彼と彼女はマスクを外す
公園で智くんを突き飛ばしたあの日から、私は彼のことを避け続けている。
智くんにマスクを外されそうになったとき、私の脳裏によぎったのはかつてのクラスメイトの言葉だった。そんなところにホクロあるんだ、という笑みを含んだ声。マスクを取った自分の顔は、お世辞にも可愛いとは言えない。
――もし智くんに素顔を見られたら、私はフラれてしまうかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、私は彼を突き飛ばしていた。驚いて目を丸くした彼を見た瞬間、しまったと思ったけれど――それでも私は、逃げるようにその場から立ち去った。
このまま逃げ続けるわけにいかないことぐらい、私だってわかっている。彼だって、付き合っている女の顔ぐらいきちんと確認しておきたいのが心情だろう。
……でももう少しだけ、最期のときを先延ばしにしておきたい。
春休みに入ってから、私は毎日のようにバイトをしていた。制服が可愛いという不純な動機で選んだパン屋のアルバイトも、そろそろ丸一年が経とうとしている。
食べ物を扱う仕事ということもあり、しょっちゅう手に消毒液を吹きかけなければならないので、手荒れがひどくなった。智くんが好きな匂いだと言ってくれたハンドクリームを、近いうちに買い足しておかなければ。
カランコロン、と来客を知らせるドアベルが鳴って、「いらっしゃいませ」と声をかけた。入ってきたお客さんの姿を見て、私ははっと息を飲む。
「と、智くん」
「一花、バイトおつかれー。来ちゃった」
私に向かってひらひらと片手を振ったのは、私服姿の智くんだった。春らしいネイビーのブルゾンを羽織っている。塾で会うときはいつも制服の学ラン姿だから、春物の私服を見るのは初めてだ。やっぱり素敵、とこっそりテンションが上がる。
「バイトの制服、初めて見た! すげえ可愛い」
目元を緩ませながら言った智くんに、私ははにかみつつも「ありがとう」と答えた。バイトの制服であるギンガムチェックのエプロンドレスは、女の子を三割増で可愛く見せると評判だ。これを着て接客していると、お客さんから声をかけられることもたまにある。おそらく、マスクを外せばそんなこともなくなるのだろうけど。
「母さんに明日の朝メシ買って来いって言われてんだ。せっかくだし、可愛い店員さんのオススメ聞こうかな」
「そうだなあ……智くん、明太子好き?」
「好き!」
「明太子フランス、美味しいよ。あとクロワッサンが人気なの。私はクリームパンが一番好き」
「へー、じゃあそれにしよ」
智くんはトングでいくつかパンを掴んでトレイに乗せると、レジに持って行った。会計をしている私に向かって、冗談めかして尋ねてくる。
「店員さん、ほんとに可愛いね。彼氏いるの?」
「……素敵な彼氏がいますよ」
「そうなの? いやあ、店員さんすげえ可愛いから、さぞかっこいい彼氏なんだろうなー」
「もう智くん。こんな茶番やめようよ……」
「店員さん、シフト何時まで? よかったら一緒に帰らない?」
ナンパごっこの延長で、智くんがさらりと言った。ここ最近は彼と二人きりになるのを避けていたけれど、あまりにも自然な流れで誘われたものだから、私も深く考えずに答えていた。
「えーと、あと三十分で終わるよ」
「じゃ、そのへんで時間潰しとく。三十分後に迎えにくるわ。一花、バイトがんばって」
パンの袋を受け取った彼は、軽やかな足取りで店を出て行った。彼の背中が見えなくなってからはっと我に返ったけれど、当然いまさら追いかけることなんてできるはずもなかった。
ギンガムチェックのエプロンドレスを脱いでしまうと、私は三割減で可愛くなくなった。もし智くんに会うことがわかってたら、適当なパーカーとデニムなんか着てこなかったのに。溜息をついて、せめてしっかりとマスクを付け直す。
裏口から外に出ると、智くんがポケットに手を突っ込んで立っていた。「おつかれ」と言った彼に、慌てて駆け寄る。
「ご、ごめんね。待たせちゃった」
「全然待ってねえって」
