22

「あぁ、よかった。松丸くん、君は無事だったのか」

 小屋を出たぼくと少女の前に現れたのは那智だった。服が濡れているところをみると、ぼくと同じように水路を通って逃げてきたことが分かる。安心したように手を挙げる彼は何も持っていないようにみえる。木陰からでてこちらに近づいてくる。

「いやぁ、隠し戸だっけ? 調べていてよかったよ。とっさに飛び込むことができたんだ。しかし、君もおれもよく生き延びたもんだ。それにしてもここは何処なんだ? 水路の先にこんな場所があるなんてな」

 那智か、山素か。二人のうち、どちらかが裏切り者。例えなにも持っておらずとも油断できない。彼が西家都の手下だとすれば、少女はともかくぼくを生かしておかない。聖地の秘密まで見られたのだから、なおさらだ。

「そ、それ以上近づかないでください」

 ぼくは少女を背中にまわし、那智から距離を取る。

「おい、どうしたんだよ? おれはなにもしないって。おれだって撃たれた側なんだぜ」

 那智はそういうと穴の開いた服を見せる。

「裏切り者は国見さんじゃなかった。黒江はぼくをかばって水路へ逃がした。可能性があるとすれば、二人しかいない。あなたか、山素さんだ。どちらかがあの場で合図して、西家都の手下にぼくらを攻撃させたんだ」

「疑っているのか? 勘弁してくれよ。おれなわけないだろ? おれは毒矢で撃たれたんだぜ、自分たちが仕掛けた罠にかかるなんて間抜けなまねするはずない。信用を勝ち取るにしても、リスクが大きすぎるだろ。毒は何とかなったけど、おれは腕を抉られたんだ」

 那智は足を止める。無理に近寄ってこようとはしない。あくまで無害だと主張する。

「君の方こそ、その子供はどうしたんだ。その子は例の阿弥陀様ってやつだろう。なんで君が阿弥陀様と一緒にいる? 阿弥陀様は西家都と通じているんじゃないのか。子供だからって信用したら危険だぞ。なにをしてくるかわからない。田澤さんが死んじまったんだ、おれたちはもういつ殺されてもおかしくないぞ」

 ぼくは開こうとした口を一度閉じる。

 那智の言葉に引っ掛かったのだ。いまの言い方からすると、田澤が死んだから排除されたように聞こえる。

 国見が死の直前に漏らした田澤の秘密。それこそ、西家都がぼくらの殺害を猶予している『手立て』だと知っていれば、あえて話したりするはずがない。つまり、黒江と田澤以外は『手立て』のことを知らされていなかった。麻薬の売買は違法行為だ。犯罪を憎む被害者の会の人間が容認するとも思えない。

 那智の言い方からすると田澤の死が、襲撃の切っ掛けとなった因果関係が完全に繋がっている。あの場面で裏切り者が、田澤の正体に気付いたからぼくらは襲われたのだ。それを理解しているということは、つまり。

 こいつだ。彼が裏切り者なのだ。

「那智さん、黒江と田澤さん以外、麻薬の密売経路のことは誰も知らなかったんですよ。西家都がそれを狙っていることはもちろん。そんなこと被害者の会の人間が知るはずがない。ならば、田澤さんの死とぼくらが襲われることは繋がらないはず。それを知り得たのはあなたが裏切り者で、西家都と通じていたからだ」

 那智は髪を掻き上げて、困った笑みを浮かべた。外に出て雨に降られたぐらいの、あっけらかんとした態度をしてみせる。ぼくにはその余裕こそが恐ろしかった。

「やれやれ……ついこの間まで、なんにも知らない無垢な子供だったとは思えないなぁ」

 那智が何気なく、地面に落ちていたこぶし大の石を拾い上げる。

「悪いけど、逃げられちゃ困るんだ。大人しくしていれば、痛いことはしないから」

 彼の姿が瞬きの間に消えた。十歩以上の距離があり、視界は開けていたのに、ぼくはその姿を見失った。周囲の樹々から、大麻の葉の隙間から。あらゆる方向から微かな葉擦れの音がする。彼が立てる音なのか、風の揺らめきなのか。

 気配だ。そこかしこに那智の気配が散りばめられている。どこからでも視線が突き刺さる。獲物がじっくりと品定めされている気分。

 一体、どこに逃げればいい?

