津田梅子物語
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新井 忠行
元治元年十二月三日、津田塾大学の創設者津田むめは津田仙と妻初の次女として生まれた。幕末という情勢下でもあり、父親は後継として男児を望んでいたが、誕生したのは長女琴に次いでまたしても女の子だった。仙は失望のあまり名もつけずに飛び出してしまった。そうした夫を見かねて初はむめ(梅)と名をつけた。
寒い二月に最盛期を迎え、春に向けて綺麗な花を咲かせる梅は新たな時代の節目に相応しく、むめの運命を示唆するようだった。
慶応四年九月八日、天皇が即位し明治となった。
このとき津田仙は江戸幕府の任務でアメリカに渡っていた。
文科的に発展したアメリカの大都市ワシントンで、女性たちが男性と意見を交わし、一緒になって活躍するのを見て津田は衝撃を受けた。
一体、何がそうさせているのか。
それが教育にあることを知って感銘を受けた。
日本の近代化は女性の教育にあると確信した津田は、女性にも社会参加を促すことの必要性を実感し、帰国後、わが子に男女の差別なく高等教育を受けさせた。
佐倉藩主の洋学気風もあって、津田仙は十五才で成徳書院に入り、オランダ語や英語の他、洋学、砲術などを学び、江戸幕府に出仕してからも蘭学塾へ入門して森山栄之助のもとで英語を学んでいる。外国奉行が幕府発注の軍艦引取交渉のため福澤諭吉や尺振八を伴って渡米したときは通訳として随行した。
その後、明治二年に官職を辞して、築地の洋風旅館『築地ホテル』に勤め、西洋野菜の栽培などを手がけていたが、政府が不平等条約の改正を目指して岩倉具視使節団を欧米に派遣することを知り、津田仙は使節団に留学生を随行するよう進言した。男子だけでなく女子も派遣するよう強く要請した。
政府は津田の意図を理解し、早速、留学生の募集を始めた。
十年間の官費留学という大がかりなもので、渡航費から学費、生活費、さらには高額な小遣いまで年間千ドルを支給する厚遇である。しかし、世間は多額な費用をかけて新しい女性を養おうとする政府のやり方に反感を示した。因みに日雇い労務者の日当は二十一銭で、一ドルは一円、なるほど明治四年から十五年までの年額千ドルの学費は、一家を豊かに養える額だった。
戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族たちは、この留学を名誉挽回の好機として、教養のある子弟を積極的に応募させた。しかし、女子の応募者は皆無だった。期間十年という条件がハードルを高くしていた。
日本の女性は十代半ばで嫁ぐのが普通で、年頃の娘が十年も異国に行くとなると、戻ってきた時は行き遅れとなるのだ。大切な娘を十年も異国に遣るなど、論外だった。津田仙は長女琴を応募させた。だが琴は遠国への留学を拒否した。その為、必然として次女の梅が応募することになった。梅は六才だった。
梅を含めて五人、採用された。
上田悌十六才、吉益亮十四才、山川咲十一才、永井繁十才、津田梅六才の五名である。娘の親たちはこの留学で娘に西洋の言葉や学問を身につけさせ、薩長を見返えしてやりたいという怨念を持っていた。
会津藩家老山川尚江重固と妻、艶の末娘山川咲は、聖ハリストス正教会の斡旋でフランス人宣教師の元に里子に出されていた。利発な上に快活で社交性に富む咲はフランス人に育てられたおかげで、西洋文化に慣れ親しんでいる。兄の山川健次郎(後の東京大学総長)も、イェール大への留学が決まっていたので、咲は留学を不安に思わなかった。
母艶はお守りとして懐剣を咲に手渡し、
「今生で二度と会えるとは思っておりませぬ。そなたを捨てたつもりで遠国へ出しますが、無事を祈って帰りを待っていますよ」
と言って、それまでの咲を、捨松と改名した。
永井繁は佐渡奉行属役の益田孝義の四女として江戸本郷の猿飴横丁で生まれた。兄孝と繁以外、七人の兄妹はみな成長しなかったので、自分の家では子供が育たないと思った両親は、繁が五才のときに幕府の軍医永井玄永の養女に出した。
米国公使館の役人だった長兄孝は、開拓使が女子留学生を募集していることを知って、永井氏を説得し、繁を留学生に送り出した。
明治四年十一月十二日、岩倉具視使節団は横浜港を出航した。
サンフランシスコを経由してワシントンに到着した使節団の一行は、そのままヨーロッパへ向かったが、留学生たちはアメリカの地に降り立って長い留学生活を送ることになった。五人のうち上田悌と吉益亮の二人は、体調を崩して帰国させられたが、残り三人は幼かったこともあって、徐々にアメリカの新生活に順応していった。
梅は日本弁務館書記で画家でもあるチャールズ・ランマン氏の家に預けられ、英語やピアノを学びながら、ピューリタンの気風の中で文学や美術の薫陶を受け、キリスト教を信仰して洗礼を受けた。
私立の女学校アーチャー・インスティチュートに通い、ラテン語やフランス語、更に自然科学や芸術などを学んでいる。もちろん学ぶばかりではなく、ランマン夫妻と親子のような関係を築いて、あちこちへ旅行もしている。
山川捨松はニュー・ヘヴンのレナード・ベーコン牧師宅に寄宿し、クリスチャンとなった。教育は地元の高校を卒業後、バッサー大学の正規課程を修め、さらにコネティカットの看護婦養成学校で二ヶ月間の研修を受けている。
永井繁はフェアーヘーヴンのジョン・アボット家に預けられ、ヴァッサー音楽大学でピアノを学び、同じ時期にアメリカに留学していた兄の友人加賀大聖寺藩士族の瓜生外吉と出会い、恋に落ちた。外吉は宣教師カロザルスの建てた築地大学で学び、洗礼を受けている。
明治十四年、北海道開拓使は閉鎖となり、留学資金の提供が出来なくなるとして留学生に帰国命令が出された。
山川捨松と津田梅は翌年学校を卒業することを理由に一年延長を取り付けたが、病気がちだった繁はヴァッサー大学音楽学校を卒業しないまま、瓜生外吉と共に帰国した。
そしてその一年後、ランマン氏は梅と捨松をジョージタウンの自宅からシカゴまで送り、日本に帰る京都同志社大学の教授に二人を託した。
もうあと一日です。到着は目の前です。わたしの家族はいったいどんな人たちなのかしら……。肉親に会う前に書く手紙はこれが最後です。
今日の午後から計算して二百四十マイル、何か変なことが起こらない限り、二十四時間以内に、わたしは日本に帰り着きます。到着は昼間なので、富士山が見えるはずです。太平洋は荒波の連日でしたが今日の天気は素晴らしく、きらめく青空と静かな青い海、冷たい空気に身が引き締まる気分です。
ああ、こんな日がほんとうにやってくるなんて!
繁に会うことを考えると、いろいろなことが波のように襲って来ます。捨松とわたしは、今朝目が醒めて、もうあと一日きりよ、たった二十四時間で日本に着くよ、と手をとり合いました。
そう、旅は終わりなのです。
あんなに夢見ていたことが、あれこれ想像していたことが、今、目の前にやって来るのです。日本語に不安がなければ、もっと落ち着いていられるでしょうに、自分をコントロール出来ません。不安に襲われます。
船に乗ったときは遠い遙かなことに思えましたのに、船旅の三週間はあっと言う間に過ぎました。
わたしの生れた日本の港が近づいてきます。興奮のあまり真っ赤になっているわたしの顔をご想像下さい。人生の新しいページがめくられるのです。
どうか素晴らしいものでありますように!
これはサンフランシスコを出航した客船アラビック号が横浜港に入る直前、津田梅がアデリン宛てに書いた手紙である。
昭和五十九年二月、津田塾大学にちょっとした事件が起きた。
本館屋上の物置から古い手紙がこぼれ出て、その二,三枚を学生が拾って事務局へ届け出たのである。
大学当局が本格的に物置を調査すると、朽ちかけた大きな桐の茶箱の中から、梅子がアデリンに宛てた数百通の私信と、アデリンから梅に宛てた厖大な手紙や文章が出て来た。
アメリカの日本弁務使館書記で、画家でもあるチャールズ・ランマン氏は日本からの女子留学生津田梅を十一年間もの長い間あずかっていたので、明治十五年に梅子を帰国させるとき、ランマンの妻アデリンは梅子の書いた文章や日本から受けとった手紙などを整理して、何らかの形で送り返したものと思われる。
梅子は大正二年に世界キリスト教学生会議に日本キリスト教女子青年会の代表として渡米してアデリンに会っている。八十七才の高齢でかなり心身も弱っているアデリンのために、梅子は住居の手入れをしたり、親身の世話をした。
もしかしたらその時に、これらの手紙や文章を入手して、持ち帰ったのかも知れない。いずれにしても、梅子の手紙とアデリンの手紙が一緒に発見されたことは、梅子自身か、あるいは身近な誰かが、これらを手に入れてまとめて置いたに相違ない。
津田塾大学は三十年に亙る梅子の私信を整理して公開した。
わたしは昂ぶる気持ちを押さえきれなかった。すべての仕事を差し置いてむしゃぶりつくようにしてそれを読んだ。
これまでに明治期の女性像として津田梅子について短く書かれたものは何冊か読んだことがある。津田梅子の著書にも幾分かは目を通している。
だが、それらのほとんどは女子英語塾の創設者としての公的な立場から書かれたもので、もし新しく発見された手紙の中に、赤裸々な生き生きとした津田梅子が顕れているとしたら、歴史書には書かれていない明治の人々の心の綾が、津田梅子という女性の肉眼を通して織り出されているとしたら、と期待が膨らんだ。
梅子は昭和四年に亡くなったが、アンナ・ハーツホンはその後も塾のために尽くし、第二次世界大戦が始まる直前(昭和十五年)まで日本に住んでいた。恐らく津田梅子の死後、伝記を書くつもりで、あるいは誰かに書かせるつもりで、これらの手紙やその他の文書を整理して置いたに違いない。その形跡もある。
しかしアンナは再び日本の地をふむことなく昭和三十七年に他界し、これらの手紙はそのまま忘れ去られてしまった。
梅子は死去する以前にこれらの古い手紙を思い出していたかも知れない。手紙にはアデリン以外には決して言わなかった心の底からの叫びに似た痛切な訴えが書かれている。にもかかわらず梅子はこれらの手紙を破棄もせずアンナに託している。自分の死後、これらの手紙や文章が発表されてもかまわないと思っていたのだろうか。自身が読み返した形跡もある。
私が疎開先がら東京にもどって来たのは昭和二十五年九月、十二才だった。
焼け跡の町には新しい家が建ってはいたが、東京は食糧難で、浅草観音寺の裏や上野駅周辺には浮浪者が屯していた。
家は焼失していたので、父は北多摩郡小平町に農家の大きな作業小屋を借りた。
人里離れた武蔵野の防風林に囲まれた作業小屋は、松林の中に見え隠れする津田塾の学生寮の近くだった。
下宿させる家も食べ物もろくにない東京の焼け野原に、地方都市から子女を送る親はなかったが、津田塾の学生は四百人もいて、その九割が寮生だった。割り当ての配給食料でまかなうにしろ、寝起き出来る部屋を与えられ、食べさせてくれるところは、外にはなかった。
東京駅から中央線で国分寺まで一時間も乗れば、焼け野原も林と森と並木に変わる。そこから一時間に一本しかない私鉄に乗り継いで、鷹の台という寂れた小駅で降りると、あたり一面は桑畑で、人影は塾の生徒以外は見当たらない。というより、若い娘の姿がちらほら見えるのが、こんな寂しいところに不似合いという感じだった。学生寮は周りを梅林や栗林や竹林に囲まれ、表通りには桜並木があって、今が満開だった。若い娘たちは桜の木の下に腰を下ろして、これから四年間を過ごすはずの学寮生活や、その先に広がる自分の人生について考えこんでいる様子だった。
そうした女学生を眺めて感傷にとらわれているわたしに妙な老女が近寄って来た。
どうやら塾の卒業生らしく、母校を何かの用で訪ねたらしい。
あまりに桜花が見事なので足を止めて見上げている。
今にして思えば、せいぜい五十から六十ぐらいの人だったかも知れないが、十二才のわたしには老女に見えた。
「津田先生って、アメリカの大学で蛙の卵の研究をしていらしたのよ。あなた、知ってる?」
わたしは津田梅という人が英語塾を開いたのは知っていたが、蛙の話は聞いたことがない。
「あんた、大杉栄という無政府主義者を知っている? 大正時代に伊藤野枝という女と一緒に殺された人よ。大杉はその前に神近市子という別の愛人にも刺されたことがあるのよ。不名誉なことでしたから、塾当局は神近市子を卒業名簿から削ったけれど、わたしは同級生よ。ほら、あそこにあるのが津田先生のお墓よ」
老女は墓の方に向いて手を合わせ、今度は波多野秋子の話をした。
「波多野秋子は夫のある身だったから、愛し合っても添い遂げられなかった。姦通罪というのがあるからね。有島武郎の軽井沢の別荘で首を吊って死んだわ。秋子は卒業生ではないけれど、少しの間、塾に来ていたことがあるのよ。お洒落することに夢中な人だったわ。伊藤野枝は秋子のことを知的な匂いのない女だったと悪口を言っていた。きっと羨ましかったのね。でなければ嫌いだったのかも知れない」
地味な和服を着た老女は哀感に堪えないというように、首を振って、
「ああ、毎年咲く花は同じなのに、毎年会う人はみなどこか違っている。あなたのような若い人を見ると、つくづくそう思うわ」
と言った。
わたしは死んだ人たちの話に幾分の恐怖を覚えながら墓の方を眺めていた。
「あの頃の塾には、日本の若い女たちを魅きつけるものがあったのね。自分たちの立場について考えはじめた女は、女子英学塾に行けば、何かが見えてくると思ったのね。津田先生はいつも和服を着ていらしたのに、今塾に来るのはアメリカ主義の娘たちばかり、ああ、嫌だ嫌だ」
老女は本気で怒った。
確かに卒業名簿に伊藤野枝の名はあった。波多野秋子の名は会友誌にも載っていなかったが、大正十二年七月十日付の大阪毎日新聞に『秋子は結婚後、麹町の女子英語塾に通い……云々』とあった。
梅子はアメリカのブリンマー女子大学で生物学を専攻し、蛙の卵に関する論文を英国のマイクロスコピカル・サイエンス誌にトーマス・ハント・モーガン教授と共同で発表していた。
一九三三年、教授は遺伝学の業績によりノーベル賞を授与され、
「津田梅子の優秀な頭脳は、教育者として立つために生物学ときっぱり縁を切ったのです」
と、梅子の才能と人柄を称賛した。
梅子が黒田清隆を訪ねたのは、北海道の官有物払い下げを巡って政変のあった翌年だった。
開拓使が一千四百万円の巨額もの費用を投じた船舶や倉庫、農園やビール、砂糖の製造などの事業を、黒田はわずか三十九万円で払い下げてしまった。
しかもその相手は、黒田と同じ薩摩藩の政商五代友厚だった。
これらの事業はみな赤字続きで、評価は低かったのだが、新聞が何かことありげに報じたので、人々は大騒ぎした。
自分で払い下げた官有物から発した政変だったので、黒田は不満ながら沈黙を守っていた。そこへ、十一年前に送り出した幼い少女たちが成人して戻り、挨拶に来たのだ。黒田は感慨ひとしおだった。
梅子はその様子をアデリンへ書き送っている。
今日で帰国して一週間が経ちます。
初めての経験ばかりの一週間ですが、とても楽しい一週間でした。
とくにこの二日間は、実にいろいろなことがありました。
父が元北海道開拓使の黒田清隆氏に手紙を書き、いつ挨拶に伺えるかと訊いたところ、土曜ということになって、その朝、人力車で五マイルほど離れた捨松の家へ行き、彼女も一緒に行き、黒田氏のところへは午後二時ごろ着きました。
私たちは洋室で引見され、日本語がまだ覚束ない私のために、父は通訳です。
黒田氏は立派な軍人のような方で、私たちの受けた教育について、褒め言葉を並べられました。
私たちは戸惑いながら、今までのことについて感謝の言葉を述べました。
そのあと津軽三味線の演奏でもてなされました。雪国の津軽独特の太棹の三味線で撥を叩きつけるように弾くテンポの速い、心の鼓舞される激しい演奏でした。
奏者は仁太坊という盲目の三味線弾きで、日本一だそうです。そのあと芸者たちが唄いました。黒田夫人の他にも同席する人がいて私に英語の歌を所望されました。
英語の歌はわからないでしょうにと思いましたが、拒るわけにもゆかず、二曲ほど歌いました。思い出すと今でもおかしくなります。今までこんなことをしたことはありません。
三時間ほど黒田家にいて、遅くなったので捨松は私の家に泊まり、遅くまでいろいろ話込みました。
私たちはとても難しい立場にあり、自分の思うことを口に出して言ったり行動したり出来るミッショナリーの人たちのようなわけにはいかないという結論に至りました。日本で力を持っている人たちはクリスチャンでもないし、とても不道徳ですが、私たちは大海の中の一滴の水に過ぎず、どうすることも出来ません。
日曜日は繁と一緒にユニオン・チャーチに行き英語の礼拝を聞き、ミッショナリーの人たちにも会いました。とてもよい礼拝でした。
その帰り、姉は伯母が勤めているプリンス・トクガワの御殿に私たちを連れて行きました。プリンスはイギリスに五年間留学していて、私たちより少し前に帰国したばかりでした。普段、御殿に住んではいないのですが、伯母が私たちに引き合わせるよう取り計らってくれたのです。
本来なら私など会える人ではありません。維新前は帝の地位だったそうです。
プリンスは英語で気楽に話し、心安く旅の話をしました。とても楽しい人で、私が床に座らなければならないことに同情してくれました。
でも、そのこと以外はとてもくたびれる訪問でした。同席のたくさんの人たちはみな日本語ですし、私は一言もしゃべれず、要望されるままに帽子を取って見せたり、洋服のボタンを見せるために立ち上がったり、髪形だの、身に付けた飾りだのを、同じようにして見せました。
