海風が強すぎるから

満つる

海風が強すぎるから


「花火が見たいの」

 あなたがぽつりとそう言ったのは、あれはふたりでお酒を飲んだ帰り道。梅雨が明ける直前で、雨上がりの道路が街灯に照らされ、銀色に光っていた。

「うち、寄ってく?」

 喉元まで言葉が出かかったけれど、光るアスファルトに視線を落としたままのあなたの横顔がやけに白く見えたから、ぼくはその言葉を飲み込んだ。それでもぼくの心は舞い上がっていた。

 だってふだんのあなたは「花火が見たい」だなんてそんな可愛いくて真っ直ぐな言葉、ろくに言ってなんかくれない。いつもおとなの顔していつもぼくを優しい目で見て、それから決まって言う。「いいのよ、あなたの好きにして」

 そんな言葉なんてちっとも欲しくなんかないのに。もっとわがまま言ってほしいのに。ぼくには、ぼくだけには、もっと甘えて色んな顔、見せて欲しいのに。

 そんなあなたのねだりごとだったから、ぼくは必死になって調べた。あなたとふたりで花火を見られる特別な場所なり方法はないものかと。運良く、ああこれなら、と思うものが見つかった。

 だったら。珍しくあなたがぼくに甘えてくれたこの機会、逃したくはない。いや、逃すものか。

 ぼくは、ぼくの気持ちを形にしてきちんとあなたに贈りたい。そう思ったんだ。


 ぼくがあなたと知り合ったのはバイト先。大学生のぼくと、社会人としてぼくたちバイトのサポート役だったあなた。頼りがいがあって優しいのに、言われなければ10才上なんて絶対に分からない少女のようなあなたに、ぼくはすぐに惹かれてしまった。あなたはずっと首を縦に振ってくれなかったけど、それでも結局はぼくのなりふり構わぬアプローチに負けてくれたんだ。「駄々っ子には敵わない」苦笑混じりにぼくを受け入れてくれたあなたには、その時のぼくの天にも昇る心地はきっと今でも分かってないだろう。

 ぼくはあなたと出会えてこうして恋人として付き合えるようになった、ただそれだけで十分過ぎるほど幸せだった。でも、社会人になってからは、それだけじゃやっぱりどこか何かが足りなくてダメなんだと思うようになっていった。あなたをもっと安心させて、しっかりとした形でお互いをつなぎとめたい、そう思うようになってしまったぼくは、ただの欲張りなのだろうか。それとも。

 だってぼくはあなたが欲しい。あなたを独り占めしたい、ぼくだけのあなたにしたいんだ。できる、できないじゃない。そうしたいんだ。

 もうこれ以上、この気持ちを抑えきれそうになかった。



 その日は朝から快晴で、セミの声がうるさいくらいだった。夕立は起こらず、雷雲も見当たらない。気まぐれな夏空はどうやらぼくに味方してくれたらしい。弾む心を抑えてぼくは車のイグニッションキーを回した。

「どこへ行くの?」

 ワンピース姿のあなたが小首を傾げながらぼくに尋ねる。

「内緒」

 助手席のドアを開けながらぼくは微笑む。ドアを閉め、運転席に戻ると、ぼくはゆっくりと車をスタートさせる。

 高速道路は順調に流れ、あっという間に目的地へ着いた。駐車場に車を止めて、助手席のドアを開ける。あなたは不思議そうな顔をして辺りを見回した。

「ここは?」

「カーフェリーの発着場。今からカーフェリーに乗るんだ」

「カーフェリー?」

「そう。乗るのはぼくたち人間だけだけど」

「乗ってどうするの? どこへ行くの?」

 あなたの顔に戸惑いの色が差す。

「ちゃんと帰れる?」

「もちろん。だって、対岸に渡ってそのままUターンしてくるだけだから」 

「なあに、それ。どういうこと?」

「納涼船なんだ」

 対岸を指差した。

「向こう側の港で今夜、花火大会が開かれる。この船の上からその花火が見られるんだって」

「まあ」

 あなたが可愛い目を見開いて驚くから、ぼくはもうそれだけで嬉しくなってしまう。

「だから、ほら、」

 早く乗ろう、そう言って、ぼくはあなたの手を取った。


 船のデッキにはテーブルセットが所狭しと並べられていて、ひとで賑わっていた。ぼくたちは端の方に席を確保し、飲み物と食べ物をテーブルに並べると、座ってグラスを小さくぶつけた。

