<23>
煙に紛れて逃げようとしても無駄なこと。所詮ただの人間に狩人を撒くことなど出来るはずがない。隠そうとした痕跡が手掛かりとなって行き先を教えてくれる。殺すなと言われているが、無傷で届けろとは言われていない。逃げようと抵抗したから、こちらも対処したまで。このぐらいの楽しみがなくては協力してやった意味がない。
大麻の葉に血痕が残っている。まだ乾いていない新鮮な血液だ。足跡を消すことに躍起になり過ぎて、肝心の血痕を見落としている。所詮は昨日今日外に出たばかりの子供だ。松丸聖の権現だといっても本来はただの別人だ。勝手に期待し過ぎたこちらが悪いというものだ。
鋭すぎる五感も仇になるというもので、人間狩りも食傷気味だった。判断と運動機能の鈍った薬物中毒者相手じゃ、腹ごなし程度の相手にもならない。彼は久しぶりのまともな頭の人間相手だ。感情が先走ってしまうのも無理ないこと。
とはいえ、この場所を失うのは惜しい。自分の能力を最大限に発揮できる場所を見つけたのだ。騒音と人の気配で息苦しい人間の街とは比べ物にならない。この体は自然と調和でき、人間の法に縛られることもない。この森では単純でいられる。人間を狩る度に思い出させてくれる。見えているものだけが現実で、この手で出来ることだけがすべて。勝てば生き、負ければ死ぬ。それだけが明確にわかっている。
簡単な生の在り方。
ここには目に見えない関係はない。理解しがたい社会も、煩雑なだけの世界もない。
狩りは良い。体を研ぎ澄まし、生きるか死ぬかの瞬間に集中できる。
人間の街では忘れ去られた生の一瞬に、自己が凝縮される。それだけを考えればいい。ここには雑音がない。
動物的な快楽だ。薬物なんかじゃ得られない、生の本質的な喜び。
西家都の他人を支配したいという欲望と、おれの自己の生を噛み締めたいという欲求は力という一点で同じ方向を向いていた。おそらく人間社会のなかでは相容れない考え方だっただろう。彼女には感謝している。彼女の謀に興味など微塵もなかったが、おれにとっての楽園が維持されるのであればなにも言うことはない。しかし、彼女は外の社会との繋がりを求めた。それはおれが最も嫌うこと。おれが拒絶し続けてきたこと。手を切ることにためらいはなかった。
皮肉なものだ。
血痕から続く、血の匂いを追跡しながら思う。西家都は自分が支配してきたはずの奴隷、成長した蝦夷の少女に殺されるのだから。そして、その少女は自分が苦しみ憎んだはずの世界を継承するという。この聖地が維持されるのはおれにとってありがたい話でしかない。歪んだ世界で生まれた彼女が、外の世界を受け入れ生きることなど出来るはずもないのだ。歪みから生まれたものも、また歪んでいる。
「因果だねぇ……」
おれは仏教徒でも、神を信仰しているわけでもないが、呪いは信じるに値すると思う。人間はどす黒い糸で結ばれており、どこまで行っても逃げられないのだ。殺すか、死ぬか。そうやって根元から断ち切るしかない。しかし、殺すとまた新しい呪いが生まれる無限の連鎖。こういう積み重なりが人間を重くする。
人間は忘れっぽくないといけない。呪いを忘れ、因果を忘れ、罪悪感も忘れる。忘れることで体を軽くする。動きやすくなって、あらゆる判断が即座に下せるようになる。後悔などという言葉も存在しない。
おれは殺した人間のことなどほとんど覚えていない。唯一、おれに反撃して怪我を負わせた松丸聖ぐらいなものだ。あれは確かに楽しかった。
生きる、死ぬ。人間が覚えておくべきことなどそれぐらいだ。
あとは体が勝手にやってくれる。必要なのは、どれだけ体を軽くできるか。
多くを忘却し、単純に淡白に、生きることだけに集中する。
おれが欲したものなんて、それぐらいのものだ。
とはいえ、と煙にいぶされ始めた聖地を見回す。このままでは大規模な山火事に発展しかねない。そうなれば外の人間を呼び寄せることにもなるし、この場所も捨てねばならない。面倒だが火元を見つけて消さねば。その前に彼らを動けぬようにしておかないと。
