鈍く瞬く

管弦 網親

流れ星を見つけよう

 私はこれまでの人生で流れ星を見たことがありません。いつも仕事が終わって夜空を見上げると、ビル群の灯りが明るすぎて、東京の空に広がるのは途絶えることのない何処までも続く暗闇ばかり。雲さえ写さない空はまるで切り取られた世界を覆う蓋のように私を閉じ込めているみたいです。きっと、星は蓋の上を流れているんだろう、と私は思います。いつか流れ星が私の上を通った時の為に唱えようと思っていた願い事は、そのほとんどが年月を過ぎて時効になってしまったようでした。

 一度、大学生の時に空に流れる光を追いかけて願い事を唱えたことがあります。その時に一緒に居た友人の朋ちゃんにその光が飛行機のライトだと指摘されたときには、もう願い事を唱え始めたところだったところで、私のたった今した願い事を星が叶えてくれるわけではないと知った後も、そのまま唱えないわけにはいかず、結果的に心の中にしまっていた願いをその飛行機に託して海外のどこかに飛ばしてしまったことがあります。私の願い事が行方不明になってしまった瞬間でした。

 あの頃、私が願ったことはなんだっただろうか。今では思い出すこともできず、私は今日もどんよりとした気持ちのまま夜空を見上げるのでした。

 真夏の東京に流れるのは場違いなくらい騒がしい新商品の宣伝広告の音です。自己主張の強い目新しいトレンドの案内も慣れてしまえば気にもならないはずなのに、ビル群を照らすライトも、意味のないBGM代わりのコマーシャルも、街を埋め尽くすような人混みの波も、今はうるさすぎました。まるで、この東京にいるうちは一人にはなれないような感覚に眩暈を覚えながら私は歩きます。仕事帰りの私の横を自転車を押して歩く男性が通り過ぎていきます。彼からは珈琲の香りがしました。私がくたくたになって帰宅する時間でも、この街はまだまだ起きているのだと濃い珈琲の匂いが私に囁きます。

 肩まで伸びた外ハネの髪の毛を片手で抑えながら、私は駅の前の混雑を見て、踵を返しました。さっき出たばかりの会社を目指して、もう一度交差点の人混みの中に溶けるように入っていきます。人混みを超えて無断路上喫煙の名所である路地の横を通り過ぎ、10分くらい歩いて私は目的地に着きました。電車を使えば3駅くらいの距離です。私が所属している出版会社が入っているビルは東京の中では一つ頭が低い謙虚な佇まいで、可愛らしい玄関を抜けるとロビーがあります。エレベーターに乗ると、外回りから帰ってきたスーツ姿の上司が駆け込んできました。

「あれ?馬場さん、まだ残ってたの?」

 彼は額の汗をハンカチで拭ってから、私の話しかけてきました。

「はい」

 私は黒のハーフフレームが付いた大きめな丸眼鏡を整えて、短く答えます。

「大変だよねぇ。俺なんか営業で帰り際に捕まっちゃって、そのままお客さんにラーメン食わされてさ。この暑い日にラーメンだよ?」

 私と上司を乗せたエレベーターはゆっくり上がっていきます。

「へぇ。どこ行ってきたんですか?」

「二郎ラーメンの本店」

 彼は完璧な白い歯を見せて笑います。

「もしかして、並んだんですか?」

「うん、一時間くらい」

 二郎ラーメンは都内ではなかなか有名なラーメン屋で、ブーム時から時は経っているとはいえ未だに行列ができる老舗です。味より、雰囲気より、まずその量が多いというのが特徴で、食べている最中は苦しくて、食後のこん睡状態にも似た眠気にも耐えなくてはいけないという、おおよそ一般人が手を出していい代物ではないという噂です。食べきれる自信がない私は、もちろんまだ挑戦したことがありません。

「……美味しかったですか?」

「キツかったねぇ。小ラーメンでも食いきれなくてさ。残したら申し訳ないと思って頑張ったんだけど、最後のチャーシューだけは食べきれなくてドンブリの下に沈めてきたよ」

 ラーメンのチャーシューが食べられないというのはどういうことなんでしょうか。きっと、一般人が想像する薄い豚肉のスライスではなくて、角煮よりも大きな肉の塊が乗せられているのでしょう。

「隠したんですか?」

 エレベーターが鳴って、扉が開きます。

「いや、俺はあくまで気付かなかった体を貫き通すよ」


「ちょっといいですか?」

 廊下を二人で歩きながら、私は上司に再び声を掛けました。

「どうしたの?」

 ちょっと出ているお腹をさすりながら、彼は私のほうを向きます。私たちは歩みを止めることなく、自分の部署に近づいていきます。ですが、私が用事があるのはまったく整頓されていない仕事用のデスクではなく、今この隣にいる私の上司その人でした。

「私、しばらく休暇を取ろうと思うんです」

「え?どうして」

 彼は私に問いかけます。答えは簡単でした。簡単だけど、伝えるのは難しい。大人なのだったら、責任能力があるんだったら、きっと言ってはいけないことなのかもしれません。私はなんだか、疲れ果ててしまったのです。日々の暮らしに摩耗して、傷心してしまったのです。

「馬場さん、やっと仕事覚えてきたばっかりなのに」

 上司はそう言ってくれますが私は自分が参加しない会議でお茶を出したり、印刷を代行したりしているだけです。私の仕事はいつも末端の末端で、自分の自由にできることなんて少しもありません。ただ、機械的に作業をこなすいわゆるロボットのような役割です。それに、給料もいいわけではありません。

「母が病気で実家に帰ることになって……」

 これは嘘です。今の自分の気持ちを正直に話すよりも、私は偽りの事実を告げることを選びました。自分の尊厳を守るために咄嗟に出た虚偽でした。

「馬場さんの実家って都内だよね?」

 ですが、彼は一回聞いたことは、それが雑談だったとしてもしっかり覚えている人でした。だから社内でも人気がある上司で、営業成績も他の社員の2倍以上あります。

「本当の理由は、別にあるんじゃないの?」


 その夜は、満月が出ていて、やはりわずかな光を纏う流星を見つけることは出来ませんでした。


 それから一週間後、私は新幹線に乗っていました。行先は家族さえ知らないところです。そこは、私が大学に入ったばかりの頃に、朋ちゃんと見せ合った写真雑誌の特集で私たちが感銘を受けた写真が撮影された土地でした。私は鞄に入った雑誌を眺めて当時のことを振り返ります。

 そこに写っていたのは私が住んでいる煌びやかな街の風景とは違い、昔ながらのいわゆる田舎町でした。ある写真には真夏に川で冷やされたビール瓶が写っていて、又、ある写真には街灯もない村にひとつだけ光るちょうちんが写っていました。それと私の興味を引いた写真がもうひとつ、背景は灯篭のような光がボケていて、そこに写っていた被写体は幸せそうに跳ねている少女でした。なんだか心がポカポカと温かくなるような素晴らしい風景に私と朋ちゃんはため息をつき、遠い景色に心を奪われたことを思い出します。

 当時の私たちは、いつか一緒に旅行してみたいね、と言ったきり、この都会から離れた村のことをすっかり忘れてしまいました。大学が終わるころ、卒業旅行で行ったメキシコで温かいビーチに浸りながら、ふと川に冷やされているビールの写真の事を思い出したのですが、朋ちゃんも私も旅行が終わるころには貯金に残る残高が一桁減ってしまうくらい散財してしまったので、この村に行く予定は先延ばしにしていたのです。私はこの村を訪ねることを今回の傷心旅行の目的にすることに決めました。


 目的地は都内から新幹線と電車と市営バスを使って、3時間弱の所に位置しています。私は暇な乗車時間を使って周辺の地図を眺めていました。滞在する予定の旅館の近くには電車が通っていないみたいで、バスで通るルートには商店街も存在しないみたいです。私は困ってしまいました。おそらく現地に着くころには旅館の厨房も閉まっているはずなので、私は朝方になるまでなにも口にすることができません。田舎の不便さを楽観視していた私は、新幹線で夜食を買うのを忘れていたのでした。

「そうだ。携帯でコンビニを探そう!」

 私はおもむろに携帯を開きます。音声入力で「コンビニ 近く」と検索すればどんなところでもすぐに見つかるご時世です。しかし、私の冴えた思い付きは信じられないところで打ち切られました。

「うそ。電波が、きてない……!?」

 そうです。都内ではいつも5本線を示していた携帯のアンテナが1本も立っていなかったのです。これは緊急事態でした。このままでは私は休暇中何処に行くこともできません。旅行会社で買った地図だけでは現在位置を見つけるだけでも日が暮れてしまいます。

「困ったなぁ……」

 私は途方に暮れてしまいました。お腹の虫もいつも以上にその存在感を露わにしています。

 とにかく電車を降りてバスに乗ることにしました。バスはそのまま旅館に駅があるみたいなのでこのまま乗っていけば目的地には着くはずです。旅館についてしまえば、さすがにネット環境もあるはずなので周辺の観光地も検索できるはず。私は空腹でくっつきそうなお腹と背中をさすりながらバスに乗ります。


 バスに乗っているのは私を含めて3、4人の乗客でした。私はキャリーケースを自分の席の近くに置いて、少し考え事をしていました。中途半端な時期に休職してしまって、会社は大丈夫でしょうか。そんなことを考えた後に、そもそも私は会社に絶対必要な人材ではなかったな、とひとりで落ち込みます。知らない地で車窓の景色も見ないままに仕事のことを考えている私は、おおよそ旅行に向いている性格ではないと自覚しています。いつも旅行に行くときは気の知れた友達こと朋ちゃんが一緒に居たのでそんなこと考えることは無かったのですが、ひとりで旅に出るとどうしても、いままでせかせかと働いていた日常に引っ張られてしまいます。

 私が物思いにふけっている間に3度目の停車駅を過ぎました。私の目指す旅館はこのふたつ先です。私は窓の外に意識を向けます。しかし、そこは街灯もない暗がりで、視界に映るのは雑草が生い茂っている林ばかり。地面も整備されていないのか、車内はごとんごとんとその体を揺らします。

「おなか、すいたなぁ」

 私はまだ旅が始まっていないところで、すでに弱音を吐き始めていました。ふと窓の外を見ます。

 すると、そこに居酒屋と書いた看板がありました。私は胸を躍らします。看板案内はバスの進行方向と同じ。このまま進めば居酒屋に着きます。私のお腹の虫がせわしく動き始めます。降りるべき駅はまだひとつ先ですが、次の駅で降りてしまおうかな……。1駅分徒歩で向かうことになりますが、空腹には勝てません。私は1駅分歩くことを決意して降車ボタンを探しました。しかし、どこにもそれらしいボタンはありません。あるのはバスの最後尾から運転席まで伸びる左右の紐のようなものだけ。

 誰か先に降りてくれたら、降り方を真似できたのに。私は恨めしい気持ちで車内を見渡します。誰も私の視線には気が付きません。私は眼鏡をくいっと持ち上げ、ため息をつきます。仕方ない、思うようにいかないのはいつもの事じゃないか、とひとりで決心します。これしかそれらしき物がないので恐る恐る私の横に伸びる紐を引くことにしました。

 

 からん、からん。


 運転席から鈴の音が聞こえてきました。

「次、止まりまーす」

 欠伸交じりに車掌さんがそう仰るのを確認すると、私はほっとして胸を撫でおろしました。よかった、あれで合ってたんだ。バスは少しだけ速度を落として整備の行き届いていない道路を進んでいきます。私は窓を開けました。知らない土地で、知らない場所で、それでもなにか馴染みのあるものに出会いたかったのかもしれません。しかし、窓から吹き込んできたむわっとした熱風も、バスの中にすぐに充満する腐葉土が蒸れた様な匂いも、私がいままでに経験したことがないものばかりでした。

「やっぱり、来なかったほうがよかったのかな」

 私の独り言に応える人はもちろん何処にもいません。

「バス、停車しまーす」

 後部ドアが開きます。私は乗車金を払うとキャリーケースを引いてバスを降りました。


 居酒屋の看板はすぐに見つかりました。ここから歩いて500メートル先、右折だそうです。私は真っ直ぐ歩いていきました。申し訳程度に道を照らしている街灯から出来るだけ離れない様に、右手にはキャリーケースを持ち、左手には電波がつながっていない携帯電話を耳に押し当てながら歩きます。私は今、友達と電話してるんだぞ、襲ってきたらすぐに助けを呼べるんだぞ、とアピールしながら夜道を進んでいきます。これはメキシコに行ったときに朋ちゃんから教わったテクニックです。知らない街を歩くときは用心しないといけない、と朋ちゃんが言うので、私たちはメキシコの街を携帯を握りしめながら闊歩したのでした。

 居酒屋は駅から近くにありました。ライトアップされた大きめの看板が「居酒屋 呑み比べ」とその存在感を十分に発揮しています。なんだか、東京の下町にありそうな風情のある建物を大きさだけ2倍にしたような佇まいです。入り口には赤ちょうちんが下げられていました。ちょうちんには「祈願新年」と書かれています。何故だか既視感があった私は少し頭をひねって考えました。

「これ、なんだか見覚えあるな?」

 答えはすぐには出てきません。ちょうちんなんて何処にでもあるし、それほど珍しいものでもないので、ただ親近感を感じただけでしょうか。私は少しだけ居酒屋の入り口で立ち止まっていました。


 がらっ


 私がもたもたしていると、居酒屋の中から長めのテクノカットの女性が出てきました。

「いらっしゃい。お姉さん、ひとり?」

 黒いTシャツ姿のその人はのれんを潜ると私のほうへ歩いてきます。背筋を伸ばして歩く姿はスラっとしていてまるでモデルのようです。

「あ、はい。まだ開いてますか?」

 彼女は私を横切ってちょっと奥で立ち止まりました。

「開いてますよー。今は満席なんだけど、もうちょっとしたら皆帰ると思うからちょっとだけ待ってね」

 ジッ、と高い音がして女性の顔に明かりが灯ります。あ、煙草か。少し煙草の匂いが漂って、私はようやく気付きました。むせる程じゃないけれど、私は煙草が苦手です。気づかれない様にほんのちょっとだけ距離を取ります。

「お姉さん、何処から来たの?」

 煙草を吸いながら、居酒屋の店員さん風の女性は私に話しかけてきました。なんで私がこの土地の人じゃないってわかるんだろう、と私がおろおろしていると、彼女は笑いながらキャリーバックを指さしました。

「それ持ってたら誰だって旅行だ、ってわかるでしょ」

 私は恥ずかしくなって、視線を店員さんから逸らします。

「東京から来ました」

 吐き出された紫煙はもくもくと夜空に上がっていきます。つられて視線を上げた私は空のあまりの鮮やかさに見惚れていました。そこにあるのはひとつやふたつの星ではありません。輝かしいものから僅かに光るものまで無数の光が夜空を照らしていました。

「へぇ!東京!?すごいね!上京した人?」

 彼女は大袈裟に驚いて、身体を揺らしながら質問してきます。

「いえ、私は東京生まれなんですよ」

 瞳がキラキラと輝いて見えるのは夜空の星が反射しているからでしょうか?

