泡沫の夢

日景の餅小豆

第1話


 街のはずれにある古びた石造りのこの建物は、国で指折りの名工である人形技師オリバーの工房である。オリバーには二人の弟子がおり、名をマイクとケイトといった。二人は住み込みで修行していた。


「師匠。リリィを僕にください」

 何回目になるかわからない、もはや定型句とも化した言葉とともにケイトは自分の作品を差し出した。

「うちの娘を預けるには百年早いわ」

 オリバーもまた何回目とも知れない定型句を返しながらケイトの人形を受け取る。顔の造形、色の重ね方、目の表現などを厳しく見ていく。息が詰まるような時間が過ぎる。

 しばらくののち、オリバーが深いため息を吐き、深いしわが刻まれた眉間を押さえた。

「ど、どうで、しょうか」

 ケイトは緊張した面持ちでオリバーを見る。

 すると、オリバーは難しげな顔を改め、いたずらっ子のようににやりと笑った。

「合格だ。俺がお前に教えることはもうない。……ついでにうちの娘との結婚も認めてやるよ」

「本当ですか。ありがとうございます!じゃあ早速リリィに報告にいってきます」

 オリバーの言葉に食い気味に返事をするとケイトは工房に隣接する母屋へと走り出した。

「リリィ、リリィ」

「あら、そんなに慌てて、どうしたのケイト。今日もまたお父さんに当たって木っ端微塵に砕け散ったの?」

「ひどいなーちがうよ。むしろその逆。……なんと、ついに師匠に認めてもらうことができたんだ」

「まあ、ほんとうに?すごいわ。じゃあ、今夜はお祝いにしなくちゃね」

「それでね、その、僕もようやく一人前になったので……」

 歯切れ悪く、もごもごと口の中で言葉が迷子になる。しかし、男ならばと意を決し、リリィの吸い込まれるような青の瞳をじっと見つめて言葉を紡いだ。

「僕と結婚してください」

 リリィはあっけにとられた顔をしたが、不安げにこちらをうかがうケイトを見てクスリと笑った。

「ええ。もちろんよ。こちらこそよろしくお願いしますわ」


「こんなに御馳走どうしたんだ」

 今日は何かの記念日だったかとケイトの兄弟子のマイクが問う。

「ええ、今日はなんと、ケイトがお父さんに一人前と認められたのよ」

 マイクは目を丸くした。

「もう一人前になったのか。……ケイト、おめでとう」

「兄さん、ありがとう」

 ケイトは嬉しそうに答える。

「ケイトが一人前になったんだからきっとマイクもすぐに一人前になるわよね。お祝いちゃんとするから楽しみにしていてね」

「……ああ、楽しみにしているよ」

 マイクの返事にリリィは満足そうに頷いた。

「あ、そうそう、お父さん。ケイトとの結婚のことなんだけど……」

 カランとナイフが音を立てて落ちる。

「え、けっこん……誰が?」

 呆然とした顔でマイクが尋ねる。

「もちろん私よ。ケイトが一人前になったから結婚するの。……で、結婚式は半年後にすることにしたわ」

 何かおかしなことを言っただろうかとリリィは首をかしげる。

「……俺、もう戻りますね」

 明らかに顔色を悪くしたマイクが席を立つ。

「マイク」

「何ですか。師匠」

「無理しすぎるなよ」

 マイクは曖昧な笑みとともに部屋を後にした。



 リリィとの結婚が目前に迫ったある日の午後、ケイトはオリバーに連れられて他の人形技師仲間や人形や雑貨を取り扱っているなじみの商人などへの挨拶回りに出かけた。師匠の伝手を受け継ぐのも弟子の役目だとオリバーはいう。

