新たな生活様式における、とあるカップルのすれ違いについて

織島かのこ

彼女は素顔を見せたくない

 毎日のように顔を合わせているクラスメイトの大半の素顔を、私は知らない。


 二年前ほど前から流行した未曾有のウィルスにより、これまでの生活が一変した。慣れというのは不思議なもので、うんざりすることもあるけれど、不自由で窮屈な毎日にも、それなりに順応しつつある。

 私が高校に入学したときには、顔の半分をマスクで覆い隠すのがもう当たり前になっていた。仲良くなったクラスの子たちと、初めてお昼ごはんを一緒に食べたとき、正面に座っていた女の子が、マスクを外した私の顔をまじまじと見つめて、言った。


一花いちかちゃん、そんなところにホクロあるんだ」


 私は鼻の横あたりに、ちょっと大きめのホクロがある。他の女の子たちも私の顔を見て「ほんとだー」と口々に言った。じろじろと無遠慮な視線が突き刺さって、妙な居心地の悪さを感じた。

 ――ああ、知らなかった。私のホクロ、変なんだ。

 当たり前に顔を露出していたときはなんとも思わなかったのに、改めて指摘されると、急に恥ずかしいような気持ちになる。その日は猛スピードでお昼ごはんを食べて、すぐにマスクを付け直した。

 家に帰ってから、マスクを外した顔を洗面所の鏡に映して見た。目の大きさや形なんかは、そんなに悪くないと思う。でもよく見ると鼻は丸くてちょっと上向きだし、上唇がやたらと薄いし、歯並びだってそんなに良くない。

 何より問題はホクロだ。鼻の横に鎮座する黒いホクロは、存在感がありすぎる。

 それからというもの、私は人前でマスクを外すのを極端に嫌がるようになった。お昼ごはんのときも、友達と写真を撮るときも、ずっとつけたままだ。息苦しいときもあったけれど、自分の顔の難を隠してくれるマスクの存在が、私にとってはありがたかった。




 塾講師の板書は、学校の先生よりもうんと速い。猛スピードで進んでいく授業に置いていかれないように、私は必死でノートを取り、講師の話を頭に詰め込んでいく。

 講師の「じゃあ今日はここまで」という声とともに、私は詰めていた息をはーっと吐き出した。来週は高校の期末テストもあるし、ここで頑張らなければお小遣いが下げられてしまう。


琴井こといさんって、手ちっちゃいよな」


 突然そう声をかけられて、私はふと隣に視線をやった。黒の学ランを着た男の子が、頬杖をついてじっとこちらを見ている。

 声の主は甲斐かい智樹ともきくん。彼と私と同じ塾に通う、同い歳の男の子だ。

 甲斐くんは男子校に通っているらしく、「女子がいる空間って最高! 女子と同じ空気吸ってるってだけで幸せになれる!」なんてことを言いながら、ときおり話しかけてくる。私はどちらかといえば人見知りだし、男の子の友達なんてほとんどいない。けれど、人懐っこい甲斐くんとは話しやすくて、私は彼のことを「ちょっといいな」と思っていた。


「俺の半分ぐらいしかないじゃん。飴のつかみ取りとかするとき、不利だね」


 そう言って、甲斐くんはアハハと声を立てて笑う。私は彼のマスク越しの笑顔しか見たことがないけれど、目がきゅっと細くなって結構可愛いと思う。私も笑みを返したけれど、マスクをしているから伝わらなかったかもしれない。


「そんなに小さくないよ。周りにもっとちっちゃい子もいるし……」

「まじ? よっしゃ、じゃあ勝負だ」


 彼は自分の右手を広げると、私の目の前にぐいと突き出してくる。おそるおそるてのひらを重ねると、彼は「やっぱちっちぇー」と声をあげた。


「琴井さんの手、なんかいい匂いする」

「な、なんだろう。ハンドクリームかな……」

「なんか美味そうな匂い。母さんがクッキー作るときの匂いだ。俺、この匂い好きだな」


 好き、という言葉に、胸がきゅんと高鳴る。バニラの香りのハンドクリームを塗っていてよかった。友達から誕生日プレゼントに貰ったものだけど、同じブランドのものをリピートすることにしよう。


