第5話 悪臭漂う路地裏の
ネフィリムは、レポートを書かねばならない理由もあって、ひとまず彼女たちの家の、窓のすぐ下にしゃがんで、聞き耳を立てていた。赤ちゃんの笑い声と、上手にあやしている男性の優しい声がする。その間に、少女は散らかった洗濯物をかごに集めているのか、「靴下が椅子の下にあったわー」などと言いながら、部屋中を歩いている気配がする。
男性が晩御飯の提案をし、どうやら料理を作るのは彼の当番のようだった。少女と対等な立場を築いている男性の様子に、ネフィは一安心する。
安心したら、自分のお腹がすいていることに気が付いた。ここまで地図を片手に気を張ってきたせいか、安心したとたんに、自分の体調に意識が向いたのだ。
お腹をさすると、ますますお腹がすいてくる、ような気がして、ネフィはしゅんとする。
「お腹、すいたなぁ……もうすぐ、晩ご飯の時間かも」
「仕事の途中だが、抜け出すか?」
「あ、ううん、ここまで来るのにたくさん時間かかったから、もどりたくないです。ご飯は、どこか近くで売ってないかな……」
言いながらネフィリムが辺りを見回したけれど、視界にあるのは住宅か廃墟ばかりで、お店が一軒も見当たらない。
「このへんには、お店がないみたいです」
「治安が悪くて、金を扱う店が建てられないのかもしれんな。金庫を残して留守などしようものなら、次の瞬間には、何も残っておらんのかもな」
「ありえそうですね……ここの人たち、ぼくの持ち物すらよこせって追いかけてきますから」
ネフィリムは、見にまとっている黒いコートのあちこちを眺めた。擦り切れた袖に、砂埃の付着した長い裾、背負っているリュックも新品ではない。
「ぼくの持ち物を欲しがる人がいるなんて、思いもしていませんでした」
「どこか、よその店で売りたいのだろう。古着でも傷んだ生地でも、使い道はいくらでもあるからな」
「え? たとえば?」
「生地が柔らかくなっているから、タオルや、赤ちゃんのおくるみ、などだ」
「ええ~? ……ぼくから盗んだ物で、タオルができるんだ……盗られたくはないですけど、ここの人たちって、逞しいんですね……」
「例え話だがな。本当は何に使うのかは、私にもわからん」
ネフィもわかりたくなくなってきた。ここでは、奪われたら二度と戻ってこないのだと、学んだ。
そうこうしている間にも、空腹の苦痛はじわりじわりと幼子を蝕んでゆく。ネフィは無意識に何か食べられそうな物を置いている店はないかと、目で探してしまう。
亀裂が入り、鉄筋が剥き出た建物たちでは、とうてい客など呼び込めない。しかし、人が多く住むところには必ず、食料関連の何かがある。たとえば、食材を搔き集めて、共同の調理場で火を入れに訪れる、とか。
「うぇ、くっさ……」
強く漂い始める悪臭に、ネフィリムは鼻を袖で覆った。風向きが変わったせいもあってか、どんな暴風よりもネフィリムを強く立ち退かせようとする、恐ろしい臭いであった。
そんなものを発生させている人々が、すぐそこの廃墟の下で、食材だろうか疑問に思うゲテモノを腕に抱えて、どんどんどんどん集まってくる。
「これ、ぜったいに食べ物の匂いじゃないですよ。食べちゃダメなヤツです」
「どうしてそう思う?」
「う○ちの臭いだからです。ぼく、どこかのトイレを借りたときに、流してない人がいたみたいで、びっくりして、ぼく、そこではトイレしませんでした」
「水洗じゃなかったんじゃないか? 国によっては、水道設備が滞っている場所もあるだろう」
「でも、お水ガシャンッてするレバーがありました……あんまり、思い出しちゃイヤな気分になりますね。もうう○ちの話、やめにしましょ」
「奴らはメシの支度をしているだけのようだがな」
大きな寸胴鍋に、いったい何を入れて煮込んでいるのやら。空腹なせいもあって、ネフィリムの口いっぱいに胃液が逆流し始め、もう立ち上がって逃げようかと思い立った、その時であった。
「ん? 誰かいるの?」
家の中から、少女の声がした。こすっても落ちないほど汚れた古いガラス窓に、黒い人影がぼんやりと浮かび、こちらへと近づいてくる。
「あ……どうしよう、見つかっちゃいます。パパ、僕、バエルさんから借りたコレの使い方がわかってきましたから、一人でやってみますね」
「子供の成長は早いな」
「よし、このメダルを、左腕にくっつけて……」
