24

 樹海を揺らす音と振動が伝わってくる。奥の方が光った気がするが、いまのは一体。いまはそんなことに構っている余裕はない。

 村の方角から風に乗って煙の匂いがする。空を塞ぐ樹海の隙間から黒煙が流れているのがみえた。火の手が広がるのがはやい。本田の仕業だろうか。今は多くを気にしている状況じゃない。ぼくは力を絞って足を動かす。

 少女の導きに従って辿り着いた場所は、朽ちた廃堂。二日前にぼくが目を覚ました場所に他ならない。また戻ってきた。外へ外へと向かっていたつもりで、同じところをぐるぐると回っていただけだ。自分に繋がる因果の鎖に引き寄せられて、ぼくは帰ってきたのだ。今度こそ、自分の手で自らを解放する為に。

 廃堂の内部の床板は脆く腐り、気を抜くと踏み抜いてしまいそうになる。僅かな段差にも足を取られる。急く気持ちと満足に動かない体の狭間で焦れる。早くしないと間に合わなくなるというのに。

「隠し通路はどこ? 奇跡なんて馬鹿な真似やめさせないと。黒江が危ないんだ、彼女を救わないと」

「だいざのしたにあるわ」

 少女を一旦降ろし、言われた通りに空の台座を調べる。上部の板は打ち付けられていない。隙間に指を差し込んだら簡単に持ち上げられた。石造りの階段が地下へと続き、肩幅ほどの道が姿を現した。しかし、そこにあるはずの大空洞までの通路は土と石で塞がれていた。隠し通路は確かにここにあったのだ。すでに見つかってしまっていたのか、埋められたあとだった。とてもではないが、掘って進むような力も時間もない。

「どうなっているんだ? 通路が……あっちまで行けるはずじゃ――」

 地上に戻り、少女を問い詰めようとしたぼくの言葉は最後まで口を出なかった。先ほどとは比べ物にならない地揺れがぼくらを襲った。体の芯に響く縦揺れが、踵から頭頂まで突き抜けて行った。廃堂の屋根が崩れ落ち、腐った柱は脆くへし折れた。どうすることもできず、廃堂が潰れないことを祈ることしかできなかった。地鳴りは数十秒間続き、確かめるまでもなく大空洞で起こった爆発なのだと直感した。

 揺れが収まってから、手遅れを知るまでにさらに数分を要した。地面が揺れている感触が拭い去れず、いつまでたっても足元はおぼつかない。廃堂の屋根が抜けていたおかげでどうにか押し潰されずに済んだものの、這いつくばった姿勢で頭を抱えた。なにもかもが混乱していた。

 道が繋がっていなかった。間に合わなかった。

 西家都は死んだのか。黒江も死んでしまったのか。

 はじめから、なにもかもが、手の届かない所で通り過ぎていく。

 廃堂の開けた空から大空洞の方角へ視線を向けると、そこにあった山影がなくなっていた。大空洞を覆っていた天井が崩落したのだ。爆発は阿弥陀堂を吹き飛ばすだけではなかったのだ。

 少女の方をみると、瓦礫の散らばる床の上で笑い転げていた。心底楽しそうに。喉を引きつらせて、涙を滲ませて、甲高い笑い声を響かせていた。

「どういうことなんだよ」

 ひとしきり笑い終えた少女に、ぼくはそう聞くしかなかった。

「さっき言ってたよね。救うって。あんた何様なのよ? 助けてやるとか、救い出してやるとか、支配してやるとか、従わせてやるとか……どいつも鼻持ちならない、高慢なやつばっかり。仏さま気取りばっかりでうんざりする。救済も、支配も、他人をどうにかしてやろうとする思い上がりから端を発した考えなんだ。人間は自分ひとりの運命すら手に余るというのに。救えるのも、支配できるのも、一人分が関の山よ」

 少女の口から吐き出されるのは、見かけの幼さにそぐわない嘲り。喋り方はおろか、性格すらもがらりと様変わりする。被っていた皮を脱ぎ捨て、暗い視線をぼくに向ける。

「この脱出用の通路は七年前に松丸聖が逃げた時に使われたもの。逃げ道がばれているのに塞がないほど、西家都は間抜けじゃないわ。とっくに使えなくなっていたのよ。私はもちろん、弓場も知っていた」

「きみはなんだ……子供のふりをしていたのか?」

「ふりじゃない、私はまだ子供。ただこの数年間は、無知で無垢なままじゃ生き残れなかった。あなたと違って私は守られていなかった。儀式で殺されるのは私でもおかしくなかった。阿弥陀様と呼ばれる地位になるには、西家都に取り入るしかなかった。あいつらを滅ぼすには弓場を利用するしかなかった。そのためには愚かなままでいることはできなかった。表面上は幼いまま、どの子よりもずる賢くあらねばならない。それが生き抜くということ。それだけのことだわ」

「最初からぼくを騙すつもりだったのか。いつから……撃たれた瞬間から? 宴の時から? 果樹園であった時から?」

 少女は壊れたように急に笑い出しては、素面に戻る。折れた足の痛みなど気にならないかのように。今になって、彼女から甘ったるい芳香がすることに気が付いた。

「騙す? 失礼なこというわね、せっかく命をのに。今頃、阿弥陀堂は山ごと地底湖に沈んでいるさ。あの女たちも、西家都も、哀れな薬物中毒者たちも皆沈んだ。弓場の仕掛けのおかげでね」

