彼は彼女にキスがしたい

 一花に出逢うまで、俺は男子校に入学したことを全力で後悔していた。

 右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても男しかいない。学食のおばちゃん(58)が天使に見え始めた頃、これはやばいぞと俺はさすがに焦った。

 とはいえ、出逢いなんてそこらに転がっているものではない。そもそも中学時代から、俺には女友達なんてほとんどいなかった。周りの男どもはみんな女っけがなく、紹介なんてしてもらえるアテはない。バイト先のラーメン屋は、バイト仲間も客も男ばかりだ。俺はこのまま男に囲まれて青春を終えていくのか……なんて諦めかけていた、そのときだった。

 夏休み明けの二学期から、俺は学習塾に通い始めた。授業についていけなくなり、ガクッと成績が落ちたからだ。受験に合格して、油断して遊び呆けていたツケが回ってきたのだろう。

 塾に足を踏み入れた瞬間、同世代の女子がいる、という事実に俺のテンションは爆上がりした。正直マスクをしているからよくわからなかったのだけれど、どの子もみんな可愛く見える。おかえりなさい、俺の青春。

 浮かれた俺が、たまたま最初に話しかけたのが一花だった。他の女子は大抵何人かで群れていたけれど、一花はぽつんと一人で座っていて、声をかけやすかったからだ。最初は、それ以外の理由なんてなかった。


「隣、座ってもいい?」

「うん、どうぞ」


 顔を上げた彼女の顔は、マスクで半分隠れていたけれど、瞳がぱっちりと大きくて可愛かった。シャーペンを握る手が小さくて、なんだか無性にドキドキした。


「俺、今日が初めてなんだ。だから全然知り合いもいなくて緊張してる」

「そうなんだ。大丈夫、私なんてもう半年も通ってるのに、いまだにここに友達いないよ」


 うわ、声も可愛い。母さんと学食のおばちゃん以外の女子と言葉を交わすのが久しぶりすぎて、俺の心はふわふわと浮き上がった。

 それからも俺は、一花と親しくなれないかと虎視眈々とチャンスを狙っていた。彼女に会えると思うと、塾に行くのも全然苦にならなかった。一緒に帰ろう、とか、送っていくよ、とか言ってみようかと何度も思ったけれど、結局勇気がなくてできなかった。

 その時点で俺が彼女に抱いていたのは、輪郭のない淡い感情だったけれど、それが恋に変わるのはそんなに難しいことじゃなかった。

 小さくて柔らかくて、少しひんやりとした手から、甘い匂いが漂ってきたとき。耳を真っ赤に染めた彼女に、ぎゅっと手を握られたとき。「だめ?」と小首を傾げた彼女の大きな瞳に、自分の間抜けヅラが写っているのを見たとき。

 俺はいともたやすく、彼女に恋をした。




 上映前のシアターは、オレンジがかった柔らかな照明に照らされている。フカフカの椅子に背中を預けた俺は、彼女の横顔を盗み見た。隣に座った一花は、小さな手でポップコーンをひとつ掴んで、器用にマスクの下に差し込んだ。ほんの一瞬だけ、柔らかそうな唇がマスクの隙間から覗いて、俺の心臓は大きく跳ねる。

 ……なんだか、見てはいけないものを見てしまったような気がする。

 マスクの下の彼女の素顔を、俺はまだ知らない。一花は食事のときも写真のときもビデオ通話をするときも、頑なにマスクを外そうとしないのだ。


「智くん、どうかした?」


 ぼうっと見惚れていた俺に、一花は不思議そうに首を傾げた。俺は「なんもない」と答えて正面に向き直り、マスクをずらすと自分のアイスコーヒーのストローを咥える。


 俺――甲斐智樹が、琴井一花と付き合い始めてから三ヶ月が経った。

 俺たちは勉強やバイトの合間を縫ってデートを繰り返している。今日は映画デートだ。二人が好きな漫画原作のアニメ映画が上映されるとのことで、ずっと前から楽しみにしていた。

 一花はおとなしいけれど素直で優しい女の子で、音楽や漫画の趣味も合う。俺のつまらない話にも笑ってくれるし、ふと沈黙が訪れた瞬間にも居心地が悪くならない。

 俺は全身全霊で、可愛い彼女がいることの喜びを噛み締めていた。これから一生かけて、世界で一番大事にしよう。

 そんな至極順調でハッピーな交際を続けていた俺だったが、最近はひとつの悩みを抱えるようになっていた。


「映画、楽しみだね。原作でも好きな話だったから嬉しいなあ」

「予告見たけど、すげークオリティ高そうだったよな」

「昨日の夜、コミックス読み返して予習してきたの……! あードキドキする」


 珍しく興奮気味にはしゃぐ一花が可愛くて、こっそり笑みを溢す。「主題歌も合ってていいんだよなー」なんて雑談に乗じて、椅子の脇に置かれた彼女の手に、自分の手をそっと重ねた。一花の小さな手は、俺の手に覆われてすっぽりと隠れてしまう。なんだか胸の奥がうずうずする。