「か、甲斐くんは手大きいね。部活とかやってるの?」

「中学まではバレーやってたよ。今はなんも。塾ないときはバイトばっかしてる。駅前のラーメン屋」

「そうなんだ。私も、ここの近くのパン屋さんでバイトしてるよ」

「まじ? 今度行ってもいい?」

「い、いいよ!」


 会話を交わしながらも、二人の手は重なったままだ。恥ずかしいけれど、私から離れるのはちょっと嫌だ。誰もいなくなった講義室で、私たちはぎこちなく互いの手を重ね合わせている。

 甲斐くんの手は大きくてごつごつしていて、ちょっと硬い。触れ合っている面積はさほどでもないのに、なんだか心臓がドキドキしてきた。なにせ男の子の手を気軽に触ったことなんて、ほとんどない。

 ――もうちょっとだけ、触れてみたいな。

 私は勇気を出して、彼の手を握りしめた。きゅっと指を絡めると、甲斐くんが「うわっ」と慌てたような声をあげる。みるみるうちに顔の温度が上がったけれど、マスクをしているおかげで、きっと私の頰が赤くなっていることはバレていないはずだ。


「……こ、琴井さん……」

「…………だめ?」

「……ずるい……今の、めっちゃキュンとした……」


 甲斐くんの指がゆっくりと折り曲げられて、私の手を握り返してくれる。感触を確かめるように優しく握られて、心臓の鼓動が早くなった。


「うわ、やらか……」

「…………」

「なんか、ぎゅってしたら折れそう……」

「お、折れないよ……」


 私が言うと、甲斐くんはほんの少しだけ手に力をこめたようだった。それからこっちを窺うみたいに小首を傾げて、自信なさげな音量で尋ねてくる。


「あのさ、琴井さんさえよかったら、なんだけど……」

「う、うん」

「…………つ、つきあう?」

「……………………つきあう」


 こくんと首を縦に振ったわたしに、甲斐くんは「やった!」と嬉しそうに目を細める。繋いだ手をぶんぶんと振りながら、笑みを含んだ声で言った。


「琴井さん、耳真っ赤だ」


 しまった。赤くなった耳はマスクでは隠れない。

 でも、目の前にいる彼の耳も真っ赤に染まっていることに気付いた私は、「そっちこそ」とやり返した。それから私たちはお互いにマスク越しの顔で笑い合って、手を繋いだまま講義室を出た。

 かくして、私――琴井一花に、生まれて初めての恋人ができた。

 




「腹減ったなー。一花、なんか食って帰らねえ?」


 塾が終わると、彼たちはいつも肩を並べて帰路につく。二月の夜は凍てつくような寒さで、私たちはひとつの手袋を分け合って、残りの手をしっかりと繋いだまま歩いていた。小さな私の手は、彼の手にすっぽり覆われてしまう。


「あ、でも一花んち晩飯あるんだっけ」

「ううん。今日はお父さんもお母さんも仕事で遅くなるから、適当に買ってこいって言われてる。智くんとごはん食べたいな」

「まじ? じゃあそこのファミレス行こうぜ」


 私たちの交際は順調で、週に二回の塾の日だけでなく、お互いのバイト先に顔を出したり、休日に二人でデートをしたりしている。

 彼は私を「一花」と、私は彼を「智くん」と呼ぶようになった。恋人と名前で呼び合うのは、なんだか特別な感じがしてくすぐったくて嬉しい。付き合って二ヶ月が経つ今でも、新鮮な気持ちで毎日ドキドキしている。

 ほとんどお互いのことを知らない状態で付き合い始めたけれど、智くんのことを知れば知るほど、私は彼のことを好きになった。彼は「塾では猫かぶってたから、俺の本性知ったら嫌われるかも」なんてことを言っていたけれど、全然そんなことはなかった。明るくて前向きなところも、意外と口が悪くてやんちゃなところも、全部好き。


 帰り道にある駅前のファミレスに入った私たちは、四人掛けのボックス席に向かい合って座った。智くんは「何にする?」と言って、メニュー表を差し出してくれる。

 彼と食事をするときのメニュー選びは、私にとって一大ミッションである。おなかは空いていたし、海老グラタンあたりをガッツリ食べたい気分ではあったけれど、そういうわけにもいかない。吟味の結果、サンドイッチとオレンジジュースを選んだ。


