母の始まり

増田朋美

母の始まり

寒い季節は少しずつ陰りを見せ始めてきて、だんだん暖かい日差しがたっぷりと降り注ぐような季節になってきた。そうなると、冬は終わりを告げて、春がやってくるんだな、と、思われる季節である。

さて、その日。伊能蘭は、赤ちゃん服の専門店を訪れていた。と言っても、子どもを持ったことのない蘭に、赤ちゃん服を選ぶのは、難しいものであった。蘭は、とりあえず、これでいいのかなと、赤ちゃん服の一つを取ってみたところ、

「どうも、派手すぎですね。赤ちゃんにそんな派手な物を着せるんですか?」

と、声がしたので後ろを振り向くと、ジョチさんと杉ちゃんがいた。

「ど、どうしたんだよ!杉ちゃんたちがこんなところで!」

蘭は、驚いて、そうきくと、

「はい。僕達は、沢村貞子さんに頼まれて、太君の服を買っているところです。」

「それより、蘭がどうしてこの店にいるんだ?子どもはいなかったはずだけど?」

ジョチさんと杉ちゃんに言われて、蘭は、嫌な顔をして、

「はい。あのね、僕のもとに来ている、お客さん夫婦に赤ちゃんが生まれたんです。それで、出産祝いを送ろうと思ったんだよ。」

と、正直に答えた。

「それにしては、赤いTシャツは、派手すぎるのではありませんか?あの、坊っちゃんに出てくる赤シャツ先生でもないですし。生まれたばかりの赤ちゃんに赤シャツは、似合いません。」

ジョチさんにそう言われて、蘭は、なんでこういう事を言われなければならないのかと思う。

「なんで、波布にそう言われなければならないんだ!」

「まあまあ、それで、男の子が生まれたの?」

杉ちゃんに言われて、蘭は、そうだよと答えた。

「だったら、やっぱり派手すぎだ。人生の出発には、地味な方がいいって言うじゃないか。学校の制服だってそうだろう?だから、青とか紺とか、そういうシャツを上げるのがいいんだよ。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「それに、季節的にも、赤シャツは似合いません。これから春になるわけですし、赤という色は、そのような季節には全く向いてないですよ。」

ジョチさんに言われて、蘭は、仕方なく赤シャツをもとにあったところに戻した。

「じゃあ、この青いシャツにするよ。」

蘭が、青いシャツを取ると、

「そうそう。それがいい。ひょっとして、赤ちゃんの名付け親にでもなるのかな?それはおめでとうございます。」

と、杉ちゃんが言った。

「ふたりとも、変な事言わないでくれ。もう、赤ちゃんの名前は決まってしまっている。名前は、野口正人くんだそうだ。なんでも、生まれて男の子だったら、必ず正人くんと名付けるとそのお客さんが言ってた。」

と、蘭は、杉ちゃんに言った。確かに、お客さんが、そう言っていた。赤ちゃんが男の子なら、正人くんという名前にすると。最近は、生まれる前から、性別がわかる様になっているから、それで、ある程度は、予測が着いていたようである。

「そうなんですね。蘭さん、結構そういう人生で重大な役目を引き受けるんですね。まあ確かに、美容整形に行けなくて、刺青でリストカットの跡を消したり、虐待の跡を消したりする人は、確実に増えてますね。」

ジョチさんは、冷静に言った。蘭は、この二人になにか言われてしまうのは、本当に嫌だった。なんでわざわざ、批判をされなきゃいけないんだろう。自分の客なんだから、出産祝いだって、自分で決めたいのに。

「まあいずれにしろ、赤シャツは、似合わないからさ、青いシャツとか、緑のシャツがいいよ。赤ちゃんには、あまりけばけばしい色は似合わないよ。すぐに、お会計してくるんだな。」

杉ちゃんにそう言われて、蘭は、いやいやながらにも、青いシャツを取って、レジカウンターに行った。店員さんに、出産祝いとして、箱詰めしてもらえないかというと、店員さんは、あら、ご親戚ですか?と聞いてきた。蘭は、知ったところのご夫婦ですと答える。そうやって、なんでも聞いてくる店員さんたちが、蘭は嫌で仕方なかった。とりあえず、箱詰めしてもらい、出産祝いとラベルを貼ってもらって、蘭は、それを受け取った。