 チラリと彼女の様子を窺うと、セミロングの髪から覗く耳がほんのり赤くなっていた。そんなところも可愛かったけれど、俺はもう手を握るだけでは満足できなくなっている。

 そのときシアターの照明が落とされて、辺りは闇に包まれた。巨大なスクリーンに、近々公開される作品の予告が流れ出す。本編はまだまだ始まらないので、俺は一花の横顔ばかりをじっと見つめていた。

 幸いなことに周囲に人はほとんどいないし、おあつらえむきに薄暗い。もしかしてこれはチャンスなのでは、と一瞬身を乗り出しかけて――ぴたりと動きを止めた。

 ……ダメだ。マスクが邪魔だ。

 彼女小さな顔の半分を覆う、大きな白いマスク。ほんの薄っぺらい布一枚だというのに、唇への道のりはあまりにも遠い。この状況で「マスク外して」って言うなんて、キスしたいという下心が丸出しだ。

 挙動不審な俺に気付いたのか、こちらを向いた一花がキョトンと瞬きをする。俺は諦めて座席に背中を預けると、こっそり溜息をついた。

 一花と付き合い始めてから、はや三ヶ月。俺はそろそろ、彼女とキスがしたい。




 二時間の映画を終えたあと、俺たちはカフェで映画の感想を言い合って、一花を家まで送っていくことにした。三月になってもまだ寒さは厳しく、春物らしい薄手のコートを羽織った一花は「失敗したあ」としきりに後悔していた。

 しっかりと繋いだ彼女の手は冷たい。もしかすると俺の手が熱いのかもしれない。

 彼女の家の近くまで来ても、なんだか離れがたくて、「そこの公園でもうちょっとだけ話そうぜ」と誘ってみた。彼女も「うん!」と頷いてくれた。同じ気持ちでいてくれることが嬉しい。

 ホッカイロ代わりに自動販売機で温かいミルクティーを買って、ベンチに並んで腰掛ける。西の山の向こう太陽が沈んでいくにつれて、空の色が淡い紫色に染まっていく。

 彼女の手を温めていたペットボトルのミルクティーは、やたらと甘ったるかった。「飲む?」と差し出してみたけれど、一花は「ううん」とかぶりを振る。もしかしたらマスクを外してくれるかも、という下心があったので、俺は内心がっかりした。

 このご時世だし、回し飲みはしたくないのかもしれない。唇を直接くっつけるのはセーフかな、と考える。別に、まだ舌入れたりしないし。

 こてん、と小さな頭が、俺の肩に寄りかかってくる。サラサラの黒髪から、ふんわりと甘いシャンプーの匂いが漂ってくる。幸せな重みに酔いしれていると、「ふふ」とくぐもったような笑い声が聞こえてきた。


「……どうしたの?」

「ううん、幸せだなーと思って。……大好きだよ、智くん」


 一花はそう言って、へにゃりと眉を下げて笑った。

 俺は今このときほど、マスクの存在を呪ったことはない。可愛い彼女のマスク越しではない笑顔を、この目で見てみたい。マスクの向こうにある唇に、今すぐキスしたい。

 思わずがしりと彼女の両肩を掴むと、一花の身体が緊張に強張った。マスクの紐にゆっくりと手をかけると、大きな黒い瞳が戸惑ったように揺れる。


「あの、さ……」

「と、ともく」

「……これ、外してもいい?」


 ぐい、と彼女のマスクの紐を引く。しんと静まり返った夕暮れの公園に、俺の心臓の音だけが響いている。もう我慢の限界だ。

 邪魔な薄い布を剥ぎ取ろうとしたところで、どんっ、と胸を押された。か弱い力だったけれど、一花が俺を突き飛ばそうとしたのだと、一瞬遅れて気付く。


「や、やだ……」

「い、いちか」

「やだ、嫌だよ。絶対むり」

「あ……」


 一花は両手を突き出したまま、ふるふると力いっぱい首を横に振った。彼女の黒い瞳に涙が浮かんでいるのを見た瞬間、のぼせていた頭がすうっと冷えていく。それは、誰が見ても明らかな拒絶だった。


「……ご、ごめんなさい、智くん。私、帰るね」


 一花は目元を拭って立ち上がると、足早にその場から走り去っていった。ひらひらとしたロングスカートが揺れるのを、俺は呆然と見送ることしかできない。

 ……キスしたいと思っていたのは俺ばかりで、彼女は全然まったく、そんなことを考えていなかった。

 ちょっと焦りすぎたか。いやでももう三ヶ月だぞ。もしかしていざとなったら、やっぱり気持ち悪いと思われたのかな。鼻息とか荒くなってたのかも……。


「……あー、最悪」


 がっくりと肩を落として、両手で顔を覆う。そのまますっかり陽が落ちて、辺りが真っ暗になってしまうまで、俺はその場から動けずにいた。

 




