第五章:宿命の狭間で蝶は舞う②

 ほわほわと宙を舞う湯気からすうっとした清涼感のある匂いが香る。気休め程度とはいえ、鎮痛作用のあるペパーミントティーをチョイスしてくる辺り、こんなときでも絶好調なロイエの観察眼には舌を巻かずにはいられない。彼のことだから、俺の頭痛に気づいていてこれを選んだに違いない。

 一体どこに隠してあったのか、ロイエのお気に入りのパティスリーのものだというババロアを出してくると、彼は俺にそれを勧めてくる。

 ミルキーで滑らかな舌触りのそれをスプーンで救いながら、ロイエは憂鬱そうに口を開く。これから話す内容は、ロイエにとって余程気も口も重いものなのだろう。

「アタシ、何年か前までは騎士団にいたのよ」

 今のロイエのことをほんの少し知っているだけの俺からすれば、彼が騎士団にいたというのは少し意外だった。しかし、彼が今、寝巻きがわりに身に纏っているボタニカル柄があしらわれたクリームイエローのティアードシャツワンピースの袖口や裾から覗く伸びやかな手足には、ただの服屋の店員には似つかわしくない鍛えられた筋肉が乗っており、さほど不自然な話でもなかった。

「この国には、王家を影で守護する一族がいるの。この国の建国と同時期に東方から流れ着いた≪蝶≫の一族――それがアタシの生まれ育ったフーディエ侯爵家よ。≪蝶≫の一族に生まれた者は、いずれエルリエ王家の守護者となるのが宿命さだめ――東方由来の技術である符術で王族を守り、時に戦わねばならない」

「それって……」

 初めて聞く話だった。王都から遠く離れた田舎で暮らしていた身の上だから知らないのは当然のことかもしれないが、この国の仕組みにまつわる機密だと思われるこんな話をおいそれと俺なんかが聞いてしまっていいのだろうか。

「いいの、気にしないで。アタシはもう一族の名を捨てた身なんだもの」

 戸惑いを隠せずにいる俺へ向けて手をひらひらと振りながらロイエは苦笑する。そして、今は両方とも緑になっている目を懐かしそうに遠くへと向けると、

「≪蝶≫の一族の長男としてアタシ――ユリシス・フーディエはこの世に生を受けた。アタシは妾腹の子ではあったけれど、初めての男児だったこともあって、後継ぎとなる予定だった。十代の半ばには一族の慣習に従って騎士学校に入り、そのまま卒業後は騎士団に籍を置いていた。父から当主の座を継ぐまでの腰掛けみたいなものね。まだ本格的に王族に仕えるようになる前だったとはいえ、生まれのせいもあって、アタシは王家の人々とまみえる機会も多かった。あれは十九の春のことだったわ。アタシがあの方に出会ったのは」

「あの方って?」

 俺が聞くと、彼は痛みを堪えるようにその名を告げる。

「メルティア・エルリエ――この国の第二王妃よ。

 彼女は元から体は強くなかったらしいのだけれど、娘であるリアーナ姫を産んでから、殊更に病床に臥せていることが多くなってしまって、ほとんど表には姿を現すことはなかった。

 だから、アタシは彼女に初めて会ったとき、彼女があの第二王妃だなんて気づかなかったのよ」

 あくまで淡々と言葉を紡いでいくロイエの表情は俺には辛そうに見えた。見かねてもうそのくらいでと口を挟もうとした俺を制止して、

「いいの、いいのよ。すべてはアタシの自業自得だもの。

 アタシが彼女に出会ったのは王城の庭の隅にある四阿だった。そこで出会った彼女はひどく儚げで、白に近い桃色の髪や薔薇色の瞳も相俟って、何だか花の精霊みたいに見えたわ。二十七という年齢の割に少女じみた容貌のせいもあって余計にそう見えたんでしょうね。少なくとも、十歳になる娘がいる母親だとは思わなかったし、どこかの貴族の御令嬢かとしかその時は思わなかった。

 ただ、何だかそこだけ絵画の中の世界みたいに思えて、アタシは彼女に目を奪われた。そして、気がついたらアタシは彼女に話しかけていた。

 彼女とたまに同じ場所で会って言葉を交わすようになったのはそれからよ。いえ、アタシが彼女に会いにいっていたというのが正しいのかしら。気づけば、アタシは彼女のことばかり考えるようになっていたわ。彼女に惹かれていることに気づいたころには、アタシはもう彼女の正体を知っていたというのに……それでも彼女への想いは日に日に募り、アタシの中で膨れ上がっていくばかりだった」

 ロイエの自嘲めいた言葉の端々から、愛しさの残滓が滲む。彼は過去のことにしているつもりでも、きっと彼の中では本当はまだ終わりきっていない恋なのかもしれないと俺は思った。