プリンス・トクガワとは徳川家達のことである。明治十年から十五年までイギリスに留学している。家達の生母武は田安徳川家の家臣津田栄七の長女で、梅子の生母初の姉にあたり、徳川慶頼に使えて、家達と達孝を生んでいる。このため津田梅子は家達とは従兄妹だが、姉はその関係を梅子に伝えていない。母は徳川慶頼の正室でなかったというのが、その理由だった。
家達は小平町に塾が建てた新校舎の落成式で来賓として祝辞を述べている。
「塾の創設者津田梅子は、時代に先立って未来を予知し、将来を築く新しい女性を育てた先駆者である」
と英語で讃えた。
北海道開拓使の実力者黒田清隆は薩摩藩出身の長老、長州出身の伊藤博文とは不仲だった。伊藤内閣総辞職の後、総理大臣となったが、僅か十八ヶ月で辞任している。しかし明治二年の五稜郭攻撃のときに捕らえられた榎本武揚を起用したり、樺太問題では国際的視野を持っていると評価されている。また、札幌農学校(国立北海道大学)の基礎を築き、アメリカのフロンティア精神を取り入れた。ことに女性の教育に関心が強く、国の将来は母親の見識にあるとしていた。この考え方は、留学生募集にも連なっている。五人の女子留学生の父親を見るとそれがよくわかる。
吉益享の父は東京府士族秋田県典事吉益正雄
上田悌の父は外務省中録上田峻
山川捨松は父はすでに亡いが兄は青森県士族山川与七郎
永井繁の父は静岡県士族永井久太郎
津田梅子の父は東京府士族津田仙
いずれも早くから欧米に眼を向けていた旧幕府の出身である。
明治十一年、黒田清孝は酒乱で十才以上も若い妻清を殴り殺したと噂された。
「妻はかねてより結核を患っており、喀血により死亡したのである」と訴え続けたが、世論に蓋は出来ず、ついに辞表を出して引き籠もった。
福澤諭吉は慶應義塾の週刊誌『民間雑誌』に世の風説を否定する文章を執筆して「権力者たちがこぞって妻妾を抱えているのに、黒田は病弱な清だけを守っている。大切な妻を殴るような人ではない」と言った。
伊藤博文と大隈重信は「日本は法治国家である。黒田を処罰せよ!」と迫った。
しかし、内務卿大久保利通は「黒田は断じてそのようなことをする無慈悲な人間ではない。拙者がそれを保証するので、しばらく拙者に任されたい」と言い切って、大警視(警視総監)川路利良に検視を命じている。
川路は部下と医者を連れて、夫人の墓所を開き、棺に近寄って検視したが、暴殺の形跡など何処にもなかった。
医者は左右の立会人を返り見て「夫人は間違いなく病死でござる」と断じた。
大久保は黒田を説得して辞表を撤回させたが、数日後、紀尾井町の清水谷で斬奸状をたずさえた士族たちによって暗殺された。
実行犯は石川県士族島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一及び島根県士族の浅井寿篤の六名である。
斬奸状には『当時姦魁の斬るべき者を数ふ。曰く木戸孝允、大久保利通、岩倉具視是れ其最巨魁たる者也。大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良の如きは、亦許べからざる者にして、其根本を断滅せば枝葉随て枯れ落す』とあった。
黒田をかばったことで大久保は殺されたが、生き残った黒田はその後、内閣総理大臣になっている。
アメリカの日本公使館の書記官チャールズ・ランマン氏は、国務省や内務省、国会図書館などにもかかわっており『ウェブスター伝』など三十余の著書がある。
一八七二年には『米国在留日本人』を上梓している。
ランマンの妻アデリンは成功した貿易商の娘で、結婚祝いにジョージタウンの家二軒を父親から贈られている。
知的なアメリカ中流階級のレンガ造りの家が並ぶ住宅街の一軒には、自分たちが住み、もう一軒は貸して家賃収入を得ている。
子供のなかったランマン夫妻に我が子同様に愛された津田梅子は幸運だった。
梅子はアデリンに連れられてよく行った懐かしい場所や優しい人たちの親切を忘れたことはない。
帰国後、梅は津田梅子と改名し、繁も世情に合わせて永井繁子と改めた。
津田仙はビジネスレターや手紙を今も筆で書いている。不便と感じても頑なというか、のんびり屋というか、改めるものは何でも後回しにしている。
梅子は柿をアデリンに送った。この時季の果物を味わって貰おうと思った。
日本の食べ物はみんな美味しくて飽きないし、どの味も極めて自然に感じられます。わたしはやっぱり日本人なのです。
日本の言葉を早く取り戻させようと姉は根気よく教えてくれますが、覚えは遅々として散歩も買い物も一人ではままなりません。
永井繁子が結婚します。
国費留学生の使命も忘れて、こんなにあっさり結婚してもいいのかしらと捨松も私もがっかりしました。残念です。
でも彼女には何も言いません。結婚式はひっそりと行われました。
式の後、捨松を自宅に泊めて自分たちの前途の困難について語り合いました。
いったい何のために自分たちは国のお金を使って十年もアメリカで勉強させられたのでしょう。文部省はうんともすんとも言って来ません。仕事の紹介もしません。
果たして自分たちに働く場所はあるのでしょうか。男性の留学生たちは帰国すればそれ相応の地位も与えられ、海外の新しい知識を国に役立てるような職務に就いているのに、女性という理由だけで職務がないのです。
日本には不愉快なものが多すぎます。
築地に住むミッショナリーの外国人に対しても私は不快感を覚えています。彼らは日本人を異教徒だとか、半分未開の人間だと思っています。すべてが押しつけがましく「あなたクリスチャンですか、え? クリスチャンじゃない、どうして?」といった調子です。私はアメリカにいる日本人に対しても腹を立てています。帰国してもろくに手紙も書かず、やることがすべてのろまで、気を悪くしているのではないかと心配しています。
父も長期滞在の御礼状を書かなければと言いながら、なかなか書こうとしません。礼状が遅くなっても、どうぞ恩知らずと思わないで下さい。良く言えば何事にもあくせくしない日本人の風習なんです。
私の家は西欧風ですが、それでもアメリカ風のやり方は奇妙な眼で見られます。
日本の女性たちは気の毒です。可哀そうです。それでも十年前に比べれば女性を尊敬するようになっているそうで、不平は口に出しません。
女性の教育をすすめ、解放運動を広めようと思っていますが、私一人に何が出来るというのでしょう。仕事に取りかかる前に意欲や情熱が失われてしまうのではないかと、心配しています。
これがあんなにも恋い慕っていた生まれ故郷なのかと不安になります。余りの落差で、心が落ちつきません。アメリカでは電車の中で男たちは女性に席を譲り、車に乗るときも女性が先で男性は後から乗りました。日本は全く違います。女性だからといって気をつかってはもらえません。東京の電車で、もし、男性が立ち上がって女性に席を譲ったら、おかしな光景となります。
繁子は日本に馴れなさい、日本の粗野なやり方に馴れなさい、他のアジアの国の女性に比べれば、日本はまだましなのだから、高望みはすべきでない、と忠告し慰めてくれます。外国人はみんな自分たちの居住地に住んで快適に暮らしているので、わからないのでしょうか、ミッショナリーの人たちも本当のことがわかっていないようです。長年日本に住んでいるのに日本語がしゃべれず、お高くとまって、日本人を見下しています。姉は日本を正しく理解しているアメリカ人など、一人もいないと言っています。
伝教師たちは精神が狭量で、派閥にばかりこだわってアメリカ以外のやり方を評価することが出来ません。公平な判断を下せる人間なら、どちらの国にも長所があることを認めるべきなのに、日本の優れているところを見ようとしないのです。アメリカのものは何でも良くて、日本のものは嫌いなのです。
日本人の着物姿はとても優美です。いろいろ不便は感じますが、アメリカ人がきついコルセットで身体を締め付けていることに比べたら、その半分も煩わしくないと思います。容姿を綺麗に見せるために、日本の女性たちは重い帯をいろいろ工夫して身体に巻き付けているのです。
私が着物を着るとみんな可笑しがって、着物がずり落ちているとか、裾が開いているとか、帯がほどけそうだとか、いろいろ言います。
姉は私の髪を日本風に結い上げてくれようとしましたが、うまくいきませんでした。私は半分アメリカ人で、半分日本人なのです。
宣教団の人たちは、日本の生活習慣について、ただ批判するだけではなく、もっと深く観察すべきです。
習慣にはそれなりの理由があり、些細なことにも根の深い理由があるのでず。
生活や風習を支える想念や感性を変えるのは難しいのです。むやみに新しい考えを押しつけることは出来ません。互いの良いところを見ようとする自在さが大切です。
日本語は、目上の者や目下の者、対等の人に対する物言いがすべて違います。礼儀正しい言葉や少し丁寧な言い方など、一つの意味でもいくつもの言い方があります。その上、謙譲というだけで、あまり意味のない言葉まであるので、混乱してしまいます。私は今、漢字の勉強にとりかかったばかりですが、手紙を書いたり新聞を読めるようになるまでどれほどの日時がかかるでしょう。上手に日本語を話せるようになるまでどれだけかかるでしょう。八年も日本に住んでいる外国人でも上手に話せないのですから、これから私が克服しなければならない山の高さがどんなものか、想像して下さい。
大山家には洋式のものは何もないので、捨松は日本式に坐るのが大変だと嘆いています。私もよその家に行くと坐りますので、足がしびれて直ぐには立てないことがあります。けれども、足のしびれるのを気にしてその家のたった一つの椅子に腰掛ける気にはなれません。床に坐る方が気が楽なので、そうしています。
あなたは日本のあらゆることに関心があると思うので、手紙には何でも書きますが、日本人には決して見せないで下さいね。
東京の道路はとても汚れています。人力車の車夫が咳き込むのを聞くたびに、悲しくなります。でも、人力車なしではどうにもなりません。
普段のこうしたことは家族にも話さないので、日本の風習に私がどんなにびっくりしているか、姉にもわからないと思います。
姉は英語を読みますが、アメリカのマナーや習慣や生活様式については理解できません。エッセーや旅行記、宗教の本なども読みますが、アメリカのちょっとした冗談などは難しいようです。
梅子はじっとものを目を据え、そこにうごめいている生命の様子に心をうたれ、驚いている。風俗の違いに感心するのではなく、風俗を動かしている生命に関心を持っている。
政府は帰国した留学生たちの成果に期待している。
梅子は師範学校や他の公立の学校で何年もかかることを、短期間に達成できる学校を創ろうとしている。
政府には教育は金がからないという偏見がある。しかし、小規模でも質の良い学校を維持するためには基金が必要で、梅子はそれを捨松に期待している。
日本の女性は十五,六から十七,八で結婚するので、梅子は適齢期を過ぎてしまったが、津田仙は何も言わず、気にとめてもいない。けれど女性が独身のまま一生を終わるのは辛いことだと思っている。日本にはオールドメイドという言葉がない。それでも梅子は結婚しなくてもかまわないと思っている。
日本人はアメリカ人のように乱暴だったり、騒々しかったりすることは滅多にない。静かな国民である。だが、男たちは妻に従順を求めるだけで、愛情や尊敬の念が希薄である。勿論、すべての男性がそうというわけではない。日本に帰ってまだ一ヶ月しか経っていないが、梅子はそう感じている。
着物姿を目にした後で、日本女性の服装姿を見ると、ピンクのサテンを着た中国人の姿をワシントンで見たときのようなおかしさがある。
郷に入れば郷に従えで、梅子は着物を着たいと思っている。
洋服姿の梅子が買い物に行くと、大勢の人が周りに集まって来る。でも、どうかするというわけでもない。何を言うのでもなく、立ち止まっていれば、ただ見ているだけで、その場を離れれば、後をつけて来るわけでもない。
留学生がサンフランシスコに着いてシカゴ、ワシントンと旅する道中で、アメリカ人からさんざん珍奇の眼で眺められ、取り囲まれ、振袖や結い上げた日本髪に触られたときのことを思えば、何でもないが、それでも気持ちのよいものではない。
ワシントンで珍しい日本の幼い留学生であった梅子にとって、十一年後、今度は日本で同じような目に遭うのは心外だった。
日本のやり方に馴れようとしているが、梅子の表現には矛盾もあり「思い出したことを想うままに書き連ねているから他人に見せられる文章ではない」と断ってもいるが、原文を読んでいると混乱した文章も、その矛盾が却って魅力になっている面白さがある。
お正月の餅つきで、大忙しです。
新年には恐ろしいほどたくさんのプレゼントを贈らなければなりません。
果物、魚、菓子など、少しずつとはいえ、全部ではかなりの量になります。
日本に着いたとき、たくさんプレゼントをもらいましたので、お返しをしなければならないのです。
それから忘れないうちに言って置きますけれど、帰国して初めて正月を迎え、私は十八才になりました。お国のために役立つ仕事をしようと決心しています。日本の女性のためにしなければならないことが、山ほどあるのです。
日本は今、不愉快な暗い雲に覆われています。けれど憂鬱になったり落胆したりせずに、陽も射しているのですから、それを見つめなければと思っています。
保守勢力が権力を握っていて、進歩主義や外国人には抵抗があります。二十年にわたる改革の必然的な反動だそうですから、時期を待つ他はありません。
外国人に対する感情が悪くなっていて、英語が求められることは滅多にありません。外国のものが好まれていた時代は過ぎ去ったのです。
日本の政府はインフレ克服のため紙幣を整理し、デフレ政策をとっているので、物価は急落し、農村は深刻な不況に陥っています。そして秩父事件など社会の秩序を乱す事件が多発しています。
帰国して一ヶ月以上も経つのに、政府は未だ何も言って来ません。私たちは誰のためにも役立てないのです。絶望です。捨松も嘆いています。
でも、日本の白米のご飯がおいしくて、少し肥ってしまいました。
新しい着物が出来上がったので、写真を送ります。
鬢付油で結い上げ、木の枕を使って寝なければならない日本髪の厄介さや、生毛を剃り落として、白粉をべったり塗り、濃く紅をつける日本風の化粧には閉口しています。額や首のまわりに髪のかかるのを嫌って、生毛を剃り落として化粧をするのが不可欠ですが、私はそれに耐えられないので平素は洋服を着ています。
歩き方も内股で小刻みに歩くのは醜いと、ランマン夫人によく叱られましたが、日本で下駄を履いて外股に歩くのは、アメリカで内股に歩くのと同じくらいみっともないので、生活は洋風にしています。
日本語は長くて、含みのある意味のはっきりしない、理解し難いセンテンスを使わなければならないので、難しくて気が遠くなりそうです。私には語学の才能がないようです。
梅子は生涯、日記は英文で書いている。その文章は複雑な感情を微妙に流露しており、英文で書く方が楽だったに違いない。
文筆に長年たずさわっていたチャールズ・ランマンは、梅子に文才があると思った様子で、度々、彼女に手紙や日記を出版することを勧めていたが、梅子はあらかじめ公表を意図して書いたもの以外、出版はさしひかえたいと書き送っている。
ランマン夫妻宛であるからこそ、打ち明けている心の中を他人に知られたくなかったようで、もし誰かに手紙を見せるなら、今後はかしこまった模範のような手紙しか書かないと強い口調で断わっている。
彼女は生涯、日本語に熟達しなかったと思っていたし、第三者もそう思っている。
しかしこれは、梅子が言語に対して敏感で、聞いた言葉を容易にコピーすることに耐えられなかったからであり、十八才以後の長い日本での生活にもかかわらず英語の文章力が衰えなかったことにも関連している。
梅子は非常な読書家で、常に言語の奥にあるものを探ることを忘れず、古典の平家物語や、太平記、源平盛衰記、樋口一葉の十三夜などを英訳して『英文新誌』に発表している。父津田仙や母初もなかなかの文章家だったから、その出生から梅子は言語に対する感性に恵まれていたのだろう。
渡米したばかりの幼い梅子の母に宛てたアデリンの手紙の訳文と、津田仙のそれに対する返事、さらに幼い梅子の日本文の手紙があった。
御娘梅子こと私宅の二回に吉益亮と一緒に居り申し候。右両人は私共お引請けお世話仕り候まま、仕合の事に御座候。私の夫は当地にてお国公使付きの書記官にて、右公使館は私宅より近き所に御座候。去る火曜日には日本の大使当府へ御着、弁務使森様一方ならず御待請けにて、万事ご都合もよろしく、ご同行の娘子たちは、夫の妹お世話申し上げ候様御約束仕り候。同人は私と同居罷り在り候ことに御座候。御娘は直に学校へ寄宿致させ候には、余りに早く存じ候まま、森様よりよきお指図御座候までは、私方へお預かり置き申し上げ候積りに御座候。悌子、捨松、繁子の三人は、近所に住居いたし居り候。妹及びランマン事、日々双方へ参り候て、御心添え致し居り候。皆々一同学問修業の志厚く感心仕り候。殊に梅子は覚え宜敷、同人へ逢い候人々、何れもその立居振舞を褒め申し候。これまでのお育て方宜敷こと、うわさ申し上げ候。私共一同梅子を祝していう、厳母のその愛女と遠く隔絶するのを楽しむは、その子天よりうくる処の才知あるが故なりと。又君を祝していう、外国人に託するに適う、かくのごとき愛情深き少女を得るは天の賜なりと。
