およぐの上手じゃん」

しかも体力もある。見た感じは、そうでもなかったんだけど。

「はぁ、はぁ……。あ、ありがと」

そう言ってえーこちゃんは、私に微笑んだ。

その時、鋭い痛みが私の胸に走った。初めての痛み。でも決して、嫌じゃない。不思議な痛みだった。

「どうしたの」

「え、いや、その……なんでもないっ」

彼女の顔が見れなくて、頭まで浸かった。もしかして、これって――こんなに早く来るなんて、あたしが一番びっくりしていた。



それからというもの、彼女は毎年夏になると、こっちへ来てくれた。そして、あたしと一緒に遊んでくれた。その中で、彼女の存在がどんどん大きくなっていっていることに、だんだんと気づき始めた。多分――多分なんていったけれど、ほとんど確信に近い形で――あたしは彼女に恋をしている。

初めて会ったあの時から五年経って、ようやくそれらしい形になったような気がする。そして、六年生になった今年の夏。あたしは、彼女に想いを打ち明けようと思う。

ガタンと揺れれば、ゴトンと揺れて。電車は、大勢の人を詰め込んで、目的地へと進む。

この中にいるほとんどの人は、その目的地へ時間通りに着くことを望み、また、止まって二度と動かなくなることを望んでいる。

辺りを見回してみれば、そこにいるのはほぼ大人。そして皆、一様に目に精気がない。もちろん私もその一人。目には光るものなんてなにも無い。

小さく溜息を吐く。この重い心を少しでも軽くしようとする、私の涙ぐましい努力は全くの無意味で、それどころかより重みが増したようにも思えた。

今、私の心の中で重きを置いているのは、そのほとんどが「辛い」という感情。

でも私は、この感情の行き場を知らない。分からないと言っちゃってもいい。これをどうしたらいいんだろう、という疑問に答えを出せないまま、いつの間にか到着した目的地へ降りていった。


――仕事。それは、私の心労の一つ。というけど、別に仕事がキツいとか、そういうことじゃない。

むしろ、仕事そのものは性に合っている。楽しいくらい。問題は、そこにいる人のことの方で。要するに、セクシュアル・ハラスメントをされるということだった。主に上司に。

下らない言動は勿論のこと、あからさまに触って来ることもある。本人はあくまで偶然だ、なんて言って取り合わないけれど。そして上司という立場の下、色々なことをちらつかせてくる。ロクでもないクソ野郎であることは確かだけれど、さっき言ったように上司だから力だけはある。

「瑛子ちゃーん」

クソ野郎上司の声。私はどうにか男受けするような声を作って、はぁい、と返事する。我ながら、すごく情けない。

結局、話の内容そのものは、ただの業務連絡だった。それだけならメッセージを送ればいいのだが、こいつの場合『女と話したい』とか『女の声が聞きたい』――みたいな、下衆な欲で満ち溢れている。あとは、一々肩をポンポンと叩いたりする。となると、『女に触りたい』も追加だ。とにかく、そういう様な欲を発散する為にちょっとしたことでも呼びつけてはそういうことをする。本当にろくでもない奴だった。


業務をなんとか片付けて帰ろうとしたその時に、同僚に声をかけられた。彼女は私よりよっぽど仕事のできる人で、私含め女子社員の尊敬を集めていた。

だから、そんな彼女からの話は、結構大事だろうとは感じていた。しかし、その感覚を越える発言を彼女はした。

「大川さん、私、仕事辞めようと思うの」

青天の霹靂とは、まさしくこういう事を言うのだろう。

「どうして? 私なんかよりよっぽど――」

「うん、仕事できるのに、でしょ? でもね、もう限界。あからさまだもん、どれだけ頑張っても、男の付属品みたいな扱いでさ……」

私は、何も言えなかった。

「だからさ、辞めちゃう。もう次の仕事も決まってるし。もっと正当に評価してくれる所に行く」

「……そっか。次の職場でも、頑張って」

ありがとう、大川さんも頑張ってね、と言って彼女は帰っていった。

仕事を辞める……そういう気持ちは、ある。私だって、この環境はあまり耐えられそうにもない。彼女の様に逃げたい気持ちは、それこそ、いつでもあった――アイツの為だけに会社を辞めるのは癪だから、実行せずにいるけれど。



私の心労はもう一つある。それは「彼」のこと。学生時代に知り合ってから、なんとなく付き合っているような、そうじゃないような……なあなあな関係。そんなのを、ずるずる続けてしまっていた。

彼はそんなに悪い人じゃない。というか多分、いい人なんだと思う。私にはあまりトキメキを感じられない、というだけで。私から見た彼はそういうような人だから、あんまり関係を持つようなことも、乗り気にはなれなかった。


でも、彼の方は違う。やっぱりしたいらしい。

そんな彼の要望に応えて、実際に何度かしてはいる。けれどもやっぱりというか、自分の感覚って正しいな、という考えの補強にしかならなかった。

そしてそれは、今日も訪れた。携帯が震えて、彼の言葉が表示される。


『今日どう?』

『うん まあ空いているけど』

『じゃあさ、会おうよ。せっかくの金曜だし』


少し考えて、OK、のスタンプを送る。彼としたのは結構前のことだったから、そろそろ来るだろうとは思っていた。とはいえ、わかっているということと準備できているということは、違う。労働に疲れた体と心は、さらにその重さを増していった。


駅前で待っていると、彼は来た。わりと長身な彼は、人混みの中でも見つけやすい。彼も私を見つけてこちらに手を振る。手を振りかえす。ある意味、作業に近い。反射だ。

そんな私の態度なんて知らずに無邪気に手を振る彼を、少しかわいそうにも思う。だからといって、私のしたくない気持ちが軟化するわけでもないけれど。


二人で歩いたり、食事したり。ほとんどそれは、カップルに見えただろう。実際、彼は私といる間、ずっと笑顔だった。私といえば、彼が望むタイミングでだけ笑顔でいた。彼には、笑顔の私しか映っていない。それが『私』だと思っている。

それは確かに『私』だった。でも、全部じゃない。


時間は十時を過ぎて、私たちはホテルの一室にいた。彼は笑顔の中に緊張を漂わせ、先にシャワーを浴びに行った。

結局今日も、断れないまま。分かっている。分かっているけれど、なんとなく断り切れない。それは彼の人格等々の為せる技なのだろうか。納得できないけれど、これ以上の言葉は出てきてくれない。

バスルームからは、彼の鼻歌が聞こえてくる。とても楽しそうで、羨ましくすらある。私はどうせ聞こえないだろうと踏んで、大きく溜息を吐いた。溜息は所帯無げに、そこらをくるくるしている。やりきれなくなってきて、部屋の中をウロウロとしながら手で空気を払いのけた。そうでもしないと、彼と相手する気持ちになんてなっていられなかった。



結局、数回してしまった。その中で、あまり乗り気になれなかった自分がいた。本当に失礼だと思うけれど、本心だからしょうがない。

彼の煙草を一本拝借する。口に咥えて、火を付ける――ところでやめてしまった。こういうことでもすれば、彼のことが本当にわかるんじゃないかと思ったけれど、そこまでしたくない気持ちの方が勝ってしまった。

いや、彼の気持ちを知りたいだなんて、嘘なのだ。本当は、自暴自棄になっていただけ。ただ、これだけのために自分の体をこれ以上傷つけたくなんてない。

ほぼ新品の煙草をゴミ箱へ投げ捨てて、シャワーを浴びに行く。シャワーの弱々しい勢いが、なんとなく親近感を抱かせる。頭か浴びると、色んなことが、私の中で渦巻いていく。

