鏡愛
春海水亭
時よ止まれ、お前は美しい
「赤ん坊を見て、天使みたいって言う人もいれば、猿に似ているって言う人もいますよね。私の母は後者でした」
そう言って、彼女は自嘲気味に笑う。
月の光だけを浴びてきたかのような白い肌をした少女だった。
陽の光を浴びれば雪のように溶けてしまうのではないかとすら思わせる。
濡烏の髪は腰まで伸び、少女の白い顔をより際立てている。
右目の下には黒子が二つ。
奇跡のようなバランスで配置されたそれがあるのならば、彼女はアクセサリーなぞを身に纏う必要はないだろう。
そんなはずがないのに、彼女という存在は世界で最も美しい白色と黒色だけで構成されているのではないか、そんなことすらも思ってしまう。
「赤ん坊の頃のことって何もかも忘れてしまうじゃないですか、でも私はこれだけは覚えているんです。猿みたいね、私の顔を見てそう言った母の悲しげな顔と声、私の首に絡みつく冷たくて美しい十本の指」
桜色の唇で、少女は黒い言葉を吐いた。
その言葉を聞いて、思わず私は息を呑んだ。
「勿論……母は、私を殺したりなんかしませんでした。私にとって、それが母との唯一の思い出です」
「唯一……ということは、離婚なさった……?」
答えを薄々とわかっていながらも、私はそう尋ねた。
何も知らぬ人が聞けば、これを質問と思うだろうが、私にとってこれは唯の祈りだ。
目の前の少女の母親が生きていますように――その祈りを現実的に言葉にすると、このような形になる。
「母は私を産んだ後、自殺しました」
「……お悔やみ申し上げます」
やっぱり――高校時代の彼女を思い出して、心の中で呟く。
清らかな環境の中でしか暮らせない生き物というものはいる。
彼女はたまたま人間に生まれついただけで、本質的にはそのような生き物だったのだろう。
彼女は美しく、人間社会は彼女が生きるにはあまりにも濁っている。
「……よろしければ、母について教えていただけませんか?」
桜色の唇が白い言葉を吐く。
鼓膜を優しく撫ぜるだけの、儚い声。
それは私の知っている記憶の中の彼女と全く変わらない。
「さっきも言ったように、私と貴方のお母さんは高校一年の頃のクラスメートでした」
クラスメート――そういうことにも若干の抵抗がある。
高校一年の最初の夏が終わる頃、彼女は失踪した。
それを知った時、私がどれほどの絶望を味わったことか。
友人だったわけではない、この世界に彼女と友人になれるような人間はいない。
私だって、彼女と一度言葉を交わしたことがあるだけだ。
その時の彼女は、学校の隅の誰もいない踊り場で一人、ロケットペンダントの写真を見ていた。
「何を見ているんですか?」
学校中の誰からも見られているのに、彼女自身は誰かに特別に視線をやるようなことはしなかった。
そんな彼女が、校則違反のロケットペンダントを校内に持ち込んでまで見るようなものが気になって、私は思わず声をかけてしまったのだ。
「あら」
その時の彼女の目は僅かに潤み、その頬はうっすらと染まっていた。
吐き出す言葉すら、甘く色づいているようにすら思えた。
「私……恋をしているんです」
「恋!?」
私は思わず、叫んでしまった。
彼女にそのような感情を抱かせるような存在がいるというのか。
「そっ、そっ、そっ、そっ、そっ、それは、どん、どん、どん」
「秘密です」
彼女はロケットペンダントを懐に仕舞い込み、僅かに笑ってそう言った。
「このことも――私と貴方だけの秘密ですよ」
白く細い人差し指を、唇の前に凛と立てて、美しい声でそう言った。
それは高校時代の全ての思い出よりも、私の胸に焼き付いている。
おそらく――私がおばあちゃんになって、何もかもを忘れてしまったとしても、そのことだけを覚えて生きていくのだろう。
全てが曖昧になる一瞬の永遠の中で、彼女だけを追い求めて死んでいくのだろう。
街を歩いている目の前の少女を最初に見て、私が思ったことは――ああ、そのままの彼女がいる。だった。
彼女の失踪から十七年が経っている、そのままの姿ということはありえない。
しかし、時間すら彼女を贔屓しても何らおかしいこととは思わなかったのだ。
だが、すぐに違いに気づいた。
あの少女は、記憶の中の彼女よりも小さい。