 そんなこんなで二人が帰路につく頃には日が沈みかけていた。夕陽が空を燃えるような赤に染め上げていた。

 家ではリリィが夕飯を作って待っている。オリバーとともに自然と足が速くなる。


 家に着くころには辺りはすっかり暗くなっていた。周りの民家は次々と明かりを灯し始めていた。しかし、オリバーの家は母屋も工房にも明かりが灯されていなかった。

 何やら胸騒ぎがする。

 ドアノブをひねるとどうやらカギはかかっていないようだった。師匠と目くばせをすると、一気に家の中に飛び込んだ。


 そこには目を疑うような光景が広がっていた。

 テーブルに配膳された食器。作りたてであることが窺える湯気をたなびかせる料理たち。そして――



 そして、暗闇の部屋に静かに立ちすくむマイクとその足元の血だまりに倒れ伏しているリリィの姿があった。



 ここからどうなったのかケイトは覚えていない。悲鳴でも上げたのか、マイクを殴りに行ったのか、リリィを抱きしめたのか、はたまた呆然と立ち尽くすだけだったのか。

 ただ確かなのはオリバーが衛士を呼びに行ったこと。マイクが何の抵抗もせずすんなりと捕まったこと。リリィはすでにこと切れていたこと。

 これはケイトとリリィの結婚式を三日前に控えた日の出来事。



 リリィの葬式は彼女が世界中の誰よりも幸福になる予定だった日に執り行われた。

 ケイトはリリィがいなくなってからこわれてしまった。彼はもう正気ではなくなってしまった。リリィの跡が残るものは手当たり次第に壊すようになった。リリィが倒れていた母屋には足を踏み入れるだけで発狂し、嘔吐してしまうようになった。燃えるような夕日を見ると涙を流し、夜の訪れを恐れるようになった。寝ることができなくなった。寝てもあの光景が浮かんでしまうようだった。

 しかし、幸いなことにケイトは工房では息ができた。人形を作っている姿は一見、以前と何ら変わらないようだった。

 ケイトは工房で生活するようになった。食事などの世話はオリバーが行っていた。



「ねえ、リリィ。次はどんな人形がいい」

 彫刻刀を持ったケイトは問いかける

『次、次ね。あ、素敵なブロンド髪の女の子がいいわ』

「わかった」

 ケイトは人形を彫り始める。

『目は、そうね。緑がいいわ。そして少しつり目なの』

『お洋服はフリルがたくさんついたものがいいわ』

『髪は少し巻いていて』

 ケイトはリリィの声に従って人形を作り続ける。

「できたよ」

『まあ、すてき。想像していた以上だわ』

『さすがケイトね。私、あなたの作る人形が大好きなの』

「君の要望とあらばいくらでも作るよ」

『ふふ、そう。じゃあ次はこの子一人じゃかわいそうだから恋人を作ってあげましょ』

「じゃ、どういう子にしようか」

『次の子は……』



 ケイトが工房に閉じこもって、七年の月日がたった。彼は相変わらず工房でひたすらに人形を作っていた。

「……なあ、ケイト。この人形納品してきていいか」

 彼の人形技師の腕前は閉じこもる前よりも格段に上がっていた。それだけではない。彼の作る人形は思わず目を惹かれてしまう、どこか不思議な魅力があった。

「うん、いいよ」

 かつては人形が出来上がるたびに嬉々として見せに来ていたケイトが、今では作り終わった人形には興味がないとでもいうかのように無感動にあっさりと返事をしたことがオリバーはなんだか悲しく思えた。

 ケイトは人形を作り続けている。オリバーに無理やり食べさせられなければ食事もとらないし、睡眠もとることを忘れてしまう。ケイトは命を削って人形を制作していた。その様子はさながら悪魔に魂でも売ったかのようだった。


 そんなケイトの人形だが、市で出品されると、驚くほどの反響が寄せられた。やれ「この人形には魂が宿っている」だの「本当に生きているみたい」だの。

 ケイトの人形は市に出回るたびに町中の話題をかっさらっていた。皆ケイトの人形を欲しがり、一体の値段が初期値より五倍も六倍もするようになった。ケイトは知らず知らずのうちに憧れの存在であったマイクと同じかそれを越すほどの人気人形技師の仲間入りを果たしていたのだった。



『ねえ、ケイト』

「どうしたんだい、リリィ」

『私、長いことここにいたけど、そろそろ本当にいかなくちゃ』

「……は」

『……ごめんなさいね』

「……は、何。何を言っているのリリィ。意味が分からないんだけど」

『……』

「だめだよ」

『ケイト』

「だめだよ。だめだよ、リリィ。僕に嘘をつくっていうの」

『ケイト』

「だめだ。だめだよそんなの。僕から離れるっているの。ずっと一緒にいてくれるって言ったのは嘘だったの」

『違うわ。嘘なんかじゃ……』

「じゃあ、どうしていくなんて言うんだい」

『そうじゃなくて……』

「認めないよ。許さない。勝手に僕の前からいなくなるなんて」

『聞いてちょうだい、ケイト』

「僕は君なしじゃ生きていけないんだ。知っているだろう。君がそうしたんだから」

『私、そんなつもりじゃ』

「なかったっていうのかい。じゃあどうして君は今ここにいるんだい」

『……』

「僕を哀れんだのかい。温情のつもりかい。まさか僕を救済するつもりだったのかい」

『……ええ。ええ、そう、そうよ。私はあなたを哀れんだわ。そしてあなたを救うつもりだった。それの何が悪いの。だってあなた、私がいなかったら追いかけてくるつもりだったでしょう。前を向いて進もうとしていなかったじゃない。ずっと過去ばかり眺めていたじゃない』