どうしたらいいんだろう。どうしたいんだろう。分かっているはずなのに、わからないフリをしている。自分が自分でない感覚は、いつからあるんだろう。シャワーより温いものが、頬を伝っていったように感じた。何か一つでも、きっかけがあればいいのに。……


月曜日。また今日も、同じ揺れ。左右に揺られながら、いつも通りに電車に乗っている。

週の初めだから、というには私も周りの人たちも、疲れすぎている。目にはやっぱり光が無いし、誰も彼も俯きがち。車内一面に張られた広告は、自分をいかに良く見せるか、ということと今よりいい仕事に就こう、ということ、そして下品な文字が躍る週刊誌のものばかりだった。もう、目を瞑らざるを得なかった。

携帯と繋いだイヤホンからは、小さく何かが流れている。何が流れているのかわからない――今流行っているバンドや歌手の新曲だろう――けれど、電車の走る音だけを聞いているよりかは、ずっといい。目にせよ耳にせよ、今の私には、情報は少ない方が良かった。

段々と近づいてくる目的地。その度に出る、今日何度目かの溜息。もうそろそろか、と音楽を止めた瞬間。


「ねえ、乗ってっちゃおーよ」


耳元で不意に聞こえたその声は、少し甘ったるくもある女の人……というより、女の子の声。周りを見るけれど、私の目が捉えたのは男性だけ。もしかしたら、誰かの携帯から漏れてしまっていたのかもしれない。イヤホンを外して、なんでもなかったように振る舞う。

するとまた、さっきの声がした。


「えー。降りちゃうの? 乗ってっちゃおーよ」


それはより鮮明に聞こえた。しかも、どうも、自分に語り掛けてきてるようにしか思えない。また辺りを見るけれど、やっぱり声の主の様な容貌の人はいない。

一体、誰? そう思ったけれど、目的地までもう一駅。変な声に構っている暇はない。きっと疲れているのかもしれない。そうに違いない。

車掌のアナウンスが目的地に到着したことを告げる。動こうとしたその時、足が全く硬直していることに気づいた。どういうこと?なんて呆然としていると、そのまま、ドアは閉じてしまった。自分のしていることが信じられない。そのまま電車は次の駅へ向かう。そうだ、そこで降りればいい。まだ間に合う。


でも、足は動かなかった。次の駅でも、その次の駅でも。


本当に、何をしているんだろう? 自問自答を繰り返す。電車は終点へと近づいている。時間を見れば、もう朝礼やら何やらは済んでいる時間。実際問題、さっきからずっと電話も鳴っている。上司か、同僚か、後輩か。誰かが掛けてきてくれている。

でも、それらに構っていられない程私の頭の中を支配していたのは、あの不思議な声。だんだん、自分が行動している気がしなくなってきた。あの声が私を操っているかのように、私は行動していた。

終点に着くと、一、二分で次の電車が来て、それにふらふらと乗った。

その電車もまた、人が全くいない貸し切り状態だった。なんだか、いつもの電車よりゆっくり走っているように思う。本当はそんなことないのだろう。でも、こんな誰もいなくて、どこにいくかもよくわからない電車に乗るのなんて、ほとんど初めてだから、そう思うのかもしれない。

陽射しが当たる。なんだか、毛布を掛けられたみたいで、心地よい。

ゆったりした揺れのリズムと、暖かな日光の毛布。私はいつの間にか、船を漕ぎはじめていた。



気付いたら、私は砂浜にいた。

昔よく来ていた、懐かしいあの砂浜。海は穏やかで、波は私の座っているところには来そうもない。聞こえてくるのは、波の音ばかり。人の声はおろか、鳥の声とか、犬の声とか、そういうのすら聞こえてこない。本当に自分一人なんだ、と寂しく思う。風が吹いたように思って、一瞬目を閉じる。

目を開けると、目の前には少女がいた。

彼女は、白かった。というのは、肌が白いとかそれだけじゃなくて、全体的に白い。そして、すごくぼんやりとしている。ふんわりとしていて、顔も声も、よくわからない。

そんな彼女は、私のことを見てニコニコしている。なんでこんなに、楽しそうなんだろう。

彼女は、私に話しかけていると思う。というか、何を言っているかうまく聞き取れない。私の耳に入る前に、どこかへ飛んで行ってしまっているような、そんな感覚。でも、彼女は聞こえていないとは思っていないのだろう。そのまま彼女は、私の隣に座った。

その後も、彼女はずっと話している。何を話しているかは、依然としてわからない。でも、その様子につられて、私もつい笑顔になる。そこで初めて、自分の体が熱を帯びていることに気が付いた。不思議と暖かい。不愉快な熱じゃなく、ずっとこのままでいたいような、暖かさ。体の熱が全体に広がっていくにつれて、だんだんと彼女のことを思い出せるような気がしてきた。どうしてこの子は私を見て楽しそうにしているのか。名前は確か――。

でも、時間が来てしまった。私の目の前で、彼女はどんどんぼんやりとなっていく。もう、人なのかどうかもわからない。私は何か思うより先に、彼女を抱きしめようとした。逃がしたくなかった。けれどもう、遅かった。私の腕は空を切った。私の中の熱が、すぐに萎んでいくのがわかった。どこに行ったの? どうしたらよかったの? 何故、聞こえなかったの?

一人体をぎゅっと硬直させて、不安に耐えようとした時。


「えーこちゃん」


私の心臓が大きく跳ねた。声が聴こえた。

そうだ、あの子の声だ。初めて聴こえた、ようやく聴こえた、あの声。私は彼女に向かって、どこにいるの? と叫んだ。


「大丈夫だよ」


返ってきた言葉は、それだった。

大丈夫……。その言葉と声に聴いて、自然と私もそう思えた。返答にはなっていないのに。けれど、大丈夫なのだ。大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ……。



「おはよ、えーこちゃん」

どうやら、夢を見ていたみたいだった。夢の内容は、あんまり覚えていない。でも、やけに疲れてしまった。同じ体勢で寝ていたからだろうか。電車の中はやっぱり静かで、風景はすっかり都会から離れている。

そして今、どうやら私は新しい夢を見ているらしい。だって隣には、私よりかなり年下――大体高校生くらいの子が座ってるから。隣の子は、白いワンピースに白い靴と、なんだかアニメか何かでよくあるような、どこかで見たことがある恰好をしていた。

しかも、これまたアニメから出てきたような、かなりの美形。今まで見てきた人の中でも、一、二を争うくらい綺麗だった。彼女の場合、外見の幼さからかわいいという評価の方が当てはまっているとも思うけど。

しかし一体、この子は誰だろう。というか今、私の名前を呼んでいたような気がする。

「もしかして、まだ眠い? だよね、随分朝早くから電車に乗ってたし」

「……夢なら、早く覚めてほしいんだけど」

「夢じゃないよ」

「夢の中に出てくる人って、大体そういうこというの」

じゃあ、と言って彼女は自分の頬をつねる。結構痛かったらしく、少し涙目になっていた。

「いてて……。ね? こんなに痛かったんだから、夢じゃないよ」

「いや、貴女がつねってもしょうがないでしょ……」

そっか、確かに、なんて世紀の大発見をしたかのような顔をしながら、自分のしてることに気づく彼女。表情がさっきからコロコロ変わって、忙しい子だ。

「というか、貴女、私の名前知ってるの?」

「うん、社員証見ちゃった」

ジャケットのポケットからは、社員証に付けている紐が出ていた。なるほど、これを見たんだ――とちょっと納得しかけて、冷静になる。

「……ダメでしょ、人のモノ勝手に見ちゃ」

「はーい、ごめんなさい」

悪びれる様子もなく彼女は言った。あまりの軽さに、なんだか怒る気も起きない。でもそれは、彼女への嫌悪感とかじゃない。寧ろ、ちょっと好意すら抱く。そういうことを思わせる能力みたいなものがあるんだろう、きっと。