智くんはそう言って、私の右手をそっと取った。何度「壊れないよ」と言っても、彼はいつもガラス細工でも触るような手つきで私の手を握る。そんな彼の優しさがくすぐったくて、やっぱり好きだな、と思う。
「……公園寄ってく?」
おそるおそる、私の反応を窺うように、智くんが尋ねてきた。夕方の公園に二人きり。彼を突き飛ばしたあのときと、同じようなシチュエーションだ。
私が一言嫌だと言えば、きっと彼は無理強いはしないだろう。それでも、私は「……うん」と小さく頷いた。
いつまでも逃げてはいられない。そろそろ年貢の納めどきだ。私はもう二度と繋げなくなるかもしれない手の温度を記憶に刻みつけるように、ぎゅっと彼の手を握りしめた。
あの日と同じベンチに、私たちは並んで腰を下ろす。三月の日没は真冬よりもうんと遅くなって、六時を過ぎてもまだまだ明るい。
もっと暗くなってくれたら顔を見られずに済むのに、と私は内心歯噛みする。あと一時間ぐらい、なんとかマスクを取らずに引き伸ばせないだろうか……。
「一花」
「はいっ」
名前を呼ばれて、私はしゃんと背筋を伸ばした。智くんはやけに神妙な表情で目を伏せている。しばらく逡巡していたようだったけれど、やがて意を決したように言った。
「……あの、いっこ確認しときたいんだけど」
「う、うん」
「い、一花は……俺とキスすんの嫌?」
不安げにそう尋ねられて、私の口からは「へっ」と間抜けな声が漏れた。
智くんとキスをするのが嫌だなんて、そんなことは全然まったくあり得ない。もしかすると彼を避ける私の態度は、彼にとんでもない誤解を与えていたのだろうか。
「……そ、そんなわけない! 全然、嫌じゃない!」
ぶんぶんと、首が千切れるんじゃないかってぐらいに全力でかぶりを振った私に、智くんは「よかったー……」と心底ほっとしたように息をついた。
私はばかだ。自分のことばっかりで、私の態度で彼を傷つけることなんて、考えもしなかった。突然意味もわからず避けられたら、いくら智くんだって不安になるに決まっている。
「ごめんね……」
私の謝罪に、智くんは「一花が謝ることじゃない!」ときっぱり言ってくれた。そっと私の手に自らの手を重ねて、こちらの顔を覗き込んでくる。なんだかマスクを透かして素顔を見られるような気がして、私は慌てて片手で口許を覆った。
「……あの、一花。もしかして……俺の前でマスク外すの嫌?」
「えっ」
突然本心を言い当てられて、私は動揺した。何も答えられずにいる私に、彼は続ける。
「いや、その……人によってはマスク外すの、パンツ脱ぐぐらいに恥ずかしい奴もいるって聞いて……もしかすると一花は、俺に素顔見られるの嫌なのかなって」
「……うん。実は、そうなの」
観念した私は、素直に首を縦に振った。そろそろ終わりのときが近づいているのかもしれない。さっきとは違う意味で、私は「ごめんね」と繰り返した。
「……私、マスクで顔半分隠してるけど……ほんとは全然可愛くないの」
「は? いやいや、そんなわけねえだろ……」
「ほんとなの! 智くんは、私の顔見たことないから……」
自分の意図に反して、じわりと瞳に涙が滲む。しまった、泣いたら余計にブスになってしまう。ゴシゴシと乱暴に目元を擦って、こみ上げてくる熱を必死で飲み込んだ。
「は、鼻の横におっきなホクロあるし……鼻は丸くて上向いてるし、歯並びも良くないし、唇の形も変だし……ま、マスクのおかげで、ブスなところが全部隠れてるの!」
「はあ……」
「……友達にも、笑われたことあるし……自分の顔見せたら、智くんに、き、嫌われるかもしれないって、思って……でも、隠してるのも、ずっと申し訳なくて」
「俺がそんなことで一花のこと嫌いになるなんて、あるわけねえだろ!」
驚くほど強い口調に、私ははっと顔を上げた。私の両肩をしっかりと掴んだ彼は、怒ったような目つきでこちらを見つめている。
「俺、一花のこと、たぶん一花が思ってる以上に好きだよ」
「智くん……」
「そりゃあ最初は女の子と仲良くなれてラッキー、ぐらいの気持ちだったけどさ……今は、一花の声とか手とか仕草とか性格とか、全部可愛いと思うし。マスクの下の顔がどんなんでも、嫌いになったりしないって自信持って言える」