「もっとすごいじゃん!」


「あたし、東京の人に会ったら聞いてみたいことあったんだよね!」

 店員さんは煙草の吸殻を携帯灰皿にしまうと私の立っている場所に近づいてきました。

「公園に入るのにお金取られるってほんと!?」

 笑いながら無邪気に私に問いかけてきます。

「そういう場所もありますけど、無料の所もありますよ。皇居とかは無料ですね」

 私は自分の事でもないのに照れながら説明します。

「皇居が逆に無料なんだ!?」

「荷物検査はしないといけないんですけど」

 一応、と私は付け加えます。

「そりゃそうだ!」

 笑いながら彼女は納得納得、と首を縦に振りました。

「じゃぁさ、煙草はいくらで買えるの?勝手なイメージだけど、都会って物価が高い気がするんだよね」

 私は頭を巡らします。私は考え事をするとき、視点がうろうろする癖があるらしく、それを朋ちゃんに指摘されてから、考えるときは目を瞑るようになりました。しかし、瞼の裏でどんなに思考しても答えは出てきません。私は煙草を買うことがないので、はっきりとした指標がないのです。

「うーん……。ワンコインで買えるんじゃないかな?」

 450円とか、高くても500円くらいなんじゃないだろうか?詳しくは知らないけど、たぶん知る必要もないことなので私は深く考えないことにしました。

「ふーん。そんなもんなんだ」

 店員さんは胸の前で腕を組みます。

「こっちはもっと安いんですか?」

「300ペソだよ」

 通貨が違う!?私は驚いて仰け反ってしまいそうになります。


 咄嗟に、危ない、と店員さんが私の腕を引き寄せてくれました。後ろを振り返ると、そこにいたのは店から出てくるお客さんの団体です。

「おー!柚子ちゃん、今日はもう帰るよ!」

 酔っぱらった先客たちが柚子ちゃんと呼ばれた店員さんに手を振って店を出ていきます。

「おー!ありがとね!また観に来てね」

 ひらひらと柚子ちゃんもお客さんが見えなくなるまで手を振り返します。

「ほら、空いたでしょ?さ、はいったはいった」

 にっと笑って柚子ちゃんは私の背中を押します。私はわわわ、と押されるままに赤ちょうちんを過ぎて、


 あ、これって。


 そして、気付きました。このちょうちんが見覚えがあった理由。このちょうちんを私は見たことがあるのです。実物は初めて見ましたが、それは何度も何度も見返したあの写真雑誌に載っていた写真のちょうちんと同じでした。

 私は嬉しくなりました。旅の実感が今になってやってきたのです。私はいる。昔憧れたあの風景がある町にやってきたんだ。そう思うと、嬉しくてつい頬が緩んでしまうのでした。


 お店に入ると、そこは大宴会があった後のような散らかり様でした。飲み干されたビールジョッキが店中のテーブルに大量に並べられています。店内の空調設備は冷蔵庫並みにキンキンに冷やされ、少し肌寒いくらいでした。そして、私が気になったのは店内のさらに奥に置いてあるギターやドラムなどのバンド機材でした。

「柚子、お前休憩長いよ!お客さんたちの会計全部俺がしたんだぞ!」

 入店そうそう柚子ちゃんは怒られていました。頭をぽりぽりと掻きながら柚子ちゃんは言い訳をします。

「ちょっと、店長?一日に4曲も歌ったら普通もう帰っていいレベルだよ?残って働いてあげてる分の給料増やしてほしいくらいだわ」

 今、店内にいるのは私とタオルを頭に巻いた店長と柚子ちゃんと数人のお客さんだけです。先ほどまでこの広い店内が満席だった理由はどうやら今の会話に隠されているようでした。

「ここでライブしてるんですか?」

 私は後ろを振り返って柚子ちゃんを見ます。

「他にライブできるところなくてさー」

 ごまかす様に柚子ちゃんは笑いました。

「仕方なく。たはは」

 おい!とカウンターの奥で店長が柚子ちゃんにつっこみます。


「もういいから、ちゃっちゃとキッチン入れ。洗い物溜まってるから」

 店長が洗い場を指して柚子ちゃんに指示します。

「えー。あたしホールがしたい」

 柚子ちゃんは目を細めて抗議します。というか、外でもちょっと気付いていたけれど、店の照明の下で見る柚子ちゃんはかなり胸が大きいです。身長は私とそんなに変わらないのに、何だこの差は。洗い物をすると胸が邪魔だからしたくないんじゃないのかな、と私は邪推してしまいます。

「ホールなんてもうほどんど仕事ないだろ」

 ため息交じりに店長は柚子ちゃんの不平不満を跳ね除けます。

「接客があんじゃん」

 食い下がる柚子ちゃん。

「そんなの俺の甥っ子でもできるわ」

 聞き耳を持たない店長。

「いいよもう!その代わり、皿洗い終わったら帰るからな」

 結局折れる柚子ちゃん。


 店長はカウンターを簡単に片づけて、ここでいいですか?と笑顔で私の席を用意してくれました。

「一応で聞くんだけど、お客さん未成年じゃないよね?」

 私は突然の年齢確認に少しだけ面食らいました。そういえば化粧が薄い私は都内でもよく歳をきかれることがありました。

「え、若く見えますか?免許書出したほうがいいですか?」

 私は照れながらずれた眼鏡の位置を直します。

「あー、大丈夫。そういう受け答えする人は大抵歳いってるから」

 正直に言います。私はこの店長の言動に少しピキッときてしまいました。

「まだ24歳です」

「24!?同い年じゃん!」

 後ろのテーブルでお皿を下げていた柚子ちゃんが会話に加わってきました。

「こいつも24だよー!」

 大量の皿を両手に抱えながら柚子ちゃんは顎で店長を指してキッチンに消えていきます。私は、何だ、店長だっていうから気を使っていたけどこの人も同い年なんだ、年の割にずいぶん大人びて見えるな、という思考を頭の隅に抑えつつ、笑顔で手短に料理を頼むことにしました。

「もろきゅうと刺身盛り合わせと白ご飯、お願いします」

「まいど!飲み物はどうする?」

 私はちょっと飲みたい気分を我慢しつつ、お水をお願いしました。


「飲まないの?」

 キッチンから柚子ちゃんの声がします。

「まだ今日泊まるはずの旅館に着いてなくて、ちょっと歩かないといけないので……」

 私は柚子ちゃんに聞こえるように普段よりも大きな声で話します。

「旅館?この近くに旅館なんてあったっけ?」

 店長は首をかしげました。

「はい。ここからバス1駅分先にあるみたいなので、徒歩10分くらいかな、って思ってるんですけど」

「……バス1駅が徒歩10分?」

 店長が真顔になりました。

「それ、ちゃんと調べた?」

 急な店長の質問に私はたじろいでしまいます。

「いや、この地域に入ってから携帯に電波が入ってこなくなって、ちゃんとは調べられてないんですけど」

 なんだか怒られて言い訳をしている気分です。

「まだ電波塔が建ってないからね!あと1年まってね」

 蛇口から流れる水の音に交じって話す柚子ちゃんの大きな声が聞こえます。

「なんていう旅館かわかる?」

 もろきゅうを切りながら訪ねてくる店長。

「犬咬亭っていう旅館なんですけど……」


「それ、歩きだとここから1時間以上かかるよ」

 両手をタオルで拭きながらキッチンから出てきた柚子ちゃんに、私は聞き返します。

「1駅ですよ?」

 うん、と柚子ちゃんは頷きました。

「その旅館、山を越えたところにあるから、キャリーケースを運びながらだと1時間はかかる」

 困ったね、と柚子ちゃん。店長と顔を見合わせます。

「そうだなぁ。仕事終わりに俺が送ってあげたいところなんだけど、俺今日飲んじゃってるから運転は出来ないんだよ」

 私はちょっとした絶望に苛まれていました。この暗い夜道を今から1時間も歩いていかなくてはいけないとは、思ってもみませんでした。季節が夏だから、冬よりはマシなのかもしれません。山をてくてくと登る私を想像します。1時間歩くのは正直大変だけれど、夜の森林浴だと思えば案外楽しいのかもしれません。

「この山、鹿とか猪とかでるからね」

 私、イズ、デッド……!店長の一言で私の穏やかな空想は血塗られた悲劇的な惨状に塗り替えられていきます。どうすればいいのでしょうか。私は軽率にバスを降りた先刻の自分を恨みます。しかし、いくら後悔したところで道は開けません。

 覚悟を決めるときです。キャリーケースには旅行中に機会があれば読もうと思って持ってきていた写真雑誌があります。これを読みながら始発のバスを待つしか手はありません。本当に冬じゃなくてよかった。私は涙目になりながら自分を鼓舞します。冬じゃなくてよかった。冬だったらきっと死んでました。

「今日はあたしん家泊まりなよ」

 柚子ちゃんが私の隣に座ります。

「え?」

 にっこりと笑って柚子ちゃんは冷えた日本酒とおちょこを私の前に置きました。

「別にいいよ。家、部屋余ってるから」

 急なお誘いでしたが、ありがたい申し出でした。知らない土地で知らない人に親切にされるのがどれだけ素晴らしいことか、私の内心は感動で震えます。

「あ、ありがとうございます!」

 柚子ちゃんはおちょこにお酒を注いでいきます。 

「あたしは柚子。色見柚子。お姉さんは?」

 自己紹介がまだだったことを思い出して私は襟を正しました。一晩泊めてもらう恩があるのでしっかりしなくてはいけません。

「私は馬場です。馬場美波っていいます」


「へぇ、かっこいい名前だね」

 店長がカウンターの奥から話に入ってきました。

「なんだか大層な響きで私はあんまり好きじゃないんですけど」

 私は何故、目の前にお酒が並んでいるのか考えながら応えます。おちょこはみっつ置かれていました。

「じゃぁ、苗字と名前をくっつけてバンミーでどうだ?」

 私の分と柚子ちゃんの分と、店長の分なのかしら?と考えていたらいつの間にか店長にあだ名を付けられていました。

「バンミーですか?」

 なんだかおいしそうな名前です。東南アジアのサンドイッチのような、香辛料を含んだ南国の風が私の前に吹いたような感覚でした。

「よし!そうと決まればとりあえず、一杯飲もう、バンミー!」

 柚子ちゃんがぐいっとお酒を私に寄せてきます。

「あ、はい」

 これは断れません。柚子ちゃんは商売上手でした。

「ここの地酒はおいしいんだよ?」

 ほい、ほい、と店長と柚子ちゃんも自分のおちょこを持ち上げました。

「ようこそ、穴辻村へ!」

 私はどうにでもなれ、といった感じで乾杯の音頭と共に渡されたお酒をくいっと飲み干しました。少し甘めでフルーティなその日本酒は白ご飯が合いそうな幸せな味がしました。そう、私は穴辻村にやってきたのです。そう実感しながら、注ぎ足されるお酒を眺め続けていました。


***


 目を開けると、そこに広がるのは夕暮れのビーチです。浅い海水がどこまでも続いていて、私は海岸からかなり遠くの沖まで歩いていきます。

「ちょー!お前、ふざけんなやー!」

 私の横で朋ちゃんが不機嫌そうに文句を言います。膝元で跳ねている水が朋ちゃんが羽織っている灰色のパーカーを濡らして、色を濃くしていきます。白くて長い朋ちゃんの脚が海水を蹴って、飛沫が勢いよく彼方まで飛んでいく様を私は霞んだ視界で認知していました。

「メキシコまで来て眼鏡落とすってなんやねん!」

 私は水際で遊ぶ子供のように、ばしゃばしゃと音を立てながら海面を掻き分けます。

「もー。朋ちゃんの大阪弁はうるさいなー」

 私は視力が良くないので海の底に沈んでいるであろう眼鏡を探すことができずにいました。

「は?大阪弁ちゃうし」

 少し休憩して、私は背中を伸ばします。

「めちゃくちゃ大阪弁じゃん。朋ちゃんは全然東京に染まらなかったよね」

 あった!と朋ちゃんが海底に手を伸ばします。黒縁の眼鏡が夕日に照らされながら姿を現しました。

「関西弁やから」

 ほら、と朋ちゃんは私に眼鏡を手渡してくれました。ありがとう、といって私は朋ちゃんに抱き着きます。

「関西弁と大阪弁じゃ全然ちゃうやん。主に規模がちゃうねん」

 私は海水に濡れた眼鏡を拭いて、自分の耳に掛け直します。すっきりとした視界の先にはちょっとむすっとした朋ちゃんが居ます。あ、いつもの朋ちゃんだ。私はなんだか嬉しくなります。


「はー。美波、うちが困ってんの好きやろ」

 私の笑顔を見た朋ちゃんがため息をつきました。

「うん。好き」

 朋ちゃんはいつも私の心配をしていて、まるでお母さんみたいです。

「ほんま性格歪んでるわー。なんでこんな奴が友達なんや」

 朋ちゃんは私を置いて岸のほうへ帰っていきます。私は慌てて朋ちゃんを追いかけました。

「いいじゃん。朋ちゃんも私に困らされるの好きでしょ?」

 朋ちゃんは私のほうを向いてくれません。

「好きちゃう」

 ばしゃばしゃと大股で歩いていきます。

「その割に私たちずっと一緒に居るじゃん」

 私がそういうと朋ちゃんは足を止めて頭を捻らせました。

「ほんまや。なんでやろ?」

 私はまた嬉しくなって足元の海水で渦を作ります。

「暗くなってきたね」

 温かくて気持ちのいい風に朋ちゃんの綺麗な髪がなびきました。


 それは暖かい風が私の背中を押して、足がよろけない様に地面の砂を踏みしめたときでした。

「美波には言ってなかったけど、うち、ほんまは海底に住む人魚やねん」

 朋ちゃんは急にすごい勢いで話し始めました。

「しかも、姫やねん。地上に憧れて、何度も言いつけを破って海上に出てきてたんやけどな」

 私の足元でさっき作った海水の渦が突然大きくなります。私は驚いて渦を避けようとしました。しかし、先ほど踏みしめた私の両足は砂に埋まってしまって動かすことができません。

「昔、ある魔女に脚を生やしてもらったんや。地上にいるはずの運命の相手に出会うために。ほんまはすぐにでも運命の人に会いに行かへんとあかんかったのに、友達と一緒にいるのが楽しかったから、楽しすぎたから、魔女との約束も忘れてしまってたん」

 浅瀬は岸のほうから徐々に濃い色の緑になっていきます。

「でもな、もう海に帰らなあかん時間みたい」


「朋ちゃん?急にそんなに一杯話されても覚えられないよ!」

 私が地面から視線をあげると朋ちゃんのパーカーの下に伸びた脚が魚のヒレに変わっていました。

「ほな、行くわ」

 私の背丈くらいある波が二人を覆いました。私は水しぶきに押されてよろけてしまったというのに、朋ちゃんはまるで当然かのように笑って、私から離れていこうとします。咄嗟に手を伸ばしました。手のひらに朋ちゃんの柔らかい感触を感じます。

 朋ちゃんがなにか言っています。でも、沖から迫りくる荒波たちがごうごうとうるさくて私には朋ちゃんが何を言っているのか聞こえません。

 私は波と朋ちゃんを交互に見ます。次の波は私の身長より高くて、私はきっと踏ん張れません。朋ちゃんが居る目の前の世界が飲み込まれるように、海は迫ってきます。するり、と朋ちゃんの手が私の手のひらから抜けました。掴みたいのに、繋いだ手を離したくないのに、手から力が抜けていきます。

 私は朋ちゃんを見ます。朋ちゃんは笑っています。


***


「まって!朋ちゃん!」

 布団が急に捲れあがる感覚と共に私は夢から目が覚めました。

「朋ちゃんじゃないよ。柚子ちゃんだよ」

 私は状況が把握できずに辺りを見渡します。枕元に置いてあった眼鏡を掛けると、視界に映るのは和風な畳と大きく開けられたふすまの向こうに見える盆栽たちでした。

「バンミー、寝すぎ。くつろいでくれるのは嬉しいけど、もう昼過ぎだよ」

 明るい和室のど真ん中にいるのは私の布団を放り投げて腕組みをしながら仁王立ちしている柚子ちゃんでした。

 あれ?私はなんでここにいるんだっけ?急いで昨夜の記憶を辿ります。

「私、昨日何杯お酒呑みました!?」

 昨日、穴辻村に着いた私は赤ちょうちんの光る居酒屋に寄って、予約していた旅館に向かうバスを乗り過ごしてしまったのでした。徐々に記憶が蘇ってきます。

「二杯」

 柚子ちゃんは呆れ顔で私の顔を覗き込みます。

「バンミーはお酒弱いんだね。今度から無理に飲ませない様にするよ」

 チューハイならたぶん大丈夫だったですけど、と私は言い訳します。しかし、日本酒をそもそも飲みなれていない私は自分の限界を見誤ったのです。日本酒二杯は致死量。覚えておかなくてはいけません。