「そういえば、いつから乗ってるの?」

え、と素っ頓狂な声を上げて、彼女は驚いた。

「嘘!? ずーっと一緒にいるのに……」

よよよ、なんてやけに芝居がかった泣く仕草を見せる。一緒にいた、というのは、もしかして。

「あの、声って」

「そうだよ! もー、全然気づいてくれないんだもん、寂しくなっちゃうよ」

「ご、ごめん」

必要もないのに、つい、謝ってしまう。

「で、ゆーこちゃんは――」

……ゆーこ? 私の口から出たその名前は、私はもちろん、彼女も驚かせた。

「……ゆーこ、じゃないよ? あたし、祐美」

惜しかったねえ、なんてはにかみながら、祐美は言った。

祐美、祐美……。そっか、祐美か、と彼女の顔に祐美という名前を定着させる。

なんだか、頭がキシキシする。

「ゆ、祐美」

なんとなく、しっくりこない。

「……なあに?」

当の本人は、何の違和感もないという風に返事する。それはそうなのだけれど。

「その……。とりあえず、どこに向かってるの? 私たちは」

ふふー、秘密。そう言うと、人差し指を口に当てる祐美。一つ一つの動作が様になっている。テレビや映画に出ても、全くおかしくないと思う。羨ましさすら感じた。……


そうこうしている内に、電車は終点まで来てしまったらしい。駅は寂れていて、所謂無人駅。駅名が書いてあるはずの看板はすっかり見えなくなっているし、車掌も何も言わないものだから、どこだか全くわからない。

携帯を見ると、時間はギリギリ午前中だった。時間はまあ大体こんなものか、と思ったけれど、恐ろしいことに電波は圏外だった。今時、ネットワーク環境が整っていない場所なんてあるのか。

駅を出ると、吹く風は少し冷たく、磯の香りがする。そんなことから、海のある町だってことはわかる。けれど……。

「ここ、どこ?」

「うーん、まあ、どこでもいいでしょ?」

あんまりよくはない。私の困惑をスルーしつつ、祐美はそれよりさ、と前置きして、

「えーこちゃん、お腹すかない? あたしもうペコペコ」と言った。

そういえばそうだ。朝から何も食べられてないことを、ようやく思い出した。認識してしまえば、急にお腹がすいてくる。でも、こんな所にあるのだろうか、食事するところなんて。検索しようにも、ここは圏外だから何も出来ない。

「まあ、そのうち見つかるよ」

あまり期待できない返事が、祐美から返ってきた。さっき、秘密、だなんて結構自信有りげに言っていた。大丈夫だろうか、と思ってしまう。

けど、今は裕美を信じるしかない。仕方なく、ぶらぶら歩く。歩けども、何もない。こんなに何もない場所も、久しぶりだ。新鮮ではあるけれど、空腹を抱えた体と頭には、全く楽しくもなんともない。裕美だけは、一人場違いなほどニコニコしている。時々思い出したように、えーっと、とか、ここは……、みたいな独り言を言っていた。不安が頭を支配していた。



「というわけで」

何が『というわけ』なんだろうか。私たちの目の前には、一軒の民家。田舎の家によくある、結構な大きさの家だ。表札は掠れて、なんて書いてあるのかさっぱり読めない。一体、誰の家なんだろうか。

「ここで、ご飯を食べましょー」

「……ここで?」

どんどん中に入っていく祐美を呼び止める。

「ちょ、ちょっと。ここ、誰の家なの」

「えーっと……私の、家?」

どうして疑問形なのか。もしかして、不法侵入なんかになったりしないんだろうか。

そんな不安が顔に出ていたようで、祐美はぷっ、と噴き出した。

「あはは――心配しなくていいよ。ここ、実は元、おばあちゃん家なの」

「……本当に?」

ほんとだよー、と少し頬を膨らませて抗議する祐美。

話によると、祐美のために残されたこの家は、彼女が自由に使っているらしい。あんまり信じられた話でもないけれど。

とはいえ、もうここまで来てしまっている。今更拒んだりしても仕方ないだろう。大体、どう帰ればいいのかもわからないし。彼女についていって、お邪魔することにした。


家の中は、ひんやりとしていた。その冷たさが、人が住んでいないということの証明になっているようで、何度か身震いしてしまう。でも不思議と、歓迎されているような気もした。

「えーこちゃん、なにたべたいー?」

先に入っていた祐美の声が聞こえる。おそらくいるのは、台所。私はそっちへ向かった。

「うーん、なんでもいいんだけど」

「それ、一番困るやつ」

駄目だしされてしまった。

「というか、食べるものあるの?」

「もちろん! 食べたいものあればなんでも出しちゃうよ?」

一体、どういう台所なんだろう。周りを見てみても、そんなに頻繁に使っている形跡はないのに。本当に出てくるのか、また不安になる。

けれど、台所からは急かす声。それを聞くと、さっきまで色々不安に思っていたくせに、どうしよ、何が食べたいんだろ、と考えてしまう。あれこれ考えて、昔、ここに似たような場所で食べたものを思い出す。

「カレー……かな」

安直。本当に食べたかどうかも怪しい。こういう風景にはカレーライス、という刷り込みで言ってしまっただけかもしれない。ただ、なんでもよくてカレーと言ってしまったのかもしれない。でも、今はそれしか思いつかなかった。

「カレーね」

だよね、と言いながら祐美は棚の中をごそごそと探して、調理器具やら具材やらを出してきた。よくわからない。調理器具はわかる。だけど、具材? 明らかにそんなところには入っていないだろうに。出された具材を手に取ってみるけれど、別に腐っているようではないし、普通の野菜。狐につままれたようだ。

「不思議そうな顔してるねえ」

「そりゃそうでしょ、どうしたのこれ……」

「ま、気にしたら負けだよ」

「どんな勝負してるの」

なんだかおかしくなって、二人一緒に笑ってしまう。そのおかげか、ひんやりとした家の空気は、若干、やわらかくなった。

「えーこちゃん、やっと笑ってくれたね」

そういえば、笑っていなかったのか。言われて、自分の頬に手を当てる。自然と表情筋は動いていた。笑うこと自体は毎日していたと思うけれど、自然に笑顔になっていたこと自体、すごく久しぶりな気がした。

「えーこちゃんはさ、笑ってたほうがかわいいよ」

かわいい。年下の女の子に、屈託のない笑顔を向けられて言われる私。反応に困ってしまう。

「……ありがと」

はっきり言ってすごく照れるけれど、出来る限り平静を保ちながら言った。ここでそういうベタな反応を見せたら、祐美はずっと言ってくると思う。

というか、明らかに彼女の方がかわいい。仕返しで言ってやろうか、とは思ったけれど、それも祐美を調子づかせる原因になりそうだから、止めた。

「あ――私も手伝うよ。大人だし」

そう言いながら、自分が出来そうなことを探す。

「だいじょぶだよー、えーこちゃんはお客さんなんだから」

休んでていいよ、と言われる。そう言われると、そうした方がいいと思った。というよりも、言われた時に自分の体が疲れていると感じた。他己評価の正確さというか、なんというか。とりあえず、祐美の言葉に甘えることにした。ついでに、この家の探検みたいなこともしてみよう。少しでも、何かわかればいいけれど。


