うなれ、おむすび

鳥辺野九

うなれ、おむすび


 高校球児の朝は早い。


 そして恋する女子高生の朝もまた早い。


 素振り特化マンと恋に恋する猪突ガール、そして甘酸っぱい告白の朝となると特に早い。


 朝。と、いうよりもようやく空が白んできた夜と朝の狭間。まだ誰にも吸われていない新鮮な空気は低く鋭い音に切り払われる。


 目がさめるようなシャープな一振り。朝靄がめくれ上がり、よどんだ空が晴れ渡る勢いのバットの素振り音。公園に響く早朝のセレモニー。


 使い込まれたバットが夜に冷やされて固まった空間を割る。


 朝露に濡れた低潅木の葉が揺れて雫が舞い散る。


 低音ボイスでさえずっていた鳩が驚いて砂埃とともに飛び立つ。


 遠くに響く新聞配達のエンジン音がご近所に朝を知らせる。


 高校球児素振り特化マンのバットはいよいよ速度を増して、早朝を終えるセレモニーはクライマックスを迎えた。


 そして少女はおむすびを結ぶ。高校球児の素振りの音が聞こえてきたら、それは試合開始の合図なのだ。


 恋に恋する猪突ガールの未来みくは隣の家の幼馴染にして素振り特化マンの蒼一郎そういちろうにココロの込もったおむすびを食べてもらいたい。そのために、それだけのために、夜明け前に起きて炊飯器とともに動き出していた。


 素振り一振りごとに朝は色濃くなる。


 一振り、夜の濃ゆい群青色がバットに切り払われる。さらに一振り、夜明けの薄白色がそろそろと移ろい変わる。もう一振り、朝の淡い水浅葱色が水に溶けるように広がる。


 すぐ裏手の公園から聞こえる素振り音に合わせて未来はうちわを振るう。炊きたてごはんはおむすびに熱過ぎる。適度に冷まさないと、想いを込めて結べやしない。


 蒼一郎の素振りが余分な夜気を吹き飛ばす。キレのある素振り音がさらに朝をくっきりと映えさせる。未来のうちわが余分な熱気を吹き払う。細やかに煽られる空気がお米を一粒一粒しゃっきりと際立たせる。


 蒼一郎の腕の張り詰めた力がほぐれて抜けた。未来の手のひらの強張った力がほつれて消えた。いい感じで気持ちが盛り上がってくる。準備は整った。試合開始だ。


 おむすびはその名が示す通りごはんを結んでボール状に仕上げたものだ。ボールの中に隠し球としてさまざまな具材を投入させることにより、いろんな変化球が楽しめるバラエティーに富んだ食べ物である。


 結んだ拳大の丸い形状からして携帯性にも優れていて、お箸もお皿も不要、そして何より上手に結ばれた逸品は片手でかぶりつけて食べやすい。


 多少オリジナルな解釈も交えているが、少なくとも未来はおむすびをそんな風に定義している。


 おにぎりの語源は鬼切り。鬼を切る役目がある。おむすびの語源はお結び。人と人とを結ぶ役割を持つ。


 だからこそ未来はおむすびを結ぶ。未来と蒼一郎の未来を結びつけてもらわなくてはならない。


 正直言って野球のことはよく知らないけど、ボールを投げたり打ったりするのが大好きな高校球児の大好物はボール状のおむすびと相場が決まってる。しかも具材は男の子が大好きな醬油味のツナマヨ。これで決まりだ。もう絶対に。


 物心ついた頃からそばにいた幼馴染。やがて花も恥じらう可憐な女子高生に成長し、朝も早よから塩の効いたおむすびを結んでくれる。そんなツナマヨ以上に想いの詰まったおむすびを食べて恋に落ちないわけがあろうか。いや、ない。


 素振りの音はますます好調のようだ。こっそり覗くまでもない。野球にあんまり詳しくない未来でも音だけでわかる。今の振りはセンター前ツーベースだ。次の振りはフェンス直撃ファールだ。たぶん。


 こっちも負けてられない。最高のピッチング、いや、オムスビングで無敵のバッターを抑え込まなくては。


 相手は食べ盛りの高校球児だ。おむすび一個の容量はごはん茶碗一杯じゃ足りない。大盛りで勝負をかける。


 いざ、結ばん。盛りに盛ったごはん茶碗を両手でホールドして小刻みに揺らす。ほんのり温かさを残すしっとりとしたごはんは、振動でその表面のごはん粒を密着させた。これでおむすびのサイズ感に当たりを出す。


 ツナマヨも登板準備完了。すでに肩もあったまってる。余分な油を落とし、マヨネーズとのバランスもばっちり「1.6 : 1」の黄金比率に計算されている。花削りのかつお節をさらに包丁で刻んでツナにまぶす。隠し味には粉チーズ。助っ人外国人のパルメザンだ。そこへ満を持して抑えのエースが登場する。出汁醤油をたっぷり三滴垂らす。完全試合ならぬパーフェクトツナマヨの完成だ。


