開眼!

真野てん

第1話

 ときは寛永二十年。

 肥後熊本は金峰山にある霊巌洞にて――。


 齢六十になりなんとするひとりの老剣士が山へとこもり、おのが兵法の総ざらいとして一冊の書を残そうとしていた。


「父、無二の手ほどきを受け武の道を志し、齢十三にして剣取らば、これより六十あまりを敵と切り結べど、あまねく一切を退けり……」


 洞内に響く自身の声にびっくりして振り返るものの、当然のことながらひとり。

 二日に一度、弟子に世話焼きを頼んでいるが、やはりカッコつけずに一緒にいてもらえば良かったと後悔している。


「ごほん……あー、あー、本日は晴天なり……」


 などと無駄に発声の稽古などして気を紛らわせるが、やはり怖いものは怖い。

 俗人が思い描く「剣豪」への憧憬の念を壊すわけにもいくまいと意気込んではみたものの、風が吹き、ろうそくの炎が揺れ動くたび幽霊でも出たのではないかとびくびくしている。


 しかしそこはそれ。

 これまで数々の死地にあっても、巧みに潜り抜けてきたという自負もある。

 とっとと書き終えて下山し、細川の殿さまに買い取ってもらおう。

 老剣士は奮い立ち、もう一度、力強く筆を執る。


 さて。

 これまで実戦において、生涯相手に後れを取ったことはない、ということにしてしまったが、いかがなものか。

 たしかに立ち会った相手のことごとくをぶっ殺してきた自分だが、まれに生き残った輩がないわけではない。

 そやつらがこの新しくしたためんとする「兵法書」を目にしたとき、抗議にくるやもしれん。


「……盛り過ぎたかなぁ」


 だが新免武蔵守玄信はるのぶなどと、大そうに名乗っておいて、あれとこれは負けましたってのもアレだしなぁ――まあいいか。


 と、こんな調子で筆は一向に進んでいない。

 直近の弟子たちからも、はやく下山して稽古をつけて欲しいとせっつかれている。


「しかしもうひとつこう――なんかが欲しいんだよなぁ」


 そう言って、腕を組んでは「ううん」と唸っている。

 しばらくすると、唸りは震えにとって代わり、老剣士に尿意が襲ってきた。


 これはたまらん、と、

 執筆もそこそこに立ち上がり、厠代わりに小便を引っ掛けている壁へとやってきた。

 老剣士は袴のすそをたくし上げると下帯をゆるめ、歳の割には立派な一物をぼろんと出す。


 じょぼぼぼぼ……。


 幽霊怖いもあってか溜まりに溜まっていた小便である。

 最初の出は悪いものの、勢いが付けば滝の流れのごとくである。顔の辺りにはあったかい湯気が立ち上り、放尿の快感もあって老剣士は恍惚としている。


 ぷ~ん。


 しかし老剣士は耳元の羽音に気づいて、顔をしかめた。

 ハエである。

 そりゃ厠の代わりに何度も使っていれば、さもあらん。

 普段であれば箸でもって余裕で掴んでやったものの、いまは一物で手がふさがっている。仕方なしに空いた左手で、追い払った。


 そのときである――。


「剣って両手に持ったほうが強ぇんじゃね?」


 剣聖武蔵、ここに開眼。

 さんざっぱら父、無二の二刀術を馬鹿にしていた彼だったが、自著が高値で売れるのであれば宗旨替えもやぶさかではない。


「よし。じつは昔から実戦で使ってたってことにしよう。そうだな、吉岡とやりあってたあたりでいいか。ごちゃごちゃしてたし、覚えてる奴もおらんだろう」


 かくして「五輪書」は完成し、宮本武蔵は自身の流派を二天一とした。

 現在、活躍している二刀流を冠するスポーツ選手の源流もまた、片手に一物、片手はハエを追っ払う仕草に由来するものであると覚えておいてもらいたい。


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