卵
知世
卵
恋愛というものは、茹ですぎたスパゲティより柔らかくて脆く、少しの衝撃ですぐにぷつりと切れてしまう。2人分のスパゲティを菜箸でかき混ぜながらそんなことを考えていたので、タイマーが鳴ったことに少しの間気が付かなかった。ボウルに卵を割り入れる。卵を混ぜるときは、白身と黄身はどこまで自我を保っていられるだろうか?と申し訳ない気持ちになる。私のエゴでかき混ぜてごめんね。卵液をベーコンを炒めたフライパンに入れて、スパゲティを絡める。ふた皿のカルボナーラを持ってキッチンからワンルームの部屋に入ると、外の日差しと対照的に冷房が効いた室内は涼しく、少しだけエアコンの湿ったような匂いがした。ヘッドホンをつけてパソコンをいじっている恋人にご飯だよ、と声をかける。
「麺、ちょっと茹ですぎちゃったかも。ごめんね」
「いただきます……そう?おいしいけどな」
もぐもぐと一生懸命口を動かしているところはなんだか小動物のようである。私も一口食べて、その歯応えの心許なさに、やっぱり茹ですぎてる。とひとりごちた。ぼんやりとスパゲティと私の境界線について考える。今私の口の中で咀嚼されて、消化器官を通っていくスパゲティはいつまで「スパゲティ」でいつから「私」なのだろうか。スパゲティが私の血肉になっていく過程を想像する。昔テレビで見たすごく痩せているモデルが、「食事は体に異物を入れる作業だから好きじゃない。気持ち悪い。」と言って、皆に驚かれていたのを思い出す。私は彼女の気持ちが少しわかる。でも彼女とは違う部分もある。私は、私自身になったスパゲティを、もし不幸にしてしまったら、と考えてしまうのだ。食べ終わったこうくんがごちそうさま、と手を合わせて、
「みよちゃんのお皿も、持ってくね」
と私の空になった皿を持った。ありがとうと返すと、ニコッと笑う。眩しい。キッチンから戻ってきたこうくんがどーんと言いながらベッドに飛び込む。寝転がるといつもうるさいフレームがみし、と音を立てた。
「おいで!」
彼がピカピカの笑顔で私を呼んだ。私は、美味しいものは最後まで取っておくタイプである。自分を焦らすようにわざとゆっくりと近づいて、マットレスに横になった。手を広げて待ち構えていた彼が、私をぎゅーっと抱きしめる。
「かわいいー」
そう言って彼が私の髪を撫でる。彼の胸の中にいると、眠くなる。こうくんが口を開く。
「ご飯中何か考えてたでしょ。何考えてたの?」
「スパゲティの自我はいつまで保たれるか、について」
「なんだそりゃ。もうちょい詳しく教えてよ」
「料理中は、黄身と白身の自我の崩壊についても考えてた」
「ますますわからん」
「わからないほうがいいよ」
「え?」
「なんでもない」
「……ねえ、泊まっていくのどうしても嫌?」
「うん。嫌」
なんでよーと言って彼が脱力する。
「なんでもなの」
「せめて理由くらい教えてよ」
好きだからかな。と返すと、彼は困った顔で好きだから長く一緒に居たいんじゃないの、と呟いた。そんな彼が、食べるのが嫌いな人なんているんですね。と戸惑うコメンテーターと重なる。こうくんは、わからない側の人間だ。
「まあいいや、泊まる気になったら教えてよ」
そう言って彼がまた私を抱きしめる。大好きだよ。と紡いだ言葉が少しだけ湿り気を帯びていて、罪悪感を覚えながら、私も大好き。と返した。
夕食の時間になる前に、彼の家を出る。彼の家の最寄り駅から数えてふたつ目の駅に、乗った電車が停車している間、私は必ず目を瞑るようにしている。まるで少女漫画のヒロインであるかのようにその改札をくぐる昔の私の虚像で心を乱さないようにするためだ。いつも通り目を瞑っていると、イヤホンで音楽を聞く隣の人の、シャカシャカという音漏れに心臓が締め付けられるような気持ちになった。目を開けて彼女のスマホに流し目を送る。あの人に教えてもらってよく聞いていた曲のジャケットが液晶に映っている。タイムリーな出来事を予期していたように静かに立って、席を移動する。出会って、恋をして、裏切られて、別れた。一行で説明できるあの人との日々が、今でも重くのしかかってくること、恋愛ソングで100万回と聞いたありきたりな恋愛経験を笑えなくなることが、大人になるということならば、私は永遠に大人になんてなりたくなかった。ふかふかの椅子に座ってポップコーンを食べながら「これ、陳腐でつまらない」と呟く傍観者でありたかった。車窓から見える空は、日が落ちかけてオレンジと水色のくすんだグラデーションを見せる。あの人と私も、あんなふうに境目がぼやけてどろりと溶け合っていた。こうくんのことを思う。トラウマから、どんなに気持ちをセーブしても、彼の心に触れたい気持ちを抑えきれなかった。彼の笑顔を失うと思うと、今でもきりきりと胸が痛い。これ以上彼と溶け合うわけにはいかないのだ。