「一花、そんだけでいいの? 少食だよなー」


 智くんの言葉に、私は「うん」と言葉少なに返す。ほんとは全然、少食なんかじゃない。同世代の女の子に比べても、私はよく食べる方だと思う。それでも私は彼の前で、ちゃんとごはんを食べたことがなかった。

 ほどなくして、私たちのテーブルにサンドイッチとチーズハンバーグが運ばれてきた。智くんは「いただきます」と言って、つけていたマスクを外す。私はマスクをつけたまま浮かせて、素早くサンドイッチを口に運んだ。こうすれば、顔を見られずに済む。

 あっというまにサンドイッチを食べ終えた私は、チーズハンバーグを食べる智くんの顔を見つめる。こうして真正面から彼の素顔を見るのは、初めてじゃない。マスクを外した智くんの顔も、とても素敵だと思う。大きな口をぱかっと開けると、八重歯が覗くところも可愛い。それにひきかえ私ときたら、とまた気分が落ち込んだ。

 私は付き合って二ヶ月が経つ今も、彼の前でマスクを外せない。彼に素顔を見られたくないからだ。

 マスクをつけた私の顔は、自分で言うのはなんだけれど、まあまあ平均以上に擬態できていると思う。マスクに隠されていない、目や耳なんかのパーツは、そんなに悪くないのだ。

 でも、マスクを取ったら全然だめだ。だからきっと、マスクを外した顔を見たら――智くんは、がっかりするに決まっている。


「ごちそうさまでした!」


 マスクを付け直した智くんが、両手を合わせて言った。こうしてちゃんと「いただきます」と「ごちそうさま」を言うところも、彼の好きなところのひとつだ。

 彼はテーブルに頬杖をつくと、「そういえば」と唐突に切り出した。


「俺の高校の友達が一花に会いたいって言ってんだけど……どうする? 一花が嫌なら全然断るよ」

「えっ。智くんのお友達?」

「あいつら、女に飢えた獣だから……可愛い女子と喋りたくてしゃーないんだよ」

「あ、会うのは全然構わないけど……私可愛くないから、きっとがっかりされると思う」


 私が慌てて言うと、智くんは「はあ?」と不満げに唇を尖らせる。


「ちょっとちょっと、俺のカノジョのこと、悪く言うのやめてもらえますー?」

「へっ、いや、あの」

「言っとくけど俺、マジで最初っから一花のこと可愛いと思ってたから! 絶対仲良くなりたくて、隙あらば話しかけてたし! だからあのときぎゅって手握られて、完全に堕ちたね」


 当時のことを思い返して、かあっと耳が熱くなる。引っ込み思案な私が、よくあんな大胆なことができたものだと自分でも思う。

 きっと、マスクをしていたおかげだ。マスクで顔を隠していなければ――例えば丸い鼻とか、薄い上唇とか、大きなホクロを露わにしていたならば――私は彼に積極的にアプローチなんてできなかった。そもそも、彼に「可愛い」と思ってもらえることなんて絶対になかっただろう。


「でも、他の奴らが一花のこと好きになったら困るなー。一花、学校でもモテるっしょ?」


 そんな私の気持ちなどつゆ知らず、智くんはそんなことを言っている。彼は本当にどうかしている。私みたいな地味な女、マスクをしていたってモテるはずがないのに。


「ぜ、全然まったくモテないよ……! みんな、私より可愛い子ばっかりだし」

「え、嘘ぉ? そんなことある? もしかして、アイドル養成学校にでも通ってんの?」

「もう! からかわないで!」


 真っ赤になって抗議すると、智くんは「ごめんごめん」と肩を揺らして笑った。

 可愛いと言ってもらえるのは嬉しいけど、それと同時に、なんだか彼のことを騙しているような、薄暗い罪悪感を覚える。彼のことを好きになればなるほどそれは大きくなって、胸が押し潰されそうに苦しくなる。


「なんかデザート食いたくなってきたな……なあ一花、ティラミス半分こしよう」


 ――ごめんね、智くん。私ほんとは、全然可愛い女の子なんがじゃない。

 私のことを可愛いと言って笑いかけてくれる彼は、マスクを外した私の素顔をまだ知らない。

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