「ひ、広い……」

どうなっているんだろう、この家は。外から見た大きさと、明らかに合っていないような感覚になる。確かに、割合大きい家だとは思ったけれど、それをはるかに超えている気がする。なんだか、自分がどこにいるのかさえ分からなくなってきた。

歩いて、歩いて、本格的に疲れてきた。それこそ、寝てしまいたいくらいに。そんな時に、少しだけ隙間が空いている部屋を見つけた。どの部屋も閉まっているか、扉の無い部屋ばかりだったから、余計に気になってしまった。

隙間から、ちら、と見てみると、そこは物置部屋のようだった。段ボールが綺麗に並べられていて、引っ越したばかりの部屋のようにも見えた。もしかしたら、祐美のこともわかるかな、なんて思って、部屋に入る。並べられた段ボールの中身を確認すると、当たり。おもちゃやらなにやら、自分が子供の頃に遊んでいたような、懐かしいものが入っていた。

だけど、これは祐美のなのだろうか。祐美は――見た感じでは多分――高校生で、社会人の私とはそれなりに年が離れているだろう。となると、これは祐美のお姉さんか誰か……少なくとも、祐美本人のものではないのかもしれない。

もう少し探したけれど、後はよくわからない絵やら置物ばかり。彼女のことがわかるようなものは無く、背後を探ろうとする私の目論見は、脆くも崩れ去った。

少し残念かも、なんて思いながら、出したものを片づけていると、何かが落ちていることに気づいた。写真と、貝殻?

その写真はなぜかくしゃくしゃになっていた。拾ってみると、中では、笑顔の女の子と、顔を黒く塗りつぶされた子の二人が写っていた。その瞬間、私の体は動きを止めた。

写真の中で笑っている子供は、明らかに過去の私だったからだ。

何か、物凄く嫌な感覚が私を包む。見たくもなかった事故を見てしまったような、そんな感覚。冷汗が出てきて、震えも止まらない。

腰が抜けてしまって、へなへなとそこに座り込んでしまった。なんで、こんなところに。頭が、痛い。嫌、いやだ。その写真を汚らわしいもののように、基の様にぐしゃぐしゃにして捨ててしまおうと思ったけれど、それ以上に頭が痛くて、出来なかった。

どうにか写真と貝殻を出来るだけ触らないように箱の中に入れて、私は力なく、祐美のところへ向かった。



「あ、丁度いいところに――って、どうしたの!? 顔真っ青だけど……」

「ううん、なんでもない……」

「なんでもなくないでしょ、大丈夫?」

「大丈夫、だよ……。大丈夫だから」

不安そうな目を向ける祐美。止めてほしいけれど、そんなことは言えない。これ以上、傷つけたくはなかった。

「そっか……」と納得したような相槌を打った佑美の顔は、明らかにその言葉とは反対の顔だった。

「まあ、とりあえずさ……ご飯たべよ? 元気でるよ」

なんてったって私が作ったんだから、と言って胸を張る。さっきと変わらないように見えて、その声には若干の揺らぎを聴きとらずにはいられなかった。

けど、確かにお腹はすいているし、彼女がせっかく作ってくれたご飯を食べないのは、もったいない。

「うん……。食べよっか」

「よかった、すぐ用意するね」

祐美の作ったカレーは、確かに美味しかった。すごく懐かしい味がした。安心する味、という感じがしたからなのか、体の不調は、さっきより幾分か和らいだ。

「美味しい」

「ほんと! よかったー。全然自信なかったから」

「こっちが本当って聞きたいよ、こんなに美味しいのに」

えへへ、と笑う祐美の顔を見て、なるほど、と思った。彼女の性格が、この家の空気を和らげているのかもしれない。あの声が、あの顔が、私の冷えた体も温めていった。


「ごちそうさま」

「はーい、お粗末さまでした」

食べる前は不安だったけれど、ちゃんと全部食べることが出来た。また少し、心に余裕が生まれた。そうだ、片付けくらいは手伝おう。なんでもしてもらいっぱなしだなんて、申し訳なさすぎる。

「祐美、私も片づけるよ」

当然というか、予想していた通り、祐美は断ってきた。さっきまであんなだったんだから、今も休んでていいって。

「いや、やるよ……ご馳走になったお礼だよ」

「そ、そう……?じゃ、手伝ってもらおうかなあ」

洗うと言っても、二人分の食器と、調理器具だけ。気分転換のようなつもりで、洗い物を片づけ始めた。


「そういえばさ、どうして私をここに連れてきたの」

お皿を洗いながら、祐美に聞いた。

「うーん、まあ……疲れてそうだった、から?」

まさかそんな理由だけで連れてこないだろう。大体、疲れてそうなのは私だけじゃない。周りにいた人は、ほぼ全員疲れていただろうし。

「納得してなさそー」

バレた。祐美は人の表情を読み取るのが上手い。もしかしたら、私が人一倍わかりやすいだけかもだけれど。

「そりゃ、納得はしてないけどさ。言いたくないことだったりする?」

「言いたくないこと……ある意味そうかも」

「そっか」

「あれ、聞かなくていいの?」

「うん」

言いたくないこと。それがなんなのか、聞こうとは思えなかった。聞いてしまったらいけない気がするし、もし聞くとしても、それは今じゃない。

「……えーこちゃんってさ、すっごく優しいよね」

「え、急に何」

「だって、優しいから」

……本当は、聞きたいことが他にもたくさんあった。

ここは、どこなの?

貴女は、誰なの?

貴女と、私は――。

「っ……」

手元がふらつく。頭が痛い。もしかしたら、ぶり返したのかもしれない。震える手で、食器を片づける。呼吸は荒くなり、立つのも辛い。膝から力が抜けた。

その時、祐美の体が私を支えた。

「大丈夫じゃ、ないじゃん」

ごめん、とだけ呟く。顔が見れない。

「いいから……。こっちいこ」

肩を貸されながら、ふらふらと部屋を移動する。その先には、少し大きめのクッション――ほとんど敷布団のようなものだったけど――が置いてあり、私はそこに寝かされた。体を横にすれば、自然と目は閉じた。思った以上に柔らかいクッションの感触が、更に私の体を寝かしに来る。頭の方は、より柔らかく暖かい。そして私は、今日二度目の眠りに落ちることになった。……




私は、おばあちゃん家に行くのが好き。それはもちろん、おばあちゃんやおじいちゃんが優しくしてくれる、ということもあるし、おばあちゃん家の周りは自然豊かで、海が近くて、私の家とは大違い、というのもある。だけど、それ以上におばあちゃん家に行くのが好きな理由は、好きな子に会えるからだった。


その子と初めて会ったのは、私が幼稚園の年長さんだった、夏休みの頃。一人で、近くの海に行っていた時、その子は私に話しかけてきた。


「あなた、どこの子?」

「どこから来たの?」

「海、好きなの?」


どんどん質問してくる彼女のことを、私は不思議と嫌だとは思わなかった。それどころか、少し嬉しかったくらいだった。

その日以来、私と彼女はとても仲良しになった。私に仲良くしてくれる子が出来たことを、家族も喜んでくれた。彼女が私の家の近くに住んでいないことが、すごく悔しかった。そして、私が彼女の近くに住んでいないことが、すごく悔しかった。

