21

 蝦夷の末裔。崇められた阿弥陀如来の生き残り。松丸聖の仮の姿。

 それがぼくの正体。ぼくの生い立ち。

 無垢なままでいさせるために繭に押し込められ、知識から遠ざけられて生かされた。西家都による支配の嵐を、ぼくひとりだけがすり抜けた。そして、また逃げようとしている。

「七年前の脱出計画のとき、情報が西家に漏れ計画が破綻した。松丸聖はすぐさま別案を考え出た。反逆側として顔が割れていない者は西家に従って潜伏し、脱出の機会を待つこと。松丸らは脱出を強行し、逃げ延びることができれば準備を整えて戻ってくる。七年後、この地から助け出すことになっていた」

 ずぶ濡れだった黒江の服が乾くほどの間、長い憎しみの物語を終えて、女は弓場――本田トモヨに向き直る。本田の体は弱り果てている。しかし、痛みが意識を失うことを許さない。顔を歪める彼女の苦痛は、きっと体の痛みだけじゃない。

「本田トモヨ、あなたは阿弥陀堂を爆破して一緒に逃げることができたはず。いくら山奥だったとしてもある程度の爆発があれば、この聖地を外の社会に知らせることができる。西家都を殺すことができなくても、計画を頓挫させられた。しかし、あなたはなにもしなかった、できなかった。理由はこの子供がいたから。松丸聖――山内キショウと本田トモヨの子供だから。あのとき、生まれたばかりの子を背負って脱出することが出来なかった。だから、自分だけ潜伏して残ることにした」

 彼女は少女のこめかみに拳銃を突きつけた。

「私はあんたたちの偽善に振り回されて最悪だったよ。解放、なんて心地のいい言葉を聞かされて、逃げ出した外の世界はこの地獄と対して変わらなかった。いいや、より酷いものだった。麻薬の禁断症状で苦しめられて、縋る神も仏も、外の世界では廃れてしまっていた。私の信仰は否定され、孤独と絶望に首を絞められた。なぁ、あんたはちは、自分たちが助かりたかっただけだろう? 私たちは囮ぐらいにしか考えていなかったのでしょう? 自分たちの身と子供が助かればどうだってよかったんだ。救う、だなんて。助ける、だなんて。馬鹿にするんじゃない」

 うなだれた本田の頭、枯れた肌の皺を伝って雫が流れ落ちた。

「どうか、その子だけは……この子にはなんの因果もない。あなたたちが憎いのは私たちでしょう?」

「私にだって、私たちにだって、なんの罪もなかったんだ。今さら、子供一人逃がしてもらえるだなんて思うなよ。言え、本田トモヨ。阿弥陀堂を爆破する仕掛けはどうやって起動させる?」

「それを知って、西家都を殺して、どうするつもりです? それであなたは解放されるのですか、この呪いの因果から」

「解放? そんなこと考えちゃいないよッ! 私は無責任で自分勝手な救いしか与えないお前らとは違う……すっかり話し込んじゃったわ。さぁ、教えて。子供を殺されたくなければ」

 女の笑い声は狂気じみていたけれど、その目線は常に銃口と本田を行き来して、油断などしていなかった。ぼくの方も黒江に睨みつけられ、行動を起こすことができない。

 やめさせなければ。その思いが心の隅にあったが、それが正しいのかわからない。西家都は間違っている。そのことは理解できるけれど、彼女たちがやろうとしていることも正解だとはどうしても思えない。破壊で解決するはずがない。

「水位が下がると、阿弥陀堂の真下に空洞ができます。私が持ち込んだ爆薬は経年劣化で使えなくなりました。その代わりの生石灰です。あなたの言う通り、生石灰から水素を発生させ、爆発で上部の建物を吹き飛ばす。そのための密閉空間があります。阿弥陀堂の中央の床下に起爆するための仕掛けが。ただ……直接触れなければいけないので、起動したら爆発に巻き込まれる。爆発の範囲は阿弥陀堂全体に及びます。運よく生き延びられたとしても、五体満足とはいかないでしょう」

 本田は観念して爆破の仕掛けを話す。彼女ははじめから自分が助かろうとは思っていなかったのだ。自爆覚悟の仕掛け。自分の罪と共に死ぬつもりだったのだろう。

「それでいい。私たちは奇跡を起こすんだから」

「奇跡?」

「私たちは所詮外の世界では生きていけないの。この狭い世界を支配するしかない。西家都に成り代わって、この私が新たな極楽浄土を開く阿弥陀如来となる。奇跡を目撃させ、村人に導きを。麻薬と仏法の光で満たしてあげるの。支配の仕方は西家都からたっぷりと学んでいるわ。今度は私が成り代わってあげる。きみは私に守られて、私だけの救いになってくれればいい。私の本地に、私だけを救う信仰に」