「それでは、今から、病院に、お祝いを出しに行ってくる。」

と、蘭は、店の出口を出て、産婦人科病院へ連れて行ってくれるバスを待つため、バス停へいこうとしたが、

「どちらの病院へ向かわれますか?」

と、ジョチさんが聞いた。

「中島産婦人科ですよ。」

蘭が、ぶっきらぼうに答えると、

「ちょうどよかった。僕達も、そこへ行くところだったんです。沢村貞子さんが、そこへ、太くんと一緒に行っているはずです。なんでも貞子さんは、母親サークルに通うことにしたそうなんです。やっぱり一人だけでは、赤ちゃんを育てるのはできないと、貞子さんは、しみじみ仰っていました。」

と、ジョチさんが行った。蘭は、じゃあ何で行くのかと聞くと、バスで行きますと二人は当たり前のように答える。結局蘭は、一時間に一本しか来ない、同じバスに乗って、中島産婦人科医院に向かう事になった。

三人が、バス停で、いつも遅れてくるバスを待っていると、向こうから人があるいてきた。誰だろうと思ったら、赤茶色の袴に、白い十徳羽織を着ているので、医者だとわかった。手には、風呂敷包みを持っている。

「あれれ、影浦先生ではないですか?どうなさいました?」

とジョチさんが言うと、

「ええ、中島産婦人科からのお呼び出しです。なんでも、子どもを産んだばかりで、精神的におかしくなった人がいるって言うものですからね。まあ、僕達男性には、わからないですけれど、凄まじい痛みといいますからね。それでおかしくなったのかもしれませんね。」

と、影浦千代吉先生は答えた。

「子どもを産んだばかりでおかしくなる?そんな事あるんでしょうか?」

蘭は影浦先生に聞いた。

「ええ、非常に稀な例ですけど、そういう例も無いわけではありません。出産というのは、病気では無いとはいいますが、それに誰でも耐えられるかというわけでは無いのです。」

「で、でも、影浦先生。産んだばかりの赤ちゃん見たら、大喜びするのでは無いでしょうかね?どんなに激しい肉体疲労であったとしても。」

蘭は影浦先生にまた聞いた。

「ええ。そうかも知れませんが、それは、ものが豊でなかった時代であればそうなると思います。ですが、この現代社会では、大喜びできない人も出てきているんです。」

と、影浦先生がそう言うと同時に、バスがやってきた。杉ちゃんたちは、運転手さんに手伝ってもらいながら、バスに乗った。バスは、四人も増えた乗客を乗せて、ふうらふうらと動き始めた。確かに、バスは鈍いけど、ちゃんと中島産婦人科医院のある、青島町までちゃんとみんなを乗せてくれた。

蘭たちは、また運転手に手伝ってもらって、バスを降りた。影浦がすぐに、中島産婦人科医院の受付に行って、

「影浦医院の影浦です。あの、野口瞳さんはどちらにいらっしゃいますか?」

と、いきなり名前を言ったので、蘭はびっくりする。蘭が会いに行く予定なのも、野口瞳さんなのだ。

「ええ、今病室におります。診察をよろしくおねがいします。」

と、看護師と一緒に、影浦先生は、病室に向かっていった。杉ちゃんたちのほうは、母親サークルにいる沢村貞子を迎えに来たと言って、別の部屋に行ったので、蘭だけ一人残った。病院のスタッフは忙しそうで誰も蘭に声をかけなかった。蘭は、野口瞳さんのことが気になって、影浦先生に続いてエレベーターに乗った。

蘭が、エレベーターから車椅子で出ると、誰かが喋っている声がした。時々、産婦人科だから赤ちゃんの泣いている声も聞こえるが、それに混じって蘭にはこう聞こえるのである。

「違います!私が悪いんです。私が、もっと塩分を控えるとか、そういう事をすればよかったんです。だから、あの子には私が死んで償うしか無いんです!」

金切り声で女性がそう叫んでいた。

「大丈夫よ。そうやって、赤ちゃんを産んだ人はいっぱいいるし、それに正人くんだって、一生懸命頑張っているだから大丈夫!」

看護師が、そう彼女を励ましているが、何かを放り投げたような音と、同時にまた女性の金切り声が聞こえてくるのだ。

「違います!私が行けなかったんです。私がみんな悪いんです。私のせいで正人は、病院に閉じ込められることになってしまった!それも、右半身麻痺の可能性もあるんですよね。裸のままで、病院で寝ているんでしょう。みんな私の責任です。私が、あの子を、ああしてしまったんです!」