私共一同既に梅子と懇親と結びし故に、若し後来、時ありて別るる節は如何なげきあらんかと、唯今より心配罷り在り候。大使節の来着の日は、わが国民一方ならず喜悦致し候。我国へ強き綱を付て、お国益々固く結び付け申し度き心地仕り候。お国人のわが国民を好み候ことはかねて存じ居り申し候。私共に於ても、日本人に友ぎを結べば結ぶに従い、猶々おなつかしく相成り、益々日本好きと相成り申し候。
梅子事は当府へ参り候夜、直に私宅に着致し候事故、別段に御心安く致し居り候。如何なる人お世話致し居り候哉と、ご承知成され度く思し召し候わんと存じ上げ候まま、私共の写真封入仕り候。ご覧給わるべく候。梅子出立の節遣わされ候写真は、同人相楽しみ、折々出し眺め居り候。殊にお側に坐りし居り候図を、時々衆人に示し申し候。梅子よりも深情をお贈り申し上げ候。大人へも宜敷お願申し上げ候。かしこ
チャールズ・ランマン妻より
津田仙様
御認めの御文、御細やか様に仰せいただき、嬉しく拝見致し参らせ候。
まづまづ、おそろい遊ばされ御機嫌よくいらせられ候事、数々御目出度く御悦び申し上げ参らせ候。左様に御座候えば、この度は娘梅子事不思議のご縁にて、お宅の二階に吉益亮様と一所に居り、万事あつき御世話様いただき居り候由、浅からず有難く委細に承り、一同大悦び安心致し参らせ候。日本の大使御地に御着の節は森様には別段の御待ち受けにて、万事御都合宜しき由、初めて御旅行の御方々ゆえ何れもおめづらしき御事のみと存じ上げ参らせ候。
さてお国人にて、厚き御取扱い御座候由新聞等にて承り候人々も、有難がり参らせ候。同行の御娘子たち、お連れ合い様御妹、万端御世話下され皆々英学修業致し居り出精の由、かげながらうれしく、お悌子様、捨松様、繁子様の三人はご近所に居り候由、梅子事は未だ学校に入り候には早く候由ゆえ、しばらくそなた様お宅に御厄介いただき居り候事、さぞかし御世話やけ候事と山々有難く、万端御任せ申し上げ候間、どの様にもお厳しく御教育の程願い上げ参らせ候。 兄弟多きゆえ私手元に居り成人致し候よりは、いかばかりか大仕合に御座候。
殊に実子のごとくおやさしく遊ばし下され候こと、亮様よりも御申し超し下され委しく承知致し、御恩の程海山より深く、まわらぬ筆には尽くしかね候。
お二方様並にご住居の写真お送りいただき、浅からず有難く、御目もじ心地致しうち寄り拝見致し居り参らせ候。御国の人々も、我国より参らせ候ものを、厚くおもてなし下され候とのこと、山々うれしく、当方にても、日に日に着類その外食物、何にても追々お国の風を宜しき事と申し、伝信機、鉄道もでき、もはや一両年も相立ち候わば、よほど便利に相成り、益々お国の人を好み候事と存じ候。長き内にはお目にかかり、色々つもる御礼申し上げたく祈り居り参らせ候。梅子は、出立の折持たせ遣わし候写真を折々取出しながめ居り候由、併し帰国の意も生じ申さず候は、全くお取扱いの宜しき故と存じた奉り候。
お亮様御事も御発明にて、梅子を御親切にお引受け下され候により、私共も大安心致し候。猶又お前様方万事お心添え下され候事故、わけて安心致し候。筆末ながら御礼申し上げたく、私梅子を御祝いしていただき、山々有難く厚く御礼申し参らせ候。何もかもまたのお便りに申し上げたく候。あらあらご返事まで、目出度くかしこ。なほなほ折角時候おいとい遊ばし候様御念じ申し上げ参らせ候。お送り下され候おへやの写真の間に、がく沢山御座候よう拝見致し候間、当地名所の写真差上たく、お笑いとめ下され度く候。一同宜敷申し上げたく候に付き申し参らせ候。何もかも御礼申し上げたく候。めでたくかしこ
津田仙より
チャールズ・ランマン御奥様
御目出度申上参らせ候。先づ先づ御皆々様御揃い遊ばし、御機嫌よくいらせられ候御事、御目出度ぞんじ上げ参らせ候。私事もきげんよくおり候まま、御安心下されたく願上げ参らせ候。せんだって申し上げ候通り、皆々様と御一緒にワシントンに居り参らせ候。ミス・ロオレンと申す人に学び候処、この人は古里へ帰り候につき、他の先生が参り、十時より十二時までけいこいたしおり参らせ候。ただいま居り候処はランマン氏のところより十三町ほどにて、折々ミス・ランマンさんも参り候まま、御安心被下度候。おりょうさんよりもお返事差し上ぐるはづに候へど、眼宜しからず、けいこもやすみおり候まま、お返事差し上げかね参らせ候。手ならいも致し参らせ候。御案じ下さるまじく願参らせ候。
かえすがえす時候御厭い遊ばし候よう存じ参らせ候。目出度かしこ
梅子より
御母上様
日本の女性は、子供を育てながら夫とその家族のために献身的に働く以外、何の目的もなく一生を終わってしまう。若い男女の交際の場もない。
良家の女性は一人で外を歩くことも出来ず、外出はもっぱら人力車である。梅子はこれでよいのかと不審に思っている。多くの結婚は互いに相手を何も知らない者同士で行われ、仲人が適当な女性を見つけ、家族や両親に話をつけて見合し、双方が満足すれば直ぐに婚約し、吉日に結婚する。
愛情のある結婚と言えば、地位の高い男性が、歌や踊りをする身分の低い女性を囲う場合に限られる。彼女たちは確かに美しく、芸もしっかりしていて愛される。だが男性を喜ばすために生きているようなもので、日本には男と女が交歓の機会を持てる社交界がないので、恋愛の生まれようはずもない。
親が子の結婚を決めるのは当然のことで、若い男性が女性に手紙を書いたり求婚することはまずない。女性の親に直に申し込むこともない。有力な誰かを通じて話をし、女性の父親が良いと思えば進める。
アメリカで繁子と婚約した瓜生氏でさえ、繁子の兄に申し込み、兄が繁子に話している。
日本の女性たちは夫に対して従順で献身的だが、梅子はよほど好きな男性に愛されているのでもなければ、そんなことは出来ないと思っている。恭しく夫に仕えたり、故もなく尊敬したり、礼儀正しくしたりすることなんて出来ないと思っている。
日本の社会を改革するには女性の教育が必要である。男性と同じ高等教育を受けさせ、教養を高めた双方が互いに意見を交換し合うようにならなければいけない。
梅子はそれまで結婚の話は保留すると断じている。
捨松はアリス宛の手紙に津田仙が変わり者で梅子は日本では閉じ込められた孤独な日を送っている。結婚させる以外に救う方法はないと書いた。それがアデリンにも伝わって、心配したアデリンは何度か手紙で結婚相手を紹介したり、薦めたりしたが、梅子はその度に断り続け、しまいには腹を立てて、二度と結婚の話はしないで下さい! と書き送っている。
捨松が大山との結婚について述べたアリス宛の手紙があった。
大山氏は私との結婚を公にすることをとても急いでおられたので、二週間ほどで婚約しました。
日本の習慣に従って婚約の儀式を行い、今はもう結婚した夫婦のように私たちはいろいろな誓いを守っています。充分考えた上で将来を託すことにしたので、自分のしたことは正しかったと思っています。
大山氏はとても素晴らしい方です。未来に希望が持てるようになりました。
でも、あなたは賛成して下さらないかも知れませんね。こうした問題は、すべての人に満足して貰うことは望めないのかも知れません。なんだか、あなたを裏切ったような気がしますが、いずれはわかって頂けると信じています。
自分が必要とされていると感じることは、勇気と希望が与えられるのです。
大山巌という男性の幸福が私の手にゆだねられているのです。そしてその子供たちの幸福までが私の手の中にあるのです。
私はそんな男性に出会ったのです。今はもう、この身に起こる試練など恐ろしくも怖くもありません。気にならなくなりました。
神の御加護のもと務めを果たすことが出来ますよう、大山巌の良き協力者になれますよう祈っています。
この結婚が恋愛によるものでないことはちょっと残念な気もするが、捨松は貧しいままで独立と自由を確保するのか、大山巌との結婚を選ぶのか、さんざん考えたあげく、自分で決めたのだ。仲人は繁子の兄益田孝である。相手を尊敬でき、好きであるならそれでよいと梅子は思った。捨松が日本の将来のために教壇に立つことはもうない。政府高官の妻の立場で教師をするのはおかしいので、それは仕方ない。一段高い階級の人になって、今までのように気ままに会うわけにはいかない。政府要人の夫人たちには芸者出身の人が多く、捨松の存在は今後の政界のためにもよいと世間は評価しているが身分の高い貴婦人たちの中で孤立しないかと梅子は案じている。
ヨーロッパ各地へ留学した大山巌は、帰国後、政府の要職に就いて忙しい毎日だったが、最愛の妻を亡くして気落ちしていた。そんなとき、パーティーで背の高い凜とした女性に出会った。山川捨松である。
大山は一目惚れした。
彼はあらゆる人脈を使って縁談を申し込んだ。だが、両家の親類は薩摩と会津、仇敵で大反対だった。
会津兵に親族を殺された薩摩人もいれば、薩摩兵に屋敷を焼かれた会津人もいて、遺恨が残っていた。山川家の当主は捨松の長兄陸軍少将山川浩である。
大山巌は陸軍大将で「上官に妹を嫁がせて出世を図るつもりか!」と浩は周囲に責められた。自分は朝敵会津藩の要職にあったとして、浩はこの縁談を断ろうとしたが、大山家の代理人西郷従道は「自分も大山も、逆賊たる西郷隆盛の身内である」と言って引き下がらない。
「では、捨松の意向に従って決めたい」と答えたが、周囲は反対一色だった。
捨松はアメリカの流儀で、大山と二人だけで話し合いたいと言った。
仲人を立てずに二人が会うのは、常識にずれると誹られたが、大山は日比谷公園で会うことに同意した。
捨松は片言の会津訛りで、大山は薩摩訛りだ、話が通じない。大山は留学で覚えたフランス語で問いかけた。捨松もフランス語で返事をした。大山巌は理系人らしい合理主義者、捨松もアメリカ仕込みの合理主義、二人は意気投合した。
捨松は自らの意思で決めたのである。大山は四十一才、捨松は二十三才だった。
大山はクリスチャンではないが、珍しく道徳的で、みっともないことはしない男だった。大酒飲みでもなく親切な人柄だった。
大山は西洋のしきたりに従って、捨松にダイヤの指輪を贈った。三つのダイヤが輝くスイス製の美しい指輪だった。
大山家はフランスの建築家の設計による三階建ての大邸宅で、すべてがフランス風である。玄関には大きなランプが灯り、門には兵隊が立ち巡査が取り巻いている。
隣は醍醐侯爵の屋敷、近くに外務省があり、ロシアやドイツ、イギリスの大使館も遠くない。
婚約披露宴にはフランス式の豪華なディナーが出た。
客は十四人、繁子の兄益田孝男爵や、英国商社ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長、吉田健三(吉田茂の父)夫妻、醍醐忠敬侯爵夫人などが招かれた。
捨松はすでに有名人となって、政府高官の夫人たちが入れ代わり立ち替わり訪れ、彼女も返礼の訪問で出たり入ったりの大忙しだ。これから非常な影響力を与え得る地位に立つことになる捨松、その影響力を、日本のために十分に活用されることを梅子は願っている。
捨松はアメリカで寄宿したレナード・ベーコン牧師の末娘アリスに大山巌との結婚を報告する短い手紙を送った。
結婚しない日本の女性はあまりにも無力です。もし女性が社会のために何かしようと思うなら、夫の力を借りるのがいちばん早道です。恋愛ではありませんが、大山巌という権力を有する男性に、好感を覚えました。この人を通して、自分の意思を実現しようと考えました。将来、梅子が女子教育を目指して何かするなら、大山巌という権力を持った男性の妻として、その事業を背後から助けようと思います。独身の山川捨松より、ずっと大きい力で支援出来ると思っています。
梅子がアデリンと生涯にわたって文通を続けたように、捨松も帰国後はアリスとの友情を深めている。その縁で津田塾の創設期にアリスは大きな力を貸している。
『鹿鳴館の貴婦人大山捨松』と題する著書を中央公論社で上梓した久野明子は、捨松の曽孫である。
NHKは歴史への招待というテレビ番組で大山捨松をとり上げた。
それにしても、帰国して既に半年も経つのに、梅子は日本語がさっぱり進歩しない。自分に愛想をつかしている。すでに日本語を取り戻した繁子に比べてのろまな馬鹿だとこぼしている。
その繁子から、メソジスト教会の学校で英会話を教える仕事を紹介された。
梅子にとって初めての教師の仕事だった。伝道団のために働くのは、本意でなかったが、公立の学校で日本語で教えることは、まだ無理なので引き受けた。
日本の少女たちの行動や考えを知るためにも、いいチャンスだし、働かねばと思ってもいたし、働けば気も休まり、いろいろ悩む時間も減だろうと思った。
地理や歴史や英会話を教えるのは苦労しないと思えた。
築地の外人居留地の学校へ行くには、人力車で一時間はかかる。往復の人力車代に五円とられるが、報酬は月二十円、女性の仕事としてはかなりの額だった。
天気にかかわらず月火水木の一時から四時までの仕事で、政府から声が掛かる前の下準備として、また将来学校を創ったときのためにも経験を積みたかったので、引き受けた。父津田仙も大賛成だった。
学校を創るのは不可能に近いようだが、出来ないことでもない。
教会の学校で教えることは小さなことかもしれないけれど、梅子は最初の始まりのような気がして「万歳! こうしなさいああしなさいと命令して、静かにさせるだけでお金を戴げるなんておかしい。だってわたしはまだ十八才で、学生気分だし、他の先生は三十を超えた人たちばかりなのに」と大喜びした。
六月から七月にかけての六週間を、週に四日、午後一時から四時まで、一つの教室でいくつかのグループに、それぞれ別のことを教えた。
生徒の学力の違いによって、それぞれに応じた教科を教えた。
アデリン宛ての手紙には、二人に初歩のアルファベットを、八人に文法と地理と英会話を、五人には読み方と書き方を教えているとあった。「説明する内容を必ずしも理解しているわけではないと思うが、生徒たちは一生懸命で、覚えるのも早い」と書いている。
アメリカでは生徒の学力に応じた教え方をすべきという教育理念が伝統的に強く、学校全体として生徒を能力別に扱うのが普通で、梅子は一学年を六から八クラスに分け、一クラス二十人から二十五人くらいで、能力順に扱っている。日本語はフランス語、スペイン語と同格の外国語で、小学校一年生から十二年生まで通して教えられた。梅子は純粋に個人的な一対一の関わり合いより、性格や能力の違う複数の子供たちが親しく触れ合うことで、互いによりよい展望を見出すと思っている。一つのクラスで子供自身が別のものを選べるようにしている。
その学校も夏休みになって、ほっとした梅子は築地の外国人に誘われて富士山に登った。人力車や駕籠の道中と乗船や徒歩を混じえた一週間ほどの旅で、田舎の宿や、山小屋に泊まりながら、箱根から江ノ島へ渡った。十三キロ弱の急な坂を登り、二十五キロ以上の平地を歩いたという。相当な健脚である。
梅子は日本語で外国人のために通訳をし、どうにか話を通じさせていたが、彼女自身、片言の日本語なので外国人扱いされ、旅券の提出を求められたこともあったようで、この一週間ほどの旅の様子を、ランマン宛に書き送った。
短い割には高くついた旅でした。誰も日本語がわからないので旅館の交渉は大変でした。着替えはカーテンの陰でして、寝るときは部屋を二つに仕切ったりしました。外国人と一緒だと、高価な部屋に泊まることになって荷物を運ぶ人足たちまで、三倍もふっかけてきます。でも馬車がないので、荷物はすべて人に担いで貰うしかありません。私は駕籠に乗るか歩くかで、二人の人足が前と後ろで担ぐ駕籠はどこへでも行けるのですが、彼らは大変抜け目がなく、交渉で騙されないようにするのがひと仕事でした。衣装といえるかどうかわかりませんが、彼らは腰の周りに細い布を付けているだけで、とても涼しそうです。
富士山の大部分の道程に人足がいて、麓の村から頂上まで連れて行ってくれます。洋装しているだけで支払いが高くつきました。けれど楽しい旅でした。
初めのうちはなだらかな登りだったのですが、その上は四十五度にもなる大変な坂道です。四マイルほど駕籠に乗って登り、その先は歩きです。駕籠に乗って鳥居を通り抜けることは出来ないのです。富士山は聖域です。巡礼は歩かなければなりません。急な山径を十六マイルも歩きました。初めのうちは径も良くキイチゴや山ザクラや、珍しいシダがたくさんありました。森のあとに灌木が現れ、そしてだんだん何もなくなって、岩と柔らかい砂地となります。
想像を絶する荒涼としたところで、雲が周りに立ちこめ、すぐ脇で雷が鳴っています。ブランデーとお茶の葉で力をつけながらごつごつした大きな溶岩の径を八マイルも歩いて、その夜は六合目の山小屋に泊まりました。粗末な石造りの山小屋で板の上に広げた布団に、みんなで雑魚寝です。煙突のない炉で燃える薪の煙にいぶされてひどいものでした。食べ物が少なく水はコップ一杯一セントです。雪を溶かした水です。幸い私たちは食べ物を持参していましたので、充分に食べられました。
翌日、未明に出発し、頂上に向かいました。二人の強力に腰を押して貰いながら、荷物を全部置いて岩に這い上がったりで、もし転がり落ちたら止まりそうにない、恐ろしいところです。でも、噴火口の凄まじいその様子は、東京から眺めていた富士山の感じとは全く異なります。
遠くから見ればとてもなだらかで、穏やかで、綺麗な山ですのに、こんなに壮大な荒々しさがあるとは信じられませんでした。
夕方には麓に戻りました。下山はとても楽しかったけれど、危険も伴いました。埃が舞い上がって傷がつくほど顔に何かが飛んで来るのです。足を踏み外すと靴の上まで柔らかい砂と砂利の中に潜ってしまいます。