「ぐっすり眠れた?」

「え?あ、はい」

 私は眼鏡を鼻の上の定位置に直して、頭をこくりと縦に振ります。

 

 ご飯できてるよ、と先導する柚子ちゃんに連れられて私は廊下を進んでいきます。柚子ちゃんの家は和室で形作られていてテレビさえ置いてある気配がありません。和室と言っても古びた印象はなく、埃ひとつなく綺麗に整頓されている様子でした。リビングに辿り着く直前に私の視界に扉が少しだけ開いている部屋が入ってきました。部屋の中は和室だというのに大きいカーテンがしてあるのかとても暗く、なぜだかさみしい印象がありました。ちらっとだけギターが立てかけられているのが見えます。

「部屋余ってるって言ったでしょ?ここは物置として使ってるんだよ」

 柚子ちゃんが興味なさそうに扉を閉めます。

「さ!こっちこっち!」

 柚子ちゃんが小走りで向かったリビングには先客が居ました。髪の毛が綺麗な白髪のお爺さんです。お爺さんは私を一瞥して、テーブルに置いてある醤油差しに手を伸ばしました。

「こんにちは。お邪魔してます」

 私は頭を下げます。お爺さんは目の前に置いてある卵焼きに醤油をちろっとかけると、浅く頷きました。

「うむ」

 テーブルには大根おろしが乗った卵焼きと焼き魚と味噌汁が3人分並んでいます。

「柚子がついにガールフレンドを連れてきおったか」

 お爺さんは小さい声でいただきます、というと味噌汁を少し飲みました。

「ごめんねー!うちの爺ちゃんボケてるけど、気にしないで!」

 柚子ちゃんは半ば強引に私を席に座らせます。私は、あはは、と自分でもよくわからないごまかし笑いをしました。

「昔は結構モテてたみたいなんだけど、今ではただのボケ老人だよ。歳を取るって大変だよね」

 言われてみれば、柚子ちゃんを見た時も思ったけど、二人とも容姿が整っています。すっと伸びた眉も、黒目がちな瞳も、たしかにモテそうな要素が詰まっています。

 これ、二日酔いにはあさりの味噌汁、と柚子ちゃんが私に味噌汁を手渡してくれました。

「健康そうないい子じゃないか。尻もでかい。安産型じゃ」

 私はぎょっとして背筋を伸ばしました。し、尻がデカい!?

「うるせぇ、セクハラじじい」

 ボケてるだけだから、と柚子ちゃんは何事でもない様にご飯をよそっていきます。私は静かに思いました。このお爺さんの生きてきた時代にはいつもこんな下世話な冗談が飛び交っていたのでしょうか。


「バンミーはなんでこの村に来たの?」

 私の正面に座った柚子ちゃんは私に質問してきました。

 都会暮らしに心が疲れたから。友達と一緒に旅行する約束をしていたのを思い出したから。思い浮かぶ傷心旅行の理由はどれもなんだか前後関係を説明しずらくて、私は適当な理由をでっちあげます。

「えっと、ここなら流れ星を見れるかなって」

 柚子ちゃんはなるほどー、と箸を眼前で回します。

「別に流星群の時期でもないんですけど……」

 私は申し訳程度におずおずと焼き魚を突きます。切り身は箸の重さでほぐれておいしそうな湯気が立ち込めました。

「流れ星なら、見ようと思えば見れるよ」


「知ってる?流星って実はそんなに珍しくないんだ。結構頻繁に星は流れてる」

 東京の人は空を見ないからあんまり気付かないのかもしれないね、柚子ちゃんは笑います。

「まぁ、花火じゃないから何処でも見える訳じゃないよ?スポットがあるの。街灯が届かなくて夜空の光が一番明るい場所があってね」

 私は目をきらきらさせながら柚子ちゃんの話を聞いていました。

「官軍塚か?」

 お爺さんの言葉に柚子ちゃんは頷きます。

「そうそう!そこだったらかなり綺麗に星が見れるよ!もし予定が決まってないんだったら一回行ってみてもいいかも」

 流れ星が見える官軍塚。これはわざわざ東京を出てきた甲斐がありそうです。

「有名なところなんですか?」

 気が付けばお爺さんも柚子ちゃんもご飯を食べ終わっています。私だけが話に夢中で箸が止まっていました。私はせかせかとご飯を口に運び始めます。

「うん。この村唯一のデートスポットだよ」

 デートスポットか……。一人で行くのはちょっと覚悟がいるけど、私は官軍塚に行くことに決めました。

「ご飯食べたらバス停まで送るよ」

 自分の茶碗を片付けて柚子ちゃんはお茶を人数分テーブルに持ってきます。なんだか、てきぱきと動く柚子ちゃんに、出会ったばかりだけど、私は尊敬の念を抱きました。明るくて、仕事ができて、面倒見もいい。とても同い年には思えません。


 お爺さんを家に残して、私と柚子ちゃんは家を出ました。家のすぐ手前には川が流れています。もう空のずいぶん高いところから降り注ぐ熱い日差しに、私は水温が低そうな川に飛び込みたい衝動にかられました。きっと気持ちいいはずです。コンクリートで塗装されていない川はなぜだか都会で見るそれよりも清潔に見えます。さらさらと流れていく水を眺めながら、すこしだけ私は笑顔になりました。この感情はどこから来るのだろう。日々の忙しさに圧殺されていたはずの私の感情がほんの些細なことでまた軽やかに踊り始めた事に気が付いた私は、川から視線を外しました。心が息を吹き返すその初動が、なぜか少し切なかったのです。

「この川を辿っていけばバス停に着くよ」

 柚子ちゃんは夏の暑さに歪んだ陽炎のその奥を指差して、私の横を歩いていきます。

「近くにそこそこ大きな広場があるんだよ」

 にこにこしながら柚子ちゃんは村を紹介してくれます。

「なんもない村だから昔は子ども達が遊ぶところって言ったらその広場くらいだったんだけどね」

 柚子ちゃんは昔を思い出すような素振りで軽快にステップしていきます。3回跳ねて着地します。

「いつだったか、裸足で走り回ってた男の子が足を怪我したかなんかで、もう子どもも来なくなっちゃった」

 川沿いの広場が見えてきました。それは思ったよりも大きくはなくて、それでも子どもが遊ぶにはちょうどいい広さの公園でした。遊具はなく、更地が広がっています。

「砕かれたガラスが広場中に落ちてたんだって」

「……悪質ですね」

「田舎だからねー。馬鹿なやつがいるんだよ。誰もガラスを掃除しないから、広場もそのまま」

「……危ないですね」

「まぁねー」

 着いたよ、と柚子ちゃんが私を振り返りました。気が付けばバス停です。


「今日の夜はなにしてるの?」

 バスを待ってる間、私たちは青いベンチに腰掛けて話をしていました。

「うーん。旅館でくつろいでますかね?」

 ベンチの軸足部分にテントウ虫が停まります。田舎の虫は大きい!なんてことはなく、小粒の虫はベンチをうろうろとしています。

「官軍塚には行かないんだ?」

「実は今回の旅行はちゃんと計画を立てたわけじゃないので、今日はゆっくりしながら考えます。場所も調べないといけないですから」

 パタパタと足を揺らしながら、私はちょっとした言い訳をしました。

「そっか」

 昨日、村に到着したときには気にもならなかった虫の声がバス停を満たしていきます。それはこの真夏でも鼓膜を伝った首筋から涼しくなるような透明感のある清々しい音色でした。

「じゃあ、夜また居酒屋に来なよ」

 まっすぐ視線を向けたまま、柚子ちゃんは言います。

「ライブ見においで」

 そして、こっちを向いて笑いました。柚子ちゃんの大きな目が細くなって、白い歯がにっと顔を覗かせます。


 ひとりでバスに乗って1時間、旅館に着いた私はびくびくと遅刻の言い訳を練習しながら扉を開きます。しかし、玄関には誰もいません。

「あのぅ、すいません」

 本当は昨日に来るはずだったから、もう受け付けはやっていないのでしょうか?私は不安になってロビーに向かって恐る恐る進みます。しかしやっぱり、ロビーにも誰もいません。照明はついているので閉まっているわけではないと思うのですが、

「すいません。すいませーん!」

 私はロビーをうろうろします。すると、黒電話が置いている机に『受付不在の場合はお電話お願いいたします』と書かれています。達筆なくずし字で書かれていたため、逆に解読に時間がかかりました。下に電話番号が書かれています。私は携帯電話を取り出して、電波がなかったことを思い出しました。机に設置されている黒電話を使わなくてはいけないみたいです。くるくるとダイアルを回します。

「……もしもし?」

 私は自分の名前を言おうとして、留まりました。きっと今名前を言ったところで私が誰かどうかも分からないはずです。とにかくロビーに来てもらわないと話になりません。

『はい』

 電話越しの声の主は落ち着いた女性でした。これなら、気負いせずに自分の置かれている状況が話せそうです。

「あの、旅館のロビーに来たんですけど、誰もいなくて……」

 私は電話の前で拳を振りながら一生懸命説明します。

『あら?本当に?今から向かいますので少々お待ちくださいね』


 10分してふくよかな女将らしき人がやって来ました。なぜ女将『らしき』と言葉に保険をかけたのかというと、その女将さんが着物ではなく、かっぽう着姿だったからです。薄化粧の女将さんは野菜を煮込んだような美味しそうな匂いを纏っています。今まで台所に居たのかもしれません。

「ごめんなさいねぇ。いま番頭がお風呂場のお掃除にいっちゃってるみたいで」

 電話で話した通りの優しそうな印象の女将さんです。私はほっとして胸を撫でおろしました。

「いえ、こちらこそすいません。本当は昨日の夜に受付けしないといけなかったんですけど、バスを乗り過ごしてしまって、連絡できませんで……」

 頭をせわしなく下げながら、私はずっと練習していた言い訳をもう一度頭の中で反復します。

「あら、もしかして馬場さん?」

「そうですそうです!」

 女将さんが私の名前を知っていたことに驚いて、言い訳を忘れてしまいました。頭の中は真っ白です。なんて言おうと思っていたんだっけ?思い出せ、思い出せ!

「やっぱり!携帯電話の電波がなかったんでしょ?」

「そうなんです!」

 自分で用意してきた言い訳さえ、女将さんに先に言われてしまい、私はまるで5歳児のように大袈裟に頷くだけの頭振り人形と化していました。

「迷子になったんじゃないかと心配したわよ。ここのお客さん3割は迷子になるんだから」

 女将さんは私の遅刻なんて何でもないかのように軽く笑います。私は、許されたのでしょうか?

「でも安心して。寝室の隣の部屋のパソコンは自由に使ってくれていいから!」

 宿泊名簿とペンを渡されました。

「ありがとうございます!」

 実家の電話番号と氏名を記入して、私は名簿を女将さんに返します。

「馬場、美波さんね?やっぱり灯篭夏祭りを見に来たの?」

「なんですか、それ?」

 私が知らない情報でした。それもそのはず、私は雑誌の写真以外、なんの情報もないままこの村に来たのです。

「あら!知らないで来たの!?馬場さん、運がいいわよ。今週末にこの村で一番大きな祭りがあるの。何処にも行く予定がないならぜひ参加してほしいわね」

「へぇ」

 灯篭夏祭り。東京の祭りとは何もかもが違うであろう田舎の祭りに私は少しだけ胸が高鳴ります。

「絶対いきなさい。この村1番の女将からの命令です」

 女将さんはウインクします。なんとも可愛げのある話しやすい女将さんでした。


 私はキャリーケースを置く為に自室へと向かいました。旅館の廊下は古き良き内装で非常にエモいです。杉の木の香りが心を静めてくれるようでした。私は暇つぶしにあの写真雑誌を読みます。写真と同じ懐かしい雰囲気、綺麗な景色があり、そしてフレームの外側にいた温かい人たちがこの穴辻村には居ます。私はこの村に旅行に来て良かったと感じていました。

 番頭さんが客室の扉越しに声をかけてきました。油断していた私は床でごろごろしていたところを咄嗟に立ち上がり、なんとか態勢を整えて番頭さんを出迎えます。番頭さんはお風呂の掃除が終わったことを知らせてくれた後、小さくお辞儀をしてそのまま廊下をすいすいと歩き去っていきました。

 そういえば、昨日は酔いつぶれて柚子ちゃんの家に泊まったので、お風呂に入っていません。私は二の腕に鼻を近づけて体臭をチェックします。うん、多分大丈夫です。でも、気にしてみるとやっぱり服がベトベトしている気がして、気分が悪くなってきました。夏だから知らない間に汗が滲んだのかもしれません。私は早速ですが、お風呂に入ることにしました。


 お風呂場には透き通る湯舟が溢れるギリギリの高さまで満たされています。まだ日が落ちていないからでしょうか、お湯から湯気は出ていません。私は辺りを見渡します。簡易椅子が設置された洗い場には鏡が並んでいます。そして、奥の壁には富士山が描かれていました。床は白いタイル調で、しっかり磨かれた後のように歩くたびに、きゅっ、と高い音が鳴ります。今、このお風呂場には私以外に誰もいません。そうです、一番風呂です。私は誰もいないのをいいことに、くぅ、とお風呂場の真ん中で体を伸ばします。なんだか体のあちこちが痛いです。長旅の疲れでしょうか。新幹線、電車、バスとずっと座り続けていたので特にお尻が固くなっているみたいです。私はお尻がでかいと言ったお爺さんのことを思い出しました。

「……むくんでるだけだもん」

 嫌なお爺さんです。私はどかっ、と洗い場に座り込みました。昨日お風呂に入れなかった分、入念に体を洗います。せっかく掃除してくれた綺麗なお風呂を汚い体のまま入って汚すわけにはいけません。泡立った石鹸を足の指先からゆっくりと上半身に向けて進ませながら、私は朋ちゃんのことを考えていました。朋ちゃんは約束を無視してひとりで穴辻村に訪れた私を怒るでしょうか。あんまり考えたくないですが、何もしなくても頭の中はそれでいっぱいになりました。


 日が落ちるころ、居酒屋には大勢のお客さんで賑わっていました。出迎えてくれた店長さんがカウンター席に案内してくれます。柚子ちゃんはホールには居ないようで店長さんはひとりでお店を切り盛りしていました。とても忙しそうです。私は手早くチューハイと手羽先を注文して奥の楽器を眺めていました。昨日来たときはお客さんが殆ど帰った後だったので大きく見えた店内でしたが、今日はとても賑わっているみたいでした。もしかしたら、この村には他にそれらしい居酒屋がないのかもしれません。畑仕事をしていそうなおじさんやおばさんは常連さんでしょうか。あんまり若い層が居ないのがいかにも田舎っぽくて私は少しだけ可笑しくなりました。

 やがて、バンドメンバーが奥からぞろぞろと現れました。みんな素早く楽器を調整していきます。柚子ちゃんが一番最後に出てきました。私は目を輝かせながら彼女のほうを見ます。黒いTシャツに紺色のデニムパンツで衣装には拘りがないのかもしれませんが、それが逆にかっこいいです。

