ソフィアの紋章

七織 早久弥

第1話 地下室の愛

 あの日アランは、シャロレーンに愛を誓い二人は結婚の約束をした。美しい海の見える丘で、二人の愛は輝きと希望に満ちていた。

 だが、婚約パーティの夜、シャロレーンは死んだ。


「アラン、アラン。しっかりしてちょうだい。こんな姿のあなたを、もうこれ以上見ていたくないの。」

アランは耳を疑った。あの婚約パーティの夜、死んでしまった愛しい恋人の声がした。


「アラン、お願いよ。元気を出して。ここを出て、昔のように太陽の下で生きて。」

その声に、ついに最期の時が訪れたかと、アランはほっとして笑みが浮かんだ。



 屋敷の地下にある洞窟のような場所。扉で仕切られ幾つかに分けられた部屋の一つにアランは幽閉されていた。アランにとって幽閉は、むしろ好都合だった。シャロレーンとの愛を想い出しては浸り、夢の中で再会する事だけを願っていられる。そうして自分に残された命の日々を消化すればいいと安堵していたから。


「アラン。あなたには、私の分まで生きて幸せになって欲しいの。ジャックなんかに負けないで。このままあの人に全てを奪われたままでいいの? 街の人々も苦しんでいるのよ。」

シャロレーンの声は続いた。


「誰だ? シャロレーンの真似をして。僕は全てを失った。一番愛する者を失った。もう生きる意味がないんだ。」


「アラン。私はシャロレーンよ。あなたが心配で、ずっとあなたを見ていたの。あの日からずっと。もう二年になるわ。あなたはこのまま、ここで一生を終えるつもり?」

「本当にシャロレーンなのか? どこにいるんだ? 姿を見せてくれ。会いたいんだ。あの日からずっと、君の事ばかり想っている。」


アランは、見えないシャロレーンに向かって生きている人間のようにはっきりとした声で話しかけた。



 この二年、アランは誰とも話さずただ毎日を死人のように空虚に生きていた。髪は埃にまみれ顔を覆い髭は伸び美しかった容姿は消えてしまった。すでに生気の失われた彼の心に届く言葉も温もりも無かった。



 屋敷の者が持って来る食事にも時々手をつけるだけで、後はただぼんやりと壁や燭台の灯りを見つめている。

 その風貌は、日毎にアランの姿ばかりでなく心も別人へと変えていった。もはやシャロレーンとの愛に生きていたあの輝いた笑みも、街一番の名家の子息の颯爽とした姿もない。すっかり光を失くしてしまった別人の姿が、薄暗い地下室に在るだけだった。



「アラン様、しっかりしてください。シャロレーン様はもう・・・ 亡くなったのです。アラン様。お気を確かに。」

ちょうど食事を運んで来た屋敷の者が、いつもと様子の違うアランに驚いて慌てて医者を呼びに行く。

 その後ろ姿に向かってアランは、

「違うんだ。今、シャロレーンの声がしたんだ。確かにしたんだよ。」

と呼び止めたが、それは余計に病の進行と哀れみを思わせるばかりだった。


 すっかりソフィア家は沈み込み、彼の周りにいた人々は次第に遠のいた。容貌も変わり正気を失った彼を人前に出すことも出来ず、家族は彼を遠ざけ地下室に幽閉してしまったのだ。アランのシャロレーンへの愛の病が癒え、彼の心が再び動き出すまではと。



