臆病者め

一齣 其日

臆病者め

「寿命が尽きる時まで、屈辱の中をのうのうと生きろとでもいうのかっ」

 罵声と共に飛んだ張り手が、私を張り倒した。

 思わず尻餅をついた私に構わず、彼は紅潮した顔で荒立つ息がかかるくらいにさらに迫る。

 有無なんて言わせるかと、間近な瞳が言葉もいらないほどに語っていた。

 覚悟というものを決めた男の瞳だった。

 同時に、後先も見えなくなった愚者の瞳のようにも思えてならなかった。


 時代は、維新を迎えて十年の月日が経とうとした正月過ぎの頃であった。

 その頃になると、九州も南端、鹿児島に下野していた西郷隆盛がついに兵を挙げると噂が仕切りに立っていた。

 明治を新たに担った新政府は、未だ新しい国づくりを手探りで進めていたが、当然時代の急な変化に不平不満を唱える輩も多くいた。

 特に不満があがったのは、かつては武士階級であった士族たちであった。

 彼らはそれまで貰っていた家計の元である家禄を廃止させられ、武士の魂とも言える帯刀の権利までも剥奪させられた。

『時代が変わったのだ』

 その一言で納得できたのならば、そんな不平不満を唱える者もそう多くは出るまい。

 しかし、己たちこそこの時代を作り上げた功労者である、そんな誇りがあったのだ。鳥羽伏見に始まり、北の大地が函館まで広がった戊辰の戦を戦い抜いた我ら武士こそ、我ら士族こそが維新の功労者なのだと、そんな自負があったのだ。

 それがどうして、食うための家禄を奪われ、あまつさえ誇りの証である帯刀の権利までを奪われるのか。

 これに限らず、議会のこと、外交のことなど他の政府の政策に対する批判等々もあった。

 いずれこれが大きな騒乱の火種になるのは、明らかにも程があった。

 そして火種は今、維新の大物であった西郷という、とてつもなく大きな爆弾に点火されようとしていたのだった。


「もう俺には禄もねぇんだ、生活するのもやっとなんだ。こんな風に生きるために、戦ってきたんじゃあねえんだよ! お前だってそうだろう! 分かれよ、分かってくれよ! 今ここで戦わなきゃ、俺たちは一生このままだぞ……!」

 胸を悲痛に穿つ絶叫だった。

 東京の、時代の流れに置いていかれそうになっているボロ長屋の一室で、彼は涙ながらに私の肩を爪が食い込むほど掴んでいた。

 顔に刻まれた一文字の古傷が心なしか、あるいは顔の紅潮のせいか、熱を帯びたような風さえした。

 彼は戦友だった。

 戊辰の戦を共に戦い抜いた戦友だった。

 新しい世に心を躍らせて、快刀乱麻を駆け巡った仲であった。

 それが今じゃ、落ちぶれ士族。私はなんとか本やら文やらを書いて生計を立てていたが、彼はどうにも手をつけた商売が上手くいかなかったらしい。

 屈辱だったろう、彼が言葉にするまでもなき。泥に浸かされたような屈辱は、私だって身が裂かれそうになる程に分かる。

 私だって屈辱なのだ。戦の最前線、まさに死線に立って文字通り死に物狂いで戦ってきたのに、なんでしょうもない本やら分やらなんかを書いてないと生活ができないのだ。

 そうだ、我らは輝かしい理想と大義とに燃えて戦ってきたはずなのに。

 だから、戦友が鹿児島の西郷の元で戦いたい、そう逸るのも分かっていた。

 分かってはいたのに。

「……行くな。お前は新政府の容赦の無さを分かっていない。奴らは、戦となればどのような相手でも、徹底的に叩きのめす奴らだよ。佐賀も、神風連も新政府にやられたのを覚えてないのか」

「忘れもせんわっ! だが、今度は西郷だぞ。あの大物の西郷さんが立つんだぞ! 俺たちはきっと奴らに目に物を見せられる! もう一度、今度こそ俺たちで俺たちのための時代を、作るんだよ!」

 俺たちのための時代

 なんて魅かれる言葉だろう。

 なんて夢を見させてくれる言葉なのだろう。

 喉がついごくりと鳴るほどに、甘美な響きを持つ言葉だ。

 だが、現実は彼の言葉ほど甘くはないのを、私は知っていた。

 私は知ってしまっていた。

 佐賀、神風連、数年前に起きた氏族の反乱を、私は取材と評して見てきたのだ。

 思いの外に無謀が過ぎた戦いを、この目に焼き付けられてしまったのだ。

 もしかしたら政府の隙をつけるかも知れない、そんな淡い期待は裏切られた。

 数にも武器の質にも勝る新政府の蹂躙に、いくら大物の西郷でも鹿児島の辺境で集めた兵なんぞが敵うわけではないと、理解してしまっていた。

 無駄死にだ。

 このまま戦友を行かせても、戦場の露にしかならないのは目に見えてしまっていた。

 しかし、やはり戦友の思いも分かってしまうし、私だってどうせなら賭けてみたかった。

 戦友の言う新しい時代に賭けてみたかった。

 けれど私には踏み出す足も無かったし、だから戦友を止める言葉も持ち合わせなんだ。

「どうした、なんとか言えよ! もしかして、怖気付いたのか。本で稼ぎを得れて、それ全部捨てちまうのが惜しくなったのか! 臆病者め、そんな臆病だったとは、見損なったぞ……!」

 拳が飛んだ。

 刻まれた熱に、頬が焼けるようだった。

 それ以上に、彼の涙に震えた言葉の方が、身を貫かれるように痛かった。

 図星だった、のかもしれない。

 実際の士族の戦いを見て、そして屈辱ながらなんとかできた生活も捨てたくなかったのかもしれない。

 臆病者だ、私は。

 臆病者だから、ついに死地へと赴かんとする戦友の背中を追うどころか、見送ることも出来なんだ。

 ボロ長屋に、一人置いてきぼりだ。

 ……ああ、そうだ、そろそろ締め切りが近かったな。

 文机の上の、白紙に目をやる。

 臆病者の私は、逃げるように筆を取った。

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