「はー……キスしてえ」


 机に頭を預けて呻いた俺の頭に、ゴスッと容赦のない肘鉄が落ちてきた。「イテェ!」と叫んで身体を起こすと、友人であるつつみ瑛介えいすけがジト目でこちらを睨みつけていた。


「なんだ、その羨ましすぎる悩みは」

「いや、ほんとに真剣に悩んでんだってば」

「この空間じゃ誰も共感してくれないぞ」


 まあ、そりゃたしかに。男子校とはいえ一部のイケメンリア充には彼女がいるものの、俺の周囲はそういうタイプじゃない。俺に可愛い彼女ができたのは、紛れもなくこの世の奇跡である。

 昼休みの教室は騒がしく、共学ではとても口にできないような下品な話題もあちこちから聞こえてくる。期末テストを終えて春休みを間近に控え、なんだかみんな浮かれているみたいだ。本来ならば進級を控えしんみりしてもいいところなのかもしれないが、進学コースである俺はクラス替えがない。来年も再来年も、毎日同じメンツで顔を突き合わせなければならないのだ。


「……なあ。みんなどうやってチューしてんの?」

「知らん、俺に聞くな。立派な彼女いない歴十六年だ」


 堤は胸を張って答えた。俺だってつい三ヶ月前までは同類だったのだから、堤を馬鹿にすることなどできるはずはない。


「俺、マジでもうフラれるかも……」

「なんだよ。ついこないだまで順調そうだったろ」

「いや、もうヤバいんだって……やらかした」

「なんかあった?」


 俺の悩みの深刻さがようやく伝わったのか、ようやく堤が話を聞く体勢になってくれた。


「……こないだデートの帰りにさ。公園で二人きりで、〝智くん大好き〟とか言われてさあ……いい感じになったから、チューしようと思ったんだよ」

「なんだ、惚気か。解散解散。お疲れ様でした」

「待て、待て待て! ここから急転直下だから! とんでもねえ不幸が降りかかるから! もうちょっと聞いて!」

「チッ。続きどうぞ」

「でもさ、キスするならマスク邪魔じゃん。外してもいい? って聞いたら……いきなり突き飛ばされて、やだって泣かれてすげえ拒否られた……」


 あのときのことを思い出すだけで、腹の底がじりじりと焦げつくような後悔に苛まれる。

 あれから一週間が経ったが、俺と一花のあいだにはなんとなく気まずい空気が漂っており、二人きりになるのをやんわりと避けられているような気がする。

 あんなことしなけりゃよかった。いやでも、やっぱり俺はどうしても一花とキスしたい。次にチャンスがあったら、俺はたぶん同じことをしてしまうと思う。

 一花が嫌がることは、もちろんしたくないけれど――彼女はキスするのさえ嫌な男と、付き合っていて本当にいいのだろうか。

 堤はげんなりした顔をしつつも、ちゃんと俺の話を聞いてくれた。しばらく考え込む様子を見せたあと、ぽつりと呟く。


「甲斐の彼女ってさ、こないだ会ったときずっとマスクつけてたよな」

「へ? ああ、うん」


 半月ほど前、堤を含む友人たちと一花を引き合わせたことがある。引っ込み思案な一花は緊張して口数が少なかったけれど、女に飢えた男どもはハイエナのように「女友達紹介して!」と一花に詰め寄っていた。その光景を見た俺は、二度と彼女を友人に会わすまい、と心に決めた。


「メシ食ってるときもずっと外してなかったから、ちょっと気になってて。写真とか見ても、いっつもマスクつけてるし」

「絶対外さねーんだよ。俺も外したとこ見たことない」

「それってさ。甲斐の前でマスク外すの嫌だったんじゃないの?」

「え?」


 予想外の指摘に、俺はぽかんと口を開けた。堤は自分のマスクを指差しながら続ける。


「これ、ないと落ち着かなくなってるだろ。高校入ってからの知り合いって、みんなこの状態しか知らないし。マスク外して顔見せるの、嫌じゃない?」

「……俺、あんまり気にしたことなかった……」


 たしかに普段はずっとつけたままだけれど、家族や友達の前では普通に外すし、別に素顔を見られてもなんとも思わない。一花は恋人なんだから、なおさらだ。

 それでも、一花にとっては違ったのだろうか。俺に、顔を見られたくなかったのだろうか……。


「少なくとも俺は、人前でマスク外すの嫌なんだよな。もはやパンツみたいな感じになってるし。顔パンツ」

「……ってことは俺……無理やり彼女のパンツ脱がそうとして泣かせたってことか……!? なんだそれ、最低じゃねえか……!」


 頭を抱えてジタバタと苦しむ俺に、堤のやたらと冷静な声が飛んできた。


「いや、おまえの彼女がどう思ってるから知らんよ。本人に確認すれば。普通におまえとキスするのが嫌だった可能性もあるし」


 容赦のない堤の言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。……うわ、そっちのがだいぶ嫌だな。

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