映画『アフター・スクール・ガーデン』レヴュー

下之森茂

レヴューを投稿しましょう。

「これがぼくらの学校です」


テープ式の古いビデオカメラに向かって、

30人の少年少女とふたりの教師が並ぶ。


詰襟つめえり服とセーラー服を着こなした少年少女たち。

その顔にはまだあどけなさが残る。


短く刈りそろえられた髪に

白い歯が輝く清潔感のある男性教諭と、

彼を支える副担任の若い女性教諭は

鷹揚おうような雰囲気で、包容ほうよう力を感じさせた。


小さな学舎でふたりは生徒たちに勉強を教え、

生徒間での言い争いには優しく諭し、

友情とも愛情とも区別のつかない

感情のもやに親身になって相談に乗った。


雑草で荒れ放題だった小さな庭を、

教師の提案で生徒たちがみんなで手入れし

種をまき、球根を植えた。


そんなある日、地震が起きた。

大きな揺れに、学舎は大きなきしみを立てて

やがて天井がくずれ落ちた。


自由時間の最中だったので、

ふたりの教師はそれぞれ身近にいた生徒たちを

庭へと誘導した。


ひとりだけいない。


余震におびえる生徒たちを女性教諭がなだめ、

男性教諭はくずれた学舎に駆け寄り、

いない生徒の名前を叫んだ。


小さく聞こえる声を頼りに、屋根板を剥がし、

手を血まみれにして探し当てた。


逃げ遅れた生徒は扉の下敷きになって、

身動きが取れなかったのだ。


男性教諭は折れた柱を隙間に挟み、

テコの原理で扉を押し上げる。


近くにやってきた女性教諭を呼び、

なんとか無傷で生徒を引き上げた。


学舎はもはや元の形を取り留めてはいなかったが、

全員が無事であったことに、抱き合い、涙した。


それからは共に助け合い、

共に庭で歌い、みんなで踊った。


やがてふたりの教師は結婚し、

生徒全員たちは庭で祝福した。


みんなで庭に集まり、

ビデオカメラの前で撮影をする。


今日も庭で小さな授業が開かれたのであった。


~Fin~


――――――――――――――――――――


この映画はダメだ。と、だれかが言った。


ほかのだれかもその意見に賛同さんどうした。


ある者はこの映画の問題作だとべた。


名もない者たちが問題点を次々と上げた。


機関銃が出てこない!

学生同士の殺し合いがない!

など、物騒ぶっそうな意見も出てきたが、ある者は

教師不要論まで持ち出して失笑しっしょうを買う。


それでは無人の船ではないかと、

昔ながらの慣用句かんようくで返される。

目的もなく海を漂う船を意味している。

つまり舞台が学校である意味をなさない。


映画は生徒の日常に関しては描写がとぼしく、

物語は都合つごうにあわせた展開が不自然であると言う。


この古い映画は、映像の美しさ以外にも

教師と生徒との人間関係の構築こうちく

情操教育じょうそうきょういく観点かんてんで人々に高く評価され、

同じ制服の導入まで行った学校まで数多くあった。


この映画の題名から

それは『スクール・ガーデン』ブームと呼ばれ、

実際に学校で庭造りを行うなどの

社会現象にまで発展する。


しかし、授業後の庭造りは

教師も生徒も負担にしかならず、

教育ハラスメントや教師のボイコットなどの

社会問題も発生した。


そうした部分に着目ちゃくもくした者が

今度はこの映画が、同調圧力どうちょうあつりょく

生み出したのではないかと言い始めた。


制服が最たる例である。

詰襟つめえり服やセーラー服などは

軍服をモデルにしている。


戦争時代に軍の規律きりつを守らせるために、

文化的な背景とともに服装を統一化させた。

量産によって費用を抑えられ、極めて合理的だ。


男子はスラックス、女子はプリーツスカートと、

性別によって服装を縛っているのは

囚人しゅうじん同然どうぜんだという声も上がった。


女子がスラックスや詰襟つめえりを着ず、

男子がスカートを選べない。


スカートは女性専用の服ではない。


古代エジプト時代から、民族衣装だけではなく、

男女ともに着用されてきたものである。


勉強を教えるはずの学校が自由を剥奪はくだつしている。

これを教育ハラスメントと呼ぶ者もいた。


役者はいずれも美男美女が揃えられて、

画一された人物像が紋切り型ステレオタイプだと

誹議ひぎされていた。


細身で姿勢が正しくいずれも利発りはつさがあり、

はきはきとしゃべり、似たような人種ばかり。

この監督は多様性を否定しているに違いない。


監督の経歴をたどれば、のちに伴侶はんりょを殺害し、

庭に埋めて隠していたことが発覚し、

ブームは完全に闇にほうむられかけた。


この映画を代表作としていたプロデューサーは

そののち、役者への性的搾取さくしゅ行為で訴えられた。


主演であった教師のふたりは

結婚したものの、人知れず離婚した。


周囲の期待に応えるかたちでの

結婚に過ぎなかったと、それぞれ告白している。


ほかにも生徒役で出演していた何人かに、

逮捕された経歴が出てきたので

また別の議論を呼んだ。


しかしアマデウスなる偉人の名が挙げられると、

途端とたんに発言する者はいなくなった。

その作曲者のへきを理解できる者など、

誰もいないのである。


結局、みな取るに足らない部分を

注視しているに過ぎなかった。


いまならもっと良いものが作れるのではないか?


だれが言ったか、みながそう思ったのか、

同意する者が多くあらわれて、

色々な意見をまとめて映画を撮ることになった。


太った教師、猫背でやせっぽちの生徒、

さまざまな肌の色の役者を揃えて、

服は性別に縛られない自由なものにさせた。


生徒ひとりひとりの家族構成を作り、

仮想空間上の学校や街を現実味のあるものにした。


みなが満足する意見を取り入れ、

完璧なまでに完成された映画だった。


しかしでき上がった映画は、

作った者たちでさえも

納得のいくものではなかった。


私服の生徒は画面に収まりが悪く、

しゃべっている役者の脇で、派手な服装がはしに見える。

大小まばらの身長差にも構図こうずの問題が生じる。


生活感を出すために用意したはずの

それぞれの生徒の家庭の映像は、

そもそも物語に必要性がない。


不揃いな人種によって文化的背景を失い、

せた時代に切り取られた風景が破壊された。


だれの意見を採用したのか

太っている教師が画面に占める割合が大きく、

本来あった映像美が完全に消えせていた。


『学舎はくずれ、庭まで燃えた。』


正しいと思って変更し、加えたはずの情報が、

いずれも雑音にしかならなかった。


視聴者数がそれを如実にょじつに物語る。


古代ローマ時代から存在する

理想・高貴こうき化された像ならばともかく、

鏡像の自分の顔を見るためだけに

対価を払う者などいないのである。


美的感覚センス外見至上主義ルッキズムというものが、

作った者たちには理解できなかった。


でき上がった映画は、

混ぜ合わせた絵の具のかたまりとまで酷評こくひょうされた。


完成した不完全な映画であったが、

誰も責任を負うことはなかった。


延々えんえんと宇宙をただようこの船の

限られた環境のなかで、今回もまた

小さな暇つぶしを生み出しては消えたに過ぎない。


30万年以上前の、はるか彼方かなたの母星に

住んでいた人間の作った娯楽ごらく


人間不在の有人船で、機械人形たちは

人間のマネごとをするのである。


機械人形たちが人間のマネをしたところで、

本物の娯楽ごらくなど作れるはずはなかった。



(了)


――――――――――――――――――――


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