若返ったとしてもおかしくはない――が、彼女の娘であると判断するのは当然だろう。
気づくと私は仕事を放り投げて、少女を尾行していた。
何度も震えるスマホの息の根を止め、足音を殺し、死体のように物陰でじっとしていた。
彼女の家を突き止めてどうする――そんなことは考えなかった。
一瞬だけクラスメートだった関係の人間を歓迎してくれるとは思わない。
それでも、彼女がこの世界にいることを確認したかったのだ。
私にとってそれは、神が世界に存在することを証明するような行為だ。
そして、私はインターホンを鳴らし、神が死んだと知ったのである。
「私が彼女について、知っていることと言えばそれぐらいです」
「ありがとうございます、生前の母について知ることが出来ました」
少女がこくりと頭を下げる。
私は美しい人に頭を下げさせたのがあまりにも申し訳なくて土下座してしまいそうになったが、なんとかこらえることが出来た。
「よろしければ、見ていかれますか?」
鼓膜をくすぐるような声で、少女が言った。
「な、何をですか?」
「母の形見です」
それは――ロケットペンダントのことなのだろうか。
自分にそれを見る資格があるとは思えない、彼女にとって私は何でも無い存在だ。
何より死者の秘密を暴くなど――私の三十年ほどの人生が培ってきた倫理観が否定している。
そう思っているはずなのに、私は無言で頷いていた。
彼女のことが知りたい、その気持ちは新たに植え付けられた本能のように自分の中に存在している。
餓死寸前で食べ物を出されて、食べたいという気持ちには抗えないように、私は彼女の秘密を覗きたがっている。
くす。と目の前の少女が微笑む。
記憶の中から抜け出してきたように。
「では、行きましょう」
彼女が立ち上がり、白く細い手で手招く。
夕暮れ、窓という窓が厚手のカーテンで覆われ、この邸内に外からの光は差し込まない。
闇に白い肌がよく映える。
少女に導かれるままDNAの形によく似た螺旋階段を上る。
一段上る度に、悲鳴に似たきいという音を立てて階段が軋む。
「今、どこへ向かっているんですか?」
地獄ならば階段を上らないだろうが、天国に行くには段数が足りない。
思えば、最初に聞くべきか、あるいは聞くべきでない質問だったのかもしれない。
「母の部屋です」
「……いいんですか?」
「いいんですよ、それとも――今から帰りますか」
「……いえ」
階段を上り終え、廊下を少し歩いた。
「開けますね」
ある部屋の前に立って、少女が銀色の鍵を鍵穴に差し込む。
私の中の彼女は、どこまでも美しい思い出そのものだった。
良いのか悪いのか、私は彼女の中の人間に触れようとしている。
主のいないまるで高級ホテルの一室のような部屋。
よく片付いていて、埃も積もっていない。
周囲を見回す私に「毎日、掃除していますから」と少女が言った。
生活感がない。
もう、この部屋で過ごしている住人がいないから――という意味ではない。
漫画であるとか、家具の系統であるとか、飾りであるとか、そういう――部屋の住人の趣向のようなものが見えない。
いや、一つだけある。
姿見鏡だ。
全身を映す鏡に、蜘蛛の巣のようなヒビが走っている。
彼女の美を映し出す鏡の何が気に食わなかったのかわからないが、それだけが彼女がこの部屋に向けた感情であるかのように思えた。
「これを」
少女はレトロな机の引き出しを開け、ロケットペンダントを取り出して私に手渡した。
「……どうも」
じっとりと手に汗が滲んでいた。
彼女が恋した相手――嫉妬しようなどとはとても思わない、いや思うことも出来ないだろう。
彼女はこの世界に唯一人で存在する稀人のようだった。
そんな彼女がつがいに選ぶような人間とは。
心臓が高鳴り、蓋を開く指先が熱を帯びた。
「……えっ」
私が見たものは予想外のようで、しかし何よりも納得がいくような人物だった。
彼女自身の写真が、ロケットペンダントの中に入っている。
否。
そう思って、写真を見返す。
私が高校生だった頃よりも、写真の質が古い。
そして、高校生だった彼女よりも僅かに成長している。
二十歳頃だろうか、その美しさはただ完璧としか言いようがない。
「祖母です」
「……そ、そっくりですね」
「私も初めて見た時は驚きましたが……納得がいきました」
「納得とは……?」