 少女の言う通り、阿弥陀堂を吹き飛ばすだけにしてはあまりにも大きすぎる振動だった。あの瓦礫の下、生き残れる者はいないだろう。

「ここら一帯は地下水によって浸食されて、地下は洞窟だらけ。溶けやすい石灰質の大地だもの。空洞は浄土教徒によって祈祷の場とするためにくりぬかれたおかげで、脆くなっていた。弓場は外で建築を学んでいたらしいわ。構造の欠点を突いて、最小の威力で崩壊させることは彼女の得意分野。準備する時間はたっぷりあったのだし、読み合いでは弓場が一歩先んじていたわけ」

「すべて、計画通り? ぼくを生かすことも?」

「弓場の計画ではね。私とあなた、ただ二人だけ生き残る計画。でも、私は違う。全部壊れてしまえば、そのあとはどうだっていい。私を縛る連中をまとめて消せればなんでもよかった。すべてを壊すことだけが目的で、破壊こそが到達点。これから先私やあなたが生き残ることは考えていないし、興味もない」

 少女はあたりに落ちていたものを拾いあげ、こちらに放ってよこす。どこかで見たことあるような、錆び付いた手斧だった。

「あなたにできることは自分の運命を決めることぐらいなもの。私たちをこの地に縛るものは消えた。復讐者と支配者は水底に沈み、麻薬は燃えて灰となった。阿弥陀如来は人に落ちて、聖地は失われた。あなたに繋がる因果と呪いの糸は、ここにいる私一本だけ。好きにするといい、私は目的を果たして満足したから」

 助けられるものがあれば助けたかった。その行動が何者でもないぼくという人間を形作ると思ったから。感情に従って、廃堂まで歩いてきた。刺さった枝から滴る血で血だまりが出来ている。

 ぼくの意志は踏みにじられた。けれど、それは目の前の少女のせいなのか。

 計画は本田が立てたもの。原因を作ったのは西家都。引き金を引いたのは黒江ら。そこにぼくも少女もいない。巻き込まれただけだ。呪いと因果の渦に呑み込まれていただけのはずだ。この憤りはなにに向けられたものだ? ぼくはどこに、なにを向けるべきなのだ? ぼくの抱いている感情は正しいのか。

 まただ。またなにもわからない。

 はじめからずっと。同じところに戻ってきただけ。

「あなたはそれで私を殺して、すっきり忘れてしまえばいい。聖地の火は山の瓦礫で溢れた地下水で鎮火する。ここで暮らすのもいい。残骸から生活できるだけの物資を掻き集めることはできる。当初の望み通り、山を下って外界で暮らすこともできる。あなたの怪我なら、麓まで辿り着くこともできるはず。自分で決めていいのよ。これは、あなたが決める最初のこと。これまでは他人の掌の上だったのだから。私はそれがなによりも我慢ならなかった。自分で決められるのよ」

「きみはどうするんだ」

「私はこの廃堂のように朽ちるだけ」

 少女はぼくに殺して欲しいのだろう。斧なんかを与えて、自分が黒幕のような口ぶりを煽って。

「きみは……自分の名前を、自分で決められる?」

「さぁ……阿弥陀様でも、西家都でもなくなった。自分の名前なんて考えたこともない」

 ぼくは手斧を拾い上げる。

「ぼくにはできそうにもない」

 そのまま遠くに投げ捨てた。

 ぼくは松丸聖ではない。阿弥陀如来でも、誰かの権現でもない。

 名前は因果だ。きっとまた新しい鎖でつながれる。少女を殺せばぼくのなかで呪いが生まれる。そうして渦になって、逃れられない流れに囚われる。逃げ出せないまま、死ぬまで続く因果の渦に。

 ぼくは少女の怪我した足に手を当てる。

「そう……あなたが決めたなら、いいんじゃない?」

 少女は素面のままで微笑んだ。



 足が治ってから一度だけ大空洞の跡を見に行ったことがある。

 すべて瓦礫で埋まり、地下水の染み出した青い湖が残っているだけだった。なにもかも消え去り、そこに何かがあったことを思い出すことも難しい。

 この世の形あるものはやがて崩れ去る。避けられない死という結末に向かって。この世のすべては影で、虚しい残り香を漂わせるのみ。

 トー・ライ。死の湖が静かに、ただあるだけ。

 ぼくも同じだ。やがてくる死に向かって、ただあるだけ。

 名前はない。ただ生きるものとして生き、死ぬものとして死ぬ。

 遠くからぼくを呼ぶ彼女の声が聞こえる。森のなか、たったふたりの人間の声、聴き間違えるはずもない。

 ぼくらはやがて忘れるだろう。最近はずっと忘れっぽい。それでいい。

 なんの因果にも囚われず、白い無垢に戻っていくのだ。

 縛るもののない、解放された綺麗な生だ。

 静かに波打つ、青い湖のような。あるがまま。それ以上でも、それ以下でもない。

 ただふたりきりの生き物として。

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呪界曼荼羅 志村麦穂 @baku-shimura

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