 楽器の調整が終わって柚子ちゃんが最後のマイクチェックを始めました。私はわくわくして最前列でライブに参加したい気持ちを抑えて自分の席でチューハイを飲んでいました。そして、私は不思議なことに気が付きました。この店にいる誰も柚子ちゃん達のほうを見ていません。みんな雑談に夢中でまるでバンドの事なんて気にしていないみたいです。

「店長、もうすぐライブ始まりますよね?」

 店長はキッチンで忙しそうにしながら私の質問に応えます。

「おう。だから始まる前にこの注文をさばかないと俺がゆっくり曲聞けないんだよ」

「あ、頑張ってください」

 私は店長の邪魔にならない様に、静かにしておくことにしました。

「おう、頑張る」

 よかった。少なくとも彼は柚子ちゃんの歌を聴く気があるみたいでした。


 演奏はそれからすぐに始まりました。ドラムとベースがリズムを刻み、ギターが軽快なメロディを奏でます。ドラマーはこのバンドの中では一番歳がいっている様に見えました。おそらく30代後半に見えます。落ち着いた手つきでスティックを振ります。激しい動きをしているはずなのに上半身がほとんど動いていません。ベーシストはなんだかテレビに映っている芸能人によく似ている風貌でした。指というより手のひら全部を使って楽器を扱っているようです。無表情でベースを睨みつけている様子はとても集中しているようでした。そして、柚子ちゃんです。柚子ちゃんはギターを弾きながらマイクに口を近づけて歌います。それは日本語ではありませんでした。外国語があまり得意ではないのですが、多分英語でした。大きな声で叫ぶように、言葉を店内に響かせるように、ひとりひとりの鼓膜にぶつけるように、柚子ちゃんは歌います。歌詞の内容はわかりません。ですが、キャッチーなメロディと情熱的な歌声は心の琴線に触れていきます。私の心は揺さぶられていました。最初の曲が終わると、すぐに次の曲が始まります。2曲、3曲目が終わり、最後の曲を聴いている頃には私の体は火照ていて、冷房が効きすぎていると感じていた空調が私の体温をなだめる様に優しく冷やしてくれていました。


 演奏が終わると、軽く挨拶してバンドメンバーは奥に帰っていきました。柚子ちゃんがしばらくしてから出てきて、そのまま店の中を横切って外に歩いていきます。私は少しだけ残っていたチューハイを飲み干すと、柚子ちゃんを追いかけて外に出ます。彼女は店から少しだけ離れた喫煙所で煙草をふかしていました。腰に片手を当てて、遠くを眺めています。私は小走りで柚子ちゃんに駆け寄って挨拶しました。

「ライブ、かっこよかったです!」

 私に気が付いた彼女はこっちにむかってひらひら、と手を振ります。

「ありがとう!ステージからバンミーが見えたから、バンミー来てる!ってなったよ」

 私は照れながら後頭部をぽりぽり掻きます。

「てか、同い年なんだから敬語じゃなくていいのに」

 彼女はそう言ってくれますが、突然、うん、わかった!そうするね!とはいきません。

「すいません、いつか慣れてきたら普通になると思います……」

 柚子ちゃんは煙草をふかしながら、ふふふ、と笑いました。

「いつもリビングの隣の暗い部屋で練習してるんですか?」

 私は話題を変えることにしました。柚子ちゃんの家に泊まった時に見てしまった部屋です。カーテンを開ければ日当たりがとても良さそうなのに、閉め切られていて外の光が一切遮断された部屋。彼女は少しだけ驚いたようにこっちを見て、それからまた笑顔に戻りました。

「うん、そうだよ。あの部屋はね、真っ暗なのがいいんだよ。あそこには何もないんだ。暗闇だけ。だけど、暗闇のほうがこの田舎の景色よりも広がって見える。手が届かないずっと向こうに誰かが居るような気がするんだ。その誰かにあたしは歌を届けたいのかもしれない」

 彼女の言葉の意味をあまりよく理解できないまま、私は頷きました。芸術家にはその人なりの価値観があるのでしょうか。柚子ちゃんはあの暗い部屋でギターを弾くことに意味があるのだと言います。


「そういえば、官軍塚いくの?」

 灰皿に煙草を押し当てて、柚子ちゃんは私に尋ねます。煙草の消し炭がこすれる音がして、灰皿の中に納まっていきました。

「行こうと思ってるんですけど、旅館で調べたら結構遠いからタクシーで行こうと思っていて」

 旅館のパソコンで調べたところ、官軍塚はここから山をふたつ越えたところに位置しているようでした。この村の距離感は観光地が密集している都会と違って、とにかく離れているみたいです。

「タクシーかぁ。この村にあるかな?」

 柚子ちゃんは首をかしげます。

「ないんですか?レンタカーでもいいんですけど」

「んー、どっちも見たことないね」

 私は困ってしまいました。このままではせっかくの休暇も何処にも行けないまま終わってしまいそうです。旅館でまったり過ごすのもいいかもしれませんが、せっかく穴辻村に来たのにそれだけではやっぱり心寂しいです。落ち込んでいる様子を見た柚子ちゃんが笑顔で私の肩を叩きました。

「もし明日行くつもりなら連れて行ってあげれるかも」

「いいんですか!?」

 咄嗟の事に私はすぐに返事しました。そのあと、頼りすぎるのはさすがに迷惑じゃないかと不安がよぎります。

「バンミーが嫌じゃなければね!」

 しかし、そんなこと柚子ちゃんは露ほどにも考えていなかったみたいです。

「嫌なんてとんでもない!嬉しいです!」

 彼女につられて私も笑顔になります。真夏の暖かい風が吹いて、私たちは思い出したように店内に戻りました。


 次の日の夕方、旅館に柚子ちゃんと店長が私を迎えに来てくれました。

「なんだよ。急に柚子が官軍塚に行こう、っていうからちょっと期待したのに。緊張して損したわ」

 店長はぶつぶつと独り言を言いながら私の為に後部座席のドアを開けてくれます。そんな店長の腕を柚子ちゃんは笑いながら思いきり叩きます。

「デートだと思ったんだろ」

 にやにやしながら彼女は助手席に乗り込みました。

「思うか。ばかたれ」

 店長が運転する大きな車が発進します。


 暗い山の中を車両のライトが十二分に照らしていきます。道端に生い茂った草木がたまに車に擦れて、そのたびに私は、これ、大丈夫なのかな、と不安になります。もしタクシーやレンタカーで官軍塚を目指していたら、きっと途中で頓挫していたでしょう。ですが、店長は車のダメージに全然気にする様子もなく、すいすいと進んでいきます。電波がない山道で車に乗った経験がなかった私は、ラジオも携帯の音楽機能も使えない静かなドライブが新しかったです。いつもなら音楽を聴き流しながら目的地に向かうところですが、この山の静寂はなぜだか旅に冒険のわくわくをもたらしているのでした。

「眠たくない?」

 バックミラー越しに柚子ちゃんと目が合います。

「ぜんぜん大丈夫です。柚子ちゃんは眠たいですか?」

 エンジンの回転音が一段階上がります。気が付けば山道は険しい坂道に差し掛かっていました。

「あたしは夜型だからねー。むしろ夜の方が元気だよ」

 夜はあたしの時間だよ、と彼女は笑います。

「私は門限があったので夜に出歩くと怒られましたね。柚子ちゃんは両親に怒られたりしないんですか?この前はお爺さんしかいなかったですけど、早朝から働きに出てるんですか?」

 ガタン、と車が揺れます。

「おい、バンミー。その話は……」

 前方を見たままで、店長が私を止めます。私は何もわからないまま、不穏な空気を感じていました。

「いいよ。もう、昔の話だし」

 柚子ちゃんの言葉が理解できないまま、しばらく沈黙が続きます。

「あたしの親はね、あたしが中学生の時にいなくなっちゃった」

 それは、とても重たい話のはずでした。

「理由は知らないけど、突然この村から蒸発したんだよ」

 しかし、柚子ちゃんは悲しい素振りも見せずに、むしろちょっと可笑しげに話します。

「死んでるか、生きてるかもわからない。生きててもあたしの事なんてもう覚えていないと思うけどさ」

 その彼女の態度が逆に店長と私から言葉を奪っていきます。

「だから、うちには門限はない!お爺ちゃんは夜寝るのバカ早いからね」

 考えるつもりはなかったのに、私は悲しい仮説に思い当ってしまいました。あの真っ暗な部屋は両親の部屋だったのでしょうか?私は少し切なくなって柚子ちゃんの後ろ姿を見ます。柚子ちゃんは車の窓を向きながら、楽しそうに鼻歌を歌っていました。その音色はやけに明るくて、私は柚子ちゃんがどういう人なのかわからなくなりました。それからしばらく、車内は彼女の鼻歌だけが響きていました。


「さ、着いたぞ」

 店長がドアのロックを解除して私と柚子ちゃんは外に出ます。まず最初に思ったことは空気が冷たくてとても澄んでいます。鈴虫の音と草の匂い。私は思いきり息を吸って周りを見渡します。官軍塚は電灯が少ないのに青白い光が空から地面を照らしていて、思ったほど暗くありませんでした。車が駐車した場所は山の中に開けた簡単なキャンプ場です。私たちの他にちらほら車が停まっています。やっぱりデートスポットなのでしょう。

「まだ空は見ちゃだめだよ」

 柚子ちゃんが悪戯っぽく笑います。ブルーシートを担ぎながら進む店長に後れを取らない様に私たちはキャンプ場から丘に向かいました。5分くらい歩くと店長が地面にシートを広げました。私たちは空を見ない様にシート越しのごつごつとした地面の感触を感じながら座ります。

「到着ですか?」

 私は早く空を見たくてそわそわします。夜空なんて東京でも何度も見ているけれど、こう焦らされると期待してしまうものです。

「ああ、もう空見てもいいぞ」

「いっせーので、で見よう!」

 柚子ちゃんの合図とともに私たちは上を見上げます。

 目の前に現れたのは私が見たことのないとてつもなく広い大空でした。官軍塚が明るかった理由、それは空を埋め尽くす星の光が地上まで届いていたからです。月は出ていないのに、むしろ東京で見る満月の夜よりも輝いています。とても強い光を纏った星から極小の微かな光まで、様ざまな星たちが天上に瞬いています。星と星の間を隙間なく埋めて夜空を横切っている白い帯はおそらく天の川でしょうか。ミルキーウェイと呼ばれるそれは、外国の観光地でしか見られない現象なのだと思っていました。私の髪を撫でていく強い風の存在も忘れて、私はただただ空を眺めます。

「星って、色があるんだ」


 しばらく感動していた私に柚子ちゃんが話しかけてきました。

「バンミーは流れ星を見つけたらなんて願うの?」

 私は一旦空から視線を下げて柚子ちゃんを見ます。

「私ですか?」

「うん」

 少し間が開いて、私はあることに気付きました。

「私、それ考えてなかったです」

 照れ笑いが私の口角を持ち上げようとしています。恥ずかしい。恥ずかしすぎる事実です。

「えー!今考えなよ!星が降ってくる前に!」

 柚子ちゃんがばたばたと両手を振ります。分かりやすく慌てているようでした。

「自分の願い事がまだわかりません…」

 情けないことに、そう返すのが精一杯です。だって、今私が何を望んでいるのかなんてわからないのです。逃げる様に東京を抜け出した私は、それ自体が願いだったのです。それ以上の事なんて考えていませんでした。

「柚子は何を願うつもりなんだよ」

 店長が柚子ちゃんに話の焦点を向けます。

「あたしの願い事?」

 おう、と彼は頷きました。柚子ちゃんの返答を待ちながら、ガサゴソと荷物を整理しています。

「そりゃぁ、あれだよ。月に発電所を建てる」

 聞き耳を立てていた私の頭にクエスチョンマークが浮かび上がりました。

「なんだそれ?」

 店長も私と同じ状態らしく、目が点になっています。柚子ちゃんはそんな私たちを置いて話し始めました。

「で、そのエネルギーを使って月から地球をライトで照らす」

 自分の願い事を語る彼女は楽しそうです。

「何のために?」

 私は彼女に聞かないわけにはいきませんでした。だって、意味が分かりません。

「まぁ、聞きなって。この宇宙の星って殆どが太陽の光に反射して光ってるんだよ」

 寂しくない?、と柚子ちゃんは言いました。流れ星は違います。あれは大気圏外に漂っているスペースデブリが落ちてきた時に大気に摩擦して燃えているのです。そう言おうとして私は口をつぐみました。消える直前にしか輝けないなんて、それこそ寂しいから。

「だから、あたしは月を自分の力で光る衛星にしてあげるんだ」

 店長はひとりで空を見上げながらため息をついていました。

「太陽が嫌いなんですか?」

 店長が柚子ちゃんの話を聞いていないので私は何も言わないわけにもいかず、当たり障りのない質問をします。

「別に。ただ大きいものに逆らいたいだけ、わはは」

 柚子ちゃんは楽しそうに笑っていました。彼女は色んな笑い方をします。私はそれが可笑しくて、もっと彼女の笑顔が見たいと思いました。今夜、もし彼女の願いが叶ったら夜空は何色になるのだろう。太陽が蒼く空を染める様に、彼女は意図せずに世界の色を塗り替えるに違いありません。


「あ、流れ星みっけ!」

 柚子ちゃんが夜空を指差します、

「え、どこどこ?」

 私は眼鏡越しの目を凝らして空を見ました。

「もう消えちゃった。惜しい。次来たら速攻でバンミーを呼ぶね」

「はい!」

 夜空の星を見上げるのがこんなに楽しいなんて、想像もしていませんでした。まだ流れ星を見つけられない私は、知っている星座を見つけては感動し、天の川を指でなぞります。雨が降っていないのに湿っている地面を触り、夏の湿っぽい風が草木や土に露を作っていることに気が付きました。自然に囲まれた夜が気持ちいいです。

「あっ!」

 柚子ちゃんの声に私は急いで空を見渡します。

「消えちゃった。早いねー!」

 私はなんだか悔しくなります。私は流れ星を見つけられない運命なのでしょうか?