初めて彼女と会った時は、それはもう両親を困らせてしまった。ずっとおばあちゃん家にいる、だなんて我儘を言い続けた。そして、泣き疲れたところを『確保』され、そのまま帰宅。その後、一週間くらいは調子が悪かった記憶がある。

それくらい、夏休みの帰省は私にとって一年の中で一番のイベントになった。お正月とか、ハロウィンとかクリスマスなんて目じゃないくらいの、一大イベントだった。


彼女と会うのは、決まって海辺だった。初めて会った、あの海。そこで待っていれば、彼女は声を掛けてきてくれる。それが二人の約束だった。私が一年生になっても、二年生になっても、三年、四年、五年になっても変わらない。

もちろん、六年生になった今年の夏も、私は彼女に会う。おばあちゃん家に着いてすぐに、あの海辺に向かった。時間はまだ朝。遊ぶには十分すぎる時間があった。

「あ、いたいたー」

砂浜で待っていると、彼女は来た。白いワンピースに麦わら帽子が、とても似合う。

「今日は、何しよっか」

「うーん……」

したいことは色々ある。ありすぎて、何からしたらいいのかわからないくらい。海で泳いだり、あちこち探検したり、会えなかった日の分、お話したり。

「ありすぎて、困っちゃってる」

彼女は笑って、

「わかる! あたしもー」と言った。

彼女と同じことを考えていたと思うと、嬉しくなる。テレビとか雑誌とかだと、こういうのって上手くいかない、なんてよく言っているけれど、少なくとも私たちの間にはそんなことは当てはまらないと思った。

「どしたの、にやにやして」

「え、嘘」

顔に出てたらしい。恥ずかしくなってくる。

「なんでもないよ、もう……」

彼女はそんな私を見て笑う。

「本当に顔に出やすいんだもん」

言っている間も、ずっと笑っていた。でも、怒ったりはしない。私のしたことが、彼女の笑顔の元になっているなら、私だって嬉しい。また笑顔になる。まあ、さっきのはきっと、笑顔といえるものじゃないと思うけど。

この笑顔をきっかけにして、会話がどんどん弾んでいく。私が話したり、彼女が話したり。一年合わない分、あれこれ話したくなって、会話はあちらこちらに跳んだりもする。それでいい。いま彼女と話している、ということだけでも、それはすごく楽しいことなのだから。


「海、入らない?」

彼女は汗を拭きながらそう言った。時間としてはまだ午前中だけど、日は既に高く昇っていて、すっかり海日和だ。私も彼女も水着を持っていなかったので、二人とも一旦戻る。水着に着替えて、そのまま海へ。

「ちょ、ちょっと、待ってよ……」

ぐちゃぐちゃになったフォームで泳ぐ私を尻目に、彼女は笑いながら、がんばれ〜、だなんて呑気に応援する。

彼女は泳ぎがすごく上手だった。少なくとも私や、私の学校で一番泳げる子より、よっぽど上手。どんな所でも、スイスイ泳いで行ってしまう。私では到底追いつけない。彼女に鍛えられたお陰か、私もそれなりに泳げるようにはなっていたけれど。

「も、もう無理……。先戻る」

ヘトヘトになった私は、ギブアップして沖に戻ることにした。彼女はまだ泳いでいた。彼女の泳ぐ姿は、お母さんと子供がじゃれて遊んでいる風景と重なった。

濡れた私の体がすっかり乾き、汗がその代わりとなったくらいにようやく彼女は海から上がってきた。けれど、その顔に疲れは見えなくて、改めて感心してしまう。

「いやあ、泳いだ泳いだ」

「泳ぎすぎじゃない?」

「え、泳ぐのに『すぎ』なんてあるの?」

「それはまあ……。プールとか行くと何分かおきで、休憩してくださーい、って言われるよ」

彼女は、へええ、と大げさなくらいに相槌を打って、

「知らなかったよ、プールなんて生まれてから行ったことないし」

「確かに、こんなきれいな海があるんだもん。いらないよね、プール」

それはそれで楽しいものだけど。でも多分、彼女には一番この海があってるんだろうな、と思う。さっきの泳ぐ姿を見ていると、尚更。

そんなことを思っていると、隣から物凄い音が聞こえてきた。見れば、お腹を抱えて屈託のない笑顔をした彼女。

「えへへ、すっかりお腹減っちゃった」

確かにもう、お昼前。私もだいぶお腹が減った。そうだ。多分今頃、おばあちゃんはお昼を作ってるんじゃないだろうか。

「うちに食べに来なよ」

「え、悪いよ」

「大丈夫だよ、多分。おばあちゃん、食べ盛りなんだからって、いつも作りすぎちゃうから」

「そう?じゃあせっかくだし、お邪魔しよっかな」

「うん、ぜひ来てよ」私は笑顔で言った。気持ちと顔が、やっぱり一緒になった。それは、彼女が私と一緒に何かをしてくれるということが嬉しいから。私は彼女と一緒に、おばあちゃん家へ戻った。


「ただいまー」

奥からおかえり、と声がする。お母さんとおばあちゃんの声だった。思っていた通り、ご飯を作っている。匂いも予想通りの匂い。カレーだった。

「あら、お友達連れてきたの」お母さんが彼女を見て言った。彼女は小さくお辞儀をして、お邪魔します、と挨拶した。

「良い子ねえ」

「でしょ?」私は胸を張って言った。彼女は良い子なのだ。

「なんで瑛子が誇ってるのよ」

呆れたようにお母さんに突っ込まれてしまった。

ついあんな態度をとってしまったけれど、私にとって彼女が褒められたというのは、言ってしまえば自分が褒められたのと同じことで、本当に嬉しかったのだ。

彼女はそんなお母さんと私のやり取りを見て、一人でくすくす笑っていた。

台所の方へ向かうと、案の定というか何というか。おばあちゃんは、やっぱり大量のカレーを作っていた。おばあちゃんのカレーは美味しいし、食べられるものならたくさん食べたいけれど、いかんせん相手はカレー。お腹に貯まるから、頑張っても二杯くらい。

けど今日は泳いできたから、多少頑張れると思うし、いつもとは違う、心強い味方もいる。まあ、一人増えたくらいで今まで余っていたようなものが無くなるとは思えないし、大体彼女がどれだけ食べられるのか、誰も知らないのだけれど。


「おばあちゃん、おかわり!」

噓でしょ……、みたいな目をおばあちゃんと彼女以外の全員がしている。これでもう、三杯は食べている。そして、今再びのおかわり宣言。一体彼女のお腹はどうなっているのだろうか。

結局私は二杯、彼女は四杯と半分。半分というのは残しちゃったわけじゃなく、もう残りが半分しかなかったから。おばあちゃんは今迄の昼食の中で一番の笑顔をしていた。おばあちゃんは嬉しそうだし、彼女も満足そうだから、まあいいのかな……。