金色のメダルを服越しに押し付けてみるが、何かが、おかしい。肌に吸い付くような、まるで鉄と磁石のオモチャみたいな感触が、無い。
「あれ?」
「姿は見えたままだぞ、ネフィ」
「もう一度、やってみます」
今度は、服の下にメダルを入れて、肌に直接当ててみたのだが、父いわく「まだ見えている」とのこと。
「あれれ~、うまくできない……もう一回……う~ん?」
あまり大差ない試行錯誤を繰り返すネフィリムの頭上で、哺乳瓶に浮かぶ一つ目が、窓のほうを眺めた。
ガラリと開けられた窓にネフィリムがびっくりして、少しお尻が浮いた。
少女が少々不審そうな顔して、ネフィリム少年を見ろしている。
「何してるの? そんな所で」
「あ、あの、ごめんなさい、なんでもないんです」
相手が年端もいかぬ小さな子供であったためか、少女は幾分かほっとしていた。
「そう。もうすぐ暗くなるから、早くおうちに帰ったほうがいいわ。お父さんか、お母さんはいる?」
「はい、パパがいます」
「それじゃあ、早くパパのもとへ走っていかなきゃ。ここは暗くなると、本当に危ない場所だから」
ネフィは立ち上がって、コートのお尻部分をパンパンと
父の位置と無事を確認できて、ネフィはほっとして窓の少女を見上げた。
「あの、窓の下にいて、ごめんなさい。早く帰りますね」
「ええ、そうしたほうが絶対にいいわ。気を付けてね」
不信感と心配な気持ちを全面に押し出したような表情の少女にお辞儀し、ネフィは走り去っていった。
少女の家から充分に距離ができたところで、ネフィは薄暗い道を歩きながら、手にしたメダルを眺めていた。
「そう言えば、バエルさんが、このメダルには回数制限があるようなことを言ってましたね。ぼく、メダルを使いすぎてしまったみたいです」
「レポートを提出するごとに、使える数を増やしてくれるとも言っておったな」
「あ、はい。今後のお仕事をやりやすくするためにも、いっぱいレポートを提出しなくちゃ」
メダルの効果に頼れない手前、ネフィは道行く人間を警戒して、物陰に隠れながら進んでいった。しかし、声をかけてくる相手は一人もいなくて、やがてネフィは、普通に道を歩きだした。
「僕の着ているコートが、黒いせいかな。辺りが暗くなってきたほうが、見つかりづらくなってます」
「気のせいかもしれんぞ。油断するなよ」
「あ、はい! 依頼人のバエルさんのお部屋に戻るまで、油断しないようにします!」
小さな黒いリュックを背負い直して、ネフィはようやく表通りの綺麗な大通りに戻ってこれた。辺りは街灯が目立つほど暗くなっており、白い息を吐きながら歩く人々は、まばらな距離感を開けて急ぎ足であった。
ネフィはほっとする。小さい子供の目線では、治安の悪い場所で大人に追いかけられるのは、とてつもない恐怖である。
「あ、レポート……まだしっかり書いてないや」
ネフィは適当な店の明かりの前でしゃがみこむと、リュックから書きかけのレポート用紙を一枚取り出して、細長いペンケースからボールペンも取り出して、他に何を書いたらよいかと思案しながら、空白だらけの紙面とにらめっこした。
「う~んと……お金持ちっぽい若い男の人と、そうでもない女の子が、赤ちゃんと暮らしてて……他に何かあったかな?」
「感じたままに書いて、それだけなら、充分じゃないのか」
「う~ん、少ないような気がします……あ、男の人が赤ちゃんのお守りをしてて、女の子のほうは、お仕事から帰ってきてた感じでした。あとはー、お隣りさんが子供嫌いの短気っぽい。うん、書く情報は、これでいいかな」
なんだか、書いていて不安になってくる内容ばかりで、ネフィの黒い眉毛が真ん中に寄ってくる。
がしがしとレポートを埋める息子の頭上で、哺乳瓶の中身が目を細めていた。
「……お前、すごい字ぃ書くんだな」
「え? 読めないですか?」
「今の私に、腕があればな、ペンの持ち方くらい教えてやれるのに」
「え? ぼく、ペンの持ち方から、ちがうんだ……」
ネフィリムの片手は、まるで赤ちゃんがオモチャを握りしめているような持ち方でボールペンを掴んでいた。
悪魔の子と72の国 小花ソルト(一話四千字内を標準に執筆中) @kohana-sugar
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