第4話   目的地周辺が危険地帯

 もらった白紙の紙の束と、ボールペンを、小さな黒いリュックにしっかりしまって、ネフィリムと空飛ぶ哺乳瓶は、バエルの部屋を後にした。


「おかしな依頼だったね、パパ」


「違和感があったのに引き受けたのだな」


「え? だって、パパの知り合いみたいだったし……引き受けたほうが、いいかなって思ったんです」


「早いうちから空気の読める子に育ったな」


「え、依頼受けるの、ダメだった?」


「さあな〜。お前の選択の答え合わせは、お前にしかできないからな」


 つまり、好きにしろと。

 ネフィリムはたまに、父のこういうタイミングで出てくる厳しさを疎ましく思う。迷わせるような発言を頻発するくせに、後のことは知らぬ存ぜぬな対応をするのだ。


「いいですよぉ。仕事の内容は厳しくないし、やり遂げてみせます!」


「その意気だぞ、ネフィー」


 と言うわけで、親子は一階に下りるべくエレベーターに乗り込んだ。


(パパは最後に、バエルさんとなんの話をしていたんだろう。僕だけ先に廊下に出ちゃってたから、よく聞こえなかったんだよな……。扉の隙間から見えたのは、羊皮紙みたいなのをバエルさんが持ってきて、パパの目の前で、万年筆で何か書いてたのが見えたんだ)


 親子は一階の受付前を通ってから、自動ドアで外に出てきた。


「わ! 忘れてた、寒っ!」


 黒いコートを両手で掻き寄せて、縮こまりながら歩いてゆく。


「仕事と言えば、パパ、バエルさんとお別れする前に、何か書類を作ってましたよね。あれはなんですか?」


 大きな哺乳瓶に、どっぷりと入った黒い液体の中から、美麗な弧を描く片目が、ベロアのカーテンをめくるように現れ、黒々とした扇状的なまつげに縁取られた薄いまぶたが、少年を見下ろしながらゆったりと瞬きした。


 血色の瞳は、少年とお揃いだ。


「ああ、あれはな……私とバエルとの契約書だ。私が不利になる内容は一つもなかったが、あやつが不利になる内容も見当たらなかった。いわゆるウィンウィンというヤツだな」


「不利になってないなら、いいけど……どんな内容なの? 気になります」


「なに、大人の話というヤツだ。お前が真面目かつ丁寧に報告書を作成し、バエルに提出すればするほど、私がでっかくなるという契約だ」


 でっかく、という意味が理解できず、ネフィリムはしばし呆然としていた。


「え……? どういう意味ですか? パパでっかくなるんですか!?」


「でっかくなるぞ」


「どうしてバエルさんと、でっかくなることを契約してるんですか!? バエルさんに、いったいなんの得が」


「目先の利益だけで動く者ばかりではないぞ。遠い先の未来を有利にするための契約だって、世の中にはたくさんある」


「パパが大きくなることが??? 遠い未来で有利に???」


 混乱のあまりその場に立ち止まってしまいかねない少年に、父からの促しの声がかかる。


「風が吹いてきた。地図を飛ばされないようにな」


「あ、はい。そうだった、地図を持ってたんだった」


 ずっと手にくしゃっと握っていた四つ折りの紙を、慌てて広げだす。


「ちょっと遠いですね。大通りから何本も外れています。でも、どの道の幅もとても広いです」


 きっとどこも整備された、美しい街なのだろうと期待したネフィリムは、バエルの治めるこの国を、遠くまで眺めてゆく所存だった。


 大通りをニ本外れただけで、とてつもない刺激臭が鼻を貫くまでは。


「うっぷ……なんですか、ここ、すごく臭い。それに、どこもゴミだらけです。ガラクタや食べ物の容器が多いですね」


「廃棄物と吐瀉物の臭いだろうな。建物もぼろぼろだ。大勢が集団で暮らしているようだが、マナーは期待できそうにないな」


 割れてヒビだらけの道路の片隅で、焚き火をしている集団がいた。鉄板に肉の細切れを並べて焼いているようだが、その煙がこっちまできて、それがものすごく臭い。


「パパ、これお肉の臭いじゃないです」


「腐った肉を焼いているのだな」


「ええ!? 腐っ……本当にこの先に、例の女の子が住んでるんでしょうか。この街って、表通りはすっごくキレイなのに、道を外れるとすっごい汚いですね……」


「どこもそんなものだ」


「そうなの!? 違いますよね、パパと僕が暮らしてた所は、どこもキレイだったですよ」


「ゴミ拾いを徹底させているからだな」


 それだけではない気がする少年だったが、父と話せば話すほどこういう空気になるので、とりあえず地図の通りに少女を探しに行くことにした。


 表通りから遠のけば遠のくほど、治安と衛生面両方ともに崩壊したような景色が広がっていた。素人の手作り感まんさいの、鉄骨や材木がむき出した無骨な建物が点在している。ネフィリムの黒いコートを後ろから引っ張る者が数名、刃物を持って追いかけてきた者が数名、そして道を教えてあげるから金銭をよこせとドスを効かせた声で立候補した者が数名と、とても子供だけで足を踏み入れて良い場所ではなかった。