 屋敷の者が出て行くと、アランは再び見えないシャロレーンに呼びかけた。


「シャロレーン、お願いだ。姿を見せてくれ。一目でいい。」

「アラン、それは出来ないわ。私にはもう肉体がないもの。今はもう、ただ魂の光でしかないのよ。」

シャロレーンの言葉が止むと、アランの目の前に青白く美しい光が現れた。

 アランは、その光に愛しく手を伸ばす。


「これが君なんだね。この光のままでもいい。僕の側に居てくれないか。僕はもう、君の居ない日々に崩れ切ってしまいそうだ。もう全てがどうでもいい。

 ジャックが、僕の全てを手にしているとしても構わない。ただ、君だけを取り戻したいよ。あの丘で誓った愛の中に居たい。」


久しぶりの涙が、アランの頬をつたう。


「アラン、そんなふうに言わないで。ソフィア家は、あなたが立て直さないと。愛しいあなたを、このままにはしておけないわ。

 私があなたと一つになって温める。あなたが生きると誓うまで灯火となって共にいる。」


シャロレーンの声が止むと、目の前の青白い光がアランの胸の内へスッーと入っていった。

 アランは、胸の内がほんのり温かくなったのを感じた。


「シャロレーン。君はここに居るんだね。」


アランは胸に手を当てて、シャロレーンの温もりを抱きしめた。青白く美しい光を胸の内に感じアランの心は明るく温かになった。

 今この時も胸の内にシャロレーンが居てくれる。そう感じられるだけで、力が生まれた。




 この地下牢のような部屋で、アランが青白い光と共にシャロレーンの声を聞いてからしばらくが過ぎた。


 あれ以来、彼女の声を聞く事はなかったが、アランの声には力が、目には光が戻り食事にも手を伸ばす回数が増えた。

 アランは、体の内側から力が湧いて来るような感覚を日毎に強く感じている。


 そんな頃、再び医者がやって来た。


「アラン様。ご気分はいかがですか? お食事も近頃は、だいぶ召し上がっておられるようですね。」

「えぇ、先生。最近は、食べたいと思うようになりました。生きようと思えるようになりました。」

「あぁ、それはよい。アラン様。お声にも力が感じられます。ようやく戻って来られたのですね。アラン様。」

医者は、アランの手を握り涙を流した。


「先生、長い事ご心配をおかけしました。それに家の皆にも。今日まで私の世話を諦めずにいてくれて、ありがとう。」

アランは、医者と共に毎日世話をしてくれていた屋敷の者にも声をかけた。


「あぁ、アラン様。やっと戻られた。回復されたのですね。」

屋敷の者も涙を流し、アランの力強い声と言葉を喜んだ。


 その二人の姿に意を決したアランは、力のこもった声で告げた。


「そろそろ僕は、この地下室を出る許しをもらえるだろうか? 

 この伸び切った髭と髪を切り、さっぱりと身支度を整え外に出てみたいんだ。」


「えぇ、もちろんです。アラン様。先生、もう大丈夫ですよね。」

「もちろんです。アラン様がそのようなお気持ちになられたのであれば、皆も喜びます。

さぁ早く皆に、旦那様やお嬢様にお知らせ致しましょう。」

二人は顔を見合わせて喜び、浮足立って地下室を出て行く。



 アランの胸は、高鳴っている。


「アラン、もう大丈夫ね。すっかり回復したようだわ。私も嬉しい。あぁ・・・ よかった。」

懐かしいシャロレーンの声が聞こえた。


「シャロレーン、ありがとう。君のお陰だ。長く心配をさせてすまなかった。僕は生きるよ。生きてソフィア家の隆盛を取り戻す。

 僕たちの婚約パーティの夜、あのワインで・・・ ジャックはきっと・・・ 

 だから僕は、君と共にもう一度生き、ソフィア家を再び街一番の名家にする。そして街の皆と幸せに豊かになる。」


 あの夜、本当はジャックに殺されていたはずの自分。実家モンテ家の財と共に奪われていたであろうシャロレーン。そのシャロレーンが身代わりのように死んでしまった。

 今やジャックは、ソフィア家を蹴落とし次席の名家から街一番の座に君臨している。アランは、この事実を覆そうと力が生まれているのを感じている。


「えぇ、そうよ。アラン。あなたならそれが出来る。街の皆もソフィア家の隆盛を願っているのよ。我がモンテ家も。私も。遠くから、あなたを見守っているわ。」


「シャロレーン。なぜ遠くからなんだい? 

 君はいつも、ここに居てくれただろう。今だってここに。」

アランは、胸に優しく手を当てた。


「えぇ、そうね。ずっとあなたの胸の内に居て、あなたを温め続けてきた。あなたが再び生きる事を選んでくれるよう願って。

 あなたは今日から、ソフィア家の隆盛の道を歩んでくれる。もう大丈夫。だからお別れよ。 

 アラン、これからもう一度、恋をしてね。新しい恋をして幸せな結婚をして、ソフィア家を繋いでちょうだい。これは、私の最期の願いよ。」

シャロレーンの声は止んだ。


「嫌だよ。シャロレーン。いつまでも、これからもずっと、僕と一緒に居てくれ。頼むから。僕と一緒に。」

涙声になりそうなアランが、必死に呼びかける。


「いいえ、アラン。私たちはお別れよ。あなたは、これからを生きて行かなければいけないわ。

 もし、私の事を忘れ難く想ってくれるなら、ソフィア家の紋章に白百合を加えて。」

「紋章に白百合を?」


「えぇ、あなたが新しいソフィア家を作り生きる証として紋章に。その白百合の紋章と共に愛と誇りを持ち、しっかりと生きて。

 あなたが、新しい愛の中で幸せに生きる事を祈っているわ。アラン、あなたの愛をありがとう。私は幸せだったわ。」


「シャロレーン。今も愛している。ありがとう。シャロレーン。」


アランは、胸の辺りから何かがスッーと抜けてしまうのを感じた。胸が冷やりとする。頬には温かい涙がつたう。

 床に落ちた涙の滴を足で拭うと、アランはペンを取った。




 しばらくして、屋敷の者が地下室へ戻って来た。


「アラン様。さぁ、外へ。身支度の準備が整っております。先ずは温かい湯へ。」


アランは涙を拭い、もう一度意を決した。


 そうして立ち上がると、扉を出て階段を上がって行った。その手には、一枚の紙が握られている。自ら描いた、白百合を加えた新しいソフィア家の紋章だ。

 シャロレーンとの誓いの証を手に、アランは太陽の下へ向かう。輝かしい光の下へ。


「待っていろ。ジャック。」





                          完
















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