強力の腰紐につかまって登りとは違う道を辿って、美しい湖を横切り、その夜は箱根に泊まりました。
箱根は外人たちの夏の避暑地で周りの山々がとても美しいところです。山ザクラを押し花にしたので小さな溶岩と一緒に送ります。
熱海には自然の間歇泉がありました。一定の時間が経つと吹き出して、まわりに熱い湯がたぎっていました。どうしてそうなるのか理由はわかりません。
旅館の大きな浴槽にあふれる湯の中で、のびのびと軀を伸ばしたときの気持ちの良さは、例えようもありません。
翌日、船で江ノ島に出ました。寺と洞窟で有名な島でしたが、船酔いで少しも楽しめませんでした。
ランマンはこの手紙をアメリカの雑誌に発表した。梅子の文才を認めて多少の収入にもつながるようにとの好意から、雑誌社に売り込んだ。
こんな旅行記で原稿料が貰えるのなら、日本では手に入らない何か小さいものを買って送って下さい。
アメリカでは正直に働いても相応の支払いは貰えませんでした。大変な労働の後に手にしたお金はたった数円でした。書くことがお金になるなら素敵なことです。繁子に小さな銀のスプーンを買ってあげたいので、お金が貰えたらあまり高くないのを買って下さい。どれくらいするでしょうか、三ドルか、あるいはもっとかしら、繁子はとても親切でいつも家に招いてくれるので、何か贈りたいのです。
以前に勤めた学校の先生から手紙を貰い、出来れば契約を更新して教えてもらえないかと言われました。いろいろ考えて返事を書き、一年とは言わず、もっと短くても良いか、もし他の仕事が見つかったときに拘束されることはないかなどを訊きました。返事では期間は私の希望に合わせるが教える時間や待遇は従前通りということでした。私はすんでのところで引き受ける決心をするところでした。冬のどんな天気のときでも急いで長い道を人力車に乗らねばならず、午後の一番良い時間をとられ、人と会って楽しむ機会もなくして、それに対する報酬が月に十五円でしかないというのは割に合いません。毎日の仕事で疲れて日本語を学ぶ時間もなくなりますし、着物を縫う暇もなくなるでしょうし、断りの手紙を書きました。先方はミッショナリーの仕事なので、安いのは仕方がないと言いますけれど、低い報酬だと思います。もしミッショナリーというものがこういうことなら、これから私は一セントたりとも寄付しません。
日本では生活費が安く食糧も労働力も豊富なのでミッショナリーは本国よりずっと贅沢をしています。寄付されたお金で贅沢に暮している人たちです。彼らは自分たちの収入は決して高くはないと言い訳するかもしれません。でもこうした暮らし方をしている人たちを、ミッショナリーといえるでしょうか。貰いすぎです。ミッショナリーの学校にいる子供たちの教室や食事はどうしてあんなに貧しいのでしょう、下層階級にふさわしい暮らし方を与えているとでも言うのでしょうか。聖職者と称する人たちには生徒たちの食事をもう少しましなものにする気はないのでしょうか。
弟の学校はメソジストですが百五十人の生徒を入れる寄宿舎、講堂、食堂、教室などの他に、先生用の五家族が入れる三棟の家屋があります。この家は教員用の住宅というだけで、高い天井やポーチや贅沢なバルコニーなど、生徒の宿舎より多額な費用が掛けられています。良心の妨げにならないのでしょうか、その自覚すらないようです。
私も働いて小遣いを稼がなければと思いますが、今、交渉している人は、ちょっぴりしか払うつもりがないのです。一人の教師が帰国するので、その代わりということですが、アメリカへ帰る女教師は自分の部屋をあてがわれていたにもかかわらず通勤手当を貰っていました。私のように毎日人力車に乗って学校に通う必要がないのに月に七十五ドルも貰っていました。
彼女と全く同じ仕事をさせられるのに私には十五ドル(約二十円)しか出しません。差額を誰かが懐にしているのです。人力車に五円かかるのでこの話は断りました。弟の学校で生徒にお金を使わずスタッフの住居に多額のお金を使っていることを日本人がどう思っているか、チャールズ・ランマンに伝えて下さい。こういうことは外国人に対する不信感を持たせてしまいます。もちろん、好感のもてる外国人はたくさんいます。心ない一部の外国人が印象を悪くしているのです。日本人は手紙で会話のように自分の考えを伝えることはしませんし、文学上の偉人でも、あまり手紙は書きません。重要なことを知らせるとか、御祝いの言葉、出生や死亡の通知、結婚、あるいは近況を知らせるときだけ、手紙を書きます。夫婦の間も同じです。とりとめのないことは書きません。手紙のやりとりによって日本人の心を判断するのは不可能です。他人の家を訪れることもあまりしませんので、あなたがもし日本人に面会したいと思うなら、その家へ行かなければなりません。言葉や習慣をわきまえて、調子を合わせなければなりません。
日本人はこれまで多くの外国人に騙されて来たので、反感を持っています。自分から外国人のとろへ出向くことなど滅多にありません。
普通の日本人は日常のとりとめのない雑談はしても自分の考えはなるべく表さないよう習慣づけられ、手紙からも会話からもその人の人生観や理念を推し量ることは難しい。腹を割って話すというのはいかにも日本的で、腹の中を見せないのが賢人とされ、愚者とは他人の腹が読めない鈍感さを言うのである。
頭が良いというのは想像力があるというのと同義語だが、これは日本人に限らない。自分の考えを述べる力、つまり表現力が重要な能力と見なされることに関して日本は異なった基準を持っている。日本人は無言という表現をむしろ重く見る風習がある。民族共通の美意識が定着すると、同じ民族間では異なった美意識への感性が働かなくなり、想像力の欠如という結果を生むが、異なった文化が混ざり合うとき想像力の幅はぐんと大きくなって、豊かに、鋭く、跳躍するらしい。ランマンはこの手紙をアメリカの雑誌に発表した。梅子の文才を認めて多少の収入にもつながるようにとの好意から、雑誌社に売り込んだ。
梅子は日本人に対してもアメリカ人に対しても公平に厳しく、歯に衣を着せない。日本から見たアメリカの女性の軽薄さや、うわついたスキャンダルには嫌悪を覚えると述べている。異国の少女に十年かけてこのような手紙を書かせる力を育てたランマン夫妻には、尊敬の念をかき立てられる。それにしてもミッショナリーに対する梅子の憤怒は凄まじい。かっとして一気に書きなぐる文章も秀抜である。状況を再現させる具象的な描写に溢れている。その上、理性的な調整が行き届いている。チャールズ・ランマンがその文才を買って、アメリカで売り込もうとしたのも充分頷ける。ミッショナリーに腹を立ててはいるが、梅子はキリスト教そのものには安息を見出している。アデリンとの手紙のやりとりで、お互いの消息を知り合えるのも偉大な神の手の中に自分たちがいるからで、神に身を委ねるのは心地良いことだし、もし信仰を失ったら、この世はどんなに空しいものになるでしょう、と述べている。
アデリンに小さなプレゼントを贈ったり、人力車に乗った写真を撮って手紙に同封したり、捨松の結婚の用意についても、梅子は女の子らしい素朴でもったいぶらない反応を示している。
徳川家達の生母は梅子の母初の姉であり、梅子は時々、その御殿を訪ねているが、従兄の家達も留学していたから英語で話せるのが楽しみだったに違いない。
今夜は御殿を訪ねて帰って来たところです。
英国に留学していた若主人も来合わせていて、英語で話せたのでとてもくつろいだ気分でした。小さい御殿の生活を目にすると、近く参内予定の宮廷への伺候が滑稽で、困難なものに思えて来ます。
御殿の人々はみな恐ろしく狭量で、特異な考えにこり固まって自分たちの周りに巡らせた堀の外には、全く出る気がありません。関心も持っていません。
皇室独特の礼儀の外、教育はほとんど受けてないので自分たちのやり方を押し通すことが時代ずれしているのも、知らないのです。
英国帰りの若いプリンスが形式や儀式ばかりの生活で地位と権威を保たねばならないのは、気の毒です。
彼はそんなやり方を好いてはいないようですから、これからどうなることでしょう。宮廷生活の形式と儀式の中で乳飲児が育つとは思えません。実際、直ぐに死んでしまうようです。御存知かどうかわかりませんが、先週、二人の皇女が亡くなりました。嫡出子でない女の子だったので気にもかけられず、あなたも聞いていないかも知れません。でも、どちらも天皇の御子なのです。
皇太子が死ねば、国中が大変な騒ぎになりますが、皇女の場合は面倒なことに思うくらいのことなのです。
徳川家達の生母は梅子の母初の姉である。梅子は時々、その御殿を訪ねているが、従兄の家達も留学していたので英語で話せるのが楽しみだった。
捨松の結婚祝いには何がよいかといろいろ考えた末、梅子は洋服に仕立てられる綾織りの上等な白い絹地を贈った。
アデリンがどのようなものを贈ったらよいかと梅子に問うたことに対し、ドレスがよいと思うが、捨松に贈るなら、繁子にも同じ物を贈るべきで、どんな些細なことでも二人に差をつけない方が良いと、はっきり述べている。繁子はすでに結婚しているが、時期のことは間に合わなかったと言えばよいから、捨松に贈るなら繁子にも贈るか、またはどちらにも何もしないでもかまわないと言った。捨松の結婚に対する醒めた視線が感じられるところである。
結婚が華やかであればあるほど同じ夢を抱いていると思っていた同志に去られた感が強まり、とり残された者として、梅子は奮起心をかき立てられたに違いない。梅子が結婚を夢見なかったのは津田仙が西欧的な思想を持つ進歩的な父親であったこと、その影響下にある家族にとり囲まれて育ったからで、手紙の文面に何度も見かけられるように、家庭の中では、世間一般の女らしいやり方を要求されていない。今までにない新しい女性の生き方を期待されている。
明治十六年十一月三日、天皇誕生日の夜会の席上、懐かしげな微笑を浮かべて梅子に近づいて来た紳士があった。
十二年前、幼い梅子が渡米した船に岩倉具視の副使として同乗していた伊藤博文だった。
井上外務卿の官邸で開かれた夜会は千人の招待者が出席した。
金色のレースで飾った正装の官僚、軍人も役人も金モールで飾り立て、婦人たちのドレスも見事で、梅が興味をひかれたのは、宮廷婦人の服装だった。昔からの正式な宮廷着でとても美しい。中国大使夫人の衣装も目につくパーティードレスだった。
広い部屋だが人が多くて一度挨拶した人にもう一度会うには三時間もかかりそうな混雑で、ダンスもあったが満足に踊ることも出来ない。
外ではありとあらゆる花火が打ち上げられているが、寒くて外に出てまで見る者はいない。美しいのは満天の星の光だった。
窓越しに夜空を見上げている梅を驚かせたのは伊藤博文氏だった。
「覚えていますか?」
と言われても、全く思い出せない。
梅が困っていると、
「一緒の船で帰国した伊藤ですよ」
伊藤氏はドイツやオーストリアの憲法調査を行った帰りだったそうで、今は立憲体制へ移行するための諸制度を改革していた。
「わたしが思いもよらない出世をしたので、あのときの伊藤とは、思えなかったのではありませんか?」
梅子はおろおろした。
渡米する振り袖姿の少女たちは、当然、使節団の眼に焼きついていたに違いない。梅子が十一年の留学を終えて帰国したことを伊藤は承知していたであろうし、梅子の記憶はおぼろだったが、十余年の歳月を幼い少女の成長に重ねて、伊藤は感慨無量だった。
この日、梅子は伊藤から下田歌子を紹介された。
さらに数日後、伊藤は津田仙を招いて、
「梅を客として招く形で、妻と娘のために英語その他西洋の習慣や礼儀などを教えて貰いたい。そしてこの伊藤の通訳の労を執ってはもらえまいか」
と意向を伝えた。
鹿鳴館の開館が目の前に迫っていたので、伊藤の頭の中には今後の日本女性が西洋人を交えた公式の社交場でどのように振る舞うべきか、また自分の妻や娘をどのように教育すべきか、頭の中にあったのだろう。
下田歌子から日本語を習うことや、歌子の経営する学校桃夭女塾で英語を教える話が、伊藤の労ですすめられた。
梅子は日曜日ごとに自宅から通って、昼食を伊藤家で取るという条件だったが、それでは時間が足りないので、客として伊藤家に滞在することになり、伊藤の家族が住む永田町の官邸に移り住んだ。日曜日毎に麻布の自宅に帰り、クリスマスにはツリーを飾って伊藤嬢を招いた。
明治十七年正月のアデリン宛ての手紙には、このときの伊藤家の様子が克明に記されていた。
粗雑でへんてこりんな日本語しか話せない私を伊藤家の人々はいつもとても親切に、丁寧に、尊敬するくらいの態度で扱ってくれます。ここでの生活は夢のようで、おかしな気分です。どの門も警官に守られ、外出するときも大勢のお供や警官を従えているんですよ。そんな生活を想像してごらんになって下さい。素晴らしい豪華な生活は、私をスポイルしてしまうのではないかと心配です。食事は正餐にはスープ、魚、野菜付きの二種類の肉、それからデザート、更に果物といった具合です。朝は日本風洋食で、ごく簡単なもの、昼は日本食が出ます。随分贅沢な暮らしで、私には分に過ぎたものです。
大きな晩餐会のお話をしましょう。
伊藤氏は大使や外交官を招待するパーティーを開き、出席するように言われましたので、私は伊藤夫人の脇に立って招待客を迎えました。夫人の友人で通訳だと紹介され、私だけがその場にふさわしくない人間のようでした。パーティーは三十人あまりの人でした。
その後、いろいろな問題について伊藤氏と真剣に話しました。
伊藤氏は政治、道徳、知性などあらゆる社会面において、日本を進化させよとしています。学校を創ることも考えています。日本の女性は看護婦など仕事や知識についてもっと考えるべきだと思っています。
私が日本語を覚えるこを楽しみにしていると言い、もっと日本について学び、同胞の女性を導くことを期待していると申されました。手助けしてくれる意思があるようです。クリスチャニティーについて、初めて質問を受けて二時間近くも話しました。キリスト教の道徳や教義は他の宗教よりも優れているとして好意を示し、日本にとっても悪くないと思っています。でも信仰しているわけではありません。キリスト教は良いと言っただけです。その他、ヨーロッパの旅の話などした後で、自分はキリスト教のことは少ししか知らないので、もっといろいろ知りたいと言われ、私はいろいろと話をしたかったのですけど、あまりに無知で、信仰の理由も説明できず、議論も、説得も、出来ませんでした。
ただ神を信じていますとしか言えませんでした。キリスト教がこの国に根を下ろしたらどんなに素晴らしいでしょう。伊藤氏は仏教徒でもありませんし、神道の人でもありません。無宗教です。でも、キリスト教に関心があることは確かです。
私は反対されていませんが、日本では伊藤氏でさえ、キリスト教に興味があることを公言することは認められないのです。
驚いたのは伊藤家の従者にクリスチャンがいたことです。最近洗礼を受けたばかりでした。同じ屋根の下にもう一人クリスチャンがいたなんて、嬉しいことだとお思いになりませんか、素晴らしい可能性あります。
梅子の人間像を描くためにはキリスト教はかなり重要な要素だが、何ごとによらず狂信的なところが全くない。ミッショナリーの人々に対しても冷静な眼を向けている。
十二年前、留学生たちが出立するとき日本はキリシタン禁制で政府から渡された洋行心得書には、
一、外国人別に加わり候こと、並に宗門相改め候儀、堅く御制禁の事
と一箇条が記されていた。
だが、渡米して三年目(一八七三年)に、梅は自分の意思でフィラデルフィアのオールド・スウィーズ教会で受洗している。毎週日曜学校に通ってキリスト教徒に囲まれた生活をしていれば、信仰を持って生きようと思うのは自然な成り行きである。ランマン夫妻は聖公会に属していたが自由な信仰心もあって、どの会派にも属さない教会で津田梅を受洗させた。このことは対米弁務公使森有礼も相談にあずかっている。
明治六年二月、日本はキリシタン禁制を解いた。三月には外国人との結婚も許可している。森有礼は津田梅の性情と考え合わせて取り計らったと思われる。
自由主義的知識人の感性としてランマン夫妻には預かった幼い女子留学生を意図的にキリスト教に改宗させようとする態度はなく、津田仙に書き送った手紙の文面にもそのことが覗える。何ごとも強いることなく、自由な選択を尊重するのが教育という考えで幼い梅の中に育つものを大切にした。
津田梅は敬虔なキリスト教徒である。経済力のある男性が妻妾を蓄える日本の風潮はその倫理観からも我慢ならない。日本の教育界にキリスト教的精神をよりどころとした人間を育てようと考えるのは自然の流露だった。日本のキリスト教は富める階級や支配層のものではなく、キリシタン禁制の歴史を見てもわかるように、むしろ貧しく抑圧された階級のものだった。しかし津田梅が帰国したときは禁制も解かれ、ミッションスクールも設立されていた。キリスト教は虐げられた階級の実質的な救いの要求から知識層の知的救済へと広がるものになっていた。
明治六年のオーストラリア・ウイーンの万国博に佐野常民らと渡欧した津田仙はキリスト教に眼を開かれ、妻の初共々ソーバー牧師から洗礼を受けている。
梅子の手紙はキリスト教の伝道者に似て見えるが、ミッショナリー批判にもあるようにあくまで冷静な観察者であり、生涯を通じて、最も大きな関心は人間の生命そのものへの賛歌だった。