ああ、これも雑事だ。
必要なこととはいえ、ここ最近は酷いものだった。潜入して麓に降りたり、西家都を陥れたり。面倒なことばかりだ。けれど、ここを乗り越えればきれいさっぱり忘れて、また生に集中できる。狩りだ。また狩りに没頭できる。
血の匂いが一段と濃くなる。もう耳元にも弱った呼吸が聞こえる。獲物は近い。どうやら畑作地帯を抜けたものの、すぐに力尽きたようだ。樹海に足元を取られ進むに進めず、なんとか木陰に身を寄せて隠れているのだろう。この追いかけっこも終わりかと思うと寂しいものだ。
火の回りも心配だ。おれは一息に決着をつけるべく、樹上に回り込む。人間の頭上は大きな死角だ。不意を突いて、今度こそ完全に歩けなくしてやろう。少女の方は殺してしまってもいいか。
空気を擦る音さえ立てずに登り、気配を消す。完全に呼吸を殺して無音になろうとしてはいけない。森の中にまったくの静寂は存在しない。木々は動き、土は呼吸する。ただその音域が違うというだけだ。街中のように無遠慮な鳴き声をあげる人間や機械とは違う。川の流れのようにひとつの大きな流れとして、音があるのだ。森は森というひとつの生物として音を出す。無音はその森の音から外れ、かえって目立つ。自分の出す鼓動や呼吸を周囲と調和させ、自らも森の一部となることで気配を消す。野生を感じられないただの人間には、これができない。森と調和すると目の前に居ても気付かれない。
気配が完全に溶け、ついに襲い掛かろうとして異変に気付く。
相手はもうほとんど死にかけだ。おれがなにかをしなくても十分ともたないだろう。
目の前に降り立つと、彼女は口を歪めた。どうやら笑ったらしい。
「斉藤……感覚の鋭さが仇になったな。長く、森にいて、油断したのだ。お前は、人間の、知恵と技術を……侮っている」
「弓場さん、そう言えばあなたも撃たれていましたっけね。どこで間違えたんだろう。まあ、でもおなじことだ。あなたとも知らぬ仲ではないし、遺言ぐらいは聞いてあげますよ。まあ、すぐに忘れてしまうだろうけど」
いつの間に追っている相手が入れ替わっていたのか、目の前には血を流した弓場の姿。おそらく森に火をつけたのは彼女だろう。小屋に居た時点で撃たれていたし、放っておいても大丈夫かと思ったのだが。こんなことなら最初に始末しておくべきだったか。それでも大して違いはないが。
「私の因果も、ようやく終えられる……あのひとを殺したお前を、決して許しはしない」
死に体の彼女の手が動いた。銃でも持っていたかと身構えたが、腹に添えられていた手がずり落ちただけのようだ。
弓場の眼が光る。獲物を殺す瞬間の狩人のそれだ。
指先に鈍色のワイヤーのようなものが絡まっている。その時はじめて服の下の妙な膨らみに気付く。いや、服じゃない。腹の膨らみだ。撃たれたのは足のはずなのに、腹部からも出血している。
「こいつッ」
おれの鼻を誤魔化すために、自分の腹を掻っ捌いて爆薬を詰め込んでいたのか。探していた爆薬の在処は弓場の腹にあった。最初からおれを殺す為だけの作戦だったのだ。
爆薬の威力は? 爆風の範囲は? クレイモア地雷のように鉄球が詰まっているのか?
浮かんだのは松丸聖の死の感触だ。因果応報、この言葉を自分の身で思い出すことになるとは。
最後の一瞬で様々なことが頭を駆け巡る。知識と記憶が判断をさせようとした。おれはまだ何もかもを忘れてはいなかった。そのせいで動き出しが遅れる。
爆発から逃れるために木陰を目指して、地面を蹴る。
駄目だ。もう、間に合わない。
おれは野生動物ではなく、まだ人間であったらしい。
視界が白く染まる。
死が追いついてくる。
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