 彼女は少女をこちらに放ってよこす。

「ひとつ残念なのは、あの女の死に顔を拝めないことかな。あぁ、折角だから、やり返されるあの女の顔もいてみたかったわねぇ」

 女はぼくらに背を向ける。黒江は扉をくぐるまで銃口を向けたまま、警戒を解かない。

「ここで大人しくしておいで。逃げても無駄よ。じゃ、あとはお願いね」

 女は木陰に向かって声を掛かける。女と黒江は大空洞へと向かって行った。

 ぼくは女が投げ捨てた少女を抱き起こす。随分と殴られ血を流している。薄皮がめくれて痛々しいが、傷は骨まで達してはいない。頭の傷だから、平気だとは言えないけれど。少女はおぼろげに意識があるようで、本田へ弱々しく指先を伸ばした。

「ゆ、ば……わたし、は、やっと、そとにでられた、のね」

 本田は荒れた手で少女の小さな指を包み込む。彼女は確かにこの子の親なのだと感じさせる絆があった。

「阿弥陀如来さま、身勝手だと思われるかも知れません。それでも私の願いを聞き届けて下さいませんか」

「ぼくは……そんな大層なものじゃない。なにも知らない、ただの人だ。名前すらないんだ」

 本田の目線はぼくを見据える。神仏を崇める目じゃない。彼女はこの七年間、繭ごしにぼくを育ててきた。そこには、目には見えない絆のようなものが確かにある気がした。それは黒江たちが嘲った自己中心的なものかもしれないけれど。ぼくにとっては人たるぼくの存在を繋ぐ、糸の一本に違いないもの。

 過去を聞いたことで分かったことは、自分がまだ誰でもないということだ。

 ぼくは誰かに答えを求めることばかりを考えていた。聞けば誰かが教えてくれると。それじゃ、今までとなにも変わらない。誰かに与えられた役割。誰かに与えられた名前。それはぼくのものではないのだ。押し付けられたものじゃ駄目だ。ぼくはぼくの意志で、ぼくという人間にならなくては。

 誰にも従いたくないという感情がある。ぼくになりたいという思いがある。

 ぼくは自分だけに従う。神にも仏にも自分の運命を預けたりしない。

「誰かに動かされるのはまっぴらだ。誰かの支配にも、信仰で押し固められるのにも。ぼくは自分で考えて、自分の意志で動きたい。そうすることがぼくという人間になっていくことだと思うから。こんな状況になっているのも、ぼくがなにもできなかったからだ。ぼくはもう崇められるだけの置物じゃない」

 本田は険しい表情を少しだけ緩め、頷いた。

「教えて下さい。ぼくは彼女たちを止めたい。これ以上、憎しみを広めたくない。麻薬も、支配も、必要ないものだ。彼女たちが次の西家都になるというのなら、ぼくはそれを止める。呪いを断ち切るんだ」

「わかりました。それがあなたの決断なら、私はそれを嬉しく思います」

 本田は自らの血で指先を湿らせ、床に線を引く。簡易的な地図を描いた。

「阿弥陀堂に向かう経路は三つ。ひとつは排水路。これは水流があるために聖地側から阿弥陀堂のある地へ向かうことはできません。もうひとつは阿弥陀堂のある淵から繋がる、地下洞窟を利用したもの。地下水によって浸食され、枝分かれした空間が広がっています。聖地から直接向かえる経路になりますが、こちらは彼女らが使っているはず。途中で出くわせば、武器を持たないあなたに勝ち目はない。三つめは蔵に通じる地下道。もっとも遠回りではありますが、蔵には猟銃がある」

 ぼくらが寝泊まりした建物。ぼくの使った部屋の隣にまで繋がる秘密の道があったとは。しかし、そこまで行けるのなら。

「銃が……ぼくは彼女たちを殺すつもりはない」

「わかっています。どう使うかはあなた次第だ」

 本田は少女の手をぼくに握らせようとする。

「お連れ下さい。道はこの子が知っている」

 少女は自ら血を拭い、立ち上がる。ふらつきながらも、自分の足で立ち上がる。痛みは感じてないように、傾いだ笑顔を浮かべた。すっかり壊れた人形のようにも、健気な幼児にもみえる怪しい笑みだ。

「だいじょうぶ。わたしはひとりでもあるけるよ」

「いいのかい? 危険だと思うし、外に逃げるだけならついてくる必要はないよ」

「きょうみがあるから。あのひとたちがわたしとどうちがうのか」

 少女の意志は固いようだ。ぼくは頷いて少女の手を取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る