その後の捨松の変化について、捨松は教会にちっとも行かなくなり、使命を忘れてしまったとお伝えしたら悲しまれるでしょうね。彼女は大山氏に従順で、彼がゆくことを禁じるわけではないのですが、日曜日は彼が家に居り、彼は教会には行きませんので、彼女も行こうとしません。私は彼女のような妻の従順さには我慢がなりません。彼女は極端に日本風になってしまいました。まだハネムーンですから、これがいつまでも続くわけではないかも知れません。でも彼女は受け身過ぎます。自分の意思というものを無くしてしまったみたいで、悲しいのです。安息日を守ることもなく、大山氏が行けば日曜日のディナーパーティーにも抵抗せずに行きます。服装も化粧もひどく人工的になりました。みんな大山氏の気に入るためです、と手紙の中で述べている。梅子の落胆ぶりが眼に浮かぶ。捨松の愛らしさも伝わってくる。心を打たれるのは、知性の裏付けがあるからで、高い教育を受けたにもかかわらず梅には高慢なところが少しもない。豊かな黒髪と端正な物腰に加えて、理想への情熱を持つ津田梅を若い学生たちは敬愛を超えた崇拝に近い憧れの瞳で見つめていたに相違ない。
伊藤が梅子を自宅に寄寓させたのもこうした品格に魅かれてのことである。
それにしても一介の若い女性と、日本の将来について本気で論義した伊藤博文は、まれに見る大政治家と言わねばなるまい。アメリカの民主主義にまつわる本などを梅子に貸し与えた伊藤は、南北戦争が終わって十余年、アメリカの産業界は封建的農本主義から近代的資本主義に移行し、多民族多人種を抱えた異様な新世界を築きつつあり、ピューリタニズム、物質主義、ノン・コンフォーミズムといったものが入り混じった新世界であり、開拓精神に溢れる新しい国だと言っている。今後二十年の間に日本にも新しい社会が生まれるとも言っている。
明治十八年、伊藤博文は大日本帝国憲法を起草して太政官を廃し、内閣制度を確立して初代内閣総理大臣となった。
この年、坪内逍遙が『当世書生気質』を、二葉亭四迷が『浮雲』を発表している。そして朝鮮には内乱が、中国の清には西太后が、インドシナはフランス領となり、イギリスは保守の名の下に植民地主義を謳歌する大帝国となっている。
スティーブンスンは『ジキル博士とハイド氏』を書き、ロンドンではマルクスが『資本論』を完成させている。ドイツやオーストリアではニーチェとワグナーが作品を発表している。
フロイトは人間の精神について考察し、メンデルは遺伝の法則を発見し、ロシアではドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を書き、トルストイが『イワンの馬鹿』を書いている。
こうした激動する世界の国々を自分の眼で確かめた上で、近代国家の憲法を起草した伊藤博文と、真正面に向き合って世界の気配をありのままに受け止めた津田梅子は、こんな身近に日本の指導者の考えを見聞できるなんて、何と素晴らしいことでしょうと動揺するでもない。大した根性である。
英語の授業は楽ではありませんし、思うようにはかどりません。伊藤夫人は覚えが早いとはいえません。でも、いろいろとして下さるので、ベストを尽くさなければなりません。必要な費用は伊藤家が全部払ってくれるのです。招待というので払うと申し出るわけにもゆきません。ですから好意はすべて受け入れて、出来る限りのことを教えたり、いろいろ手助けしたりして好意に報いなければなりません。とても親切で礼儀正しく、大げさと思うほどです。本当はもっとのびのびと自由に、アットホームに振る舞えればと思うのですけれど、そうもいきません。私に対する尊敬と親切なのですから、受け入れなければならないのです。このお返しは一生懸命英語を教えることで果たそうと思っています。
梅子は他人の家族と一緒に住んであらためて自分の暮らしを振り返り、ランマン家での幼年時代を懐かしんでいる。親切に扱われてはいるものの敬遠気味に距離を置いた今の暮らしに苦悩し、自分のような運命を辿った者の青春にもそれなりの楽しい試みがあるはずで、悩まずに未来の夢に向かって進むしかない。伊藤博文という秀れた人にめぐり逢うチャンスに恵まれたのは幸運だと、アデリンへの手紙に書いている。けれどもアデリンは自分の家も持てずに他人の家に家庭教師として住み込んでいる梅子は、哀れだと思っている。
今、熱海にいます。東京に降った二,三フィートの雪の余波でこの暖かい熱海も冷たい曇り空です。出発を延ばしているうちに、伊藤夫人の身体の具合が悪くなって、ここにも医者はいるにはいるのですが、伊藤氏は東京の医者と一緒に来られました。ほっとしています。
夫人は顔が腫れて、片目が潰れるくらいでしたが、病状も回復したので、数日中には横浜に向かう汽船で帰ることになると思います。
伊藤嬢の方は軽くて一週間ほど寝ていましたがもう大丈夫です。幸い私は無事でした。使用人にも病人が出て静養に来たはずの熱海はトラブルだらけでした。伊藤氏は医者の他に四人もの警官と従者を連れて来なければならなかった上に、熱海でも訪問者が絶えず、現在も八人の客が二階で食事中です。日本の習慣に従って伊藤嬢は給仕のために二階へ上がって行きます。使用人がいても、その家の娘が果たさなければならない義務だそうです。総理大臣の娘がそんなことをしなければならないのはおかしなことですが、私も同じことをさせられた覚えがあります。
私は今、大きく優雅な伊藤氏の家で、大勢の使用人や友人たちと素敵な時を過ごしています。先生として尊敬されています。私の年としては過ぎたことです。そう思って出来るだけのことをしています。
梅子は熱海での饗応に加えて、伊藤から一ヶ月の報酬と新年のお年玉として、二十五円を貰った。半年前のメソジストの学校で教えたときの報酬に比べると遙かに気前のよいものだった。その上、伊藤夫人は東京に帰るとき、梅子の家族や妹たちにまで土産を持たせた。
伊藤家での梅子のスケジュールは学校のある日は七時頃に起きて、三十分で衣服を整え、二人の伊藤嬢と一緒に母屋へ行って朝食をとる。家人はこの大分後の時間に朝食となる。八時過ぎに下田歌子の学校へ出かけ、九時から歌子に英語のレッスンをし、代わりに歌子から習字と日本語を習う。それから学校の三つのクラスで三十分ずつ教え、十二時きっかりに止めて、伊藤家へ戻る。昼食をとって伊藤夫人と伊藤嬢二人を教えたあとは、自由時間だが、もうまもなく夕食である。夕食は談笑と共にゆっくり時間をかけ、そのあとパーラーの暖炉のそばで、また談笑する。自分の部屋に帰れば本を読んだりもできるが、ときに応じて英語その他を教えることもある。
十時過ぎに入浴し、ときには伊藤夫人と一緒に十二時過ぎまで博文氏の帰宅を待つこともあるが、翌朝が早いので、梅子は先に寝ることが多い。
火、水、土の三日は学校へは行かないが、火曜と土曜は、午前に伊藤嬢を教え、水曜の午後は絵の勉強である。捨松が日本画を習いたいというので伊藤が先生を紹介し、ドイツ公使館の若い婦人やアメリカ大使の令嬢らと一緒に習う。
下田歌子の桃夭女塾の生徒は上流家庭の子女が多く、井上馨外相の二人の娘や野村靖逓信相の娘などがいる。
梅子は伊藤家にいることで政界の実力者たちや経済界の重要人物たちの知遇を得る機会も多かった。アメリカ時代にも世話になった森有礼は文部大臣に就任し、森夫人は伊藤夫人を介してイギリスから帰国したばかりの二人の男の子に、地理や英語の文法を教えて貰いたいと梅子に頼んだ。
伊藤博文は名実共に日本の実力者であり、梅子は日本が期待している実力者の家に客分として滞在し、その日常に接する幸運を喜び、誇りに思っている。
鹿鳴館のパーティーに招かれたときの手紙の中で、着ていくドレスのことや付き添い役の心配をしている様子が見えるが、実際の舞踏会の具体的な描写が、他の手紙に見られるような生き生きとした記述に欠けているのは、どうしたわけであろう。この舞踏会は大山夫妻が巌の帰朝を祝って、八百人を招待して催したもので、梅子は新年に貰った絹で新しい衣装をつくるつもりだったが、間に合わず、幅が広くて腰当ての付いた古い白のクレープのドレスを、繁子が直してくれたので、それを着て参加している。
父と一緒に鹿鳴館には九時過ぎに着きました。
捨松は支那の黄色いブロケードの服を着てとても素敵でした。
音楽もよく、食事も豪華で、テーブルは一杯でした。
外に電灯がともされていました。電灯は全く目新しいもので、朝鮮や支那の外交官たちは奇跡のように目を丸くしていました。
私は途中十二時半に帰りましたが、終わったのは一時間後ぐらいだと思います。晴れた夜でしたが、三月にしては寒く、凍えそうでした。
客を迎えるとき、捨松は二時間ぐらい立ち続けていましたから、さぞ疲れたことでしょう。
さらに今週はまた、出席した多くの人たちが彼女のところを訪れることになるのでしょうから、少し心配です。
今朝はとても眠いのですが、それでも学校がありますから頑張って起床しました。今夜は早く寝たいものです。
時間に余裕のある人でもなければパーティーに出るの考えものです。
鹿鳴館のことはアリス・ベーコン宛ての捨松の手紙にも何度か見られる。捨松の手紙は陸軍卿という地位にある夫を持った若妻に相応しく、重要人物の夫人たちや内外の人物への批評が見られる。
パーティーは梅子にも夢を誘うものとしては映らなかったようだ。日本に来ているヨーロッパ諸国の大使たちは貴族階級出身の人が多く、大使やその夫人たちのもったいぶった貴族趣味と高慢さに、梅子は嫌悪を示している。そういう場所に居合わせるときは昂然としているしかないと述べている。
それにしても、なれない服装で疲れ果てへっぴり腰で不様に膝を開いてうずくまる舞踏会の日本婦人を描いたビゴーの挿絵は、あまりにも有名である。
いつの時代も先進国の人間たちは後進国を植民地化して執政官として優雅に暮らしている。日本に滞在したヨーロッパの外交官たちは、どのような笑いを浮かべて日本人を見つめていたのだろう。
新聞は鹿鳴館通いの政府高官やその夫人たちのスキャンダルを面白おかしく書き立てた。伊藤は真っ先にやり玉に挙げあれた。
女好きの伊藤と井上馨が天皇が十二人も妻を持つのを法的に許す宮中の習慣に反対して、そうした仕来りは止めるべきだと言ったことが、新聞に出た。抗議の声は自分たちの行状も改善すべき人から起こりました、と素知らぬ顔でうそぶく梅子、その表現にはユーモアとウイットがあり、知性と優雅さを逸脱しない端正さがある。梅子は伊藤夫人にアメリカの習慣について、いろいろなことを話した。伊藤嬢と同室に寝起きして、洋服の相談に乗ったり、子供たちの話し相手にもなっている。
伊藤夫人は子供に対してとてもよい母親で、長女以外の子供たちは自分が生んだ子ではないのに、伊藤博文の子はみんな私が育てますと言って、引き取っている。子供らはみな礼儀正しく、敬愛の念に満ちて、驚くほど礼儀作法が良いと梅子は感嘆している。伊藤嬢は長女で甘やかされ、わがままで召使いに辛く当たり、召使いたちは彼女を満足させるために苦労している。上流階級の人々には人間の個性に対する敬愛の念がない。この国の大きな欠陥だと梅子はランマン宛ての手紙に書いた。
梅子は日本の男性の酒の上での不作法さに驚いている。伊藤が外で酔って帰宅し、乱れるさまに呆れた伊藤夫人が、夫を叱ったのを見て、夫人はとても勇敢でしたと讃えている。アメリカの中流以上の家庭では飲酒に対して清教徒的な厳しさがある。暴飲するのは下層階級の人間とされている。梅子もそう思っている。しかし日本人は、酒の上の不作法さを大して悪いことだと思っていないと嘆いている。
鹿鳴館で開かれた上流婦人主催の慈善バザーで、梅子は開催準備委員になった。婦人たちに社会的な視野を持たせることが主眼なので参加した。
金銭にまつわって他人と話したり、ものを売る習慣など凡そ経験したことのない上流階級の婦人たちが、バザーでは何とも微妙な変化を見せた。
バザーの前日、私は他の仕事はさし置いて鹿鳴館に行き、伊藤夫人や捨松や他の夫人たちと準備に丸一日を費やしました。
みんな自分のテーブルを必死に飾り立て、バッグや髪飾りや花などを吊しました。開催日はバンドの音楽と共に親王や外国の高官たちが入って来ました。
親王は会場を回って四百ドルもの買物をしました。すべて宮中で使うそうです。外国の高官も大口の買い手でした。
十二時ぐらいまで、婦人たちはとても無口で静かでしたが、だんだんと変化が起ってきました。突然、自分の出品物を高くかざして友人たちを自分のテーブルに引き寄せ始めたのです。
あなたがもし婦人たちに口説かれて有り金はたいてしまう紳士を見たら、これがあの上品な日本の令夫人たちかと信じられないでしょう。
誰か知っている人を見かけると、その人が他のテーブルに行ってしまうのではないかと気が気でないらしく、大きな声を出して、手招いています。
繁子の兄益田氏は有名人ですから、気の毒にあちこちの婦人たちに捕まって、抱えきれないほど買わされていました。
私たちは値段が安すぎたことに気がついて値上げしました。
利益を上げるためにお釣りはどうします? と問うと、紳士たちは、いや結構と手を挙げて制します。文句ひとつ言わず寛容で気前が良いのです。
津田家は大家族で日常生活だけでも大変なので梅子は学校や家庭教師も辞めて実家に帰ることにした。残念だが仕方ない。
母初は梅子が帰国する前年、妹清子を生み、帰国後に富子を生んで、産後の不調や悪阻であろうか、ひと月の内二,三日しか具合の良いことがなかった。
伊藤夫妻は梅子の帰宅を止めようとはしなかった。もう一度戻るように言うこともなかった。伊藤嬢は英語を習おうと思えば、学校で出来るし、洋装についてもすっかり覚えた。外国人の訪問客も減っているので、梅子はもう伊藤家には必要なかった。キリスト教寄りの伊藤の政策には風当たりが強く、政敵も多く出来たが、周囲が思っているほど伊藤はキリスト教に傾いているわけでもない。梅子はクリスチャンの自分がいないほうが良いだろうと思ったし、伊藤のために良くないとこは避けたかった。自分ががいなくなれば伊藤もほっとするだろうと思った。勿論、今後の不安はあるし、伊藤家を去るのは複雑な気分だった。人々はとてもよくしてくれたし生活は豪華だった。自由で気楽というわけではなかったが、有用な体験だった。アメリカの家庭とは全く違う日本のそれも階級の違う家庭を間近に見れたことは、得難い教訓だった。今はすべて終わり、もう戻ることもない。梅子はこの経験を貴重なものとして感謝し、将来への踏み台として、人間関係をよりよい方向へ持っていくことを心がけた。
伊藤博文がハルピンで撃たれたとき、梅子は次のように書き綴った。
伊藤公は人間性に深い関心を持っていた。
その人の身分にかかわらず、訴える力を持つ人間の言葉に耳を傾けた。
召使いであろうと、女子供であろうと、耳を傾けるに価する意見を吐く者に出逢えば、追いかけて行ってでも、その言葉を聴いた。
後年、総理大臣といった地位に就いてからはこうした機会はだんだん少なくなくなったものの、私が彼の家に寄宿していた頃は常にそうで、この態度こそが、政治家伊藤博文の魔法の杖ともいうべきものだった。周囲の人間たちをあれほど動かし、そのエネルギーを結集出来たのは、まさに魔法の杖による威力であった。
私には心に刻みこまれている伊藤公の言葉がある。
『わたしは宗教的な人間ではない。信仰心といったものは持っていない。生も死もわたしにとっては同じようなものだ。これから先、何が起こるかを恐れたことは一度もない』と伊藤は自分を宗教心のない人間だと決めつけた。
けれども、わたしに言わせれば伊藤博文は何か生命力といったようなものを信じていたようで、その多くの言動には信仰と名付けたくなるような、途方もない神がかり的なものが、多くあった。
この思い出の中で、維新の志士伊藤博文が剣客に追われたとき、結婚前の若き伊藤夫人が畳の床下に伊藤を隠して、その上に坐ったまま、
「維新の志士伊藤博文が剣客を恐れて隠れると思うてか! どこなりと家捜しなされ!」
と平然としていた話を末尾に付け加え『伊藤公の個人的な思い出』と題した原稿をアリス・ベーコンに送って、もし、適当な発表できる場があれば、そうして欲しいと頼んでいる。
この原稿は津田塾大学編纂の津田梅子文書に納められている。
伊藤家を辞して間もなく梅子の家に下田歌子が訪ねて来た。初めての訪問なので歌子は正装して土産物をたずさえていた。礼儀正しく洗練された方で粗野で押しつけがましいアメリカ人とは好対照だったと梅子は感服している。
訪問は伊藤の肝いりで桃夭女塾を政府所属の華族女学校と一緒にする計画にまつわる相談だった。梅子は政府から給与を受けてその学校で教えることになっていた。収入が安定して自立出来ると喜んでいた。
伊藤が亡くなった翌年の夏、梅子は鎌倉の伊藤夫人を訪ねた。
静かな隠遁生活を送っていた未亡人は大層喜んで、二人は遠い昔を語り合った。伊藤は破綻も多く誹りに囲まれていたが、その男性的な魅力は夫人の心の中に生命の華として残っていた。
私の結婚の噂があるそうです。これまでにも結婚の噂は随分流れました。ぐずぐずしていると婚期を逃してしまうと思っているからでしょうが、そう思いたいのなら思わせておきます。
あなたはまさか私が男の人に微笑みかけたなどとは仰らないでしょうね。微笑みかけたくなるような男の人は見当たりません。
男の人に会うことはありますが日本ではすましていなければならないのです。私は今の自分に満足していますし、知らない人とお見合いして結婚する気など全くありません。
私がオールドメイドになることは覚悟なさって下さい。
断言は出来ないにしても、私の結婚の可能性は極めて薄く、不可能と言ってもよいでしょう。婚期は過ぎてしまいましたし、もし相手を探す気になったとしても老けたやもめくらいしか見つかりませんでしょうね。若い人は残っていません。ああ、悲しいこと!