「ほら、夏って言っても夜は冷えるだろ。店から持ってきたから、ふたりともこれ飲め」

 私は店長に手渡されたコップを受け取りました。

「温まるぞ」

「ありがとうございます」

 流れ星を見つけられない苛立ちに任せてごくりと飲んだその飲み物は私の喉を引っ掻くように通り過ぎていきました。

「んっ、辛い!」

 とにかく辛いです。辛みを感じるのは味覚ではなくて痛覚だというのでこれは攻撃です。

「慣れたらこれがうまいんだよ」

 本当かなぁ。もう一口、今度は少しずつ、唇を湿らせるように飲んでいきます。

「…なるほど。確かに体は温かくなってきたかもしれないです」

「樽の香りがするだろ?結構いいやつなんだぞ、それ」

「ほらほら、ちゃんと集中してないと流れ星見逃すよー!」

 柚子ちゃんの声に、私は空を再び眺めます。すると、そこにあった風景はさっきの静かな夜空とは明らかに違いました。輝かしい星が私を中心にぐるぐると動き続けています。集中して追いかけようとすればするほど、流れ星は数を増やして、それはいつしか流星群と言っていいほどの量になっていました。

「あれ?星が廻ってるれるれれ?」

 なんだか楽しい気分です。

「ちょっと!バンミーに何を飲ましたの!?」

 薄れゆく意識の隅で柚子ちゃんが慌てているのが確認できます。

「何って、ウイスキーだよ。キャンプでウイスキーは定番だろ」

 そして、店長の声もどんどん遠くなっていきます。

「バンミーはチューハイ以外飲めないんだよ!」


***


 私は夜空を突き抜けた流れ星を見失わない様に追いかけます。いままで流れ星に縁がなかった人生で、半ば自分には一生見えないんだと諦めていました。これは最後のチャンスかもしれません。ズレそうな眼鏡を胸ポケットに収めて、私は走ります。めまぐるしく変わる景色の中、私は駆けていきます。地平線の彼方まで、走って、走って、追いかけていきます。

「美波ー!」

 後方で朋ちゃんが私を呼ぶ声が聞こえました。

「流れ星が消える前に願い事を唱えないといけないんだから、邪魔しないで!」

 初めて見た流れ星を目の前に躍起になった私は走りながら手を合わせて南無南無と早口言葉のように言葉を紡ぎます。

「朋ちゃんも、早く!」

 私は後ろから駆け寄ってくる朋ちゃんに手招きしました。何でもない様に軽々と私に追いついた朋ちゃんは私の腕を掴んでしかめっ面になります。

「あんなぜんぜん燃え尽きひん流れ星があるか。どう見ても飛行機やろ」

「え?」

 見上げると、確かにあの流れ星は消える気配がありません。

「よく見てみ?点滅してるやん?」

 眉をひそめたまま、朋ちゃんは自分の服に着いた埃を掃います。

「そんな……」

 私の落胆に彼女は大袈裟なため息をつきました。一直線に伸びた眉毛が八の字に曲がります。口元は薄い笑いが写っていました。

「あほやなー。美波は流れ星でも何でもない、なんの関わりもない他人に願い事を唱えてたわけや」


 悔しくなった私は朋ちゃんに食って掛かります。

「そんなことないよ!あれが流れ星じゃなくても飛行機の乗組員の人たちが巡り巡って私の願いを叶えてくれるはずだもん!」

 わかってます、暴論です。なんの責任もない乗客や乗務員の方々に機会があれば謝罪しなければいけない、と私は頭では理解しています。しかし、今は私をあほだと罵った朋ちゃんに立ち向かわなければいけません。飛行機は私を残して遠くに行ってしまいました。こうして私の願いはたったひとつの星ではなく、何十もの人たちに託されて世界各地に分散されていきます。

「ちなみに、なんて願ったん?」

 目を細めたまま、朋ちゃんは顔を寄せてきます。

「……素敵なお嫁さんになれますように、って」

「おいおい、価値観が昭和以前なんですけど」

 含み笑いが朋ちゃんの態度から滲み出ています。ここで引くわけにはいきません。

「そんなことないよ!明るい家庭は女の子なら一度は憧れたはず」

 私は涙目になりながら必死に反論の機会を伺っていました。

「そんなんどうやったら叶ったことになるねん。飛行機の乗客には荷が重すぎるな」

 彼女は両肩を上げてお手上げ状態という仕草をします。

「それはわからないけど、なんとかなるよ!みんなで手を合わせれば」

 そうです。飛行機の乗客全員で一丸となって私の幸せのために動いてくれれば、それは流れ星より確実な夢の実現に近づく一歩に違いありません。

「フラッシュモブでもさせようとしてる?」


「そういう朋ちゃんだって流れ星を見たらつい願い事を唱えちゃうでしょ?」

 私に議論の照準が向いているうちは、いつまで経っても朋ちゃんには敵いません。私は論破可能な弱点を探すべく、話題を彼女に振りました。

「うちは流れ星に願い事なんてせぇへん」

 少し考えた後、朋ちゃんは呟くように言い放ちました。

「なんで?」

 私は不思議でした。目の前にいるのはいつもの自信ありげな朋ちゃんではありません。まるで初心な少女のように自分の手のひらを見たり、妙にもじもじしたりしています。黄土色のブラウスが朋ちゃんの動きと共に揺れます。

「願い事が叶わへん内はええねん。どうせ忘れてるやろうからな」

 そして、彼女はぽつぽつと話し始めました。

「でも、叶ってしまったらそれは流れ星にお願いしたからや、って絶対思ってしまうやん?」

 とんっ、と朋ちゃんは足踏みします。

「夢は自分で叶えるもんやろ?」

 顔が赤くなっています。珍しいものを見た私はもっと彼女に踏み込んでいきたいと思いました。

「朋ちゃんの夢ってなんなの?」

 朋ちゃんは一度周りを見渡して誰もいないことを確認すると私を睨みつけました。

「教えてもいいけど、笑うなよ?」

 あまりの迫力に私は頷くしかありません。

「うん」

「人生は苦しい時も多いし、辛い。周りの意見に流されて自分の感情さえ制御が効かなくなることもある。自分で描いたはずの未来さえ、そうでなければならない、っていう他人の期待に反応してるだけなんかもしれん。うちはな、何にも縛られたくない。自分の人生やからこそ、そこで勝ちたいんや」

 なんだか私には理解ができないような突拍子のないことを言っているようです。人生に勝つというのはどういうことなのでしょう?そもそも人生とは勝ち負けではないはずです。誰に比べてどうだと考えるのは自分を追い込むことにならないでしょうか。難しい話はよくわかりません。

「うちはうちなりに幸せになるっていうこと」

 私があまり理解していないと感じたのでしょうか、朋ちゃんは自分の願いを一言にまとめます。

「それって私の願い事と大差ないんじゃ?」

 ようやく理解した私はしっかり者の朋ちゃんの口から出た子どもっぽい言葉に笑いが込み上げてきました。

「笑うなっていったやろ!」

 しばく!と言って朋ちゃんは私をびしびし、と軽くはたきました。最初は愉快さが勝っていたので面白がっていた私でしたが、朋ちゃんの攻撃は徐々に強くなっていきます。

「あはは、やめてよ」

 しかし、朋ちゃんの攻撃は一向に止みません。それどころか、私の体を叩いたり、ゆすったりし始めました。

「朋ちゃん、ツッコミきつい!」


***


「朋ちゃん!やめて!」

 がたんごとん、と揺れる車内で私は飛び上がる様に起きました。私の体には毛布が掛けられており、隣には柚子ちゃんが座っています。外に目をやると空が白んできたばかりのようでした。

「朋ちゃんじゃないよ。柚子ちゃんだよ」

 にやにやしながら柚子ちゃんが私の顔を覗き込みます。よだれでも垂れているのかと不安になった私は口元を拭います。昨日は何をしていたんだっけ?必死に頭を回転させて思い出します。流れ星を見るために官軍塚に来た私は、店長に貰った飲み物を飲んで体を温めて、その後のことは覚えていません。

「起きたか?」

 運転席から正面に意識を向けたまま、バックミラー越しに店長はこちらを確認します。昨晩、この男は私に何を盛ったんだ?不信感が募ります。もし朋ちゃんがここに居たなら間違いなく私は不用心だと怒られるでしょう。

「お前を運ぶの大変だったんだからな」

 険しい山道を下りながら、私は眉間にしわを寄せます。そういえば、初めて柚子ちゃんの家に泊まった時も誰が私を運んだんだろう?もしかして店長が私をおぶって、重い重いと不満を言いながら介抱してくれたのかもしれません。普段なら申し訳ない気持ちになる私ですが、なんだか悔しいです。だって、私はそれなりに食生活も気にしていますし、なんなら社会人になってからダイエットもしています。

「お、重かった?」

 店長は応えません。やっぱり、重かったのでしょうか?この村の男たちはお尻が大きいだとか、運ぶのが大変だっただとか、女性に対する接し方があまりにもなっていません。東京ならすぐにネットに晒されてミソジニーとしてネット警備隊の恰好の的になるでしょう。私だってもし携帯の電波があれば今すぐにでも拡散したいところです。現代とは思えない時代遅れの価値観がこの村には残っているのでしょうか。いや、価値観というかこれは立派なモラルハラスメントです。言いたいことがどんどんお腹の中に溜まっていくのを感じていました。さっきまで何ともなかったのにいまでは下腹が破裂しそうです。やばいです。

「……トイレいきたい」

「え!?」

 トイレです。

「今か?」

「はい……」

 昨晩お酒を飲んでトイレに行かなかったからに違いありません。私の膀胱が悲鳴を上げていました。揺らしたらマシになるかな、と思ってこっそり実行したものの、お腹はたぷんとも鳴りません。きっと隙間がないのです。

「どうしよ」

 柚子ちゃんが真顔で店長に問いかけます。

「……そこらへんの草むらで済ますしかないんじゃないか」

 店長は少し考えた後、そう答えました。嫌です。ありえないです。私はまだ24歳です。どんなにお腹が痛くなったって耐えて見せます。今そう決めました。


「どこかにコンビニとか、ない?」

 苦しくなって、息も絶え絶えに私は言います。希望が、私には希望が必要でした。

「穴辻村にコンビニはないね」

 わずかな光さえこの村にはないのか。私は泣きそうになります。

「でも、ここから15Km先に古着屋があったはずだぞ」

 店長が思いついたように両手をぽんっ、と鳴らしました。私は店長に対する不信感を改めようと決心しました。彼は頼りになる男です。車は山道を来た時の倍くらいのスピードで下っていきます。

「15Km……。我慢できるかな……?」

 急いで、私の救世主!祈るような格好で私は下腹部を抑えます。

「もし間に合わなかったら、替えの服は買ってやるからな…」

 店長の言葉に私は急に冷めました。嫌です。ありえないです。この人は時代遅れのミソジニーです。女の敵です。ちょっとでも心を許した私が馬鹿でした。

 自分でなんとかするしかない。私は必死に考えます。この窮地を脱する奇跡の一手が必ずあるはずです。私の思考はまるで走馬灯のようにいろんな考えをイメージとして映し出します。そして、私の頭脳に一筋の可能性に気が付きました。

「えへ、えへへ……」

 自分でも笑えるくらい冴えています。

「や、やばい!車止めて!」

 柚子ちゃんが慌てます。私は彼女の肩を静かに叩いて冷静に諭します。

「大丈夫。このまま急いで……」

 しかし、柚子ちゃんは引きません。それほど私が心配なのでしょう。しかし、私はもう大丈夫です。

「泣いてる!バンミーが笑いながら泣いてるよ!」

 そうです。すべての道がローマに繋がっているように膀胱の水分は涙腺と繋がっているのです。枯れろ、膀胱。流れろ、涙。二つの眼から流れる雫たちは顎の頂点で一つの筋になって私の胸に落ちていきます。ここから先は精神と肉体との勝負です。何も感じず、何にも縛られず、ただ自分と対話をするだけです。このままいけるのか?いけるよな?私は静かに前を見据えます。そして一言、いける、と呟きました。


 早朝、無事に旅館に着いた私たちは駐車場で長時間の運転の疲れを取るべく、車を降りて少し休憩していました。

「楽しかったね!」

 柚子ちゃんはまだまだ遊べそうなくらい元気です。

「うん。後半は記憶がないけど」

 嘘ではありません。私は自分の尿意を抑えるのに必死でほとんど車の中での会話を覚えていませんでした。恥とは思いません。私は尊厳を守り切ったのですから。

「結局バンミーは流れ星見てないんだろ?」

 車に乗った草や小枝を掃いながら店長は言います。私は暖かな目で彼と向き合います。きっと彼が猛スピードで車を運転してくれていなかったら私は大事なものを失っていたでしょう。あの地獄のような時間に生まれたのは私と彼との間の信頼です。

「いいんです。私、視力悪いのでどうせ見れなかったと思うし」

「そうか。まぁ、また官軍塚に連れて行けって言われても困るんだけどさ」

 店長がぽりぽりと頭を掻きます。夜更かしをしたせいでしょうか、彼の口周りにはぽつぽつと髭が生え始めていました。

「店長、これから忙しいもんね」

 柚子ちゃんです。

「そうなんだよ。いろいろ用意しなくちゃいけなくてな」

 私はふたりが何の話をしているかわからずにぽかんとしていました。

「もうすぐ村の夏祭りがあるんだよ」

 私は旅館の女将さんが確かそんな話をしていたのを思い出します。

「あ、灯篭夏祭り?」

「それそれ!」

 独り言のような問いかけに柚子ちゃんが陽気に頷きました。

「私も見に行こうと思ってたんですよ。ちょうど滞在期間にあるらしくて」

「いいじゃん!」

 彼女が肩を叩きます。

「うん」


「今年は店長も裏方に回るみたいだから、その準備があるんだよねー」

 柚子ちゃんは態勢を左に傾けながら店長に話しかけます。なんだか楽しそうです。

「去年行ったし一人で行くのも違うな、って思ってたから今年は参加しないつもりだったんだけど、せっかくだし案内してあげようか?」

 にこにこしながら私のほうを振り返りました。

「本当に!?」

 私はびっくりして反射的に応えます。柚子ちゃんはうん、と言って笑いました。

「よかったじゃねぇか」

 店長が笑って車に乗り込みます。それに続いて柚子ちゃんも助手席に座りました。エンジンがかかり私はお別れを言おうと車両に近寄ります。わたしが手を振ると、すー、と窓ガラスが降りていきます。

「あたしの家に浴衣があるからそれも着付けしてあげる」

 ドア越しにウインクを投げられました。私は照れくさくてそれ以上彼女のほうを向くのが恥ずかしくなってきました。田舎の人たちはなんでこうも人懐っこいのでしょう。この村に来ていろんなものを経験したはずの私ですが、この距離感にはまだ慣れません。

「祭りはいつなの?」

 気を取り直して、彼女を一瞥します。すると、彼女はまた笑って、

「明日だよ!」


 次の日、正午過ぎに私は柚子ちゃんの家にまたお邪魔していました。通路を真っすぐ進んで、通された和室に何故かちょこんと正座させられています。訳も分からず彼女を目で追う私の視界を避ける様に後ろに回られました。

「着付けの邪魔になるから、髪を高い位置で縛ろっか」

 ここで私は髪形を弄られる為だけに座らされているのだと気が付きました。彼女の手を借りる必要はありません。髪を上げるくらい自分でちゃちゃっと出来ます。

「お団子にする?」

 一応、確認します。どんな髪形にしようとしてたのか聞いてみました。

「うん」

 柚子ちゃんは私の髪を自分で弄りたそうにしていたので、少し意地悪をしてしまったかもしれません。ちょっとくらい残念そうにするかなと思ったけど、柚子ちゃんは案外楽しそうでした。

「さぁ、エロいうなじが降臨するよー!」

「やりにくいな」

 本当に楽しそうです。まぁ、いいんですけど。

「へぇ」

 背後から彼女の声がします。これでは集中できません。

「エロいうなじ?」

 きっと、そうなのでしょう。別に謙遜はしません。私のうなじがどれだけ誘惑的だったとしてもそれは不可抗力です。生まれ持った魅力を隠し続けるなど、不器用な私には出来ないのです。

「ううん。バンミーの頭って綺麗な輪郭してるんだね」


「……出来た!」

 最後に浴衣の襟の部分にゆったりとしたゆとりを作って、柚子ちゃんの着付けは終わりました。私は淡いピンクの水玉模様の浴衣に身を包み、ふわりふわりと袖を揺らします。いつもは適当に繕っている和服ですが、柚子ちゃんはしっかりと帯紐を使いながら綺麗に整えてくれました。なんだかプロみたいです。

「柚子ちゃんは浴衣着ないの?」

 簡単な夏服に着替えた柚子ちゃんを見て私は疑問に思いました。いつも柚子ちゃんに会うときは黒いTシャツだとか地味な服ばかり着ている印象です。着付けの手際を見るとお洒落が面倒くさい訳でもなさそうだし、胸が大きかったりいい素材があるのに自分の容姿には無頓着なのでしょうか?

