第413話 貧乏という言葉の暴力性 3
参照テキスト
https://kakuyomu.jp/works/16818093074870825076/episodes/16818093077101825938
↑ カテイのクサビ 第23話 うちは「貧乏」だから
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来世より
元よつ葉園ほぼ 山上敬子さん 談
増本さん宅の母親がしばしば述べていた「貧乏」という言葉について、単に「金がない」という言葉と比べても、非常に問題のある言葉である。米河君はそのような指摘をされていますね。
貧乏という言葉の類義語として並べるなら、貧困という言葉もあります。
貧乏であれ貧困であれ、それは経済的に豊かでない状況に加えて精神的にも情報的にも、さまざまな面で乏しいことへと繋がりかねません。貧乏ではそこまで見えてきませんが、ここで貧困という言葉を持ち出してみれば、そのことが肌身で感じられるのは、私だけでしょうか。
そう考えてみれば、そのような言葉を使って子どもたちに向っていたあの時代、それこそ私が保母としてあの地で仕事していた昭和のあの頃ということになりますけれども、私自身がうっかり、いえいえ、目先の子どもに言うことを聞かせるためにそのような言葉を使っていたことがなかったと言えば、嘘になりましょう。
そのときその地にいた子どもらに、将来家庭をもって子どもが生まれたらその子に託せるだけの基盤を作ったらどうかと言ったこともありましたが、米河君はそれさえも家制度を悪用した詭弁に過ぎないという方です。何もそこまで言わなくてもと思いはしましたが、彼が家制度を徹底的に忌み嫌うようになったその理由はよつ葉園という場所にあったということを改めて認識させられました。
私自身は目の前の子どものその場その場をしっかりと見て働きかけていくことこそが仕事と思って日々を送っていましたが、確かにそれだけでは駄目だったということに改めて気づかされました。
貧乏とか何とかいうくらいなら初めから子どもの世話なんかするな、面倒を見るなと言うのはある意味極論かとも思いましたが、書かれている内容をじっくりと確認してみれば、確かにそうですと言わざるを得ないところはありますね。
彼はまた、児童指導員の尾沢さんが「我が子がかわいい」とか何とか述べていたのに対して、社会性のないのが子どもを産むよりもまだ、簡単にはらんでおろすそこらのネエチャンやニイチャンのほうが、ワタクシは子どもも育てられん阿呆でございますとわかってなおかつ将来が予見できる行動ができているだけ社会的には上出来だとおっしゃったそうです。
ある意味もなにも明らかな極論ですが、ひょっとその言葉を、増本さん宅の母親に対しても向けていやしないかなと、そんなことにもふと思いがいたりました。
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