 ここは彼の家のなかだ。彼の息遣いに閉じ込められ、身動きができない。乾いたはずの体が、冷たい汗で濡れていく。

「よけてっ」

 体が小さな掌に引っ張られる。

 すぐ傍だ。指二本と離れていない。ぼくの左耳の隣で風が唸った。

 柔らかい土が弾ける。先ほど拾った石を振り下ろした那智の姿が現れていた。少女に引っ張られていなかったら、あの石がぼくの左肩を砕いていただろう。草陰から飛び出て、少しの迷いもない縦ふり。目線で追うことは不可能で、ぼくは後から届いた音とえぐれた地面だけを見て攻撃の軌道を知った。その動作は洗練されていて、明らかにひとを殺し慣れているものだった。

「勘のいい女の子だ。やっぱり、阿弥陀さまは何でも御見通しなのかな」

 鈍い音がして少女が崩れ落ちる。那智の手を離れた石は、微かな軌跡も残さず、次の瞬間には少女の腿の上にあった。白い着物の上から、深々とめり込んで跳ね返りもしない。見た目にも明確に、足の骨格が歪んでいることがわかった。 

 とにかく那智を遠ざけたくて、がむしゃらに突き出した拳は宙を切った。先ほどまでの姿は木陰に消え、再び気配は紛れて見えなくなる。

 手慣れている。拾った武器をあっさり手放す、その行為に。呼吸をするように攻撃を与え、霧のように消え隠れる。野生の狩人がいたとして、果たして勝負になるだろうか。片腕に怪我を負っているとは思えない動きだ。おそらく矢毒も演技か、致死性のないものだったに違いない。

 戦っては駄目だ。例えぼくが銃を持っていたとしても勝てない。

 ぼくはうめき声すら上げられない様子の少女を抱きかかえる。畑をめちゃくちゃに突っ切って、樹木を背にまわして逃げる。

「みんな勘違いするんだよね。武器を持ったらひとを殺せる、とか。武器があるから有利に立てる、とか。そりゃね、うん。爆弾とか持ってこられたら勝てない。でも、違うんだよ。本来の動物のあるべき姿っていうのがさ」

 どこまで逃げても声は追ってくる。すぐ耳元で世間話でもするように、気さくな声で。しかし、こちらからは決して居場所が掴めない。近くにいるはずなのに、四方八方のどこからでも声が聞こえる気がする。

「人間には手がある。器用な手だ。複雑な道具に頼らなくても狩りはできるんだ。この器用さこそが一番の凶器だとわかっていない」

 木陰から影が飛び出す。除けることが出来ない。

 足元をひっかけられ、抱えた少女ごと転がる。地面に突っ伏したぼくのふくらはぎに、熱が走った。視線を向けると折れた枝が服の上から突き刺さっている。

 燃えている、と思った。痛覚が強く痺れる。目を覚まさせる。生きろ、生きろと急き立てる。

「くそっ」

 刺さった枝を逆の足でへし折って短くする。引き抜くことはできない。無意味かもしれないけれど、少しでも血痕を残したくない。ぼくはまだ生きて逃げ切ることを諦めていない。痛みが生を諦めさせない。

 少女を抱えなおし、足を引き摺り、逃げる。

「いいぞ、活きがいい。十分待ってやるよ。そうだ、狩りは楽しくなくっちゃな。死ぬ気で考えろ! おれを倒す作戦を、頭を使え! 抗ってみせてくれよ。最近はストレスが溜まることばかりだったんだ。久々の狩りだ、楽しませてくれ!」

 那智はどこからか嘲り煽る。

 ぼくは逃げながらも、彼の態度に違和感を覚えた。人間を獲物と呼び、弄ぶ姿勢は確かに異常だ。しかし、それはこの状況にそぐわないように思う。那智が西家都側の人間であるならば、急がねばならないはずだ。ぼくらよりも黒江たちの始末を優先すべきではないか。それとも彼女たちはとっくに殺されてしまったのだろうか。

 阿弥陀様である少女がこちらにいる時点で、弓場こと本田が西家を裏切っていることは明らかなはずだ。加えて、聖地の村人たちも黒江らによって解放されて自由に動き回っている状況だ。ぼくと少女にかまけている暇があるとは思えない。

 それに彼が口にした『逃げられちゃ困る』という言葉。

 那智はぼくらを殺す機会はいくらでもあったのだ。

 少女へ投げつけられた石は足を狙っていた。頭を狙うこともできたはずだ。ぼくに刺した枝も足を狙われた。この枝が内臓を貫いていたら、その場で動けなくなっていた。わざと致命傷を外しているのだ。最初の石の振り下ろしも、思い起こせば妙だ。縦振りではなく、側頭部を狙って横薙ぎにされていれば致命傷だったのに、あえて外された。ぼくからは那智の姿など少しも見えていなかったのに、だ。

 抗え、と煽ったわりにこちらの移動能力は奪ってきている。はじめからそうだが、圧倒的に那智に有利な状況なのだ。彼ははじめから、こちらを殺す気がないのだ。

 何故だ。西家都がぼくらを生かしておく理由はどこにもないはず。

 身の危険に晒され、思考が濁流のように流れはじめる。記憶が氾濫し、関係ないと思われた様々なことが繋がり始める。

 妙だと思ったのは、彼が毒矢に撃たれたことだ。那智が西家側の人間なら、毒矢のことは知っていたはずだ。あえて射られたか、自ら仕掛けたか。片腕を使えなくなることに対する利点はなんだろうか。

 信用を得ることか? 自らが西家都と関係ないという主張のためだろうか。しかし、彼の目的は麻薬の密売の手段を持つ人物を探すこと。にもかかわらず、治療を理由に彼はひとり隔離される。ぼくらの内情を探る目的から離れている。

 毒矢が自作自演なら、猛毒は偽物だ。流石に死の危険を冒すはずがない。那智はずっと行動できていたことになる。翌朝合流するまで彼は一体どこでなにをしていたのか?