「少しでも彼女によく思われたくて、アタシは自分の外見に気を使うようになったわ。流行りのファッションを研究してみたり、見様見真似でいろいろな美容法を試してみたり、ね。気がつけば自分で自分の身を飾ることが楽しくなってしまって、気がつけばこんなふうになっていたりもするのだけれど。

 でも、アタシは王家を守護する≪蝶≫の一族の者。間違っても守護対象の彼ら――よりにもよって主の妃である彼女へと卑しい感情を抱くことなど決して許されはしない。だから、アタシは決めたの。王家を守って陰で戦う宿命さだめも、一族の名前もすべて捨てて、市井に生きることを」

 彼女に関係するすべてのことから距離を置きたかったの、とロイエは寂しそうに言う。その横顔は、悩める俺をいつもファッションや美容の面からサポートして導いてくれている人のものとは思えないくらい何だか頼りなげで、暗闇の中で迷子になってしまった子供のように見えた。

「だから、騎士団も辞めることに決めたの。騎士を続けていれば、職務上の都合で登城せざるを得ないことだってある。そういったタイミングでもし彼女と顔を合わせてしまったら、遠くない未来にきっとアタシはきっと想いを抑え続けていられなくなるって思った。表向きは家庭の事情ということにして、アタシは騎士団を辞めた。騎士学校時代から親しくしていた同期のオルウィにだけ、すべてのことを洗いざらい打ち明けて」

 そうでもしないとあのときは苦しくて苦しくて心が壊れてしまいそうだった、と言ったロイエの緑色の両目は切なそうに揺れていた。

「それから、アタシは今の名前であるロイエ・ランツェ――フーディエ公爵家のメイドをしていた死んだ母の名を名乗るようになったの。そうして、ただの一市民となったアタシはそのころにはすっかり大好きになっていた服飾の道で生きていこうと決めてこの店を開いたのよ」

 それだけの覚悟を決めて、自らの生まれも秘めた想いも捨てた人に俺は符術の教えを請うていいのだろうか。きっと俺のことがなければ、ロイエは二度と符術などといったものとは関わることなく生きていくつもりだったはずだ。

 甘いはずのババロアの味が何だか苦い。いつの間にかペパーミントティーはすっかり冷めきってしまっていた。話が途切れたことで室内には夜の静寂が満ちる。

 強くなるために誰かに教えを請うてきちんと符術の勉強をしたいという気持ちとロイエの過去と心情を慮るべきだという気持ちで俺の心は揺れる。俺の迷いに気づいたのか、冷めた茶に口をつけながら、仕方ないとでも言いたげにロイエはふっと薄い笑みを漏らす。

「今でもあのころのアタシの選択は間違っていたとは思わない。けれど、その一方であの選択は逃げだったとも思うわ。アタシを取り巻く環境からアタシ自身を隔離して、伝えられない想いに蓋をして。ただ、アタシを苦しめるすべてのものが視界に入らないようにしただけ。だけど、どうやらアタシは自分が選択したことのツケを払うときがきたみたい。

 アレン、あなたはアタシと違って、まだ諦める必要なんてない。ライバルがどれだけいようと関係ないわ。アタシはアナタの背を押せるなら、アタシが知りうる限りのすべてを叩き込んであげる」

「ロイエさん……いいんですか?」

「ええ。だけど、このアタシが教えるんだから覚悟してなさいよ。明日から朝の始業前の二時間と、仕事が終わったあとの三時間。ビシバシいくわよ」

 それにこのアタシのライバルに骨がないんじゃつまらないでしょう、と言い添えてロイエはこちらへとウィンクを飛ばしてくる。

「え、ちょっと待ってくださいロイエさん! 俺がロイエさんのライバルってどういうことですか!」

 ロイエの言葉を聞き咎めた俺がそう喚くと、彼は人の悪い笑みを浮かべ、

「言ってなかったかしら? アタシ、サナちゃんとはちょっとした知り合いなのよ? あの子本当にいい子よねえ、アタシあの子のこと好きよ」

 もちろんそういう意味でね、とロイエは悪戯っぽく言う。この前のサナのことが気になるとかいう発言はあながち冗談でもなかったのか。

「えっ……ちょっと、さっきの話に出てきた王妃様はどうしたんですか!」

「それはそれ、これはこれよ? アレンにはまだわからないかもしれないけど、オトコの恋は新しい順で上書かれるんじゃなく、ラベリングした瓶の中に入れて保管なの。サナちゃんはねえ、傷心のアタシを救ってくれた天使なのよ」

「それどういう意味ですか!?」

 俺はこうして、強くなるための符術の師を得た。しかし、同時に新たなる恋敵ライバルをも得てしまったようだった。

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雰囲気イケメンですが彼女の恋愛対象になれますか!? 七森香歌 @miyama_sayuki

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