最終話 引き出しの最下段
一個だけ自己解決したことがある。
父が殺された時、ラブラドールが外へ連れ出されていた点だ。
なぜラブラドールは狙われなかったのか。
そもそも殺人鬼フィクサーに抵抗しなかったのか。
殺人鬼フィクサーの中身がサダオというなら、すべて納得という気がする。
犬は殺したくない。
そのくせ家族は殺したい。
吐き気がするほどの
「お前はミヅキを愛しているか?」
「愛しているに決まっているだろう」
殺人鬼フィクサーはサダオを小馬鹿にするように笑った。
「お前は若いな。愛というやつは冷める。年々冷めていく一方だ。付き合い始めた時が一番楽しかった。結婚した時は今みたいな状態が三十年でも五十年でも続いていくと信じていた。ところが今日のお前はどうだ? 理想と現実とのギャップにほぼ絶望している。自己嫌悪の毎日じゃないか」
杭でも打ち込まれたように胸のあたりが痛くなった。
確かにミヅキとは喧嘩することが増えた。
この前だって低脂肪牛乳とかトイレットペーパーとか些細なことで口論になった。
でも、あえて問おう。
殺してしまうほどのことなのか?
金とか異性の問題が絡むのなら理解できる。
その手のトラブルで殺人に及んだニュースは珍しくない。
でもサダオもミヅキも潔白なのだ。
カレンという子種もいるわけだし、この先二人の潔白が揺らぐことはないと信じている。
「ミヅキの部屋にアルバムがあるだろう。あれを見てお前は何を思った?」
「歳月を積み重ねるほど、夫婦の絆は強くなる。俺はそう思った」
「くっくっく……どっかの映画で聞いたようなセリフだな」
サダオの陳腐な意見は一蹴される。
「お前は疲れたと思った。良き夫を演じることに疲れた。人生の負担というのは年々重くなっていく。家族がいなければ今の会社なんてとっくに辞めているのに、家族がいるからしがみつくしかない。いつ自分がリストラされるだろうか、というプレッシャーに日々怯えている。サラリーマンという地位を失った桜庭サダオは、良き夫じゃなくなるからな。そんなお前を見たらミヅキは幻滅する。お前はそれが怖い」
「でも、俺の問題だ! ミヅキに罪はない!」
答えを予想していたであろう殺人鬼フィクサーは口の端を吊り上げる。
「ミヅキは優秀だ。人間としても妻としても母としても優秀だ。長年観察してきたお前なら知っている。カレンのためなら大抵の苦痛は我慢してしまう。お前の両親とも上手く折り合いを付けている。母としての強さや美しさをミヅキは内包している」
お前はミヅキに嫉妬している、と殺人鬼フィクサーは言う。
そうだろうか。
嫉妬しているような気もするし、嫉妬していない気もする。
自分を弁護するわけじゃないが、男であれ女であれ配偶者に嫉妬するシーンは珍しくない。
向こうの方が収入が上とか。
向こうの方が育ちが良いとか。
嫉妬の種というやつは身近なところに無数に転がっている。
「ミヅキは妻としても優秀だ」
「ああ、ミヅキは妻としても優秀だ」
「反面、お前は人としてダメだ。家族を手にかけるような殺人鬼だからな」
「ああ、ダメだな。最低のクズ男だな」
サダオにはポリシーがある。
夫婦は釣り合っていなければならない。
サダオとミヅキは釣り合っているだろうか。
これまでの情報を整理すると、答えは否だ。
殺人鬼フィクサーの主張したいことは分かった。
アンバランスな夫婦関係というのは改善しなければならない。
良くなる余地がないならぶっ壊すしかない。
「でも、違う。ミヅキを手にかける未来を選ぶくらいなら、俺は自分が消えてしまう未来を選ぶ」
「ふん、どうかな。結局のところ、お前は自分が一番可愛いからな。エゴから手足が生えたような我がまま人間なのさ」
殺人鬼フィクサーの発言は間違っている。
サダオ、ミヅキ、カレンの中から一人死なないといけないとして、誰か一人を選ぶとしたら、サダオは間違いなく自分を選ぶ。
確信できる。
だって桜庭サダオは最低のクズ男なのだから。