「那智さん、あなたは本当に西家都と通じているのですか?」

 ぼくはどこかでこちらを見ているであろう彼に声を張り上げた。会話をさせて、なんとか息を整える目的もある。足を失い、人ひとり抱えて、走るだけではどうにもならない。なにか手段を考えなければ。

「ああ、本当に頭が回るな。さすがは松丸聖の権現といったところかな。運命だなんて信じていなかったけれど、こみ上げるものがあるよ」

 先ほどとは違い、多少離れた位置から声が聞こえる。どうやら本当に足を止めていたらしい。逃がさないことに絶対的な自信があるのだろう。

「おれはね、阿弥陀がどうだの麻薬がどうだの、興味はないんだ。ただね、この場所がなくなってもらっちゃ困るんだ。西家都は外界との繋がりを望んでいる。いずれこの場所は外にある人間社会と繋がってしまうだろう。外の規律や価値観に汚染されてしまう。おれの望んだ場所じゃなくなるんだ。だから、おれは彼女に協力することにしたんだ」

「那智さんは西家都から潜入役として送られておきながら、黒江たちと手を結んだと? 被害者の会を裏切るだけでなく、西家都も裏切っていたんですね」

 もしかすると彼は探していたのかもしれない。阿弥陀堂を爆破するという仕掛けの在処を。だとすれば毒矢の自作自演に説明がつく。

「黒江にじゃない。西家都の本地だった、名前のない彼女に、だよ」

「どういう意味です?」

「奇跡さ。黒江は奇跡の生贄にされるのさ。きみは宴で見たはずだ、阿弥陀如来の無限の寿命という奇跡の見世物を。それと同じことを彼女もやり返してやろうって腹づもりなのさ」

 宴の奇跡。少女の身代わりを殺して復活を演じた、あの仕掛け。

 まさか、黒江を身代わりとして殺して、自分が復活するように見せかけるつもりか。だから、自爆覚悟の仕掛けでも問題なかったということか。黒江はそのことを分かっているのか?

 混乱と怒りに思考と感情が乱される。裏切りだ。裏切りと呪いの連鎖だ。

「奇跡といえば、きみとのめぐりあわせも奇跡だ。松丸聖とその権現、七年前の再現ができるだなんてなぁ! いや、きみは殺してはいけないんだったか?」

 那智の狂った笑い声が聞こえてくる。七年前の再現とはなんだ。

 たしか、松丸聖は斉藤カズキに殺されたという話だった。もしかして、彼がそうなのか?

 那智というのは偽名で、斉藤カズキが本名。斉藤カズキは顔も名前も知られていない通り魔。潜入にはもってこいの人選だったというわけか。

 因果を思わずにはいられない。すべての事柄が繋がっている。目に見えない呪いの糸で。誰も彼もがんじがらめにされている。

「あっち……あっちににげて」

 那智に聞こえぬよう、少女が行き先を示す。示された先からは、霧とはことなる靄が木々の間から流れてきている。

「そっちにはなにが? あいつから逃げられるのか?」

「さくせんよ。きっとうまくいく。できるだけみつからないようにね」

 少女は痛みなどおくびにも出さず、怪しく微笑んだ。

「わかった。ぼくにはいい手が思いつけそうにもない」

 可能な限り、血の痕を残さないように、裾を割いて刺さった枝ごと縛る。痛みを食いしばり、足を動かす。少女の示した方へ、一縷の望みをかけて向かう。次第に煙が濃くなっていく。どこかが燃えているのだ。誰かが火を放ったのだろうか。

 やがて畑を抜けて、樹海へと足を踏み入れる。何度も後ろを振り向くが、那智の姿を見ることはできない。もう追ってきているのか。それともまだ見つかっていないのだろうか。あれほど熱かった足が、いつの間にか感覚がなくなっている。ぼくを突き動かしていた生への渇望も、いまは鈍く重い体と入れ替わっている。怪我した体で、子供を担いで逃げているのだ。体力も限界だ。

 樹海の足元はうねり、藪は行く手を阻む。まるで二日前の再現だ。

 疲れ果て、自分が誰かも、ここが何処かもわからず、ただ逃げ惑っていたあの夜と。

 とうとう足が動かなくなり、樹木の虚に少女と体を押し込む。

「ごめん、少し休ませて」

 苦痛をこらえているのは少女も同じようで、青い顔で浅い息をする。昼間でも暗い樹海のさらに陰。虚の中で息を殺す。葉擦れに意識を尖らせて、風の音にも瞼を震わせる。

 来るな。来るな。

 近くで物音がした。草を踏む足だ。

 何かがくる。那智か。それとも――。

 手元に武器はない。ぼくは自分の足に刺さりっぱなしの枝を掴んだ。切っ先は尖っている。いざとなれば、これで。

 ぼくらは息を押し殺した。

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