「あたしはいいや。持ってる浴衣、これしかないし」

 たはは、と彼女はまた笑いました。

「昔、お婆ちゃんが生きてた頃にキルトにはまってさ。浴衣を全部キルト生地にしちゃったんだよね」

 キルト生地とはなんでしょうか?聞いたことのない単語です。

「知らない?前後で柄の違う綺麗な布なんだけど。色んな布を細かく使ってパターンを作って表現するの」

 まったく知らないとはいえ想像は出来ます。大きな布に絵を描く代わりに布を切って貼ってしてなにかを描くという趣旨の裁縫なのでしょう。確かに沢山布が必要かもしれません。

「でも、全部使っちゃったの?」

「うん」

 もったいないです。柚子ちゃんに子どもができた時の為に少しくらい残しておけばよかったのに。

「見てみなよ。結構凄いんだから」

 私は頷きます。

「こっちの部屋だよ」

 柚子ちゃんに連れられて入ったのはあの柚子ちゃんがギターを練習する為の暗い部屋でした。キルト生地がしっかりと見える様に柚子ちゃんは電気を付けます。パチン、といって電灯が何度か点滅してから点灯しました。

「このカーテンが浴衣だったんだよ」

 この部屋が昼間でも日光を遮断して暗かったのは分厚い浴衣の生地をカーテンにしていたからでした。それは花柄や水玉模様の生地が幾重にも重なって、意味のある紋様のようなものを形どっています。近くで見れば見る程、不思議な気持ちになります。なぜだろう、心がそわそわします。

「あ!」

 そして気付いたのです。このキルトで作られたカーテンの生地を私は見たことがあるのです。

「柚子ちゃん、私と一緒に旅館に来てくれない?」

 それは、どうしても確かめないといけない可能性でした。

「今から?」

「うん」

 祭りは!?と言う柚子ちゃんの腕を掴んで、私はバス停に向かいました。


「柚子ちゃん、見て」

 客室に急いで帰ってきた私はキャリーケースに入っていた雑誌を柚子ちゃんに見せます。どのあたりにあっただろうか。私はなるべく急いでページをめくります。そして、雑誌の半分くらいまで進んだときに手が止まりました。川の水底で冷やされたビールの写真です。

「この川、柚子ちゃんの家の前に流れている川じゃない?」

「うーん、この写真だけではわからないかも」

 ページをめくります。次に現れたのは赤ちょうちんの写真でした。

「あ、これ。うちの居酒屋じゃん!」

「そうなの」

 初めてこの村に来た時に、一番最初に見つけた私の目的地。それは何度もこの雑誌を眺めていたから気付けた奇跡だったのかもしれません。写真が私をこの村に導いてくれたように、この傷心旅行は心が求めているものに出会う旅だったように思います。

「いい写真だね。これを見てバンミーは村に来たの?」

「うん」

 だからこそ、この村に恋い焦がれた私だからこそ気付けたことがあるのでした。

「いいねー!この写真撮った人は村の良さがわかってるね!」

 彼女は腕を組みながら、うんうん、と頷きます。私もそう思います。この写真のカメラマンはこの村をきっと愛しているのでしょう。だからこそ、私はこの写真に、この村に惹かれていたのです。

「私が柚子ちゃんに見せたかったのはこの写真」

 私はページをめくります。


 それは灯篭を背景に、楽しそうに跳ねている少女の写真でした。


「あっ」

 この子が着ている浴衣は今はもうありません。なぜなら、それは刻まれて複数の布の中に隠されてしまったから。

「これ、あたしだ……」

 私の思った通りでした。この雑誌に写真を提供したのはただのカメラマンではなく、この村出身の人でした。地元を大事にしているがゆえ、古い写真を大事に保管していたのでしょう。もしかしたら、何らかの事情でもうこの村には帰ってこれなくなったのかもしれません。それは私にはわかりません。しかし、少なくともこの写真の持ち主は被写体を愛しています。この少女を、柚子ちゃんを。

「柚子ちゃんの親御さん、東京にいけば会えるかもしれない!」

 私は出版会社に勤めています。コネを使って、それでも駄目なら上司にも頼み込んで、なんとかしてこの写真の提供者を突き止めることが出来るはずです。それは希望でした。柚子ちゃんを救える私が提示してあげられるたった一つの可能性でした。

 ですが、柚子ちゃんはなぜか喜んでいるようには見えませんでした。

「……嬉しくないの?」

 旅館に着いて、私はこの時初めて彼女の顔を見ました。

「会えるんだよ?」

 そこには私が期待していた、いつもの明るい女の子はいませんでした。

「あたしは……」

 沈黙。柚子ちゃんは言葉を探していました。

「今更、会いたくない」


「寂しかったとか、怒ってるとか、会って伝えたいことはいっぱいあるじゃん?生きてるんだよ!?」

 私は、そうすることが正しくないと頭では分かっているのに、気が付けば柚子ちゃんを責めるような言い方をしてしまいました。柚子ちゃんはなかなか話そうとしてくれません。私は待ちます、何かを言おうとしている彼女を。

「この写真のあたし、幸せそうだよね」

 彼女は写真に手を置きます。

「あの人の中ではあたしはこの状態でとまってるのかもしれないね」

 写真の縁を撫でる彼女はまるでお別れを言う時のような、さよならを暗示させる手つきでした。

「今のあたしを見たら、失望するかもしれない」

 そんな言葉、私は想像もしていませんでした。いつも明るくて人懐っこくて冗談をいうような柚子ちゃんを誰が悪く思うのでしょうか。私には理解できません。

「そんな……」

 でも、今度は私が言葉に出来ませんでした。あまりにも悲しくて、これ以上柚子ちゃんを傷つけてはいけない想いが私を雁字搦めにしたのです。

「バンミー、もういこ?祭り終わっちゃう」


 私たちを乗せたバスがとても遅い速度で旅館を後にします。辺りはもう暗くて、この車がお祭りに間に合うのかさえ私には分かりません。今から村に向かう人はいないのでしょう、バスの乗客は私たち以外にはいません。あんなに楽しみに用意した浴衣が場違いに思えて、なんだか惨めになります。バスの中が眩しく光って花火がはじける音がします。通路側に座っている私には空が見えるはずもなく、空しい破裂音だけが響きます。バスの窓から空を見上げる柚子ちゃんのことを、私は伺うことも出来ずにいました。

「花火、間に合わないね」

 柚子ちゃんの独り言と火薬が砕け散る音だけがこの静寂に鳴り響いていました。


「お!やっと来たか!全然来ないから心配したんだぞ?」

 灯篭夏祭りに着いた私たちを大手を振って屋台から店長が迎えてくれました。バスが着く頃には花火は終わってしまったのに、なぜか人だかりがまだ残っています。夏だからでしょうか、人が多いからでしょうか、夜だというのに私は額に薄い汗をかいていました。

「ほら、これ。お前らの為に残しといたんだ」

 フランクフルトと焼きそばのパックを手渡された私はお礼を言って受け取ります。

「おおー!いいねー!」

 柚子ちゃんもさっきまでの落ち込んだ素振りは店長には見せたくないのか、いつもよりもさらに明るい調子でわざとらしく喜んでいます。もしかしたら、彼女はいつもそうしていたのかもしれません。臆病な自分を悟られない様に陽気な外面を着飾って、本当の自分を誰の手にも届かないところに追いやっていたのかもしれません。そう思って、私は頭をぶんぶん、と横に振ります。こんな失礼で無粋なことを考えるべきではありません。今はお祭りの事だけを考えるべきです。

「盆踊りも花火も終わったから、あと残ってるのは灯篭流しだけだぞ」

 そうか、もうひとつイベントがあったから皆まだ帰っていなかったんだ。

「これがこの祭りのメインだから、間に合ってよかったよ」

 俺は店番まだあるから、と店長は私たちをイベント会場の川に送ってくれました。


 祭りに集まった人たちが次々に冷たい川に火の灯った灯篭を置いていきます。流れる橙色の無数の小さな灯篭が集まって大きな光源となり、一筋の光となって川を照らしていました。それは夜空の目を刺すような青い光とも街を照らすための蛍光灯の人工的な光とも違って揺れるような鈍い光だったけど、この村で一番温かくて明るい夜でした。

「綺麗でしょ?」

 あの写真はこの夏祭りの日に撮られたものだんだろう。私はそう思いました。

「うん」

 鈍い光を眺めながら、私は柚子ちゃんに応えます。

「この灯篭はね、亡くなった人のために灯された道しるべなの」

 目の前にあるのは沢山の人の想いによって生み出された優しくて、温かくて、力強い風景でした。

「お盆には先祖の霊が家に遊びに来るって言われてるからね。ちゃんとお家に帰れる様に、通り道を灯すんだよ」

 私は黙っています。

「あたしも子どもの頃は参加してた。お父さんがいつ帰ってきてもいいようにって。もう何年も前にやめちゃったけどね」

 生きているかも死んでいるかもわからない親が迷わない様に。私は悲しくなって、川下に向かって流れていく灯篭をずっと睨みつけていました。


 もし、朋ちゃんがこの景色を見たらなんて言うだろう?ここに居たらなんて言うんだろう?ふとそう思ったとき、私の目から涙が零れました。

「泣いてるの?」

「これは、違うくて……」

 言い訳をするように笑いながらまぶたを拭きます。しかし、いくら拭いても一度流れ出した涙は止まってくれません。

「……うん」

 誤魔化すことも出来なくて、私は白状します。

「友達のことを思い出して」

 どうして涙が出てくるのか、私には理解ができませんでした。どうして止まらないのか。泣こうなんてしていないのに。絶対泣かないって決めていたのに。

「朋ちゃん?」

 私の隣でしゃがんで柚子ちゃんははぐれた灯篭を元の流れの上に戻してあげます。

「……はい」

 私は深く息を吸って気持ちを落ち着かせます。すると、柚子ちゃんも私の真似をして息を吸いました。

「朋ちゃんは幸せ者だね」

 灯篭の大行列は一向に途絶える気配がありません。この村の人は皆優しいんだ。優しいから、道に迷わない様に、間違えない様に、ちゃんと道しるべが消えない様にしているんだ。

「朋ちゃんは幸せじゃなかったのかもしれないです……」

「どんな子なの?」

「切れ目で、唇が薄くて、私より東京に詳しくて、いつも漫才みたいに怒ってる子」

 柚子ちゃんは静かに笑っていました。


「バンミー、着いてきて」

 灯篭流しがまだ終わっていないのに、柚子ちゃんは思い立ったように私の袖を引いて歩き始めました。

「なに?」

 それは川に沿った柚子ちゃんの家に帰る道です。

「いいもの見せてあげる」

 腕を後ろに組んで歩く彼女を後を私は付いていきます。やがて、私たちは公園に着きました。あの柚子ちゃんの家の近くの川沿いの公園です。公園と言っても更地が野ざらしになっているだけの簡易な遊び場で、今では遊びに来る子ども達もいなくなってしまった空っぽな空間です。子ども達が遊ばなくなった理由は誰かが悪戯でガラスの破片をばらまいて、誰もそれを片付けないから危なくなって近付かなくなったからだったはずです。

 こんなところになにがあるんだろう。そう思って公園を見渡すと、柚子ちゃんが私に見せたかったものに私は圧倒されました。

「地面が夜空の星みたい…」

 川を流れてくる灯篭の温かい光が公園中に撒かれたガラスの破片に反射して、ゆらゆらと地面が鈍く瞬いています。眼鏡を外してもこの近さならひとつひとつはっきりと瞬いているのが分かります。まるで星が点滅しているみたいでした。

「すごいでしょ?」

 柚子ちゃんが自慢げに鼻を鳴らします。

「灯篭がこの川を渡るときにしかこの星空は見えないんだけど、祭りの時は誰もこの公園に来ないからあたししか知らない」

 きっと、灯篭流しに夢中になっている人たちは、長い間この公園の秘密に気付くことは無かったのでしょう。

 突然、柚子ちゃんは足元のガラスを拾って投げました。私はびっくりして飛びのきます。

「願い事した?」

 彼女は悪戯っぽく舌をぺろっ、と出して笑いました。

「え?」

「ほら。流れ星、見たかったんでしょ?」

 私は面白くなってつられて笑いました。今のが流れ星のつもりだったのでしょうか。官軍塚で流れ星を見れなかった私にリベンジのチャンスが到来したというわけです。それに今回は願い事を唱えるのも簡単かもしれません。だって、この流れ星は私の為に流れるのですから。

「ごめん。急だったから全然気が付かなかった」

 笑いすぎて涙目になった私はごしごし目をこすります。

「じゃぁ、もう一回!」

 柚子ちゃんが腕を捲り上げます。

「思いきり投げるから、今度はしっかり唱えなよ?」

「うん」

 そして、おもいっきり反動をつけて空高く、

「おらー!」

 人の想いが反射してできた流れ星が宙を舞いました。


 灯篭流しも終わって私たちは家の縁側に座りながらのんびりしていました。祭りの帰路につく人達がちらほら現れ始めています。店長や何人かの人達は後片付けがあるし、まだ帰るのが遅くなるはずです。柚子ちゃんにご馳走してもらったアイスキャンディをなめていると、彼女が話しかけてきました。

「今更親に会いに行けないって言ったよね?」

 今の自分を見せたら失望するかもしれないから、柚子ちゃんは親を自分から見つけようとはしない。

「柚子ちゃんはしっかりしてるじゃない」

 私から見て彼女は嫌われる要素のない完璧な女性だと思います。だって、まだ会ってから日が浅いのに私は柚子ちゃんのことが大好きです。

「客観的には違うかもしれないよ?」

 だけど、柚子ちゃんはそう言います。

「例えば、井戸の中の水は事実だけを見れば夏でも冬でも18℃なんだって」

 どこかの本で読んだ内容を私は話すことにしました。自分だけの言葉では彼女には届かないかもしれないから。

「でも、私たちはその水を夏には冷たく感じるし、冬には温かく感じる。感じ方は状況や思い込みにも左右されるものなんだよ」

 人からどう思われるかなんて、その人じゃないからわからない。自分らしく生きることは他人の目を気にして生きることとは違います。私はまだ柚子ちゃんの気持ちを聞いていません。失望されるから会いたくない、という彼女の言葉は、私には自分の気持ちを抑え込んでるように聞こえるのです。

「じゃぁ、あたしの主観の話していい?」

 柚子ちゃんはこっちを向いて笑います。悲しそうに、申し訳なさそうに笑いました。

「性同一性障害なんだよ」


「あたしの体と心は一致してない」

 胸に手を置いて、一言一言自分の身体に馴染ませるように、恐らく少しでも私にわかってもらうために、彼女は言葉を紡ぎました。

「それってレズビアンってこと?」

 私は確認します。東京にはいろんな人が居ます。だから、私は柚子ちゃんがどんな人だったとしても動じたりしません。他人の趣味趣向に、価値観に、とやかく文句を言うのは間違っています。なぜなら、それは相手を傷つけてしまうだけだからです。だから、私は大丈夫です。そう思っていました。

「んー、レズとは違うかな。レズの人は女の子が好きな人同士が付き合ったりするわけじゃない?あたしの恋愛対象は男に恋する女の子だから、あたしが好きになった相手は絶対にあたしに振り向いたりしない」

 だけど、私は柚子ちゃんの言葉を聞いているうちに気付いてしまいました。

「だから、あたしは片思いしかしたことないんだ」

 私は、他人の価値観を許容していたわけではありません。有象無象の人混みを避けて歩くように、個人を無視してきただけでした。自分には関係がないと線引きして、気にしない様にしていただけでした。

「片思いって楽しいじゃん?なんだか非日常的で、価値観が狂うっていうかさ」

 柚子ちゃんは丁寧に話してくれます。

「でも、一生狂ってるのは苦しいよ。あたしはそれを知ってる」


 この村で一番賑やかで明るい彼女には自分を認めるという自己肯定感がありませんでした。言い換えるなら、柚子ちゃんは変えられる人生の選択権が自分にはないと思っています。幼いころに親に見捨てられて、自分が性的少数派であるという事実が、自分の価値を決めてしまっているかのように。本当は柚子ちゃんが環境に対して主体的になれさえすれば全て彼女の思うままに生きていけるはずです。人は産まれた時から唯一無二なのに、彼女は自分ではない人の求める何かになろうとしてる。そして、苦しんでいる。彼女の主観が彼女を苦しめているのです。