オールドメイドの運命がどうなるか、まあ、試してみることに致しましょう。
この文章にはウイットとユーモアがある。ストレートなようで含みが多くパラドックスに満ちている。
梅子は異性に魅かれる生命力に溢れた女性である。味も素っ気もない男勝りの行動的実務家ではない。
豊富な話題と素直な表現力、情緒的な感性が自然に文章に流れ出ているのをみてもそれがよくわかる。
感情は激しく直ぐにカッとする気の短い性格だったようだが、直ぐに理性を取り戻す柔軟性がある。何より他人の心の動きに敏感で、想像力があり、言葉を自在に使いこなす才があった。
明治の男性が何故これほどの女性を放っておいたのか、不可解としか言いようがない。
梅子は帰国して二年になろうとしているが、常に何らかの形で収入を得ているので経済的には自立している。繁子も同じで音楽学校で教えている。下田歌子はその筆頭とも言うべき、自立した女性だった。しかし、こうした生き方が出来たのはごく限られた女性だけで、きちんとした自分の生き方を主張するためには何はさておいても、まず経済的に自立することが先決だと梅子は思っている。男子と対等な地位を獲得するためには女子の教育と職業教育が必要で、自分の一生はその教師を育てるために捧げようと決心している。
政府所属の華族女学校の設立は下田歌子と大山捨松が委員となった。
歌子にはすでに実績がある。捨松は大臣の妻であることに加え、日本でただ一人の女性の大学卒業者であったことが、その理由だった。
梅子は日本の新しい女子教育の指導的な立場で夢を実現するためには自分の受けた教育だけでは不十分だと思った。しかし当面は華族女学校の教諭としての資格審査のために、アーチャー・インスティテュートの卒業証明書や推薦書が必要なので、梅子は校長宛にそれらの書類を要請した。校長のミセス・アーチャーは気分次第で生徒に当たり散らすような人だったので、推薦状を受け取るまで安心できなかったが、案に相違して、推薦書は梅子を褒めちぎったものだった。
一八八五年一月二十三日 梅子は御礼の手紙を書き送った。
ミセス・アーチャーは学校の先生のときの印象とは違い、個人としての性格はこんなに優しく穏やかなのを知り、とても嬉しかったです。送られた書類については正式の証書としてより今の形の方がよいと思います。
私の操行について述べているところはお世辞としか言いようがありません。
おかげで華族女学校教諭の席を確立することが出来ました。ありがとうございました。
津田梅子より
アーチャー・インスティテュート学校長さまへ
伊藤博文は貴族制を好んでいるので国会を開くときは多分、一種の貴族院といったものを持つことになるだろうが何もしない階級であることは確かで、新聞はそれを書き立てた。
政府の高官たちは全員、貴族に格上げされ、大山巌は英国のCOUNTに相当する位となり、捨松は伯爵夫人となった。むなしいタイトルで滑稽だと捨松は言っているが、名目だけのものでも、西欧諸国に対しては何らかの効果があるかも知れない。政府は公式行事における華族の服装も決めた。豊富に材料のある国なのだから刺繍もないような簡素な服を着ることはないというのが理由で、貴夫人たちは宮中で着られている衣装に似た豪華な紫や赤の多い綾織りの袿を着ることになった。髪も今までの複雑な結い方ではなく、おすべらかしといって全体を膨らませ、後ろは簡単に結んで下げる。
このルールは新年から行われる。新聞によれば京都の機屋はすでに手一杯で、予め注文しておかなければ入手出来ないらしい。洋装も認められたので捨松は洋服を着ることにした。
政府は大きく変わりつつあり、伊藤のやっていることに反対する者も大勢いたが、世間は大きな改革だとして期待していた。政府を追われた大量の官僚たちに不穏な動きがあり、暗殺されないとも限らないので伊藤は滅多にオフィスや自宅を離れなかった。しかし、残った人々で運営される政府の経費は大幅に削減された。外務省も文部省も変わった。梅子が働いている宮内省はまだ改革されていないがその日は迫っていた。高位の人たちは罷免され、あらゆる経費が削減された。解雇されることはなさそうだが給料を減らされたり奏任官待遇は変わるかも知れず、梅子は覚悟している。
しかし梅子は十一月に教授となって奏任官六等年俸五百円を給せられることになった。下田歌子は学監(副校長)となり、年俸千五百円だった。華族女学校で教え始めてから上流階級の人々と親しくする機会が多く、学校を訪問された皇后は教師一人一人に絹を下された。素敵な絹だが洋服には少し足りないので梅子は着物を作ろうかと思っている。皇太子も訪問されたが、まだ十才の子供で参観はあまり面白くなかったようだ。腹違いの皇女も参観に来た。
梅子は子供たちにテニスを教えたかった。子供の頃から戸外のスポーツに関心が高く、津田塾にもテニス、ホッケー、ソフトボールなどが体育の教科に取り入れられている。教育は心身共に育てるべきという考え方だった。その一方で、梅子はダンスに関しては好意的でなかった。
今度の木曜に船上でのダンスパーティーに招待されましたが、午後の授業を抜け出すわけにもいきません。それに着ていくものもないし、障害さえなければどんなものか見たいという気もしますけれど、行けるかどうか、まだわかりません。招待をお受け出来なくても、招いて下さったのは有難いことです。
先日、伊藤家を訪ねましたが、皆さん在宅で楽しいひと時でした。
伊藤氏は日本で初めての仮装舞踏会を開くことにしたと言いました。
やがて招待状が来ると思います。でも私はそんなものは好きではありません。
衣装のことを考えるのも面倒だし、断ろうと思います。何もすることのない人たちには衣装を考えるのも楽しいことかも知れませんが、私には時間もお金もありません。
さて、仮装舞踏会の次には何が起こるのでしょう。
ダンスや洋服は流行しているが馬鹿気たものに見えるし、外国人の笑いものになっても、日本人は止めようとしない、と梅子は歎いている。
捨松は宮中の新年会に出席するための洋服を、英国に注文した。フランスに注文した皇后の洋服は、間もなく届くという。現在の宮廷の服装は着心地の良いものとはいえないが、美しく、威厳もあり、着慣れているのに外国の真似ばかりして笑いものになっている。胸をあらわに、ウエストを締め付けた背の低い日本女性を想像出来るだろうか。英国宮廷のやり方をとり入れた襟ぐりの深い袖の短いものを普段から着なければならないのだ。
着物は落ち着きがあって姿も良く見えるのに放り出してしまう。
天皇家は外国語を始めるようだ。誰が皇后に教えるようになってもそれはとても大変なことで、進んで引き受ける者がいるとは思えない。
これらのことはみな伊藤が決めている。行き過ぎと思うが、忠告するにも梅子にはその機会も手段もない。
梅子は天皇家や宮家の子女を教える他、個人的に頼まれて華族の子女の家庭教師もしているが、九条家の七才半の少女を夏休みの間、教えることになって外国人の友人と一緒に日光に行くことになった。九条家は少女に女中を同行させ、三週間の費用として百円を梅子に渡した。
上流階級の人しが泊めない一級のホテルに泊まり、毎日、少女にレッスンをしたり、馬に乗って散歩したりした。とても可愛い、人懐っこい少女で、英語の上達が素晴らしく、梅子は伸びる者を教えるのが好きなので、愉しかった。
梅子は月に一度、女性の教育や婦人問題の研究会に出席して高等師範出身者の講義を聞いていた。自身も講義の役を引き受けて、衛生と看護について話をしている。日本語できちんとした話をするのは難しかったようで、英語で書いて和訳してもらったものを、読み上げた。
こうした講演は捨松こそすべきなのに、全く大山夫人としてしか生きなくなってしまったので梅子はがっかりしている。日本の上層階級の女性の在り方にいよいよ疑問を持つようになった。
折に触れて梅子は日本の上層階級には道徳というものはなく、中流以下はまだましだといった意味のことを述べている。
『源氏物語』の英訳を読んで、日本を理解するのには適切な読み物だが、幼い少女には読ませたくない不道徳の宝庫だから、アメリカの図書館には置けない。けれど詩的で不思議な夢のような世界だと言っている。梅子は日本を知るため、日本の文学に非常な興味を持っていた。
上層階級の少女と毎日接することで、梅子は日本という国家の権力のさまやその在処や実体をしらじらと眺めることが出来た。
その意味では平安の宮廷の才女紫式部にも通ずる感性を持ち得たであろうし、十九世紀末に生まれて幼女の時代から外国に送られて教育され、海を隔てた二つの世界で異なった言語を操って暮らした経験は、ものを見る力をぐんと大きくしたに違いない。異なった知らない言語世界で生きるとき人には原始的な生き物の持つカンが蘇る。言葉が通じなければ人は言葉に欺されなくなる。外国の押しつけがましい説得に感心したり、呆れ果てたり、今まで無意識に使っていた自分自身の言語の欺瞞がありありと見えたに違いない。
帰国して三年、日常の会話には不自由しなくなった日本語と自由に操れる英語との間に立って、梅子は日本の国家とその中にうごめいている人間の半数を占める女たちとの絆の中で生きるしかないと思い詰めている。
官立の学校教育には国家としての方針があり、その方針が必ずしも自分の夢見るものとは一致しないことに苛立ちを覚え、いずれ自分自身の学校を創りたいと切実に思うようになった。単に英語の教師というのではなく私学を運営するためにも、せめて捨松程度の大学教育を自分自身が受けるべきと考えた。
捨松は梅子より年長で、帰国するときはヴァッサー女子大学を卒業している。
梅子の最初の希望は、先輩の捨松を助けて日本の女子教育をするというものだったが、捨松が結婚して家庭の人となってしまった以上、その仕事は自分一人の肩に掛かっているのだから、もう少し高い専門の教育を受けなければならないと思った。
梅子はすでに国費で十年以上も留学しているので、もう一度、政府にお金を出して貰うわけにはいかない。もし今勤めている華族女学校が、給料を払って二,三年のアメリカ留学を認めてくれるならその夢も実現可能である。
梅子はチャールズ・ランマンの紹介で、日本で書いた文章をアメリカで売る話もあったので、そんなことも多少は当てにして留学のことを考えていた。一流の学校に留学する費用についてアデリンに問い合わせている。普通の教師としてなら今のままで充分だが望みはもっと高く、女性の解放をめざした人間教育が夢で、こうした大きな夢を抱えて、毎日の教師としての生活は着実に、しかも楽しみながらやっている。華族女学校という環境で梅子の眼に入る風景はかなり滑稽で強ばったものであったに違いない。だが、彼女は驚くほどに素朴に、しかも現実の状況を充分わきまえた観察眼で人間を見つめている。異なった階級の人々を眺めるときも公平で卑屈にならず、へつらうこともない。かといって現実の状況が認めているその人の身分に礼を失する態度もない。皇室、貴族、華族、階級の様相、個々の人格の差異を含めて人間という種の形成する社会のあらわれとして眼を据えている。
皇后は二万ドルの洋服をヨーロッパからとり寄せているが国民は貧しく、教育も受けられない。
ミュージカル『ミカド』が、日本を西洋人の娯楽のために滑稽な風刺の対象にするのは侮辱で、もし日本の舞台でヴィクトリア女王や英国王室が滑稽な芝居の対象になったら英国の代表は抗議をして大きな問題になるのではないかと梅子は文句を言っている。教師が不足して忙しすぎるのに、政府は建物に金を使いすぎて下の役人が苦しんでいると不平を言っている。
だが、すべての現象に対する梅子の反応はきわめて正常で、単に攻撃的ではなく明るい面を見ようとしている。多分これは梅子の持って生まれた天性であろう。津田家の血に加えて、梅子を育てたランマン夫妻の愛の育みと言えるだろう。三十年に亙るおびただしい量の私信で、梅子が内面の語りを持続し得たのはアデリンとチャールズの愛情に掻き立てられたからであろう。他に考えようがない。梅子の精神内部でのキリスト教への帰依も恐らくランマン夫妻への信頼に絡んでいるように思われる。そしてその後、日本で得た数多くの友人知人の輪の広がりもまた人間性への肯定的な面への信頼から生まれたに相違ない。梅子の科学的とも言える好奇心は、ものごとを総合的に連鎖するものとして捕らえ、分析的で流動的である。たとえば具体的な話題としてミッショナリーや伊藤博文、日本の文化の制度まつわるコメントなど一面的ではなく、批判的であると同時に愛情に溢れている。美点と長所にも欠点に対する以上に敏感である。でなければどうしてあれほど痛烈にミッショナリーの悪口を言いながらミッショナリーの友人を得てキリスト者として生き、日本の女性を引き上げることに情熱を傾けることが出来であろうか。
明るく燃え上がる暖炉の炎を見つめながら、お喋りしたアメリカの夜を思い出し、今は海を隔て、とても遠いものとなってしまったが、あの懐かしい場所をきっといつかもう一度と、梅子はアデリンに手紙を書いている。
アデリンはこういう梅子の手紙だけを待ち焦がれた日を送っていたので、少し手紙が途絶えると異様な心配でやいのやいのと書いて来る。
梅子は業を煮やして、あなたの手紙には心配でたまらないだの、もしかしたら何か起こったのじゃないかと怯えているとあるけれど、何を余計な心配することがあるでしょう、私はいつも楽しんでいます。今日はもう書くとがありません。疲れているから寝ます。と書いたり、興奮してごめんなさいとあやまっては、また細々と書き綴るといった具合である。
明治二十二年二月二十一日、伊藤博文らが世界に名乗りを上げる新国家として長年準備検討した憲法が遂に発布の運びとなりった。第二十八条では信教の自由も保障されていた。
その同じ日に、文部大臣森有礼が殺害された。
森は伊勢神宮神殿に土足で上がり、御神体の幕をステッキでまくり上げて、神道神職者たちを激怒させたのが原因だった。
日本人の愛国心は天皇とその祖先崇拝に象徴され、政治と宗教が絡み合っていて、事件の解明は難しいがこうした事件の諸外国に与える印象が、今後諸条約締結に際して、日本を不利に導くのではないかと案じられた。
明治の日本は新しい国家としての夢想に溢れた時代にあり、幼い梅子や捨松や繁子を異国に送りつけ、十年余の歳月をその地で学ばせ、彼女たちが海の向こうから何ものかを持ち帰り、日本に新しい種子を蒔くことを期待した。だが、女子留学生たちが十余年を経て帰国した故国で見出したものは、めざましい勢いで伸びてゆく新しい国家を切り回す男性たちに追い回される女性の姿だった。新しい女といわれるのは上層階級の滑稽な洋装の女たちで、梅子の記述には浅薄な日本人を恥じて言葉少なに呟く吐息が感じられる。梅子はその半生をほとんど和服ですごし、手紙は巻紙に毛筆でしたためているが、これは単に日本的なものへの好奇心からではなく、合理的に納得できる美意識から来ている。
なぜ日本人は必要以上のばかばかしい高いお金を支払ってまで見よう見真似の西洋風なものを使わねばならないのか。梅子はアメリカで学んだ西欧的合理主義を物質や形にあらわれたものを、安易に手に入れるやり方ではなく、根本的本質の部分で日本女性に感知させたかった。英語を学ぶことで言語の背後にある西欧理念の理解を深め、同時に英語教師としての職を与え、経済的に自立させることが出来ると考えていた。
日本の男性が理想とする女性はおっとりした典雅なお姫さまであり、遊び戯れるのは芸妓や娼婦である。ほとんどの少女は自我の目醒めないうちに結婚させられ、奥様として家の奥に送り込まれる。奥にさえ送り込まれないもっと惨めな境遇の者は子供にまつわりつかれて一生をコマネズミのように働かされるだけである。梅子は憤懣やるかたない。女性は経済的に自立できない限りものを言い得ない。男性が金で買う娼妓に入れあげるのを、梅子は不快なものとして見つめてはいたが、娼妓は自分の生命力で男たちから金を巻き上げ、経済的に自立している。だからこそ、もの怯じしない強かさを持っている。そのしたたかなもの言いこそが、男たちを喜ばせている。
不特定多数の男に媚びて経済力を持つようになった女の姿は、結婚した男の保護のもとで安定した生活を享受する奥方とどう違うのか、違ったにしても、女としてはどこか釈然としない。梅子に言わせれば日本の上層階級の子女の在り方は決して模範とすべきものではなく、一般の女性もまたあまりにも無自覚である。男の言いなりに家を守り、子女を育てるだけが女の生き方ではない。
自由に意見を交換し、互いに助け合い、次々に生じる新たな問題を解決しつつ未来を展開する。それが梅子の夢見る女性像である。華族女学校も公立女学校も決してそのような女性を育てる教育はしていない。梅子はじっとしていられなかった。世界は大きく動いているのだ。
梅子はアメリカ、フィラデルフィア在住のモリス婦人に具体的な再留学について相談した。モリス家はフィラデルフィアの旧家で、夫人は東部の知識人社会に有力な発言力を持ち、梅子以外にも著名な日本人を家庭に出入りさせている。夫人はクエーカー教徒によって建てられたブリンマー女子大学の学長ジェームス・ローズの友人だったので、自分の育てた日本の少女が今や女性教育界のホープたることを吹聴した。
ローズ学長はその場で梅子の授業料の免除と寄宿舎の一室を与える約束をした。一方、梅子は華族女学校から二年間有給で留学出来る計らいを受けた。
いったい梅子は幼いときから、どうしてこうも次々と巡り逢う有力な人々に助けられる運命にあるのだろう。チャールズ・ランマン夫妻、伊藤博文、森有礼、アリス・ベーコンやモリス夫妻などは、それぞれの立場で助力を惜しまなかったし、アンナ・ハーツホンなどはまさにその一生を津田塾のために捧げたといってよい。姉妹や弟たち近親者も生涯に渡って梅子を助け、姉の夫上野栄三郎などは経済的にも塾の創立運営に多大の援助を惜しまなかった。
人間の行為で相互的でないものはない。周囲の人々からこれほどの助力を梅子が受けたということは梅子がその人たちに与えた有形無形の助力を物語っている。若いときから幼い弟や妹たちの世話を嫌わず、一緒の部屋に寝起きして、幼い者と時を過ごすことを心から楽しんでいた。九条家のお姫さまなども身近に置いて世話している。
梅子の人間としての息吹がいかに魅力的で生命に溢れたものであったか、周囲の眼には、その姿、その眼の輝きが、この地上に棲む人間社会の明るい展望を約束する希望の光のように映ったに違いない。
梅子には私利私欲というものがほとんどなかった。
鹿鳴館の舞踏会に招かれても、一度は打ち興じるが、次の機会にはもう、私は手に入りにくい西欧の高価な衣装を買うために他のことを犠牲にする気もないし、そういうことにかかずらう時間もないと、あっさりそっぽを向く淡泊さである。楽観論者でも悲観論者でもなく、物事をあるがままに見つめ、生物の勘ともいうべきもので、前途を見極めて進む性格だった。それ故にこそ巡り逢った人々もまた梅子の未来に賭けて、力を注ぎ込む気になったのであろう。
明治二十二年七月、梅子はアメリカ再留学のため、横浜港から出立した。
華族女学校に勤め始めて以来心の奥で考え続けてきた再留学である。華族女学校は為政者たちが公的な理念の下に取りしきっており、その理念は男性を中心として打ち立てられた国家理念、教育理念である。
ブリンマーで生物学を専攻した梅子は人間学を生物学の一分野として考えている。明治の農学者津田仙の娘として生物学に若いときから興味を持っており、持って生まれた資質から言っても科学的な関心が強く、学んだ学校の記録によれば科学分野の科目は常に抜きん出た成績を残している。梅子がブリンマー大学を選んだのは生物学が重んじられていることが理由だった。
