中学国語用教材

水面ひかる

説明的文章 (テーマ:歴史 1) 平清盛と源頼朝、それぞれの理想

 「祇園精舎の鐘の声」で始まる平家物語は、平氏の興亡を描いた有名な軍記物語である。源平の戦いと聞けば、血沸き肉躍るような武士たちの活躍を想起する人も多いだろう。だが、この争いを政治的観点から見ると源氏と平氏には明確な理念の相違があり、源平の戦いとはまさに国家の在り方を左右する歴史的に重要な出来事であったことがわかる。

 平清盛は平氏という武士団の棟梁であった。桓武天皇の血筋であるとはいえ、当時の武士は貴族の荘園を警護する立場であり、貴族よりも身分は低く、政治に関わる力など持っていなかった。しかし平治の乱で源義朝(頼朝の父)を退けた清盛は、後に大和田泊を改修して日宋貿易を行うことで巨額の富を手に入れ、その財力を背景に貴族としての地位を高めていき、ついには貴族の最高職である太政大臣にまで上り詰めた。

 清盛が目指した政治とは、武士の身でありながら貴族となり、あくまで朝廷の政治システムを維持しつつ、その中で実権を握るというものであった。藤原道長の手法にならい自分の娘を天皇の后にすることでさらに権力を増し、日本全国で有力な地位を占めた平家一族は「平家にあらずんば人にあらず」とまで言わしめるほどの栄華を極めた。

 一方で、清和天皇の系譜に連なる源頼朝が目指した政治は、武士による封建的な社会を作り上げることであった。朝廷による支配を脱し、幕府を設立して征夷大将軍を頂点とした政治システムを構築しようとしたのである。武士が武士のままで国の政治を担う立場になることが、頼朝にとっての理想であったのだ。

 源義経(頼朝の弟)が破竹の連勝で平家を滅亡に追い込み、源氏の勝利に大きく貢献したにもかかわらず、頼朝の命令によって奥州で殺されてしまったのは、その理想の妨げになると頼朝に思われてしまったからである。鎌倉では、頼朝の許可なしに朝廷から官職をもらうことを禁じていたのだが、義経は後白河法皇からの申し出を断り切れずに官位を授かってしまった。この時、まだ頼朝は御家人に官職を与えうる立場ではなかった。つまり朝廷の権力がまだ頼朝よりも高いということを世に知らしめてしまったのである。

 ところで、なぜあれほどに繁栄を極めた平氏が短期間で滅びてしまったのだろうか。確かに義経の用兵術が優れていたということもあるが、当時の日本各地の状況を詳しく見てみると、それだけではないことがわかってきた。

 天皇による政治が始まって以来、政治的権威は朝廷が保持していた。その過程で貴族や寺社が領地を拡大していき荘園が生まれた。所有者は中央にありながら、実際の土地の管理者は代理として地方に置かれたのである。これが歴史の教科書にも登場する国司や郡司である。彼らはやがて赴任地で勢力を強めていき、豪族となり、やがて武力を持つ武士へと変化していった。しかしそれでもなお、中央の貴族たちはあくまで土地の所有者は自分たちであり、地方武士は管理を任されているに過ぎないと主張した。武士たちが不満を募らせていったのは想像に難くない。

 さらにその体制は、元々武士であった平清盛が権力を握った後も継続された。そして平家のみが繁栄を手にしたことによって、ついに彼らの不満は爆発したのだ。源頼朝は自らがその不満の受け皿となることで地方武士たちを団結させた。頼朝が政権を取ったあかつきには、武士たちに自分自身の領地を持たせることを約束したのだ。それが後の守護や地頭という役職へと繋がっていくことになる。

 平家は繁栄に酔いしれるあまり、地方で起こった武士たちの内面の変化を見逃してしまったのかもしれない。一時の繁栄の後に瞬く間に衰亡してゆく様はまさに、平家物語の中で語られる諸行無常であり、また盛者必衰そのものの姿であった。

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