死んだ方がいい人間なのだ。
自覚は十分ある。
「納得できないって目をしているな。だったら一個だけ思い出させてやろうか。忘れたかもしれないだろうが、お前はミヅキのことを憎んでいる」
「バカな……あり得ない」
「何度も言わせるな。あり得ないなんてあり得ない」
カレンを妊娠するちょっと前。
ミヅキは産婦人科へ通った。
先生から指摘されたのが、
『ホルモンの関係で奥さんは子供を授かりにくい体質です』
という一言だった。
珍しいことじゃないらしい。
母体によって産みやすい産みにくいが存在する。
あくまで確率の話だ。
実際、ミヅキはカレンを産んだ。
「お前はもう一人子供が欲しかった。そのために夫婦で努力した。でも無理だった。その責任をミヅキに押し付けた。こいつと結婚しなければ、欲しかった男の子を授かったかもしれないと思った。ゆえにミヅキのことを憎んだ」
「でも、ミヅキに罪はない」
「でも、ミヅキが男の子を産めなかったのは事実だ」
もはや小学生の理屈だと思った。
そんなことでミヅキを恨んだというのか。
『お前は悪くないよ』
落ち込むミヅキに優しい言葉をかけた記憶がある。
あれも嘘だったのか。
「お前は嘘まみれだ」
「だって仕方ないだろう! 上手に生きるために誰だって嘘をつく! でなけりゃ、ミヅキを責めろっていうのか⁉︎ そんなの家庭崩壊まっしぐらじゃないか⁉︎」
「人生はそうやって崩壊していく。嘘に嘘が重なって、自分が何者なのか分からなくなる。そうやって生まれたのが殺人鬼フィクサーという怪物なのさ。お前は結局、良き人間として生きることに拘りすぎた。その結果、道を踏み外した」
この男は自分の延長なのだ。
サダオは百パーセントまで確信した。
「こんなに話したの、久しぶりだ。話しすぎて疲れた」
それが殺人鬼フィクサーの最後のセリフだった。
……。
…………。
サダオは作業部屋へ向かった。
引き出しの一番下に手をかける。
以前は一センチしか動かなかったのに今回はすんなり開いてくれる。
折り畳まれたロングコートが入っている。
よく見慣れたやつだ。
革手袋、紳士向け帽子、マフラーの三点セットもあった。
その下から犬用マズルも出てくる。
ナイフが二本あった。
左右で刃の長さが微妙に異なる。
それからロープが一本。
さっき殺人鬼フィクサーが持っていたのと同じくらいの太さだ。
サダオは額に手を当てて深いため息をついた。
こんな物、買った覚えはない。
でも実際に目の前に存在している。
自分の中にもう一人の自分が巣食っているみたいだった。
知らない内に家族を殺してしまいそうで、そのシーンを想像すると泣きたかった。
『エゴから手足が生えたような我がまま人間』
その通りだ。
自分の欠点や至らなさは棚に上げてきたかもしれない。
そのくせ一人前に他人や会社を責めてきた。
首元まで狂気に染まったような人間が、一流と呼ばれる日本企業でサラリーマンをやっている。
人並みの努力もせずに、人並み以上の幸せを手にしている。
そうだよ。
嫌いなんだよ。
サダオはサダオが嫌いだ。
このロープをクローゼットの梁に結んで死んでしまいたかった。
ミヅキやカレンが悲しむシーンを想像したら勇気が出なかった。
家族がいるから生きている。
文字にしてみると美しい。
でも中身はサダオのようにドロドロして混沌としている。
家族がいるから生きている。
そう断言できる人間にサダオは問いたい。
それって欺瞞じゃないですか。
自分に嘘を吐いていませんか、と。
「ただいま〜」
一階からミヅキの弾んだ声とビニール袋の擦れる音がした。
《作者コメント:2022/03/11》
読了感謝です!
奇しくもウクライナ侵攻が始まった日に書き始めたのですよね……。
STOP‼︎ WAR‼︎
では、また。ノシ
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