「好きになった人に想いを伝えたことはあるの?」

 私は当たり障りのない質問しかできませんでした。

「ないねー」

 ふわぁ、と柚子ちゃんは欠伸をします。何かを誤魔化すような、噛み殺すような、浅い呼吸でした。緩くなった涙腺から流れた涙とも言えない液体は彼女の頬を伝って夜に溶けます。

「だって、あたしみたいなタイプが告白しても迷惑なだけっしょ」

 私はぼんやりと口の中に残ったアイスキャンディの甘未を思い出していました。この鮮やかな配色とわざとらしい甘さが誰にも好かれる要因なのでしょう。だけど、アイスの冷たさに舌が痺れて、空洞を噛んでいるような空しい触感しか今は感じられないのです。

「性同一性障害だっていうのが親に会えない理由?」

 質問を繰り返します。彼女に間違ったことを言わない様に、自分の意見を言わない様にすることが今私に出来る事でした。きっと、怖いのです。目の前にいる人のことを知らないままに言葉をかけるのは足場が見えない綱渡りをするのと同じなのです。

「そう。何も知らないなら、理想のままの姿でいたいじゃん?」

 やっぱり柚子ちゃんは本当の自分を抑え込んでいることが正しいと思っているのでしょう。私は私なりに彼女への理解を深めていきます。

「東京には柚子ちゃんみたいな人もきっといっぱいいるよ?」

 自分が世界でただひとりではぐれているなんて、そんなことはないはずです。この村にいるから視野が狭くなっているだけ。

「へぇ、東京は刺激的なんだね」

 まるで自分には関係のない人ごとのように彼女は言います。

「柚子ちゃん、自分が受け取る気がないとどんな環境だって、普段と何も変わらないよ。東京は刺激が多いわけじゃないの。ただ、いろんなものがあるから、柚子ちゃんの状況を変えるものがあるかもしれない。求めているものだって、もしかしたら見つかるかもしれない」

 それから、いくら待っていても返事はありませんでした。

「うん」

 私はひとりで呟いて、立ち上がります。ずっと縁側に座っていたから冷えてきました。バスの時間もあるのでそろそろ帰らないといけません。

「明日も店に来る?」

 柚子ちゃんの言葉に私は曖昧に応えて家を出ました。祭りの後の人混みはもう綺麗に消えていて、帰り道はすいすい進んで行けそうです。それなのに、私の歩みは重く、旅館までの道のりは何処までも長く感じるのでした。


 次の日も、その次の日も、私は柚子ちゃんに会いに行きませんでした。旅館の客室で私は考え事をしています。この村でできた私の新しい友達は今まで本当の望みを打ち明けることもせず、どうにもならない事情を自分のせいだと責めて生きてきたのかもしれません。それは、悲しいことでした。あんなにいい子で友達想いの柚子ちゃんがずっとひとりで孤独を抱えてきたのだと思うと、とてもやるせなくなります。だけど、私には柚子ちゃんを救ってあげられる言葉が思い浮かばない。持ってきた写真雑誌を眺めます。この頃は彼女は幸せだったんでしょうか。きっとそうなのでしょう。この写真の中の少女が幸せそうに見えたから、私はこの穴辻村に憧れてここに辿り着いたのです。


 穴辻村で過ごす最後の夜、私はもう一度柚子ちゃんに会いに行こうと決心しました。まだかける言葉は見つかりません。だけど、このまま何も言わずにお別れをするのはなんだかあまりにも寂しくて、そうするべきだとは思えませんでした。何度も乗ったバスに揺られながら私は物思いに耽ります。長いようであっという間の旅でした。この村に着いた夜、私はひとりでした。何も知らないままに憧れだけを連れて、携帯電話さえあればなんだって出来ると思っていました。でも実際は違いました。私はきっと、ひとりでは何もできなかった。柚子ちゃんが私を誘ってくれなければ、何もせずに、何もしなかったことにも気付かないまま、今日を迎えた事でしょう。バスが目的地に停まります。そうだ。柚子ちゃんは携帯を持っていないはずだから、電話番号を書いた紙を渡さなくちゃ連絡出来ないや。そう思いながら私は居酒屋に入っていきました。

 しかし、今日の店内はなんだかいつもと違いました。常連のお客さんの姿は見えず、普段よりも若い人たちで賑わっています。何かイベントがあるのかな?私は気になりながらも席に着きます。柚子ちゃんの姿は見えません。もしかして、今日はお休みなのでしょうか。そうだったら嫌だな。後でお家にも寄ってみようかな?しばらくするとバンドメンバーたちが楽器の調整を始めました。そうか、もうすぐライブの時間なんだ。だから柚子ちゃんは今、奥にいるんだ。私が思っていたその時です。

「ねぇ!もうすぐあのレズの人が出てくるんだよね!?」

 耳に入ってきたのは信じられない言葉でした。

「女のくせに女が好きなんて変よね」

「うん、気持ち悪い」

 それは柚子ちゃんを非難する会話で、野次馬根性で彼女のライブを見に来た人たちの囁きでした。

「どういう育て方したらそんなことになるんだよ。俺らの子どもも気を付けないとな」

 声は至る所から聞こえてきます。秘密がバレたんだ。この村の人たちは仲が良い悪いに関係なく、お互いのことを知っていて、柚子ちゃんの噂を聞いた人が彼女の働いているところまで調べて押し寄せてきたんだ。

「私たちも気を付けないと、狙われちゃうー!」

 異物だから、自分たちとは違うから、何を言ってもいいと思っている。下手に反抗できない職場にまで追いかけて、人が一番大切にしているライブを冷やかしで観に来た。歌を聴きに来たんじゃなく、珍しいマイノリティを見物しに来た。

「俺、レズに酒注いでもらったぜ。気持ち悪いけどこれも経験っしょ!」

「ちょっとー、流石に怒られちゃうよ」

 笑いながら、酔って大声になったカップルが、自慢げに心無い言葉を吐き出します。

「大丈夫だって。テレビ見てもわかるじゃん。ああいう奴らはホルモンバランスがおかしくなってるからずっと上機嫌なんだよ」

 痛い。私の心がじくじくと持続的な痛みに腐敗していきます。偏見で、理解した気になって、平気で人の事を見下す。いつもならくだらないと無視を決め込むでしょう。もしかしたら不愉快になって店を変えるかもしれません。でも、今攻撃されているのは私の大切な友達でした。人に迷惑を掛けない様に、心配させない様に、いつも明るく笑っていたあの柚子ちゃんでした。

「じゃぁ私もレズの真似しよー!」

 我慢の限界です。

「やめろ!!」

 私は椅子が倒れるくらい思いきり立ち上がって叫んでいました。


「なに、大きな声出して?」

 会場はざわついています。私は周りを気にする余裕もないくらいに憤りを感じていました。悔しい気持ちが溢れてきます。友達を馬鹿にされることは自分が軽んじられることよりも、その倍くらい痛い。私は立ち向かわなければいけませんでした。そうでなければ、友達と笑いあっていられないのです。お別れも再開の約束も日々の感謝も私はしたい。心から柚子ちゃんの味方なんだと胸を張って生きていきたい。だから、立ち上がったのです。

「なによ、突然。最近の若い子は怖いわね」

 中年の女性が遠巻きで煽ってきます。私は周囲に馴染めていない個人でした。この場には気持ちの悪い同調圧力があって、そこからはみ出しているものは攻撃の対象なのでしょう。誰もその女性を止めようとしません。自分たちが間違っているなんて認められないのです。同じ価値観でいることが集団で生きることにおいて最重要で、私や柚子ちゃんは余所者として扱っていいと思っているということです。

「歳が違うから理解できないなんて逃げるな!同世代だって、みんな同じじゃない。みんなそれぞれ価値観があって、自分と違うのが当たり前なんだ。違うから、理解しようと歩み寄るんだ!」

 視界が真っ赤に染まるくらい頭に血が上っているのがわかります。女性は怯えるように一歩下がります。それでも私は止まりません。栓を抜いた水槽のように、痛いくらいの勢いで感情が放出されていきます。水槽の水がなくなるまで、誰にも止められません。

「柚子ちゃんはな。何でもできるし、優しくて、人のことを考えられる子なんだ」

 震えながら、肺の空気が全部なくなっても、叫ぶことが出来なくなっても、私の怒りは収まりません。

「お前が、お前らが、何も知らないくせに好き勝手外野から騒ぎ立てるから人が不幸になるんだ」

 涙が出てきます。それは、ぐつぐつと燃えるような私の感情でした。私は涙を拭います。感情に支配されてはいません。今、立ち止まるわけにはいかない。手の甲で拭いた雫は熱い。

「柚子ちゃんは幸せになるんだ!」

 私は会場に向かってもう一度叫びます。これは私と私を煽ってきた女性との問題ではありません。

「何も知らないお前たちが柚子ちゃんを笑うな!人の人生を馬鹿にするな!!ふざけんなや!!」

 私と穴辻村の戦いなのです。柚子ちゃんに連れて行ってもらった素敵な村の、柚子ちゃんが紹介したいくらい綺麗な村の、私が唯一許せないところ。見逃してはいけない大切な部分。

 体全体で息をするくらい興奮していた私の肩を誰かが押さえました。私は驚いて振り返ります。

「静かにしろ、バンミー」

 店長でした。私は一瞬冷静になります。店長の大事な店で騒いでしまった。迷惑をかけてしまった。

「でも!」

 それでも、私が間違っていたとしても、ここで引くわけにはいかないのです。しかし、私の想いを知ってか知らずか店長は首を横に振りました。違う、そうじゃない、と。

「柚子のライブが始まる」


「おおー!ここでライブして以来初めてこんなに注目されてるねー!」

 柚子ちゃんが出てきました。いつもみたいな調子で、まるで愉快なことがあった直後のような表情で。

「さっきの喧嘩、奥まで聞こえてたよ。ありがとう、バンミー。あたしの為に怒ってくれて。めちゃくちゃかっこよかった」

 私は何も言えずただこくりこくりと首を振るしか応えるすべがありませんでした。さっきまで壊れるくらいに出てきた言葉が突然止まってしまったのです。水槽の水がなくなったのです。いや、違うのかもしれません。柚子ちゃんが、彼女の普段通りの佇まいが、栓を閉め直してくれたのかもしれません。とにかく、私は何も言えませんでした。

「もう。また泣いてんじゃん」

 彼女は笑います。私は泣いているのでしょうか。本当に泣いているかもしれないし、本当は泣いていないのかもしれません。彼女の言葉の真意はわかりません。

「さて、みんなもう知ってるみたいなんだけど、あたしが噂の柚子です」

 会場は静かでした。誰もが彼女の言葉をただ聞いていました。さっきの女性がばつが悪そうにお酒をちびちびと啜ります。

「あたしは今まで歌を誰に伝えていいか分からないから大声で歌ってきた」

 囁くように、呟くように、大切な言葉を壊さないよう優しく、

「でも、今日はね、伝えたい人に伝わるように心を込めて歌うよ」

 彼女は笑います。明るく、申し訳なさそうに、誰かを励ますように、悲しく、楽しそうに。

「聴いてください。新曲です、Important」


 君の声も 泣きながら笑う瞳も

 指の形や 綺麗な頭も

 私はいつも求めているものから逃げてしまう

 

 君の言う通り 私は逃げてしまう

 だけど教えて もしも今日、夜が明けないのなら

 私の隣にいてくれますか?


 なんて言えばいいか分からないけど 伝えたいからさ

 手を掴んで 言葉を探した

 You are important, alright, ai, ai?

 

 思い出は輝いて 今が暗く感じるよ

 心の形や なぞられた表面も

 私はいつも求めているものから逃げてしまう


 君の言う通り 私は逃げてしまう

 だけど教えて もしも太陽の下を歩いていいのなら

 私の隣に来てくれますか?


 なんて言えばいいか分からないけど 伝えたいからさ

 手を掴んで 言葉を探した

 You are important, alright, ai, ai?

 Still important to me


 歌い終わった後、柚子ちゃんは息を思いきり吸いました。会場でただひとり、息をしていました。

「どうだった、新曲?」

 彼女の言葉によって、思い出したようにみんなの時間が進み始めます。

「かっこいいじゃん……」

 誰かが呟きました。その一言は伝染していきます。会場は拍手で包まれました。この前のライブでは誰も拍手なんてしていなかった彼女の歌は、いま確かに人の心を動かしたのです。

「こころに響いた!!」

 私と言い争っていた女性が突然そう叫びました。おちょこを掲げて、乾杯と言って飲み干します。皆も彼女に倣ってお酒を乾杯し始めました。誰も柚子ちゃんの事を馬鹿にしません。いいものを見たと、笑いあっています。私も笑ってしまいました。私が全員を敵に回す覚悟で怒る必要なんてなかったのでしょう。柚子ちゃんは自分で不利な状況を覆してしまったのです。

「あはは、ありがとう。でも、みんなに言わないといけないことがあるんだ」

 タオルで汗を拭いながら、彼女は会場全体に向かって話します。

「あたしはこの村から出て、東京に行きます」

 突然の宣言でした。ざわつきが起こります。レズに偏見なんてないよ!と誰かが言います。私はまた笑ってしまいました。この中で、きっと私だけが彼女の言葉の意味を知ってる。

「あたしはね」

 それが笑い出すくらい嬉しかったのです。

「あたしなりに幸せになりたい!!」


 ライブが終わり、私は居酒屋の前の喫煙エリアで柚子ちゃんを出待ちしていました。自分でも驚くくらい、すっかりファンみたいな行動です。いや、友達なんだから当然だとここは言っておきましょう。柚子ちゃんは店内でお客さんに質問攻めにされています。なんだか大変そうだな、と思いながら私は足元で渦を作りました。しばらくすると、彼女が出てきました。

「ライブお疲れ様」

 私の言葉に頷いて、彼女は煙草に火を灯します。

「うん」

 嬉しそうにそういうのでした。

「かっこよかったっしょ?」

 私は笑いながら彼女に同意します。

「かっこよかった」

 夜空に紫煙が浮かびます。煙草の匂いが分かるくらいの距離で私たちは話し合っていました。

「バンミーの啖呵もかっこよかったけどさ、最後らへん関西弁になってなかった?」

 私は思わず笑ってしまいました。私は怒ったことがあまりないから、無意識にいつも怒っている朋ちゃんの特徴を真似してたのかもしれません。


「よっ」

 扉の奥からのそのそと出てきたのは店長でした。彼はいつものぶっきらぼうな様子で柚子ちゃんの隣に立ちます。

「煙草、くれよ」

 頭を掻いて彼は言います。

「店長って煙草吸うんだ」

 私は驚きました。彼が煙草を吸っているところを見たことがありません。喫煙エリアが店から少し離れたところにあったことから、私は勝手に店長は煙草が好きではないのだと思っていました。

「たまにな」

 柚子ちゃんが煙草を取り出します。

「お、最後の一本じゃん!ラッキーだね!」

 彼女は店長に煙草を手渡して、その肩を叩きました。やけに親しい柚子ちゃんの態度も、面倒くさそうにそれを躱す店長も、もう見慣れたものです。私がここに来て最初に見たのもこのふたりのやり取りでした。

「行くのか?東京」

 煙草を一服して彼は言いました。

「うん。行こうと思ってる」

 彼女は少し間をおいて、笑顔でそう答えました。


「柚子、みんなが噂してるあれだけど」

 居酒屋の中は騒がしいくらい賑わっているのに、私はふたりの会話しか聞こえてきません。まるで今この世界の焦点はふたりに向けられていて、それ以外はぼやけているかのような不思議な感覚でした。