こうくんから、ちょっと話があるから、5限目終わったら家に行ってもいい?というメッセージを受け取ったのは、最後に会ってから1週間後くらいのことだった。いいよ。と返信して、彼を待つ。それから1時間くらいして、玄関の呼び鈴が鳴った。妙にそわそわとしている彼に冷たい麦茶を出すと、彼は私にありがとう、と言ってグラスの中身を飲み干した。
「それで、どうしたの?」
「うん。あのさ、俺のキャンパスと、みよちゃんのキャンパスって近からず遠からずって感じでしょ?」
話の展開が見えなくて、困惑する。彼が続ける。
「ずっと、中間地点に家があって、2人でそこから通えたらいいな、と思ってたんだよね。そしたら今より一緒にいられるし。最近その辺の物件見てたんだけど、昨日これ見つけたんだ」
彼が自分のスマホの画面を見せる。そこには小綺麗なアパートが映っていた。
「ここに住めば家賃も今の2人が払ってる金額より安くなるし、ふた部屋あってちょうどいいかな、と思って。もしみよちゃんが良ければ、いい機会だからお互いの家族にも挨拶してみない?……みよちゃん?」
彼が怪訝そうな表情を浮かべる。
「ごめん、びっくりしちゃって」
そうお茶を濁すと、彼はほっとしたように笑った。
「ごめん、そうだよね。急にこんなこと言われても、困っちゃうよね。ごめんね」
彼が少し表情を翳らせたので、慌てる。
「ううん、嬉しかったよ。でも、少し考えさせて欲しい」
そう言えば、いつもの彼なら引き下がるだろうと思った。でも、今日は少し様子が違った。そのまま、彼が続ける。
「ちょっと、みよちゃんのことわかんなくなってきちゃった」
「え?」
「俺が会いたいって言わなければ会えないし、うちに泊まってって言ってもなかなか泊まってくれないし、かといって次の日何か予定があるわけでもないでしょ?同棲しようって言ったら喜んでくれるかと思えば、すごく複雑そうな顔してるから、ちょっと自信無くした」
「そんなこと、」
「ある。よね」
彼が苦笑する。私はスパゲティのことを考える。いつも茹で加減を間違ってしまうことを、食べるのを躊躇って冷めてしまった一皿を。
「ごめん、ちょっと今日は帰るね」
「怖いの」
口が勝手に言葉を作った。彼の姿が極端に滲んで間延びする。彼の目が見開かれただろうことが、空気感でわかった。
「いっぱい一緒にいたら、溶き卵みたいに2人の境界線がなくなって、もしそれから離れることになっても、溶き卵は白身と黄身には戻れないんだよ。別のものが混じり合ったまま生きていかなきゃならないんだよ。自分の中に大好きなもう会えない人がいるなんて、そんなの、辛いよ」
袖で涙を拭う。彼の顔が優しくなる。
「……もうすでに俺の中には沢山みよちゃんがいるけどね。俺の腕の中で安心しきって眠る顔とか、手を繋いだ時の温度とか、名前を呼ぶとくすぐったそうにするところとか、挙げたらキリがないくらいたくさんいるよ。みよちゃんのここにも、ちゃんと俺がいるはずだよ」
こうくんが私に近づいて胸をとんとんと触る。彼との思い出が頭をよぎっていく。
「だから嫌なの。お別れが寂しくなるから、これ以上混ざり合いたくないの。……こうくんといると、こうくんのこと、もっと知りたくなる、私のこと、もっと知って欲しくなる。どんどんこうくんが欲しくなるの、それが、怖いの」
彼が私の隣に座る。
「みよちゃん、愛別離苦って知ってる?」
「……うん」
「世間一般では、愛する人と別れる苦しみってことになってるけど、俺は違う考え方もありなんじゃないかと思ってるんだ」
彼が私を抱きしめる。
「別れることが苦しいほどに愛する人と出会えた幸せ。俺はみよちゃんと一生を添い遂げるつもりだけど、それでも、最後は死が2人を離れ離れにする。それはすごく悲しい。でも、そんな風に悲しめるくらい大好きな人出会えて、俺は幸せだよ。一緒に沢山の時間を過ごして、悲しくて素敵なお別れにしよう」
悲しくて、素敵なお別れ。そう呟いた私に、彼が続ける。
「そう、悲しくて、素敵なお別れ」
頷いて彼にしがみつく。しばらく私の背中を撫でていた彼が、口を開く。
「お腹すいたね、俺、何か作ろうか」
「うん、ありがとう」
キッチンに向かう彼を見送る。しばらくして、戻ってきた彼が私の前にスパゲティを置いた。
「どうぞ、こちら、『素敵なお別れスパゲティ』です」
変な名前、カルボナーラじゃないの?と笑う。湯気のたつ「素敵なお別れスパゲティ」をフォークにくるくると巻き付けて、一口食べる。卵がまろやかで胡椒がピリッと効いている。
「何か考えてる?」
彼が質問する。
「このスパゲティが私の一部になるなら、めいっぱい幸福な景色を見せようと思って」
なんじゃそりゃ、と笑った彼に私の考えを知ってもらおうと、私は口を開いた。
卵 知世 @nanako1123
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