『私なしじゃ生きていけない?私がいけないのはあなたのせいでもあるのよ』

『知ってる?記憶には容量があるの。記憶は引き出しから出して思い出すたびに少しずつすり減らしていくの』

『あなたはこの幻想の中でほとんどの記憶を使ってしまった。もう私から解放されなくちゃいけない』

「……やだ」

『もう限界なのよ。夢から覚める時間なの。あなたが私を残す前に私があなたの中から消えてしまう。私はなかった人になってしまう』

『ねえ、これが最後なの。本当の最後のお願いなの』

「……最後といわず、いくらでも言ってくれよ」

 いくらでも聞くから。


『私の人形を作って頂戴』

 私がいたことを形にして。



「……でき、た」

 色をのせていた筆を置き、人形を眺める。ついにリリィの人形が完成した。髪の色も目の色も顔の造形も何もかも彼女にそっくりな人形だった。体の大きさを除けば、もはやそれは彼女そのものに他ならならなかった。彼女は正しく記憶の通りの姿だった。

「リリィ」

 人形の目を覗き込み、リリィを呼ぶ。吸い込まれそうなほどに澄んだ青色のガラスの瞳が無感動にケイトを見つめ返す。

 突然、リリィとの思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。記憶が浮かんでは消え、はじけては浮かんでくる。

 ケイトは震えながら再びリリィの名を呼ぶ。しかし、その声に答えるものはもういない。リリィの声が聞こえない。もうリリィはいないのだ。もう十年も前に死んでしまったのだ。リリィが死んでからもう十年もたってしまったのだ。

 パチンっと泡がはじけるように、ケイトの意識を覆っていた靄が急速に晴れていく。同時に少女の姿も消えていく。

 目の前にある人形はただの女の子でしかなくなった。

「……っああ、リリィ、リリィ」

 嗚咽を漏らすケイトに月明かりが優しく降り注いでいた。




 コンコンと工房のドアをノックする音が響く。ぎいという音とともに姿を現したのは師匠のオリバーだった。

「ケイト。起きてるかい。ご飯、食べよう」

 部屋に入ったオリバーはケイトの姿を目にとめると息をのんだ。リリィが亡くなってからというもの、いつも何もないどこか遠くを眺めていたケイトがしっかりとオリバーを見ていた。

 体が震え、口が乾く。

「……ト、ケイト。お前、戻ってきたのか。戻ってきてくれたのか」

「はい。師匠。……ただいま、戻りました」

 十年ぶりに弟子の笑顔を見てオリバーは思わず涙がこみあがってきた。

「お前が、戻ってきてくれて本当に良かった」

 嗚咽を押し殺し、ケイトを抱きしめる。

「本当に迷惑かけてすみませんでした」

「迷惑なんて考えるんじゃねえ。俺は当然のことをしていただけだ」

「でも、師匠。なんか前より白髪もしわも増えて、あと、なんかやつれてません」

「そら、あれから十年もたてば俺だって爺さんになるだろ」

 軽口を言い合うのも久しぶりだ。どうにも歳を重ねると涙腺がもろくなるらしい。

「なあ、ケイト。酒でも飲もうや。……お前とリリィの生まれ年の奴がある」

 おそらく結婚するときに開けようと思っていたのだろう。ケイトは是非といって、栓を開けた。



 二人はリリィもマイクもいたころの思い出話に花を咲かせた。

「そういえばな、マイクだが、あいつは死刑になったよ。……あいつ、すごく穏やかな顔で逝きやがった。もう苦しまなくていいって」

 オリバーはダンっとグラスを机にたたき置いた。

「俺はよ、俺はお前たち弟子も含めて家族だと思ってた。お前たちは俺の大事な子供だったんだよ。……血のつながりがなくても俺の家族だったんだ」

 なのに誰も守れなかった。オリバーは酒をあおるようにして飲むと気絶するように机に突っ伏し寝息を立て始めた。


「師匠は、僕を守ってくれましたよ。……むしろ僕のせいであなたの幸せが崩れてしまった」

 夜が更けていく。


「人の記憶は声から忘れていくって言いますけどね、僕はもうリリィの声だけでなく、姿も何もかもが思い出せなくなってしまったんです」

 あんなに彼女の声を頼りにこの十年間生きてきたというのに、あの声にとらわれてきたというのに、もう聞こえないし、思い出せもしない。名前を聞けば胸に張り裂けそうな痛みとぽっかりとした空白を感じることができるのに、もう彼女の何もかもを忘れてしまった。僕の中の彼女は完全に消えてしまった。

 僕はこれからも足りない記憶と虚しさを抱えて生きていかなくてはならない。

 これは愛しい人を忘れてしまった愚かで弱い僕の贖罪だ。

 忘れたことを忘れないための罰なのだ。

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