「海いこ」

噓でしょ。次は目だけじゃなくて口にも出てしまった。

「あれだけ食べて、もう泳ぎに行くの……」

私はまだまだ動けそうにない。動きたくもないともいうけど。どう考えても、消化できていないと思う。

疑いの眼差しを向ける私に、彼女はすこし

恥ずかしげに「だ、ダイエット……?」と言った。

ダイエットと言ったって、十分スタイルいいじゃん、なんて言ってやろうかと思ったけれど。

彼女はもう足を動かして、行こ、行こと私を急かす。まあ泳がなければいいかな、くらいの気持ちになってきた。

「いいよ、行こ」

いつの間にか畳の上で平泳ぎをしていた彼女は勢いよく顔を上げた。私を見つめる瞳は、海に照る太陽みたくて、なんだか目を合わせられない。

「ほんと!? もう変えらんないよ」

「うん、いいよ」

「やった! おばさん、借りてっちゃうね」

お母さんは、いいよ、好きに借りてってなんて言っていた。娘のことを何だと思ってるんだろうか。

でもまあ、私のことで喜んでくれてるんだし、いいかな……と思ってしまった自分がいた。自意識過剰。また、恥ずかしくなった。


海に着くなり、彼女は泳ぎ出した。よくまあ、あれだけ食べて泳げるものだと感心してしまう。

自分だったら……うん、溺れる自信がある。元気に泳ぐ彼女を尻目に、私はそんなことを考えていた。だけど本当に元気に泳いでいる。もしかして人魚なんじゃないか、ってくらいに。浮かんでは、消えて。消えては、浮かんで。一つ一つの動作がすごく綺麗で、本当に人魚に見える。目を閉じて、彼女を思い浮かべる。海に浮かんで、海に消えて、浮かんで、消えて、うかんで――。

目を開けると、彼女がいた。

「あれ? いつの間に――」

「けっこーまえだよ。寝ちゃってたから、起こそうかなって思ってたら」

「寝ちゃってた」らしい。まあご飯食べた後だし。一人で目を瞑ってたし。

「それよりさ、はいこれ」彼女は寝起きで冴えない私の思考を遮って手を差し出した。その掌には、綺麗な形をした貝殻が二つに分かれていた。

「貝殻?」

「うん、貝殻」昔何かで読んだことあるんだ、と前置きして彼女は続けた。「貝の殻はもともと一つだったヤツとしか合わないから、わごう? だったっけ……。まあその、仲良しの証拠になるんだって」

仲良しの証拠、と面と向かって言われると、恥ずかしいやら嬉しいやら。でも、断る理由はない。「ありがと」と受け取って、パーカのポケットにしまった。ずっと体育座りだったから体が痛い。ぐっと体を伸ばす。それを見て彼女は私に目を向ける。その目は確かに「泳ごう?」と語っていた。私は肯いて、一緒に海へ向かった。海は冷たくて、心地よかった。ゆっくりと奥へ泳いでいって、波に体を任せたり、逆らってみたり。さっきの彼女を思い浮かべながら、海で遊ぶ。ポケットを上から擦る。貝殻の形を感じる度に、私と彼女が重なったように思って、頭まで潜った。それでも、上の方の熱は取れそうになかった。


もう一度浮かび上がると、彼女が手招きしていた。

「どうしたの」

彼女の顔は、赤かった。それは、日に焼けたせいなのか、それとも。そんなことを考えていると、彼女は私の手を握ってきた。熱を帯びた、その手が、私の心を怖がりにさせる。

「あ、あのさ」

「う、うん」私もどもってしまう。

「こういうことって、変なことかもしれないし……。多分、熱があるのかもしれない、いやきっとそうなの、でも――だから、言っちゃうね」

彼女は一呼吸おいて言った。


「好き、です」


無言が、二人を包んだ。

冷たい水の中で、熱を帯びた塊二つ。どういうことを言えばいいのか、わからない。けど、心の奥底から、さっきの怖がりをやっつけて、込み上げてくるものがあった。初めてのことだった。そしてそれの正体を私は知っていた。

彼女の顔を見る。見たことない顔をしていた。多分だけれど、私も同じ顔をしている。

決心しよう。彼女より大きく息を吸って、私の想いを彼女にぶつけた。

「――私も」

心臓はドキドキしっぱなしで、口の中はカラカラで。でも、そんなことは気にならなかった。彼女は放心状態から戻って「――あ、すきっていうのはその、そういう意味なんだけど」なんて、急に焦りだした。そんな彼女の様子がおかしくて、笑ってしまう。いつもとは逆な気がする。

「わかってる。私もだよ」

ほんと! ほんと! と、連呼する彼女。同い年――多分だけど――にしてはわりと子供っぽいところが、魅力の一つな気がした。

というか、なんとなく大人ぶっているけれど、私だってさっきからドキドキしているし、実際心の中はなんら彼女と変わらない。そこだけじゃなくて、嬉しいって気持ちも、彼女と一緒だった。


心を落ち着かせようと思って、またポケットを上から擦る。その時、違和感を覚えた。あるべきはずのものが、無い。反対だったっけ、と思って、逆の方も触ってみるけれど、ない。手を入れてみても、ない。どういうことだろう。どうしてだろう。あれだけ熱かったはずの私の体が、一瞬にして冷たくなった。水の中にいて、はっきりとわかるほどに。

私の様子に流石に気が付いたのか、彼女が声をかける。それに私は、耐えられなかった。涙も出てきていて、それを見られまいと、深く潜った。

もしかしたら、どこかにあるかもしれない。あってほしい。あってくれなくちゃいけないんだ。そう思えば思うほど、視界は狭まっていく。右を見て、左を見て、探す。けど、だんだんと息が苦しくなってきてしまう。もう無理、となって水面から顔を出した。

あれ、と呟く。彼女の姿がどこにも見当たらなかった。もしかして私を追いかけていったのか、入れ違いになってしまうのが一番よくないだろうと思って、とりあえず待つ。

けれど、なかなか彼女は戻ってこなかった。動悸は更に早くなる。頭の中が上手く働かない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。気づいた時には、また海の中にいた。実際には声なんて出せるはずはないけれど、それでも彼女の名を呼びかける。

いるはずなんだ、必ず。そう思って、深く、深く潜っていく。

さっきのような息苦しさも感じない。声も出せるような気がした。私は、泡と共に彼女の名前を叫んだ。

「ゆーこちゃんっ……」

何度も何度も、その名を呼ぶ。けれど、もうそれまでだった。



次に目が覚めた時、私の目に入ってきたのは見慣れた風景だった。お父さんやお母さん、おじいちゃんにおばあちゃん……皆が心配そうに、私を見ていた。

お母さんは私を抱きしめてくれた。何か言っているのだけれど、それが何かわからない。ただ、家族から心配されている自分のことが、すごく汚らしい存在に思えた。

外を見てみれば夕陽が既に傾きつつあった。

「ねえ、あの子はどこ?」

「わからない」とお母さんは言った。わからない? 私はその瞬間、掛かっていた布団を捲り捨てて、サンダルで飛び出した。海に行かなくちゃいけなかった。彼女が待っているんだから、絶対に。

でもやっぱり、サンダルの足じゃうまく走れなくて、後ろから追いかけてきたお父さんに捕まってしまった。離して、と抵抗するけど、それも無駄だった。大人の力には勝てなかった。

彼女が私のことを待っている。私が無くしてしまった、あの貝殻を持って……そう思うたびに、涙が溢れてくる。

どうして涙が溢れてくるんだろう。それは、自分に原因があるのだ。そう考えると、さっきまで自分が何をしていたのか? 思い出すたびに頭が痛む。彼女はどこにいるのか。


私は、彼女のことを……。そこから先は、何も考えたくなかった。


連れ戻された私は、寝ていた部屋に入ると、カバンの中から二人で撮った写真を探した。彼女が笑っていて、その笑顔を見る度に苦しくなって。ペンで彼女を黒く塗りつぶすと、くしゃくしゃに丸めて窓の外へ放り投げた。もう二度と、思い出せないように。