「母は祖母と同じになりたかったのでしょう」
同じになる。
写真の女性と彼女はそっくり――どころではない、鏡に写したように瓜二つだ。
私は彼女の美が生まれつきそうであると思っていたし、目の前の少女もそうであると思っていたが、ある種の指向性があってそうしようとしていたのか。
「私は母のことが好きです」
好き。
親子愛――いや、親子愛というにはあまりにも繋がりが希薄過ぎる。
目の前の少女が覚えていることは、自身の首に絡む十本の指と「猿みたいね」の言葉だけだ。
けれど、私にはその好きの意味がわかる。
私もそうだから。
美しいものは、ただ美しいだけで好きになる。
「母も私のように祖母を好きだったのでしょう……しかし、祖母も早逝――自殺したと聞きます。だから母の求めるものは世界に存在しない……けれど、その素体は世界で一番近くに持っている」
「彼女自身が……愛するその人になろうとしたのね」
「美しいその人になれば、いつだって会える……順調にその人そのものに近づいていく……けれど、ある日母は失踪した」
歪んでいる――とは思う。
けれど、それを否定する気はない。
私はその他者愛とも自己愛ともいえない美のおこぼれに預かっている。
何故、失踪したのだろう。
私は割れた鏡を見て思う。
私は彼女が生きている時に、彼女に触れようと思えば触れることが出来た――けれど。
「貴方を産むためね」
「……鏡に手を伸ばしても、鏡の中にまでは届きませんから」
時間は彼女に対しても平等だったのだろうか。
私が老婆になるほどの時間を経ても、彼女は時が止まったかのように美しい姿のままでいたんじゃないか。
若き日に死んでしまった以上、それはわからない。
けれど、彼女は自分が若く――彼女の母のように美しくいられる内に、触れられる自分自身を作りたいと思った。
「私は父の顔を知りません、ただ美しい人ではあったようです。そして、女子高生を孕ませる程度に倫理観の無い、使い捨ててもいい人間であった、と」
「そして、貴方が生まれた……けど」
「猿みたいね」
冬の風のような声が、鼓膜を揺らす。
赤ん坊の顔なんて、誰もが皆、そんなものだ。
「母は、そして……自殺しました」
そう言って少女はロケットペンダントを取り出した。
蓋を開けば、その中には少女の母――彼女の写真が入っている。
今、私の手の中にあるものと同じ顔の写真が。
「私に、自分の写真を遺して」
なんと言えば良いのだろう。
私は言葉を探していた。
目の前でうっすらと頬を染め、瞳を潤わせる彼女になんと言えば良い。
「母は自分が一番美しい瞬間に死ぬことを選びました、美しい祖母の姿そのままに……そして、そして、私は……恋をしているんです」
思い出の中の言葉と、今の言葉が、同時に私の鼓膜を揺らした。
「私もまた、美しい母が好きでしようがないのです」
彼女はなんと残酷なことをするのだろう。
私は蜂蜜のようにねっとりと皮膚に絡みつく愛情を感じた。
母から娘に送る愛。
自分が目指すべき絶対的な目標、絶対的な美、絶対的な恋心。
「……母の話をお聞かせいただき、ありがとうございました」
少女が優雅に頭を下げる。
この瞬間にも、少女は絶対的に美しいものへの成長をし続けていくのだろうか。
「貴方はこれから、どうするんですか?」
「……私も母になろうと思います」
私にそれを止めることは出来ない。
私の心に彼女が焼き付いているように、目の前の少女の人生の全てに彼女が焼き付いているのだろう。
「――けれど」
「けれど?」
「私は母になれる自信がありません……鏡を見れば、母との幾つもの違いに気づいていきます、自身の歪みに気づいていくのです。私は猿に似ている……美しい母と違って、醜いから」
彼女は娘に呪いを遺した。
私には少女と彼女が同じ顔にしか見えないが、少女にとってはそうではないのだろう。
彼女の呪いは、あるいは少女を救うかもしれない。
私が言葉をかければ、少女は自身の母を追い求めることをやめるかもしれない。
「大丈夫、貴方はお母さんにそっくりですよ」
でも、私だって美しい彼女をもう一度見たいのです。
鏡愛 春海水亭 @teasugar3g
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