「うん。あたしの心は女じゃない」

 ずっと一緒にいたふたりだから、柚子ちゃんの告白はきっと大事なのです。誤魔化したり、茶化したり、蔑ろにしてはいけないのです。私は黙っていました。

「それって何%くらいなんだ?」

 店長の口から出たものは不思議な質問でした。

「%?考えたことないかも」

 柚子ちゃんは頭を捻ります。どういう意図なのか分かりかねるといった様子でした。私は柚子ちゃんよりも早く気付いてしまいました。彼は可能性を模索しているのです。自分が彼女と過ごしていい理由を。彼女を想う正当性を。

「俺な、柚子が好きだ」

 いつも忙しそうにしている店長が柚子ちゃんと真面目に向き合っている状況は、この時初めて目の当たりにしたかもしれません。彼は今までまともにこっちを見ることがなかったから。

「え?」

 それは悪足搔きでした。最後まで柚子ちゃんへの理解を拒んだのは居酒屋に集まった野次馬ではなく、彼でした。彼は彼女を馬鹿にする人たちの中でも同調すること無く、私のように怒りを爆発させることもなく、ただ静かに信じていたのです。

「嫌か?」

 店長は優しい人でした。最初に感じたサバサバした第一印象よりもずっと人に気を遣えて、柚子ちゃんの我儘にも嫌そうな顔をしながら応じて。

「嫌じゃないよ。嫌じゃない」

 柚子ちゃんは首を振ります。否定。だけど、そこに意味はありません。そもそも店長は自分の気持ちに答えてもらおうとしていませんでした。そういう質問の仕方ではありません。あくまで柚子ちゃんを気遣った様な言い回しでした。

「……迷惑か?」

 困ったように問いかける店長。

「そんなことない。けど、気持ちには答えられない」

 柚子ちゃんの言葉を聞いて、私はふと思います。相手に好意を寄せられて嫌な気持ちになる人がこの世界にはどれだけいるのでしょうか。誰だって心の中では本当の意味で悪い気にはならない。人に好かれるということは、裏を返せば自分は少なくともその人にとっては、特別な人間であると告げられていることにはならないでしょうか。

「そうだと思った」

 沈黙の後、吹き出す様に店長は笑いました。

「柚子のさ、いい歌だな」

 彼は私の背中をぽんっと叩きました。もう黙っていなくていい。ふたりだけの時間は終わった、という意味でしょう。

「店長があたしを褒めるなんて珍しいね」

 鼻をすすって、柚子ちゃんも笑います。彼女がいつも笑っているのは、もしかすると店長が彼女を安心させてくれているからなのかもしれません。きっと、私が知らないふたりの関係性があるのでしょう。

「今日の曲、柚子が誰に伝えたかったのかは俺にはわからないけど、いつか俺の為に歌ってくれないか?俺、その時までにお前の言葉、きっとわかるようになるから」

 ふたりで煙草をふかして、煙が空でひとつになります。

「この煙草、いつか返してね」

 それは友情なのでしょう。でも、友情だって立派な愛なのでしょう。私は信じます。

「ペソで返してやるよ」

 私たちはどれだけ外に居たのでしょうか?少し冷たい風が私の肌を撫でます。

「言っとくけど、ペソを手に入れるのは大変なんだよ?」

 店、空けないと手に入んないよ?と柚子ちゃんは楽しそうに店長の肩を叩きます。

「期待しとけ」

 そういうと店長はほったらかしにしていたと、いそいそと店に戻っていきました。忙しい人だね、と柚子ちゃんは言いました。私は賛同します。いつも忙しそうで、一生懸命集中してて、人にやさしい。私と同い年のいいやつです。私たちは彼から少し遅れて騒がしい店内に入っていきました。


***


 目を開けると、そこには何もありませんでした。白い空間に私は立っています。距離の感覚がありません。少し手を伸ばせば何処までも届く気がするし、一歩下がれば今の位置を見失うほど離れてしまいそうな予感があります。これは、夢だ。穴辻村に来て何度も夢を見ていた私は直感します。私は昔を思い出す様に夢を見てきました。それはいつだって朋ちゃんの思い出でした。だけど、この風景は記憶にありません。私は辺りを見渡します。すると、何もなかった空間に芽が出て、それは凄いスピードで草原になりました。上を見上げるといつの間にか青い空が広がっています。空に浮かぶ雲も尋常じゃない速度で流れていきます。ここは何処なんだろう。そう思いながら私は歩き始めました。なんだか変なところに来ちゃったみたいです。居酒屋でまた強いお酒でも飲んだのかな?私は頑張って記憶を甦らせようと頭を捻ります。柚子ちゃんのライブが終わって、居酒屋で少し食事した私は彼女に短い挨拶をして旅館に戻ったはずです。お酒を飲みすぎたわけでもないし、変な夢を見る要素はなかったように思います。この変な世界で気が遠くなるほどの長い距離を私は歩きます。

 すると、遠くに誰かが立っているのが見えました。声をかけるか迷いながら私は近づいていきます。その人は向こうを向いて、誰かを待っているみたいでした。腕を後ろに組んで体を左右に揺らしています。身体のラインが薄く透けて見えるくらいの純白のワンピースと素足。私は走り出しました。息が切れるくらいの速さで彼女に近づいていきます。私はその子に見覚えがありました。西朋美。私の親友だった女の子です。

「朋ちゃん!朋ちゃん!!」

 私は叫んでいました。

「ねぇ!聞こえてる!?何か言ってよ!」

 私と朋ちゃんは大学で出会いました。ある日、講義に遅れた朋ちゃんは後ろのほうの席でカリカリとノートを取り続けていた私に声を掛けました。それから小一時間くらいノートを貸すか貸さないかの押し問答が続き、疲れた私たちはいつもよりも遅い昼食を取ろうと食堂に向かいました。混雑する時間を過ぎていたからか、食堂にはほとんど人はいませんでした。私がきつねうどんを購入して席に着くと、向かいの席で朋ちゃんがお弁当を広げていました。不思議に思った私は、なぜ食堂に来たのか?と尋ねました。すると彼女は、ノートを貸してもらうまでは離れないと答えたのです。それ以来、私たちは一緒に行動するようになりました。気が付けば講義もサークルも休みの日でさえお互いに相談して同じ時間を過ごしました。

「朋ちゃん、私は怒ってるんだよ!?」

 だけど、大学を卒業して1年後、朋ちゃんは連絡がつかなくなりました。実家に帰るという話は聞いていたので、東京にいる私とは疎遠になる可能性は私も考えていました。しかし、近況を報告する連絡もなく、まるで最初からいなかったみたいに朋ちゃんは消えてしまいました。

 最近の私は本当によく泣いています。私は弱くないのに。これは朋ちゃんのせいです。

 少し前に、朋ちゃんの実家から連絡がありました。それは訃報でした。大学を出て少ししたとき、彼女の体に腫瘍が見つかりました。手術で摘出するにも、腫瘍はあちこちに転移していて余命があとわずかであると家族に告げられていたそうです。

「なんで私に相談してくれなかったの?悩み事があるなら、なんでも話してくれたらよかったじゃん!?私たち、親友じゃなかったの!?」

 私は突然の親友の死を受け入れられませんでした。理解をしようと頭で考えれば考える程、無力感と喪失感に襲われました。心が冷たくなっていって、生きている心地がしませんでした。

「ひとりで悩んで、ひとりで苦しんで、ひとりで何処かに行かないでよ!」

 流れつくしたはずの涙は、また溢れています。死を受け入れるというのはどういうことなんだろう。何を失ったか理解して、悲しみから立ち直って、それでも未だに涙が流れるのです。私は一生、親友の喪失を受け入れられないのかもしれません。

「一緒にいるって言ったじゃん」

 霞んでいる眼で朋ちゃんを睨んで、私は拳を強く握ります。

「また一緒に旅行しようって言ったじゃん」

 私の呟きにようやく朋ちゃんが振り返ります。そこに居たのは元気ないつもの朋ちゃんでした。

「美波」

 彼女の声は私の名前を呼びます。懐かしい響きがゆっくりと私に染み込んでいきます。


「私に会いたくなかったんでしょ?どうせこの世界からいなくなるなら誰にも教えないまま消えてしまいたいって思ったんでしょ?」

 ひとりで朋ちゃんのことを考えるとき、私はこんな風に卑屈になることはありませんでした。だけど、本人を目の前にするとこんなにも苦しい。不満をぶつけしまうのです。この夢が覚めて朝になってしまうまであとどれくらいなのでしょうか。話したいことが溜まる一方で、それは私の思惑とは違う形で口から出ていきます。私がテレパシーを使えたらどんなに良かったでしょう。感情的な言葉を使うことなく純粋な想いを届けられたら、きっとこんな喧嘩をしたいわけじゃないって伝えられるのに。唇を噛み締めます。

「なんでなんだよ……!」

 涙を抑えられずに憤りを感じている私に朋ちゃんがゆっくりと近づいてきます。そして、慰めるように私の頬を伝う涙を優しく拭いました。

「うちは美波の前ではいつも強気やったやろ?だから、弱っていく姿を見せたくなかった」

 私は彼女の手を掃います。

「ひとりで強い人なんていない!私は朋ちゃんを強いだなんて思ってない!」

 掃われた手を眺めて、朋ちゃんは悲しそうに微笑んで、こちらを見ます。

「そうやな。うちは弱かった」


「最後に美波の顔、見る勇気もなかったんかな」

 風が吹いています。暖かくも、冷たくもない風。私の知らない感触。周りの景色は止まることなく高速で動いているのに私たちの間に流れる時間だけは静かでした。辺りはもうすっかり暗くなっていて頭上には星空が瞬いていました。星はゆっくりと反時計回りに動いています。

「私、流れ星に願ったの」

 私は空を見上げます。

「朋ちゃんともう一度会いたいって、願ったの」

 もう一度、流れ星を探そうとしたって無駄なのでしょう。だって、私が願いを唱えた流れ星は空から降ってきたものとは違います。あれは柚子ちゃんが私の為に作ってくれた流れ星だから、どんなに弱い光の反射だとしても世界で私だけが願いを乗せた流れ星です。

「願い事、叶ったよ」

 

「美波」

 朋ちゃんが私を呼びます。これが最後なのでしょうか。たとえ夢であったとしても私は朋ちゃんともっと話したい。何度だって気軽に会って、話して、馬鹿なことをしていたい。一緒に旅行に行きたい。一緒にお酒が飲めるようになるまで挑戦したい。美味しいものだって食べたい。だけど、これからは朋ちゃん抜きで、私一人でこの世界に挑んでいかなくてはいけません。

「朋ちゃんは私の友達だから。死んだって、ずっと私たちは友達なんだから。勝手に私を置いていこうとしたって駄目なんだから」

 だけど、私はまだ踏ん切りがつきませんでした。立ち直れる気がしません。朋ちゃんなしで人生に立ち向かえる気がしないのです。悲しい。寂しい。何をしていたって分かち合える友達がいなければ意味がないのです。この夢が終わってしまえば、私は独りぼっちです。そんな気持ちを知ってか知らずか、朋ちゃんは私の肩を思いきりパンチしました。彼女は笑っています。

「うちが間違ったら本気で怒ってくれる友達がいる。うちの為に泣いてくれる友達がいる。これがどういうことか分かる?」

 にやけ顔で私に問いかけてくる朋ちゃん。私は殴られた肩をさすりながら怒ります。

「わかんないよ!」

 いきなり攻撃された衝撃でしょうか、涙はもう止まっていました。

「この人生はうちの勝ちってこと」

 目の前にいるのは、笑顔が綺麗な女の子でした。

「美波はきっと立ち上がれる。頑張れ」

 目の前にいるのは、私の生涯の親友でした。

「だから、美波。笑え」

 世界が閉じていきます。私は何かの力で後ろに引っ張られて、朋ちゃんから離れていきます。ひとつの芽から生まれた草原は急速に地面に戻っていきます。夢が、終わるのです。これは人生で初めて見た夢ではないし、きっと最後に見る夢でもないのでしょう。なにも特別なことではないのです。だけど、この夢から覚めたくないと強く想います。朋ちゃんに別れの挨拶をすることなくいなくなってしまうのが残念でした。だけど、これでよかったのかもしれません。私はさよならの言い方をまだよく知らないのです。だから、これでよかったのかもしれません。


***


 私はバスを降りるとひとりでキャリーケースを運びながら駅に向かいます。思い返せば大変な旅でした。心細い中、柚子ちゃんに出会い、店長のお世話になって、もう会えないと思っていた朋ちゃんの事を思い出して、彼女の夢を見て。今思えば、私が穴辻村に辿り着いたのは運命なのかもしれません。落ち込んでいた私を励ます様に、本当にいろんなことが起こりました。これからも大変な日々の中で私は自分の気持ちと向き合って、これから先の人生を生きていくのでしょう。

 駅を改札を抜けた後、私は自分のミスに気付いてしまいました。昨日の夜、柚子ちゃんに会ったのに連絡先を渡すのを忘れていました。今から引き返して居酒屋に行こうかな?でも、まだ店は開いていないかもしれないし、柚子ちゃんの家に直接行った方がいいのかな?こういう時に携帯電話の電波が繋がらないのは本当に不便だな、と私は不貞腐れます。でも、仕方がありません。帰りの新幹線の搭乗時刻を遅らせて柚子ちゃんの家に向かおう。そう思ったとき、誰かが私の肩を叩きました。

「柚子ちゃん!?」

 そこに居たのは柚子ちゃんでした。彼女は私の目の前で駅の入場券をひらひらと翻らせて見せます。

「今日、東京に帰るんでしょ?」

「うん」

 柚子ちゃんは腰に手を当てて深呼吸をしました。

「あたしもいろいろ済ませたら東京に行くよ」

 わはは、と彼女は笑います。

「これ、私の住所」

 私は昨日渡すはずだったメモ用紙を彼女に差し出しました。「バンミー・住所・連絡先」と書かれた紙です。

「柚子ちゃん、携帯電話持ってないでしょ?連絡が取れないといけないから、私の電話番号も書いておいた」

 彼女はそれを受け取って大事そうにポケットにしまいました。

「ありがとう。迷子になったら連絡するよ」

 駅のホームではちらほら人が集まってきました。この中には遠くに通勤している人や、この村から出ていく人がいるのでしょう。

「この穴辻村の事恋しくなるのかな?」

 柚子ちゃんは聞きました。

「うん。きっと何度も思い出す」

 私は、わはは、と笑って柚子ちゃんに答えます。その時、ホームに乾燥した木枯らしが吹き抜けました。あまりの強い風が人を押します。私たちも押されて、よろけて、笑いあいました。もうすぐ秋になります。新しい季節が巡ってきます。

 私は本物の流れ星を見たことがありません。もしかしたらこのまま一度も流れ星を見ることなく人生を終えるのかもしれません。まったく夢のない話です。だけど、願いを叶える方法は知っています。星の作り方を知っています。生きるって多分そういうことなのです。奇跡を待つだけじゃなくて、他人とは違う自分と向き合って、友達を思いやって、苦労しながら試行錯誤を繰り返して、笑いながら人生と向き合っていくのです。

 東京に帰ったら今回の休暇を取った分、まじめに働かないといけません。休みの日は友達と集まって遊んでもう一度お酒に挑戦するのもいいでしょう。そして、また時間を見つけて朋ちゃんのお墓に近況を報告しに行きたいと思います。頑張って、生きるのです。私は幸せになりたい。眩しくなくてもいい。私の心はあの灯篭に照らされた流れ星のように。

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