きっぱりと言い切った智くんは、私の頰をマスクの上からそっと撫でてくれた。愛おしむような手つきに、私の胸の奥にぽっと熱がともる。
「でも、一花が嫌なら、無理に外さなくてもいいから。マスク外すの、人前でパンツ脱ぐぐらい嫌っていう奴もいるぐらいだし」
「……ううん」
私は覚悟を決めた。絶対嫌いにならないと言ってくれた、彼の気持ちを信じたい。マスクの紐に両手をかけた私を見て、智くんは慌てたような声を出す。
「い、一花。ほんとにいいのか?」
「だ、大丈夫。わ、私、智くんの前ならパンツ脱げるよ……!」
「いや、別にパンツ脱いでほしいわけじゃないけど……! いや、そりゃいずれはしかるべきタイミングで脱いでほしいけどさ……じゃ、なくて」
「……がっかりされたとしても、智くんには、全部見てほしいから」
私は深呼吸をしてから、ぐっと気合を入れてマスクを取った。マスクの下の素顔を、家族以外の人に見せるのは久しぶりのことだ。顔全体が冷たい外気に晒されて、なんだか落ち着かない。
完全な日没にはまだ早く、オレンジ色の夕陽が私の顔を照らしている。きっと、彼の目にも私の顔が鮮明に映っているはずだ。鼻の横のホクロも、丸い鼻も、薄い上唇も全部。
智くんは私の顔を、呆然と目を見開いたまま見つめていた。いつまで経っても何も言ってくれないので、やっぱり幻滅されたのかもしれない、と不安になる。
永遠にも感じられるような長い長い沈黙のあと、ようやく彼が口を開いた。
「…………か」
「か?」
「……可愛い! え、すげえ可愛いじゃん! びっっっくりしたー!!」
興奮気味に叫んだ智くんが、私の肩を掴んでガクガクと揺さぶってきた。至近距離でじーっと穴の開くほど見つめられて、なんだか居た堪れない気持ちになる。
「え、俺今までこんなに可愛い子と付き合ってたの!? 最高じゃん! 信じらんねー! え、どこが変なの!?」
「ほ、ホクロとか……」
「うわ、ほんとだ! こんなとこにホクロある! エッロ! ちょ、もっと見して!」
「も、もうだめです! おしまい!」
さすがに限界がきた私は、大急ぎでマスクをつけ直した。顔の半分が隠れてしまうとホッとする。智くんは「ああっ……」と残念そうな声を出した。
「いや、ほんとに可愛いじゃん……一花、誰に笑われたの? 俺、そいつのこと三発ぐらいブン殴らないと気が済まねーんだけど……」
「……冷静になってよく考えたら、笑われてはなかったかも、しれない……」
記憶が誇張されていたけれど、きちんと思い出してみれば、彼女にはそんなに馬鹿にしたようなニュアンスはなかったような気がする。ほんとに純粋に、顔にホクロがあることを指摘しただけだったのかも。
「ほら、やっぱり。だって可愛いもん」
「……その。智くんは、嫌いになってない?」
「ならない! むしろ、もっと好きになった!」
智くんは不思議だ。彼の「可愛い」「好き」の言葉だけで、今まで自分を雁字搦めに縛っていたコンプレックスが、いともたやすく解けていく。
「……ありがと、智くん。私も大好き」
素直な気持ちを伝えると、智くんは嬉しそうに「ふへへ」と笑う。どんどん身体の奥から好きが溢れてきて、衝動のままに抱きついた。彼の身体が一瞬強張ったけれど、すぐに背中に腕が回される。耳を押し当てた胸から、心臓の音が聞こえてくる。
「……あー、待って」
「うん?」
「俺もパンツ脱ぐわ」
彼はそう言って、いそいそと自分のマスクを外した。露わになった彼の口元がやたらと色っぽく見えて、なんだか恥ずかしい。目を逸らそうとしたら、顎を掴んでぐいと正面を向かされた。
「えっと、最終確認するけど」
「は、はい」
「俺とキスするのは、ほんとに嫌じゃない?」
「…………うん」
私が首を縦に振るのを確認してから、智くんは私のマスクに手をかける。薄っぺらい布が取り払われた瞬間、ぎゅっときつく目を閉じる。遮るもののなくなった唇に、柔らかなものがぎこちなく押しつけられた。
新たな生活様式における、とあるカップルのすれ違いについて 織島かのこ @kanoco
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