#44 後日、私が思うことには

 6月14日。

 ホテル・ラトゥール802号室で別れて以降、私は、アーネストには会っていない。

 ラシェル・ボネールが出頭したという話で盛り上がり、ザザ・レスコーについて一頻ひとしきり語り尽くした、サンカン夫人が「くたびれた、もうヘトヘトよ」と言ったので、私はアーネストを残して、先にホテルを退散したのだ。

 

 その日の夜、アーネストは帰ってこなかった。

 深夜を過ぎ、翌朝を迎え、2日経ち、3日経ち、1周間が過ぎた。

 アーネストが帰ってこないまま、早数ヶ月が経とうとしている。

 帰ってくる様子はない。

 しかし、あの男の場合、いつここにひょっこり帰ってきてもおかしくないと思えてならない。

 だから、部屋はそのままにしてある。


 季節は巡る。

 10月も1週間も前に迫ると朝夕は冷え込む。日が落ちるのも早い。

 書店で見かけた雑誌の表紙に、久しぶりにザザ・レスコーの名前を見て、興味惹かれた私は、その雑誌を手に取って、家に帰ってきたところだ。

 玄関のポストに入っていた封筒の束を持って、リビングに入った私は、ソファに腰を掛けた。

 

 マルタン・ロンダが亡くなって、結局のところ、一番得をした人物は誰だろうと考えた。

 天国劇場テアトル・ド・シエルの舞台上で起こったマルタン・ロンダ殺人事件は、往年の大女優が真犯人だったということもあり、世間にセンセーショナルな話題をもたらした。

 殺害に利用されたエドモン・ティオゾのみならず、ザザ・レスコーも一躍時の人となった。


 雑誌をめくる。

 ザザ・レスコーが出演する新作舞台のポスターに描かれている女性の肖像は、無論ザザをモデルにしている。ポスターの中のザザは、やはり天使のように微笑んでいた。


 「虚構フィクション」という言葉が頭の中には浮かんでいた。




 封筒の束のなかに一枚、はがきが挟まっていた。

 何の気無しに手に取る。

 表には「週末帰る」とだけ書かれていた。

 裏を見ると、アーネスト・バートラムと書かれていた。住所はない。

 消印を見ると、イオネスコとある。イオネスコはパリから南へ機関車で2日ばかり離れた湖畔にある都市だ。プランセール観光でも楽しんでいるのか――。


「勝手にしろ!」


 私は、部屋にひとりしかいないにも関わらず、思わず声を出してしまった。

 はがきをテーブルの上に投げ出し、ソファの背凭れに身体を預けた私は、天を仰いだ。


――どうでもいい!


 どうでもいいと頭の中では理解しているのに、にやにや笑ってしまうのは、なぜなんだろう。

 私には、自分という人間が分からない。

 自分の気持ちが分からない。

 自分が分からない自分の見ている世の中の事実など分かるはずもないんじゃないか。


 「虚構フィクション」。


 私は、「事実」と信じているにすぎない「虚構」を生きているのにすぎないのかもしれない。 

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テアトル・ド・シエル殺人事件 江野ふう @10nights-dreams

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