悪夢
元 蜜
悪夢
まもなく夜が開けようとする頃、私は微かに震えながら目を覚ました。決して寒さからではない。悪夢を見たのだ。
私はかれこれ10年以上、ある悪夢に悩まされている。出てくるのはオバケなんて類のものではない。私を恐怖に突き落とすのは、ある一人の男だ。
そう、これは昔付き合っていた男の話。
その男とは、20代前半の時に1年程お付き合いをしていた。その頃の私は、数年付き合って結婚まで考えていた彼氏に突然別れを切り出され、新卒で入った仕事もうまくいかず、自分の人生に不満ばかり抱えていた。男はそんな私の心の隙を見透かし、言葉巧みにするりと入ってきたのだ。
「大丈夫! お前は十分頑張ってるよ!」
私が欲しかった言葉をいとも簡単に与えてくれる男に、心が弱っていた私は簡単に惹かれてしまった。
仕事終わりにわざわざ職場近くまで車で迎えに来てくれ、二人で夜の街をドライブした。
安定を求めた元彼とは異なり、一緒にいると毎日がとても刺激的で、身体の関係になるまでにもそんなに時間はかからなかった。何度も何度も快感を味わうことで、私は心だけでなく身体までも男に溺れていった。
しかし、数ヶ月もすると徐々に二人の関係に変化が見え始めた。
付き合い始めた頃は、常に私を気づかうとても優しい彼だった。ところが、自分のものになったと分かった途端、掌を返したように私を適当に扱うようになっていった。
身体の関係だって、優しさに包まれていたものから、ただ男の欲望を満たすためだけのものになっていった。
モラハラ夫や彼氏から抜け出せない女性の話題を見かける度、その女性の気持ちが痛いほど分かった。だって男もその男たちの特徴と全く同じだったから……。
どんなに責められたって、どんなに遊ばれていると分かっていたって、結局、身体が男を求めている間は、たとえ苦しくても自ら手放すことなんてできないのだ。
同棲を始めてからしばらく経ったある夜、ふと目覚めると、隣りにいるはずの男の姿がなかった。
『仕事だ』と言えば私が言い返さないことに味をしめたのか、最近では男の深夜帰宅や外泊が増えていた。
冷たい床の上に裸足で立つと、足の裏から身体が急速に冷やされていく。嫌な予感がする。
「またあの女の所か……」
もう何度目だろう。男は私の時と同じように、新たなターゲットに狙いを定めたようだ。
私はまもなく捨てられる……。そう考えると居ても立ってもいられなくなり、男にメールを打った。
『あの女の所にいるの?』
『違う』
そのメールを確認すると、私は寝間着のまま車を走らせた。そして一件のアパートの近くに車を停めた。
「ほら、やっぱりここじゃん……」
予想どおり、そのアパートの駐車場のいつもの場所に男の車が停めてあった。
深夜にこんなストーカーまがいなことをする自分に嫌気がさす。ハンドルに頭を付け、自分の情けなさに泣いた。
もうやめよう……。これ以上深追いすれば自分が壊れてしまう……。
『もう別れよう?』
『愛してる。俺にはお前だけだ』
終わりにしようとする度、その魔法の言葉にずっと縛られてきた。しかし、その魔法もついに解ける時がやってきたようだ。
すでに身体だけではなく、決して安くはない金額のお金も捧げていた私は、すべてを捨てる覚悟を決めた。
ある晩、男が不在の間に荷物をまとめると、同棲していたアパートから逃げるように家を出た。もし見つかれば、怒鳴られ、連れ戻される恐怖に怯えながら……。
後日、男から一度だけメールが届いた。
「どこに行った? 家賃どうするの? 俺一人で払えって言うの? そんなのズルくない?」
別れて正解だった。その部屋、元はあなたが一人暮らししていたアパートじゃん。『一緒に住もう』って言ってくれたのは、初めから私は家賃支払要員だったってわけだ。女遊びの酷い金の亡者。それがあの男の正体。
これは “未練” とかそんな切ない恋愛話ではない。今も悪夢となって出てくるのは、私の心と身体が未だに執着心から抜け出しきれていないからだ。
『自分のことを忘れさせないぞ』というかの如く、夢の中の男はいつも私に笑いかけてくる。その笑顔を見た私は途端に恐怖に包まれ、男から逃げ出すところで目が覚める。
静かに寝息を立てる夫の横で私は震える肩を抱き、『お願いだから、早く私を解放して……』と願いながら再び目を閉じた。
悪夢 元 蜜 @motomitsu
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