それ以来、おばあちゃん家に行くことは無かった。あのことだけが決め手になったわけじゃなく、いろいろな理由が重なった結果だったけれど、やっぱり理由の中には……あれも含まれていた。

眩しさを感じて、目を擦りながら瞼を開く。窓の外は既に暗く、電球の明かりが私の目を眩しくさせていたのかと感じる。意識を体に向けてみると、頭の痛みやらなにやらはすっかり消えていて、ああ、随分と寝てしまっていたんだな……と思った。


遠くから、とんとん、と小気味いい音が聞こえてくる。祐美が晩ごはんをつくっているんだ、と思いながら、祐美というその名前に、やっぱり違和感を覚える。多分、そうじゃないってことが、心のどこかに残っている。多分これを本人に聞いても、違うよ、と返されてしまうだろう。さっきもそうだった訳で。でもそれ以上に、この私の気持ちをぶつけないといけない気がしている。そうしないと、本当に消えてしまいそうな、そんな焦燥感が私を占めていた。


はぁ、と大きく溜息を吐いて、身体を起き上がらせる。電気の冷たい光だけがそこにあった。その冷たさに、布団を体に被せて、目を閉じる。聞こえてくるのは、祐美が台所にいる、という音だけ。私の音は何も聞こえてこない。私の存在そのものが無くなった様にも思えて、怖くなる。

彼女も多分、こんな気持ちだったんじゃないか、なんて考える。

――待った。彼女って、誰? それは、彼女は。

かたかたと体が震えだす。思い出してはいけない筈だったことを、思い出してしまって、怖くなった。どうして思い出してしまったんだろう。会社を休んでしまったから? ここに来たから? あの娘に、会ったから? 

どうして、こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないんだろう。それは、私の所為だからだ。私に課せられた呪いなのかもしれない。そっか、呪いか。そうだよね。私は、彼女を……ゆーこちゃんを見殺しにしたんだから。

だったら、私も死んでしまおう。ここには私だけで、私という存在も、在るという事に耐えきれないほどに、軽くなってる。死にたい。死んで、しまいたい……。


「えーこちゃん……っ」

暖かいものが、私の背中に当たる。

「えーこちゃん……」彼女はもう一度私のことを呼んだ。声を出したい。彼女の声に応えたい。そう思うけれど、上手く声が出なくて、代わりに空気だけが変な具合に漏れ出す。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼女は私を抱く力を少し強めた。その力強さが、私の中の何かを、溶かしてくれたのかもしれない。

「ゆ、ゆー……こ、ちゃん……?」

え、とゆーこちゃんは声を漏らした。何か言われる前に、言わなくちゃいけない。

もう一度、力を振り絞って、私は言う。

「ゆーこ、ちゃん……」

頬が熱い。涙が、零れていたことに気づいた。

それに気づいてしまったら、もう手遅れで。涙は止まることを知らなかった。

「……どうして泣くの、えーこちゃん」

「だっ、だって、わたし……。ゆ、ゆーこちゃんのこと……」

その先の言葉を吐き出す前に、彼女は私の口をやさしく塞ぐ。

「言わなくて、いいよ……」

小さく肯く。彼女のやさしさに、甘えてしまう。

でも多分、今は甘えていいのだと、思った。


ようやく落ち着いてきた。涙の落ちる頻度は段々と間隔が空き始め、目元は乾いて少しヒリヒリしてきた。

その間も、彼女は私のことをずっと抱きしめていた。その触れている面と面から、ぼんやりとした温かさを感じる。とく、とく、と優しい音も聞こえてくる。彼女を通すことによって、私は、私を感じることが出来た。

「えーこちゃん、どう……? 落ち着いた?」

「……うん」

「よかった……。私がずっと声かけても返事もないし、見に行ったら泣いてるしで……。すっごく心配になっちゃった」

「ごめん」

謝らなくてもいいよ、さっきも言ったけど、なんて、ゆーこちゃんは笑いながら言う。どうして笑っていられるんだろう? その過ぎたとも言えるやさしさに、まだ甘えていいのか、何度も不安になる。

これを聞いていいのかも、わからない――そんな不安が、一つ越えてもまだ出てくる。こんな私の気持ちを、彼女はわかっていたりするのだろうか。


「というかさ、えーこちゃん。さっきの……その、アレなんだけど」と、少しためらいがちに彼女は聞いてくる。

「どうして、わたしのこと、ああやって……呼んだの?」

「多分、そうだと思ったから……。それか、彼女と貴女を、重ねてるだけかも」

「そっか……」

「ごめんね、何度も知らない人と間違えられて」

返事は無く、その代わりにより強く抱きしめられる。

その抱擁に感じたものは、さっきと同じぼんやりとした温かさだけだった。

やっぱり……。聞こうとは思ったけれど、それより早く彼女は、ご飯ができているから食べよう、と提案した。私はそれに乗った。

まだ、臆病なままの私だった。きっかけが、欲しい……。

「ご馳走様でした」

「お粗末さまでした」

お昼ご飯の時もそうだったけれど、彼女の作るご飯はとても美味しかった。なんというか、彼女そのもの、みたいな。上手く形容することが出来ないけれど、そういうものがあった。

その何かが、私をまた癒す。甘やかす、と言ってもいい。何にせよ、彼女の行動が私の心に少し余裕をくれていた。


と、思っていたのだけれど。

彼女のある一言で、私は前言撤回する羽目になった。

「お風呂、入ろ」

私の目を見て言ってくる。つまりは、

「……二人で?」

「うん。勿体ないし」

「そりゃ、そうだけど……」

屈託のない瞳が私を襲う。

「ダメ……?」

つい、うっとなってしまう。

「……わかった。入るよ、一緒に」

同姓とはいえ、他人とお風呂に入るなんて久々な気がする。あの彼とも、考えてみれば一緒に入ったことが無かった。公衆浴場だって、全然行ってないのに。どうしよう。わかったなんて返事をしてしまった、自分を少し恨む。

そんな私の葛藤をよそに、彼女はすっかり上機嫌で、何の躊躇いもなく服を脱いでいく。

げ、見ちゃいけないな……と思いはするけれど、目が離せない。

彼女の体は、とても白かった。それこそ、この世のものとは思えないほどに。あの体の一体どこに、あの暖かさがあったのだろうと思ってしまう。それくらい、白い。

「何してるの?」

「あ、いや、別に」

しどろもどろな返答。ふーん、と言って先に彼女はお風呂場へ行った。なんだか、すごく変態っぽいな、私……。


「あ、来た来たー。早く入ろ」

お風呂は割に大きく、私と彼女の二人なら入っても問題なさそうな程の広さだった。

「う、うん」

身体を流して、ゆっくりと、彼女と向き合うようにしてお風呂の中に入る。ちょっと熱いくらいのお湯だった。熱さに、ため息が出る。

「やだ、なんかお年寄りっぽい」

「うるさいなあ。こんなだよ、三十歳って」

あはは、と笑い合う。

他愛ない会話が。楽しいと思える。それは今日一日過ごしてみて、思ったことでもあったりする。

こんなこと、今までにあったかな……と思って、さっき考えてたことを思い出す。寝ていた時に見ていた、過去の記憶。彼女と、ゆーこちゃんのこと。やっぱり、多分、彼女とゆーこちゃんは同一人物なんじゃないか、と思う。