「かと言って、叫んでも、彼が解決するわけではないでしょう!」

と、看護師がちょっときつく言うと、それはやめてくださいと影浦が言っている声も聞こえてきた。ということはつまり、叫んでいるのは、野口瞳さんだろう。赤ちゃんが生まれたという知らせだけは、野口瞳さんの夫の正也さんから聞いたのだが、今思えば、生まれたという知らせだけだったのがおかしかった。もし、健康に生まれてきたのであれば、体重がどれくらいだとか、元気な男の子だとか、そういう事を言うはずだ。それなのに、ただ、生まれましたと電話で知らせてきただけだった。きっと、正也さんは、事実だけ伝えたのだろう。

「あの患者さんも可哀想でしたよ。」

不意に、隣の病室から出てきた、健康そうな女性が蘭に声をかけた。

「あたしが、入院してくる前から、あの患者さんはここにいたんだそうです。なんでも、妊娠中毒症がひどかったみたい。それで、予定日より、二ヶ月半も早く、赤ちゃんを産んでしまったとか。なんか、可哀想ですね。あたし、赤ちゃん産んだとき、ものすごい苦しかったけど、彼女のおかげで普通に赤ちゃんを産めて良かったなと思いました。あなた、あの患者さんの、親戚とか、そういう方ですか?」

「ええ、まあ。親戚というか、血縁関係があるわけではありませんが、彼女の身の上話を聞いていました。彼女が、赤ちゃんができたと僕に報告したとき、とてもうれしそうでしたので、僕はこれから心から応援してやりたいと思ったんですが。違ったみたいですね。」

蘭が、正直な感想を漏らすと、

「そうですか。でも、そういう人がいてくれるって彼女が気がつけば、ちょっと彼女も変わるんじゃないですか?私、そんな気がするんです。彼女は、自分だけが、そんな被害を被ったような顔をしているけど。」

と、女性は蘭に言った。それと同時にガチャンとなにかが割れた音がして、

「あたしは、ちゃんとわかってます。みんな私のせいで、みんな私が悪くて、私さえ気をつければ、正人がああならずに済んだんです!なんで、みんな、あたしを罰しようとしないんです!なんであたしは、こんな目に合わなければならないんですか!」

と、野口瞳さんの金切り声がした。それと同時に影浦が、

「おそらく産褥期精神病とか、それに近い状態なのかもしれません。このまま、ここにいさせても、自傷や、器物破損の可能性がありますし、状態が落ち着くまで、しばらく影浦医院で預かることにしましょうか。」

と、言う声が聞こえてきた。

「とりあえず、彼女を落ち着かせるため、安定剤を注射して置きましょうか。」

と言うこえが聞こえてくるのと同時に、

「待ってください!」

蘭は、その病室のドアを開けた。

「どうしたんですか。勝手に入ってこないでくださいよ!」

苛立った看護師がそう言うが蘭はそれを無視して、

「預かるということは。影浦先生のもとで、入院するということですよね。それは、どれくらいの間そうなるのでしょうか?」

と聞いてしまった。影浦がなれた口調で、

「ええ。彼女が落ち着くまで、どれくらいかかるかわかりませんが、目安としては、

数ヶ月ですかね。一年以上は、入院させないことにしていますからね。」

と答えると、

「それでは、その間、ずっと、正人くんには会えないんでしょうか?」

蘭は聞いた。

「ええ。もちろんです。正人くんに、危害を加える可能性もあります。それでは、正人くんも危険になる。彼女をできるだけ、安全なところに避難させてあげて、ゆっくり治療できる、環境にいさせてやることが大切なんです。」

と、影浦が答えると、蘭はそれは違うと思った。本当なら、子どもが生まれて、おお喜びするのが当たり前のことだと思った。それを、遠く離れたところに、引き離してしまうのは、なんだか、彼女を、お母さんになるというスタートラインから、遠ざけてしまうのではないのかと思った。どんなにおかしくなった女性でも、子どもというものはかけがえのない存在ではないかと蘭は思った。きっと、彼女にもそれはあるのではないかと思った。それに、たとえ数ヶ月隔離して、彼女を安全なところに避難させても、彼女はいずれ、正人くんのところに戻らなければならないのである。

「先生。お願いです。彼女を、正人くんにあわせてあげてくれませんか。もし、彼女がそういう治療が必要なんだとしても、彼女に一度、正人くんに謝罪をするきっかけを作ってあげてほしいんです。そのほうが、彼女は治療に素直に従ってくれるのではないかと思います。」