ダーウインが『種の起源』を発表したのは一八五九年で、梅子の育つ頃、生物学は世界の寵児だった。梅子は勿論、その分野に関心を持っていた。アデリンに朝顔の種子を送って花の色を何代かに亙って確かめてくれと頼んだりしている。ブリンマー女子大学キャンパス内の数少ない建物の一つ、ダルトン・ホールは実験室や科学関係の資料室が主で、生物学は大学の創立時から重要な教科だった。大学のカタログ写真の中に寄宿舎で同室だったアンナ・パワーズが撮った写真が載っており『日本からの留学生津田嬢は最初の有名になった外国人留学生である』と説明が付いている。
郊外の林の中に隔絶されたような別天地を選んで建てられた津田塾の学舎や寮は明らかにこのブリンマー大学のキャンパスを念頭に置いている。
ブリンマー女子大学長ケアリー・トーマスは梅子がモリス夫人の援助のもとに集めた基金で日本からの後輩の留学生を送るに当たって、いろいろと助言をしている。
クエーカー教徒の家庭に育ったケアリーは一八七七年にコーネル大学を優秀な成績で卒業、女性には閉ざされていたジョンズ・ポプキンス大学院へ特別の計らいで入学した。だが男子学生と共に教室の授業に出ることは許されず、カーテンの陰に座らされて講義を聴いた。
その後、ドイツのライブツィッヒ大学に学んだが三年間の優秀な成績にもかかわらず、女性だという理由で学位は取れなかった。さらにその後スイスのチューリッヒ大学で学び、女性として初めて学位を得て女子教育のパイオニア的指導者となった。女学生の医学への進出の道を開き、産業に従事する女性のためにサマースクールを開設、政治経済における女性の権利を要求した。
フェミニズム運動の始祖ともいうべき人物で、梅子がブリンマー大学に学んだことは不可思議な運命としか思えない。
日本を立つ前の約束では二年間の再留学だったが、梅子は女子教育の状況を取り調べるという名目で一年の追加を許された。
三年間のうち半年はオンタリオ東南湖畔にあるオズウィゴー師範学校で教授法を学んだ。子どもが生まれながらにして有している内的本性を自然に即した形で伸ばす教育の研究である。
モリス夫人の援助のもとに八千ドルという基金を集めた梅子はその利子で女子留学生をアメリカに送った。自分のためには信じられないくらい質素で、集められた金はすべて後進の女性を育てるために使われた。
『日本婦人米国奨学金』と称する基金によって留学した者は、京都同志社高等女学校長松田道子、恵泉女学園長河井道子、女子学習院教授鈴木歌子、津田塾大学長星野あい、同じく藤田たきなど二十五人にも及んでいる。
明治三十二年十二月二十八日、梅子はモリス夫人へ手紙を送った。
昨年お話したように、華族女学校を今年度が終わったら辞めるつもりです。
どんなにこの時を待ちのぞんでいたか、わかって下さると思います。
幼い貴族の子女を教えるという名誉はあるにしても、私の計画はより高等な教育、とくに英語で政府の英語教育者の資格試験に備えようというもので、今のところ私立校でこの試験に備えた教育をするところは皆無で、女性で試験を受ける人は、ほとんどいません。
国立の女子師範学校は大変良い教科を教え、教員を養成をしていますが、実際に職場を得られる人の数は限られています。卒業後の義務や制約があるのです。私は女子の高等教育に全力を尽くしたいので、どうしても自分の学校を持ちたいのです。アリス・ベーコンが助力してくれることになっていますので、とても大きな力になります。御存知のように、日本の授業料はとても安いものですから、学校を維持する費用を授業料には期待できません。いま勤めている学校を辞めるのですから、政府から貰うサラリーは諦めますが、自分の生活費をこの新しい私塾に頼ることは出来ません。とにかく、五年ほどやってみて、充分な基盤の上に学校が成り立つかどうか、見極めるしかありません。
仕事を始めるための建物と敷地を手に入れるには、三千ドルから四千ドルかかりますので、どうしようかと頭を悩ませています。
どうしたらこの資金を来年の夏までに集められるか、あなたに御相談すれば助けていただけるのではないかと、お願いの手紙を書いた次第です。
奨学金委員会の皆様はこの計画に関心を持って下さるのではないでしょうか。ブリンマーに送った留学生たちは戻ってきたら助けてくれると思います。
ブリンマーのミス・トーマスにも助けていただけるかとお願いの手紙を書きました。政府の学校で教えている限り自分の考えている教育を実行する自由がありません。あなたやあなたの周囲の方に私がこの計画のため華族女学校を辞めたがっているのを知られるのはかまいませんが、まだ辞意を表明したわけではないし、政府に対する責任から自由になっているわけではありませんので、この話が日本に伝わってこないよう用心して下さい。東京はゴシップのひどいところですから、噂が誇大されて流れるのは困るのです。相手を選んでお願いして下さい。道が開けますよう祈っています。
翌年の八月九日、梅子はハーヴァーフォード大学の開校式に先立って、ミス・トーマス学長に手紙を送った。
華族女学校を辞めて社会的身分はすべて投げ出しましたが、これまでの十年以上に亙る教師としての経験は、新しい私塾を始めるのに役立つと思っています。政府の学校を辞職するに当たって、民主的なアメリカでは想像できないような困難がありましたけれど、無事、名誉ある辞職の運びになりました。
しばらくは親しい知己にも援助を頼むわけにはいかないと思っています。
初めはごく小さい規模でやります。三年間の高等教育をするつもりで、生徒は公立の女学校から募ります。政府の行う英語の試験に備えるものとして高い水準の教科内容にします。
すべて準備は整い、公式の認可も得ました。
モリス夫人は春までに集めた二千ドルを送って下さるそうで、秋までには目標の四千ドルを集められると言って来られました。
購入するにふさわしい建物も見つけました。補修費抜きで六千ドルです。
十二月までに不足の二千ドルが手に入れば土地を担保に金融公庫から借り入れをするつもりですが、委員会は保証して下さるでしょうか。ここ数年、土地はかなり値上がりしていますが購入希望物件はとても安いのです。アドバイザーは損をする心配は絶対にないと申しています。
九月一日から仕事を始めるつもりです。未来は明るくタイミングは最高です。
長い手紙で申し訳ありません。
あなたのお力添えをお願いするために状況を説明したかったのです。
梅子自身に聊かの私心もないだけに、この素直すぎるとも言える援助の願いは不思議に相手の心を動かした。ブリンマー時代の人望とその後の世界各地での風評が根底にあるので、信じられない額の寄付が、次々とアメリカの友人たちから寄せられた。
女子英学塾の創設に最初に強い賛意を示したのは父津田仙だった。
梅子の設明を聞いて心を動かされた。自分の娘が女子高等教育の開拓者として起つというのは、考えるだけでも心が弾んだ。教育に関する熱意は学農社農学校を創めたことによっても察せられる。ことに女子教育に関する関心は、青山学院やフレンド女学校などの創設に参画したことによっても了解できる。しかし、私立学校の経営が如何に困難な事業であるかもよく知っている。前途に不安も覚えたが、華族女学校と女子高等師範学校の教授の椅子を投げ出してまでこの道を選ぼうとする娘の決意を聞いて賛成しないではいられなかった。
それから半年後、梅子はフィラデルフィア委員会からの送金で、元園町の醍醐忠順侯爵の旧邸を買い受けた。
明治三十七年、女子英学塾は専門学校の認可を受けた。
翌三十八年、教員試験免除の許可を得た。卒業生は英語教員職を確立する特典が得られた。
塾は三十余人の生徒で始めたが、二年後、明治四十年の生徒数は百四十人となっている。広告もないままに口伝えで女子英学塾の名は全国に聞こえ、若い女性たちが未来を夢見て門を叩いた。
ハイカラとは凡そ正反対、地味な梅子の雰囲気に生徒たちは唖然とした。
専門学校になって梅子は初めて月二十五円の手当を得たが、発展し続ける塾の経済的問題で生涯、苦しんでいる。その大半をアメリカと日本内外の賛同者たちの寄付に頼り、膨大な量の礼状を書いている。月に三百通も書かねばならないときもあった。
梅子は私塾創設の機は熟したと判断した。
華族女学校で教え始めて以来、十数年の歳月が流れていた。思えば長い年月だった。梅子三十六才である。
モリス夫人宛の文面に見られるとおり梅子はこの計画を特例の人にしか打ち明けていない。毎週のように書くおびただしいアデリンへの手紙にも学校のことは触れていない。この重大な決意が書かれていないことはむしろ不自然な感じがしないでもない。話が具体的になってきただけに日本の外交筋と緊密な間柄だったランマン夫妻から計画の洩れるのを用心したのであろうか。
梅子を実の娘同様に思っていたランマン夫妻はどんな援助も惜しまないはずである。梅子には経済的な迷惑はかけたくないという配慮があった。
この計画が公表されるに至って人々は驚いた。年俸八百円の華族女学校教授の社会的身分は三十六才の女性としては恵まれたものだった。
週刊朝日の『値段の風俗史』によれば明治三十二年の国会議員の報酬は年額二千円、日雇い労働者は三十七銭である。世間一般の常識から考えれば何を好き好んで無謀な計画をと思うのが当然の反応だった。
明治三十三年七月二十日、私塾を『女子英語塾』と名付けて、東京府知事に設立の申請し、七月二十六日、認可を受けた。
アメリカからアリス・ベーコンが来日し、渡辺光子、鈴木歌子、桜井彦一郎らが、その事業を手伝った。渡辺光子は梅子の従姉渡辺政子の姪である。鈴木歌子は梅子の留学基金でアメリカで学んでいたが、戻って来て梅子を助けた。桜井彦一郎は早くから女子教育を夢みた人で明治女学校で教えていたが、梅子は明治女学校の高等科で教えたことがあり、その縁と思われる。梅子の私塾を『女子英語塾』と命名したのも桜井だという。巌本善治、新渡戸稲造などは創設期に熱気の溢れる連続講演で梅子の新しい出発を祝った。大山捨松は顧問になった。姉琴子の夫上野栄三郎は経済的な援助を惜しまなかった。
明治三十三年九月十四日、女子英語塾は麹町一番町十五番地のごく普通の家屋を校舎として、わずか十人の塾生でスタートした。
学生は学力に応じて梅子やミス・ベーコン、鈴木歌子などから個人教授に近い形で教えを受けた。
一カ年の塾経費予算は次の通りである。
生徒三十人分授業料七百二十円、
寮生五人分賄料一〇八〇円
寮費二二五円
以上収入合計二〇二五円
支出は教員給料七二〇円
賄料一〇八〇円
雑費二二五円
以上合計二〇二五円
教職員はほとんど無報酬に近いものだった。
梅子とアリス・ベーコンは無報酬だった。
梅子は東京女子高等師範学校の講師で得る手当と山階宮家や岩崎家など、家庭教師の収入で生活を支えた。アリス・ベーコンは塾で教えると同時に、華族女学校で教え、その収入で暮らし、家賃としてなにがしかを塾に支払い、梅子の長年の友情に応えた。
明治三十七年、女子英学塾は専門学校の認可を受けた。
翌三十八年、教員試験免除の許可を得た。
卒業生は英語教員職を確立する特典が得られた。
塾は三十余人の生徒で始めたが、二年後、明治四十年の生徒数は百四十人となっている。広告もないままに口伝えで女子英学塾の名は全国に聞こえ、若い女性たちが未来を夢見て門を叩いた。ハイカラとは凡そ正反対、地味な梅子の雰囲気に生徒たちは唖然とした。専門学校になって梅子は初めて月二十五円の手当を得たが、発展し続ける塾の経済的問題で生涯、苦しんでいる。その大半をアメリカと日本内外の賛同者たちの寄付に頼り、膨大な量の礼状を書いている。月に三百通も書かねばならないときもあった。
開校式の祝辞を梅子は英文の原稿を手に、日本語で述べた。
私は十数年来教育事業に関係いたして居ります間に強く感じたことが二つ三つあります。
第一は、本当の教育は立派な校舎や設備がなくても出来るということです。一口に申せば教師の資格と、熱意と、学生の研究心です。
次に感じましたのは、大規模の学校で多数の学生を教える場合、充分な成績を挙げることが難しいということです。大きい教室で多数の学生を教えるのは、知識の配分は出来ますけれど、真の教育は出来ません。真の教育は生徒の個性に従って、別々の取り扱いをしなければなりません。私はこれまで数名の生徒を自宅に置いて、格別の設備がなくともどの程度まで教育することが出来るか、試してみました。私は幼い頃、渡米して米国の教育を受けました。帰朝したら日本の女子教育に尽くしたいと思いました。自分の学んだものを日本の婦人にも分かちたいと考えました。けれども私が帰りました頃の日本は、今日とは大分様子も違っていて、第一働く学校もなく、今まで学んだ知識を実際に応用する機会もありませんでした。
ところが今日では女子教育も非常に進み、ご承知の通り高等女学校は年々増えて参ります。また文部省は教員検定試験の制度を設けました。至極結構な制度でありますが、女子の高等教育が振るわぬため、この試験を受けられるような女子は只今のところ殆ど御座いません。
英語塾の目的はいろいろありますけれど、将来、英語塾教師の免許状を得ようと望む人々のために確かな指導を与えようというのが目的の一つであります。最後に二,三の御注意を申します。
専門の学問を学びますと、兎角、考えが狭くなるような傾向がございます。
英語の専門家になろうと骨折るにつけても、オールラウンドウーマンとなるよう心がけねばなりません。この塾は女子に専門教育を与える最初の学校です。
従って、世間の目にもつき易く、色々の点で、批評を受けることで御座いましょう。世間の批評などはさほど重要なものではありますまいが、もし斬新な批評が幾分でも女子高等教育の進歩を妨げるならば、誠に遺憾なことです。
しかもその批評の多くは学校で教える課程や教授の方法について言うのではありません。ほんの些細な事を、例えば日常の言葉遣いとか、他人との交際ぶりとか、礼儀作法とか服装とかを批評して、全体の価値を定めようとします。
それ故、かような点にも十分注意して、くだらない世間の批判に晒されないよう気をつけて頂きたいと思います。
梅子がこの式辞を日本語で述べたということについては、疑問が残らないでもない。というのは、公の席での話はすべて英語で、記録として残された文章はもちろんのこと、手紙や日記、その他すべてが英文のものばかりで、日本語が話せながったわけではないが、梅子にとって英語は自分の気持ちをもっとも自由に表現できる言葉だったはず、入学式に参列した女性の一人、奥山静は日本語だったという。考えてみれば、開校式当日、梅子が英語で話したとしても、はたして何人の入学生が解し得たであろう。英語の文章を翻訳した原稿を手に覚束ない日本語で、たどたどしく読み上げたに違いない。形式張った言葉は一言も云わず、すがすがしい決意を伝えたという。英語を手段として目を開かせ、社会での発言力を与えて、男性と対等な立場に日本女性を引き出すことにあった。モリス夫人の援助のもとアメリカ留学の募金を集めたとき、梅子は次のような講話をしている。
私はアメリカの女性の地位に常々強い印象を与えられています。日本には他の東洋の国々ほどには女性に対する偏見がないとは言え、儒教の影響で、男女間の意識は西欧とは随分違います。
儒教は女子に三従ありと教え、女性は常に男性の支配下にありますが、こうした男尊女卑を打ち破るためにはキリスト教がよい影響を与えると思っています。維新後、日本は四半世紀足らずの間に、飛躍的な発展を遂げました。封建制度から立憲制をとる近代国家になりました。これはひとえに日本が欧米諸国に伍して行こうとする願望なのです。今やその願望は叶えられ、男性は憲法による政府と、国民の意思による議会を持つようになりました。
けれども女性に対しては何もなされていません。この歴史的改革の時期こそ、女性の権利の尊重と社会への参加が実現されるべきです。
上流階級の女性たちが社会に与える影響力はとても大きいのに、女性たちはこの進歩する社会でいちばん立ち後れています。隔絶された古い日本家庭の奥深いところで召使いたちに囲まれて、新しい教育の主張から最も遠いところにいて新しい風の音は聞こえません。それに比べ、夫と共に働かねば生活できない女性たちに未来は近いのです。彼女たちには外の世界に接する機会があるからです。仕事も責任もない上流階級の女性たちには発言力がありません。下級の層に行くほど男女の差は少なく、いちばん貧しい男女は平等と言っても過言ではありません。男女の調和に欠ける中流階級の女性は自分の名義で財産を持つことも出来ません。彼女らのアイデンティティーは父親、夫、息子あるいは親族に委ねられています。結婚してしまえば別れることは不可能ではないにしても、別れた後はまた別の男性に頼らねばなりませんし、離婚するときは子供を手放さねばなりません。大抵の妻たちは横暴な夫に忍従を強いられているのです。今、女性の教育への関心が高まっています。教育によって女性が目醒め、教育を受けた女性が、上層部の女性たちに教師として近づく機会が与えられれば、日本の社会には男女協調の機運が高まります。男性を排除するのではありません。男女同権、男女協調です。女性を四年間教育するために必要な基金調達に、もし、皆さまが協力して下さるなら、若い女性たちはアメリカで学ぶことが出来ます。そしてキリスト教文明の恩恵に目醒めることでしょう。
一八九八年、津田梅子はデンヴァー万国婦人連合大会に出席して、日本女性は近い将来アジア諸国の女性の助け手となって、男女協力の社会をつくるであろうと女子教育者としての自負を語った。
梅子自身、アメリカの女性に助けられたことから、彼女にはアジア諸国の女性を助けなければならないという使命感があった。
このスピーチはアメリカの新聞に報道されて大きな反響を呼んだ。
ロサンゼルスの日系人のナーシング・ホームにいる女子英学塾第五回卒業生の岡村しなは梅子に直接教えを受けた。長年の滞米生活で日本語も覚束なくなっているが、梅子の風貌を生き生きと伝えるので、しなの口調をそのまま示す。
「岡村しなです。もう百歳、恥ずかしいけどしょうがない。でも、めでたいけどね。この前の誕生日に、倅と嫁が揃って来てくれたの、東部から。でもね、百っていうと、ちょっと困ると思う。めでたくはない、恥ずかしいわ。
今、everydayに起きることは、直ぐ忘れちゃう。昔のことはハッキリわかる。
小学校を出て、お裁縫やお茶や、お花を習ったり、お嫁さんの稽古ばかりして十七才で結婚したの。主人は親戚続きで、十五,六の時から、ほとんど毎日一緒だったから、naturallyに、お互いに好きになって、結婚したの。
主人は二つ上、中学出て、おじの家に養子に来て、神戸の商業学校から、東京の一橋高等商業学校行った。一九〇四年に卒業したの。神戸で結婚して、東京へ出て来たの。
夫は一橋高等商業へ行ったでしょ、その時分、アメリカへ渡る計画が合ったので、英語が必要だと思って、主人と相談して、私は女子英学塾へ通った。
結婚して二人とも学校、部屋借りて、自炊して、方々住んだけど、、その一つ、市ヶ谷見附の三河屋さん、そこの二階。
たいてい東京には煮物屋があるでしょ。つくだにや、そんなもの買ってきて、味噌汁こしらえて自炊。ところが一九〇三年にpregnant(妊娠)したの。
それで学校へ出られなくなって、神戸の家に帰って、翌一九〇四年の二月二十九日、お産をした。死産だった。子供が死んで生まれたの。幸か不幸かそのお蔭で、私は学校へ戻って来た。
その年に夫が高等商業学校卒業して、そしてこっち(アメリカ)へ来たの。
私は子供が亡くなったし、学校へもどって、津田先生のお宅に置いていただいたの。私ただ一人よ。直接先生のお宅にいて、先生のeveryday lifeを見て、教訓を受けたのは。ほんとうにbig honorです。私がonly one、先生と一緒に二年も同じお家にいてeveryday……。