「パパ! パパ、この金色のコインみたいなヤツどうやって使うんだっけ!」


「模様のある面を体に押し付けろ! さっきと同じところにだぞ!」


「えっと、どこだっけ、あ、思い出した左肩!」


 暴漢に襲われかけるたびに、ネフィリムは父から謎の金属板の使い方を尋ねた。慌てると、さっき習った事が頭からすっぽ抜けてしまうのだ。


「どこ行きやがった! 隠れてもムダだかんな!」


 暴漢は、すぐそこにしゃがみこんでいる少年に気付くことなく、素通りしていった。空高く避難していた哺乳瓶が、少年のそばへ降りてくる。


「あぁあ〜怖かったです……バエルさんからもらったメダルみたいなコレ、本当に僕の姿を見えなくしてくれるんですね」


 バエル氏に誠実さを感じていた少年は、にわかには信じ難いお守り効果でも、信じて使ってみた。効果があって、本当に良かったと安堵する。


「それにしても、こんな危ない所に女の子が暮らしてるだなんて。きっとムキムキに鍛えためちゃくちゃ強い子なんですよ」


「お前じゃ勝てないかもな」


「勝負をしに来たわけじゃないから、いいんです、負けてても……」


 白い吐息と、粉雪と、真っ赤になってゆくほっぺたと鼻先。手をこすり合わせながら、地図を辿って目的の家へと近づいてゆく。


「レポートって、何を書けばいいのかな」


「これぞレポートだと、お前が思うままに書けばいい」


「思うまま〜? そんなに好き勝手にしてもいいんでしょうか。規定通りに書いたほうが、正しいような気がするんです」


「ふむ、規定」


「……どうやって書いたら、いいでしょうか。パパ、参考までに書き方を教えてください」


「好きに書けばいいさ」


 後ろから足音が近づいてきて、また誰かコートを引っ張りに来たのかとネフィリムは振り向いた。


 この寒さの最中、生地・デザインともに安っぽく感じる薄手の羽織りを、胸の前に掻き寄せて走ってきたのは、栗色のくせっ毛を揺らす可憐な少女。仕事終わりか、その頬は黒く薄汚れ、シャツの袖も黒っぽく汚れている。疲れきっているのか、家が視界に入るなり、ぐったりと重くなる足取り。今日も一日乗り切れたことに、深く深く、安堵しているようであった。


「ただいまぁ」


 疲れのあまり延びきった語尾と、よたよたとした足音。すぐさま小さな子供のはしゃいだ声がキンキン響いて、となりの家から「うるせえ!!」と怒鳴り声が。「ふえええ〜ん!!」と泣きだす幼子。先ほどの少女が再び外に出てきて、お隣さんの家の扉越しに謝罪の言葉を、疲れた声で紡ぎ出す。


 端から見ているだけで、こちらも疲れてしまうような光景であった。


「うわあ、あの女の子、大変ですね……」


「誰か他に、子供の面倒を見てくれる者はおらんのだろうか」


 少女が出てきた家の窓から、大泣きしている小さな男の子をおんぶした青年が、心配そうに顔を出した。少女に向かって、家に入るよう言っている。


「あ、なんだ、一緒に暮らしてる人がいるんですね」


 バエル氏ほどではなかったが、あの青年もまた上質な革のベストを着ていて、身綺麗だった。ブランド物の輝きがこの場で浮いており、ぼろぼろの窓枠も相まって、ますます不釣り合いに見えた。


「あの男の人、どうしてあの家にいるんでしょう。宿とお金に困るふうには見えませんが」


「子持ちの女に貢がせているのだろうか?」


「ええ!? もしそうなら、ひどいです。腕時計を買うよりも引っ越しの資金に当てたほうが、絶対にいいですよ。今にも屋根や窓が崩れそうじゃないですか」


 あ、こんなことをしている場合ではなかったと、ネフィリムは地図を確認した。そして、呆然と父を見上げる。


「……パパ、地図に丸してある家の子は、あの女の子みたいです」


「では、さっそくレポート作成だ」


「え? もうですか?」


「昔々〜」


「おとぎ話じゃないんですから、もう。書けばいいんでしょ」


 ブツクサ言いながらペンとノートを取り出す少年。少女が家に留まっているおかげで、あまり焦ることなくサラサラと書けた。


 彼女の容姿の特徴と、少年が感じるままの第一印象を。


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