 野生的におむすびの城壁を食い破り、城の中でこのツナマヨの存在を知った時の衝撃や如何に。


 しかしおむすびだって素直じゃいられない。そう簡単には心を開いたりはしない。


 お米の壁がもたらすおむすびの強固な防御力は、ひと齧りでツナマヨまで到達できないもどかしさを演出してくれる。それはまさしく恋の駆け引きと同レベルの攻防ではないか。女子高生は一口で身も心も許したりはしない。いやん。


 連続振動運動でごはんがお椀型に丸みを帯びてきたら、すなわちツナマヨとごはんが融合する時だ。お箸でおむすび原型の中心をほじくる。ツナマヨを格納するのにちょうどいい穴が掘れたら、高校球児に遠慮はいらない、たっぷりとぶち込んでやる。


 素振りの音もいよいよ熱を帯びている。おむすび作戦もクライマックスだ。ラップの陣を展開させ、塩を広域に配置し、さあ、出でよ、おむすび。


 ごはん茶碗から離脱するややいびつな球状の飯塊。均一にばら撒かれた塩の平原を転がり、ラップの中央に鎮座する。


 おむすび戦は短期決戦。勝負は五回だ。たった五回の結びで形作らなくてはならない。大胆さと繊細さと、相反する能力を同時に発動させて一気に圧力をかける。


 ひとっ! 大きく開いた手のひらでおむすび表面を丸く慣らす。


 ふたっ! くるり、おむすびを90度回転、さらに丸く圧縮。


 っ! 勝敗を分かつ三発目。おむすび表層はみっちり詰まり、深層はほろりほぐれるように瞬発の握力で決めろ。


 っ! 真のおむすびに海苔などいらぬ。塩だ。満遍なくまぶせ。馴染ませ。握り込め。


 いつっ! 美味しくなあれ。モエモエキュンッ、なんてゴミみたいなおまじないなど不要。これは高校球児と女子高生の真剣勝負だ。最後に気合い一発入れてやれ。


 静々とラップを剥がし、厳かにアルミホイルへ包み直す。高校球児の大好物、女子高生のおむすびの完成だ。


 さあ、行こう。青白く澄み切った早朝の、告白というマウンドへ。




 雑草化した芝生は所々剥げ枯れて、水分を失った土は固い砂漠のようで、ピッチングには少々コンディションのよろしくないマウンドに未来は仁王立ちした。


「蒼一郎っ!」


 薄っすらと汗ばんだ顔を上げるバッターボックスの蒼一郎。そこは公園の中でも彼の指定席だ。毎朝の素振りのせいで、踏み込む足の位置がきれいにえぐれてへこんでいる。


「……未来?」


 風が舞う。未来の制服のスカートが翻る。


「毎朝毎朝うるさいんじゃあ!」


 風が届く。蒼一郎の額を伝う汗が冷やされる。


「朝から寝とるおまえに言われとうない」


「朝は寝るもんじゃろ」


「早う起きて走っとれ」


「もうええ。あたしの……」


 ピッチャー、短いプリーツスカートの脚を振り上げ、大きく振りかぶって──。


「想いを込めたおむすび、受け取れっ!」


 ──投げましたっ!


 べちんっ。


 打ったあーっ!


 蒼一郎のバット一閃。未来の投げたおむすびは左打ちの蒼一郎から見て思わず手の出る真ん中高め。そこから外角低めへ逃げるようにすとんと落ちるシュート回転。


 甲子園を目指して、雨が降ろうが槍が降ろうが毎朝の素振りを欠かさない高校球児が女子高生の甘いおむすびを見逃すはずがない。


 振り抜かれたバットはおむすびの真芯を捉え、歪に潰れたアルミホイルは昇ったばかりの朝陽をきらりきらめかせる。


 渾身の一球を投げ終えた姿勢のまま、乱れた黒髪ロングストレート、跳ね上がったプリーツスカート、黒のニーハイソックスにまとわりつく砂埃、空を仰いでおむすびの行方を追う未来の瞳。


 打球は、いや、おむすびはきれいな放物線を描いてピッチャーの頭を越えて、センター前へ飛んだ。


「普通打たんじゃろー!」


 近所迷惑も省みず未来が大声を張り上げた。絶叫だ。


「すまん! あまりにええ球じゃったけえ。思わず打ってしもうた」


 蒼一郎は飛び行くおむすびの先を見上げて返した。


「あたしの想い、なしてくれる!」


「言うか、ええ球放るじゃないか」


「うるせっ、食べ物を粗末にすな!」


「おにぎりを曲げて落とすピッチングしよるおまえが言うか!」


「おにぎりちゃう! 気持ちをおむすぶ!」


「意味わからんわ!」


「ちゃんとあたしの想いを受け止めりゃええ!」


「よし! もっぺん来いや!」


「女子高生のおむすびは一回限りじゃあ!」


 五分間の仲睦まじい口論の末、未来は蒼一郎に野球部へ入れとスカウトされた。いや、違うだろ、と未来は。


 告白は次回の登板機会までお預けだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うなれ、おむすび 鳥辺野九 @toribeno9

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説