おしなさん、おしなさんって仰って下さってね。ほんとうに先生のご恩は忘れられません。立派な方でした。先生が女子教育ってことに熱心な最中に、私はそこにいたのよ。学校は麹町、塾みたいな、昔の寺子屋みたいな、ちいさーいの。女子英学塾と言って始めた時、生徒は五,六人だった。
私は結婚していたから、生徒の中でも一番上。英学塾では英語ばっかりだったけど、地方から来た女学校出の人が多かった。私は小学校だけで、津田、行ったんですよ。私は英語はごく幼稚だったの。でもね、稽古はしておりましたからね。その時分、日本は小学校でも、英語の稽古はありましたんよ。小学校の先生がfrock coat 着てね、そのpocket からアルファベットのA,B,Cなんて、こんなカードを出して教えてもらった。
その先生の姿、今でも見える……。二階に先生のお寝間があって、その下が私たちの教室で、私が入った時は、八畳と六畳、二つ部屋があって、昔のお公家さんの古ーいお家だった。
私は先生の二階へ泊めていただいたの。四畳半くらい、そこに一人で。となりの部屋が、先生のお寝間。
あなたなんて想像つかないでしょ、日本流のはしご段があって、質素な寝食を、私は先生と共にしたの。キッチンなんかもアメリカのガスと違って、炭よ、炭火で炊いた。でも、食べ物には苦労しなかった。先生のお家にいたからね。時々、西洋料理も食べた。ローストチキンとか、御馳走になった。
津田塾の月謝は安かった。
いくらだか忘れちゃった、主人が払っていたから。
私はお金のことは、まことに不得手で、よく記憶にないの。
先生は日常たいてい着物で、袴を着けて、ここ(胸元)に時計をつけて、鎖を、こうしてさわっているのが癖だった。小さい小柄な人、私より小さい。手にえくぼがあって、かわいいの。どちらかというと肥るたちでしたね。
四季の折々に、昔アメリカへ行った時の、古ーいオールド・ファッションの洋服着てらした。先生は質素で、派手なことが嫌い。日本の質素を大切にする気持ちを、小さいときに国を離れたのに、どうして覚えていらしたのか、不思議。朝は、学生が起きるより早く目を覚まして、日本流の洗面をして、ご飯も学生と一緒に食べて、ご飯すんだら、すぐ学校へ。先生は融通のつかない厳格な方だった。ノーと言ったらノーなの。だから英語一言習うのでも、完全になるまでは no not yet once more please そういう方だった。そりゃ立派な先生でした。教えることに熱心で、ご自分がぜんそくで、いつでもハーッと咳をよくなさって、そういう時でも、教室を休む時は、学生を部屋に呼んで、レッスンなさる。日本人はRとLがよく発音できない。top of your tongue up あーなんていうの trry again, no, not yet そんなでしたよ。厳しかった。先生の英語は完璧だったから、私、アメリカのどこへ行っても、お陰様で good English って言って下さる。
実はね、私、津田へ入ってからキリスト教になったの。実を言えば、アメリカに来てから、キリスト教の教えに反対する人が、たくさんあって、それで失望してしまってね、キリスト教を忘れちまったの。
先生は英語で話しててもね、火箸を持って日本語の稽古、灰の中でしてらした。先生はアメリカは好きだけれどね、頭にしみこんだ日本のspirit 日本人であることを忘れないようになさい、英語をしゃべることはなんでもない、日本のspirit をわすれるなって。それが偉いところよ、先生の。本当、確かにそうなの。それを頭にたたき込まれた。
日本人の固有の規律 spirit を、頭に持ってた人です。七つの年にアメリカに来て、すっかり日本のことを忘れて、十一年目に日本に帰って、そうして、こりゃ日本をどうにかしなきゃいけない、ということを真剣に考えた人だからね。
Every Saturdayは寄宿生と食事を共にして、食事の後にはちゃんとアメリカの話などをね、よーく教えて下さった。学生のためになる話をね。
Saturday night にはね、手紙を書いて、留学時代に世話になったランマンさんて人に、every Saturday night, never failed その mail するお使いを、私がしたの。二人友達つれて。敬老ナーシング・ホームの今、trash を入れる箱、木の蓋が、手紙を落とすとぽたんと下へ落ちる。そんな古風のものでした。
太平洋を横断するのに二週間以上は掛かったでしょうね。だから先生は every Saturday お書きになった。感心な方でした。
先生のお部屋は書物ばかり積み上げてあった。何でも Library のように使いなさいって、自由に、私だけには許してくれた。ありがたいことです。
先生は一時、華族女学校で教えていたけれど、それ、面白くなかったから。やっぱり日本の女子の教養程度が低いから、これはもう少し程度を上げなくちゃだめだって。
先生はユーモラスで、大きな言い声でね、ハッハッハーって大笑いなさる。
先生はね、出来るだけ日本語を、自分で自習しなければならないっていう考えを、持っていらした。
土曜日のお夕飯はね、生徒と一緒にね、必ず、そのお食後にね、何かお話を教えて下さるの、そのときは英語で。それがすんだら、日本語に変わってね、お茶でも飲んで、ハッハッハーってお笑いになるの。
先生はどうして独身でいらっしゃったのか、ご自身では仰らないし、私たちが察しているだけだけれど、なんでも、中村健三っていう学者がアメリカに留学してらして、その方が大変好きだったっていう風説があるの。嘘かほんとか知らないけれど、それを聞いたら、先生が少しニコッとなすった気がするの。
この岡村しなの話でもわかるように、梅子は教育とは人と人との接触から生まれるものだという信念を持っていて、育てられた人たちは、ほとんど生涯にわたって梅子を慕い、懐かしんだ。
小学校しか出ていない学生をも受け入れた創設当時の塾は、個々の学力に応じた教育で、結婚している女性をも区別せず、その学生の夫とも、梅子自身面接して親しく話し合っている。在学中に結婚する人もいた。梅子が女性の生き方について、自然な考え方をしている現れである。
梅子自身は独身を通したが、結婚している女性、しない女性を差別をせず、伸びようとする女性には、いつでも、誰にでも機会を与えた。
梅子がアメリカ留学から帰国した一八八二年に生まれた岡村しなは、長じて女子英学塾に学び、その後、長くアメリカに住み、一九八四年、百二才でこの世を去った。
太平洋戦争後間もない日本はまだ飢えからも解放されず、物質的には極貧の時代にあったが、津田塾大学の思春期にある学生たちはそれぞれに個性的に反逆の精神に満ち満ちていた。しかし、創立者津田梅子に対しては一様に奇妙な敬愛を感じているようだった。無軌道で大胆な服装で闊歩する学生も少なくなかったが、彼女たちは梅子の肖像画を常に意識していた。
地味な和服でゆったりと腰掛け、質朴な農婦といった趣さえある梅子の肖像画は、凡そ洒落た雰囲気とはほど遠いものだったが、全ての言動はその師の眼に見据えられているという自覚が塾生にはあった。それぞれの誇りと名誉にかけて塾生は己の言動に責任を持たなければならない。
津田塾大学は個性を尊重するが、厳格な能力主義である。入学して一年くらいの間に、自分の学力を判断し、ついて行けない者は、別の道を選ばなければならない。去る者は追わずが津田塾大学の校風だった。
日本社会では実力相応の場を与えられなかったため、津田塾の卒業生たちは外国の大学に進んで、そのまま大学に残ってしまった人もいる。アメリカでは津田塾で学んだ日本女性は高く評価され、その地に根を下ろして暮らしている人も少なくない。
カナダ・モントリオールのマッギル大学の文化人類学者井川史子、スイスのチューリッヒ大学の地理学者岸本治子などは、日本の頭脳流出といった津田塾専門学校の卒業生である。
労働省婦人少年局長山川菊栄、藤田たき、法務大臣森山真弓、外交畑で活躍した赤松良子、文化人類学者中根千枝などは、旧制高等学校卒業の男子学生たちと入試を競って東京大学に合格した塾生である。
これらの塾出身者たちはいずれも梅子の後進として創立者の意思を引き継いで女性を陽の当たる場所へと導いた。女性のための画期的法案、男女雇用機会均等法が成立したのは赤松良子が婦人局長の時である。
多くの大学が共学制度をとっているなかで、津田塾大学は女子大であり続けている。アメリカの名門女子大学のほとんどは共学に移行したが、梅子の学んだブリンマー女子大学は現在も女子大学として残っている。
一八九八年八月、津田梅子はデンバー会議に渡米したときに、世界中で話題になっていた盲唖の才女ヘレン・ケラーを訪ねている。ヘレンは非常に文学的な少女で、巧みに文章を創るのは、ヘレンが霊魂の眼を持って天然を見ているからだと梅子は言っている。
ヘレンが如何にして諸々の事象、想念を記号と合致させて認識するか、梅子はヘレンを教育したサリヴァン女史の具体的な話と共に語っている。
ヘレンが大層可愛がっていた一つの人形がありまして、何時も離さぬように大切にしていましたが、この人形が即ち、サリヴァン女史が、ヘレンを教える第一の便宜となったのです。即ち最初に品物には名前があって、その名には之を表す記号がある、何という記号をすれば、何を指すのだという事を教えんが為に、かの人形を種として、我が指先にて、ヘレンの掌に人形を表す伝言符号を印する事をしまして、ヘレンをして、之を悟らしめ得るまで、毎日同じ事をなして、三ヶ月を費やしました後に、ようやく符号と品物との間に関係をつける事、即ち、サリヴァン女史が、自分の掌に、指先で触れて、いつも同じ変化で動かしているのは、これは人形のことを言っているのだと悟りはじめました。こうなると、ものを教える道が立って来ましたから、それからは同じ手続きにて、いろいろの事を教え、五ヶ月ほど過ぎたには既に六百二十五の物の符号を覚えることになりました。また自分でその符号を表すことも出来、盲人用凸出符号にて出来た書籍も読みました。ヘレンが幾何を勉強する仕方は、座蒲団のようなものの上に、種々な丈の細い棒に留針の付いたものを、抜き差して、三角形や四角を作って理論を考えるのです。
ヘレンは誠に無邪気で、世慣れてなくて、その愛らしさは殆ど幼児のようです。世界中に言い伝えられて奇妙不思議な才女よと噺されても、ヘレンは殆ど之を聞き知ることなければ、まことに平気なものです。
幼くして盲唖になったヘレンは野獣のように狂暴な性質であったのに、教育によって自己を表現する力を得てからは打って変わった温和な性質になった。
心の目、心の耳で、明白に宇宙の美を観察して、豊かな思想表現力を持つに至った盲唖の少女を現実に目の前にみつめたとき、梅子は日本の少女たちに異国の言語を教えることによって、言語の奥に秘められている魂の衝動について一層深くかかわざるを得なかった。
梅子の日本語は終生、外国人めいたものだったらしいが、これは梅子の言語に対する感受性が極端に鋭敏なため、安易にコピイすることが不安だったからである。日本の古典的文学作品を英訳したり、同時代の文学作品をよく読んだことからも、彼女の文学的感性、言語にたいする異様なまでの執着がわかる。
梅子は有名無名を問わずさまざまの分野の人たちに会い、その話を聞くことを愉しんでいるが、相手の身分にかかわらず、その素直なまでの好奇心と敬愛の念のあふれた、さながら少女のような態度は、いつの場合にもの怖じしたところが少しもなく、自分の意見を吐くときは堂々としていて、相手の言葉に耳を傾けるときはひたむきな真面目さがある。この礼儀正しい真摯な好奇心こそが相手の心を開き、その会見のひとときをお互いの心に残る交歓の場としたのだ。一九〇七年の欧米の旅の時はルーズヴェルト大統領夫妻に会い、日本の四十七士の話をしている。
私塾創立後の梅子の毎日は塾の運営、後進の少女たちの留学の奔走に明け暮れている。アデリン宛ての手紙の文面はただ忙しい、忙しいの連続で、二十年前アメリカから帰国したばかりの頃の母国日本に対する驚き、嘆き、周囲の風景の生き生きとした描写も少なくなり、生彩が乏しい。晩年のアデリンは少しぼけて来て、梅子の文面はアデリンのこぼし話や旧知の友人たちの消息に相づちをうつくらいになる。そういう中で突然梅子の文面がきらめく波の輝きを見せるのは旅の途中からの手紙である。
旅好きの梅子にとっては、視察などの目的を兼ねて出る旅の間だけが、連日の殺人的多忙から逃れる、休養の機会でもあった。
一九〇七年十二月、梅子は妹よな子と船でスエズからイタリアへと旅した。
同年十二月十二日
よなは私が肥ったと言いますが、本当に体調はよく、イタリアに来て充分休養をとっています。バラとナーシサスが咲き、オレンジとレモンが枝に実をつけ、何もかも心地よく、ここに一ヶ月も二ヶ月もいられたら……。
十二月二十六日
海はそんなにひどくは荒れず、私もよなもまあ、ちゃんとしていられました。ほとんど毎日大きなバスタブで海水浴をし、一日の大方を甲板の椅子で実にのんびりと身を横たえ、根を詰めて読んだり書いたりもせず、怠けて暮らしています。仕事をするでもなく、全く何もせずにぼーっとしています。
完全な休息、ああ、これこそが何折りのものなんです。
とは言え、訪ねる国の行く先々で梅子は旧知の人を訪ね、その友人からの紹介で、また新しい友人を得ている。それらの人から人へと伝えられる梅子の様子は少なくともアメリカ東部の社交界では相当に強烈なものだったらしく、発展する女子英学塾を助けてフィアデルフィアのモリス夫人を中心とする委員会は、その後もひき続いて多額の寄付を集めている。またボストンの篤志家ウッズ夫妻からは四百人を収容する講堂ヘンリー・ウッズ・ホールを建てるほどの寄贈があった。アデリン宛の手紙の中には「今日、シカゴから来た旅人が、英学塾に五百ドル寄付してくれました」という文面もある。明治末期の五百ドルは個人の寄付としてはかなりの額である。
梅子は終生、人間に関心を持ち続け、晩年に至るまで訪問客のない日はないといってよいほどだった。教室での授業はべつとして、日に数人から十数人の人に会わない日はなかった。
アデリン・ランマンは一九一四年、梅子が五十才のとき八十八才で亡くなった。チャールズ・ランマンは一八九五年にすでに歿し、父津田仙は一九〇八年に世を去り、母初子もよく一九〇九年に亡くなっていた。実父母、養父母、共に亡い今、梅子には、彼女の命と言ってもよい英学塾と、その塾が育てた弟子たちがあった。
十数年間に亙って長い長い日記の如く書き送られたアデリン宛ての手紙も当然のことながらアデリンの死と共に中断されている。梅子はこれらの手紙以外にも終生日記を書いていたようだが、残されているのはごく一部である。
だが、ここで私が紹介した梅子の私信は、日本の女性精神史とも言えるものだ。一九一七年ころから糖尿病や高血圧による体の不調を訴え始め、脳溢血の発作が何度かあって、晩年の梅子は入退院を繰り返し、塾の実務からは身を引かざるを得なくなった。
アリス・ベーコンは一九一八年に逝き、大山捨松も続いて一九一九年に歿した。私塾を支援してくれた同士ともいうべき人たちは逝ったが、その夢は実りつつあり、梅子の周りには若い芽が育ていた。
一九二二年には津田塾大学小平校の敷地も購入の運びになっていたが、翌一九二三年の関東大震災で五番町の塾は全焼してしまった。
病床でこの知らせを聞いた梅子は「目に見える形あるものは焼失しても、生きている人間の中に培われているものは焼失しないから案ずることはありませぬ」と取り乱すこともなく述べたという。その昔、津田塾大学開校の挨拶に「教育は立派な校舎で育つものではなく、個人的接触による師弟の人格の与え合うものから育つものです」と述べたときからの信念である。
梅子の長年の同志アンナ・ハーツホンは全焼した塾の復興資金を調達するため、アメリカに帰国し、ニューヨークを中心に寄付を集め、三年間に五十万円をを集め、ひとまず帰朝した。募金はその後も続けられ、一九二八年その金額が百三十万余万円達したとき小平の新校舎建設が具体化した。
梅子はこうした塾の姿を静かに眺めて、信頼できる後継者に囲まれた平和な毎日を過ごした。教え子たちは、ひきもきらず梅子の病床を訪れた。その子らを眺め、梅子は心の中に何を去来させていたのであろうか。病床の晩年を読書と編み物で暮らし、編み上げた作品を周囲の親しい者たちに贈った。信じられないほどの超人的なエネルギーに満ちあふれ、とびまわっていた活動的な梅子が、籐椅子に腰を下ろして編み物とは、奇異に思うかも知れないが、私には何故かその姿がリアル過ぎて、それ以外のどのような姿も晩年の梅子にはふさわしくないと思える。
編み物というと人は手慰みと片づけるかも知れない。だが、指先を動かすことは躰全体の血液の循環をよくするらしく、さながら散歩にも似た効用があるという。恐らく梅子は編み物をしながら、自分の過去と未来を往来し、哲人や数学者が歩きながらはっと気づいて、思わぬ展開のきっかけを見い出すような愉しみに浸っていたのではないだろうか。一目一目を丹念に編み上げるこの手芸を私はばからしい作業のように思っていたが、歩きながら考えることに思いの至らなかった浅はかさだったと最近知った。梅子は帰国したばかりの少女の頃からよく毛糸編み棒をアデリンに送ってもらい、珍しいアフガンの膝掛けなどを伯母や友人や知人に贈っていた。恐らく梅子は編み棒を動かしながらはるばると来し方の道の景色を去来させていたのだ。
捨松亡きあと繁子もはかなくなった。
津田梅子は一九二九年八月十六日の夕暮れ、何度目かの脳出血で逝った。
その日付にただ一行、
金曜日 十六日 ゆうべは嵐 Storm last night,
とあるのが妙に心を打つ。亡くなったその日のこの一行の日記は、短いメモに近い。英文の病床の日記は静かに奏でられている楽器の弦がふと、プツンと切れたようにそこで断たれている。生というものが決して絶えることはないと思える終わり方である。享年六十四才と八ヶ月であった。
津田梅子の伝記は吉川利一の『津田梅子伝』と、山崎孝子の『津田梅子』の二冊がある。二人は塾の幹事として三十六年間塾に勤続し、晩年病気療養中の梅子もとに週一度通い津田梅子伝を書き綴り、その原稿には梅子も目を通し、歿後の翌年一九三〇年に婦女新聞社から発行された。
吉川利一の津田梅子伝には吉川の梅子に対する私淑、憧憬が込められていて、目の前に生きている梅子が迫ってくる。口述による自伝的要素が強い。
山崎孝子は塾で国語の教鞭を執っていた。塾から九州大学国文科に学び、著書『津田梅子』は人物叢書として吉川弘文館から一九二六年に初版が刊行され、その後版が重ねられている。
山崎孝子はこの書の前に『津田塾六十年史』の編集執筆の任に当たっていた。山崎孝子の『津田梅子』は、塾に学び塾に教鞭を執った著者の、距離を置いた眼が、また別の角度から梅子像を浮かび上がらせている。山崎孝子は熱心なキリスト教徒で、キリスト者梅子にまつわる考察に思い入れが深く、読者を頷かせる。
山崎はその前書きに、聖書マタイ伝十六章二十五節の「己が生命を救わんと思う者は、これを失い、我が為に己が生命をうしなう者は之を得べし」の言葉を引いて、梅子を偲んでいる。
梅子が生まれたとき、父津田仙は赤子が男子でなかったのを失望して家を飛び出し、その日は家に帰らなかったという。七日を過ぎても赤子は名をつけられなかった。母初は仕方なしに、枕元の盆栽の梅がほころんでいるのを見て、むめ(梅)と名付けたと伝えられる。
梅子に因む木として津田塾大学の小平キャンパスには梅林があり、正月の休暇を終えて女学生が帰寮する頃は蕾が膨らんでいる。月夜の梅の花びらに宿った露の光を浴びて梅の精に変身したように、冷たい早春の夜の梅林を彷徨し、未来を語り合う学生たち、青春がそこにある。
完
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