蘭は、影浦先生に頭を下げてそう懇願した。不思議なことに、彼女は、蘭がそう言ってくれるのを待っているような顔をしている。

「刺青師の先生。私の事を、色々わかってくださるんですね。」

彼女は小さい声で言った。

「一体何があったのか、事実を話していただけませんか?」

蘭がそう言うと、彼女は、

「あたしのせいなんです。あたしが、しっかり生活していなかったばっかりに、入院することになって、正人も入院することになってしまった。ちゃんと、注意事項は守っていました。塩分のとりすぎとかそういうことにも気をつけていました。あたしは、それなのに、それなのになんで、正人がああならなくちゃならないんですか。あたしが、皆悪いんです。あたしが、もっと気をつけていればよかったんです。皆私が悪いんです。みんな私が、私が、、、。」

と、泣きながら事実を話した。

「わかりますよ。あなたは、本気で仕事を怠けるとか、そういう人じゃないことは、知っています。でも、人には、どうしても防ぎようが無いってことだってあるんです。それは、どうしようもないことじゃないですか。それを乗り越えるために、僕のところに来たのでしょう?ここで半端彫りはしないでください。ときには、影浦先生のちからも借りながら、正人くんを育てていける様に、努めてください。」

蘭は、できるだけ優しく彼女にそういった。看護師の一人が、あたしたちだって、同じこと言ったのにと、いいかけたが、影浦が、それをやめさせた。

「わかりました。じゃあ、今から、正人くんに謝罪に行きましょう。それが、きっと彼女にとって、母になる第一歩なのかもしれないです。」

影浦がそう言ったので、看護師の一人が電話でなにか話し始めた。そして、

「じゃあ、今日は特別です。野口さん、行きましょう。」

と言って、瞳さんを立たせようとする。瞳さんは、蘭にも来てほしいといった。影浦先生が、彼女ののぞみを叶えてやれと言ったので、蘭も彼女に同行することになった。蘭は、手錠をかけられた容疑者みたいに、看護師に囲まれて移動していく彼女のあとをついて行った。

小児病棟は、この病院のすぐ近くにあった。車で五分もかからなかった。影浦先生が、小児病院の受付に、事情を話し、しばらくやり取りして、病棟に通してもらえることになった。蘭は、車椅子だし外部の人間だから、中に入らせて貰えないと思ったが、瞳さんの希望で、一緒に入った。患者は新生児ばかりで、それも、未熟児と呼ばれる赤ちゃんばかりだ。密閉式の保育器というものが所狭しと置かれている。その中に、正人くんの保育器もあった。瞳さんは、保育器の中で、チューブだらけになりながら寝ている正人くんをじっと見つめた。影浦たちは、瞳さんが、保育器やその周辺の器具を破壊するのではないかと思っていたらしいが、彼女はそのような事はしなかった。ただ、正人くんの方を向いて泣き続けているのだった。鳴き声に混じって、声にならない声で、ごめんね、ごめんねと言っているのが聞こえてくる。

「彼女は大丈夫だと思います。それだけ、一生懸命謝罪をしていれば、きっとお母さんとして強いお母さんになれます。」

と、蘭は、影浦先生にそっと言った。影浦先生は、そうでしょうかと苦笑すると、

「はい。大丈夫ですよ。あれだけ感じられるということは、優しい気持ちもたくさんあるということでしょうから。」

と、蘭は、静かに言った。

「そうですね。」

影浦先生も蘭に言った。

「僕達は、そういうところを信じるしかできない事もありますね。」

瞳さんは、いつまでも正人くんの前で泣き続けていた。泣き続ける彼女をみて、蘭は彼女が成長していくために必要なことなのかと思った。影浦先生もそこはわかってくれたらしい。二人は、泣いている彼女をずっとそこで見ていたのだった。

「先生。」

不意に彼女が言った。

「私、行きます。」

どこへなんて聞く必要もなかった。

「正人のためにも、私は、自分をなんとかしなければならないのです。」

そうか、話が通じないわけでは無いんだ。と蘭は、確信した。やっぱり彼女はちゃんとわかっている。それでは、のぞみを叶えてやって良かったと思った。

「じゃあ、行きましょうか。これからきっと、あなたも正人くんも幸せが待っていると思いますから。」

と、影浦先生は瞳さんに言った。瞳さんは、涙だらけで、ザンバラ髪の顔を蘭の方へ向けてくれて、

「彫たつ先生、本当にありがとうございました。」

とだけ言った。看護師に手を引かれて、影浦先生と一緒に収監されて行く彼女を見て、きっと彼女は、母親としての第一歩が踏み出せたのではないかと蘭はなんとなくホッとしたのだった。同時に、暖かい南の風が吹いてくるのを感じた。もうすぐ春なのだ。



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