今日は、色々ありすぎて、感覚がマヒしている。だから、同一人物、だなんて突拍子もないことを思いついてしまったのだろう。でも、今日起こったことと比べればトントンな気がする。多分だけれど。

「ちょっと聞いても、いい?」

私は、まっすぐ彼女の目を見る。今じゃないと、言えない気がした。

「今日は、変なことばっかりだった。朝から変な声は聞こえるし、仕事サボって知らない場所まで来ちゃうし」

「そうだね……。って、変な声じゃないよ」

「ごめんごめん、まあそれは置いといて……。それで、ここに来て、思い出したくないことを思い出した。少なくとも前の私だったら、思い出したくないこと」

彼女は無言で肯く。

「でもね、感謝してる」

「感謝……?」

「うん。多分、あのことは、思い出さなくちゃいけないことだったんだと思う。あの時、私が我慢――我慢って言っていいのかわからないけれど、そうしたこと。そのことが私の中でずっと、私を私じゃなくしてたのかもしれない」

喋っている内に、喉の奥が熱くなって、固くなっていく。声が変な調子になる。

「だから、だから……さ。貴女に会えたこと、感謝してる」

最後の方は上手く言えたのか、わからない。気づけば既に大量の涙が流れている。さっきので、もう全部出ちゃったくらいに思っていたのに。

「本当に、ありがとう……。ゆーこちゃん」そう言って彼女を見る。笑顔だ、笑顔だった……。

「うん……。えーこちゃん――もう、隠す必要ないよね……。そうだよ、そう……私は、ゆーこ。えーこちゃんのことが好きだった、あの、ゆーこ」

彼女は――ゆーこちゃんはそう言うと、私に近づいた。私もまた、彼女に近づく。あの時の続きを、あの時から取り戻すように、私たちは一緒になった。


「大好き……大好きだよ、ゆーこちゃん」



ふう、と息を吐きながら、手で風を仰ぐ。お風呂から上がった後も、熱が全然取れない。

暑くて、熱い。

いままで、こんな感覚になったことは、あの時以来無かった。それが、何故か嬉しかった。横目で、彼女を見る。目が合う。それだけで、笑みが零してしまう。でも、なんとなく彼女の笑みに、引っ掛かるものがあった。前の、私の様な感じが。私は、すごく嫌な予感を覚えた。


「そろそろ、寝よっか」と提案してきた、午後10時。寝ようかな、と思って、少し立ち止まる。彼女は、寝室の方へ向かおうとしている。でも、なんとなく、寝ちゃいけない気がして、鼓動が速くなる。

「え、あの……まだ、起きててもいいんじゃないかな」

ゆーこちゃんは、何も言わない。

「折角、折角会えたんだよ……?」

「えーこちゃん……」

振り返った彼女は、泣いていた。初めて見る、彼女の涙。

「ど、どうして泣いてるの?」

「ごめん、なさい……」

「ご、ごめんって……。も、もしかして――」

「そう……多分、もう居られないと思う」

居られない。いや、わかっていたはずなのだ。彼女は……ゆーこちゃんは、本当は、もうこの世にはいない存在だってこと。それは、今までのことを考えればわかること。

「で、でもゆーこちゃんが謝ることじゃないよ……」

そう言って、彼女の体をぎゅっと抱きしめた。まだ、体はある。でも、さっきまでの温かさが無い。肩に彼女の涙が落ちる。それも、すごく冷たい。冷たい、ってことが、こんなにも悲しい気持ちにさせるなんて、私は思わなかった。私の口は、意識するより先に動いていた。

「お布団、行こ。温めてあげたいから」


「ねえ、えーこちゃん」

「どうしたの?」

「寒く、ない?」

「そんな、寒いだなんて……さっきまで暖まってたんだし」

とはいうけれど、彼女はどんどん冷たくなっていって、少し震えそうなほどだった。

「や、やっぱり……出る」

そう言って布団から出ようとする彼女を止める。ダメだよ、それは。

「言ったじゃん、温めるって」

「で、でも……」

「でも、じゃないよ。せめて、これくらいはさせて……。――一緒に、居させてよ……」

「……うん」彼女は私の隣に戻ってきた。冷たい。けれど、その冷たさに負けないように、包み込むように、彼女を抱きしめた。


「まだ、あったかいね……」

「なら、よかった……」

二人揃って段々と、うつらうつらとし始める。このまま、消えちゃうのは、あまりにも寂しい。私は、そんなのすごく嫌だ。そう思っていると、彼女からの提案。

「あのさ……嫌じゃなければ、なんだけど」

「どうしたの?」

「すごく変態っぽいこと言うけど……。その、私の印を、えーこちゃんにつけたい」

「ゆーこちゃんの、しるし?」

「うん……。首筋に……とか」

ドラマやら漫画やらで見るような、キスマークみたいなことだと思う。普通だったら、そんなのは嫌だと思うけど、今は違う。

「私も、欲しい。ゆーこちゃんの印」

「ホント……?」

「うん」そう言って、私は彼女に首筋を見せる。いざやってみると、かなり恥ずかしい。

「綺麗だね……えーこちゃんの首って」

「は、恥ずかしいから……。はやく、して……」

ちょっと謝りながら、彼女はどんどん首に顔を近づける。冷たいものが、首筋に当たる。少し痛いような、くすぐったいような。これが、彼女。絶対に忘れえない、忘れたくない、彼女のこと。

ぷぁ、と声がして、冷たかったものは私から離れた。

恥ずかしがっている表情が見えて、嬉しくなった。まだ、いてくれているんだ、ここに。私は何かお返しをしたくなって、彼女にもう一度口づけをした。一瞬驚いた彼女も、すぐに慣れてくれた。冷たい。冷たい。でも暖かい。どっちがどっちか、わからない。頭の中がくるくる渦巻いて、そして、体まで回り始めた。二人が溶けて、一つになった気がした。……



光が見える。

頭は、うまく働かない。靄が上手く取れてくれない。ここ、どこだっけ。

開かない目を無理矢理開けるように擦りながら、辺りを見る。やけに古い部屋。土壁だし。首を逸らしてみると、私のスーツが丁寧に畳まれていた。

とりあえず、誰かいないか、探す。けれども、誰もいない。部屋の外からも、何の音も聞こえてこない。

とりあえずここから出なくちゃ、と思い、着替える。洗面所みたいな場所を探して、部屋を出ると、前には姿見があった。

「うわ、ぼっさぼさだな……髪」

これは真面目に水が出るところ探さないと、と思っていると、首元が赤くなっていることに気づいた。

「これ……」キスマークが、首についていた。


『ゆーこちゃん、ずっとみてるよ』


振りむく。誰もいない。というか、この場所から聞こえたとは思えない。なんというか、自分の頭の中に流れたような感覚。

その声には聞き覚えがあった。

いや、聞き覚えなんてものじゃない。そっか――昨日のこと。あれは、本当のことだったんだ。

「これからも、見ててね」

私は上を向いて、大きな声でそう言った。

携帯を見ると、五時半だった。通信は繋がっていた。昨日からにかけて、たくさん通知が来ていた。会社からも、彼からも。そして私は、それらを全て消した。

「なにから始めよっか、ゆーこちゃん?」

『えーこちゃんの、したいこと!』

多分、そう言ってくれたと思う。

今日は、忙しくなりそう。

でも、今までで一番いい気分の一日の始まりだった。

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不確かで、確かなコト。 やまもと はる @haru_shanben95

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