「乾杯」

 あなたはビール、ぼくはノンアルコールビール。

「いいの? 私だけ飲んじゃって」

「いいに決まってるでしょう。ぼくの分まで飲んで元、取ってほしいくらいだよ」

 ふざけて言ったぼくの言葉にあなたはくすくす笑う。

「そんなに飲まないって。飲んだらせっかくの花火が楽しめなくなっちゃう」

 そうは言っても暑い夏の夜、あなたは気持ちよさそうにグラスを空けた。あなたに合わせてぼくもグラスを空ける。

「お代わり、同じのでいい?」

 ぼくの問いかけに「私も一緒に行く」と言いだしたあなたを押し止める。

「ふたり一緒に立つのは花火を見る時で。それまではゆっくりしてて」

「ふふ。じゃあ、お言葉に甘えて」

 嬉しそうに笑ったあなたを残して席を立った。カウンターで二杯目を注いでもらって振り返る。長い髪を片耳にだけかけ、頬杖をついたあなたが遠目に見えた。しばらくうっとりとその姿を眺めてから、両手にグラスを持ったぼくはあなたの元へと戻った。


 ざわめきの間から、低い音がどぉう、とからだに響いた。

「あ、」

 あなたが空に目を向ける。向こう岸の夜空に赤い花が咲いていた。いよいよ始まったらしい。

「立って見る?」

 あなたは嬉しそうな顔して頷いている。

 グラスをテーブルに置き、デッキの突端までふたりで歩いていく。並んで柵にもたれかかった。

 風が強い。あなたの髪が風に煽られなびく。ワンピースの裾が揺れてはためく。両の耳に髪をかけながらあなたが呟く。

「海の上がこんなにも風が強いだなんて知らなかった」

「ぼくも」

 顔を見合わせて笑った。笑い声が風に千切れる。花火が続けて上がった。船の上で歓声が上がる。

 あなたの指が向こう岸に向かって真っ直ぐに伸びた。

「あそこから花火、見たことある?」

「ないよ。向こう側に行ったこと、一度もないんだ」

 今度、休みの日にでもドライブしに行く?

 ぼくの問いかけにあなたは笑った。ふふふ。

 笑っただけで、答えはなかった。


 もうすぐ接岸だ。

 港に近付くにつれ、風が徐々に弱まる。あなたの声が聞き取りやすくなった。

「ちょっと冷えちゃったみたい。トイレ、行ってくる」

「うん。いってらっしゃい。戻ってきたらぼくも行く」

 停泊中も花火は上がり続ける。あなたが横にいないで見る花火は、どれだけ大きくてきれいでもどこか物足りなく味気ない。空を見上げるのにもいささか疲れて、ぼくは伸びをした。

「ただいま」

 横にするりと戻ったあなたは、ぼくの目に花火よりも美しい。つい見惚れてしまったら、「なあに?」アルコールのせいかほんのりと頬を染めたあなたがはにかんだ。

「なんでもない」そう言ってぼくはあなたの肩にそっと手を置いた。


 ぼくが戻ってくると同時くらいに船が再び動き出した。花火が見やすいよう、ぼくたちは船尾に移動した。航跡波が海面に緩やかに広がっていくのが目に入る。船のスピードが徐々に上がり、それに合わせて風が強まる。あなたが小さく身震いした。

「寒い?」

 ぼくの問いに、あなたは黙ってぼくを見上げた。

「だったら、」

 口の中で小さく呟くと、大きく腕を伸ばしてあなたを背後から抱きしめた。

「あ、」

 言葉にならない小さな声が漏れる。聞かない、何も聞かないから。

 そのまま腕に力を込める。柔らかいあなたのからだが一瞬、強張って、それからゆっくりと力が抜けていき、代わりにぼくの腕にあなたの重みがずしりと伝わってきた。あなたのからだ全部が今、ぼくに預けられている。

「痛い」甘いかすれ声が腕の中から聞こえた。

 つい力を入れすぎてしまったらしい。「あ、ごめん」慌てて腕を緩める。

 ふふ。あなたが小さく笑った。笑い声まで腕の中で甘く響く。あんまり甘くて幸せで、ぼくは目が眩みそうだ。思わずあなたの髪に顔を埋めた。甘い。甘い甘い匂いがする。

「それじゃあ花火が見えないんじゃない?」

 あなたの声が腕の中から直接、からだを通してぼくに伝わる。声も匂いもあなたの何もかもが今、ぼくの腕の中。こんな幸せ、他にない。花火はあなたが見てくれればそれでいい。

「見ないの?」

「うん、それよりも、」

「あったかい」

 ぼくの声を遮るようにしてあなたが言った。

「あったかくて、気持ちいい」「花火もきれい」「ありがとう」滲むような声音。

 そんなこと言わなくていいから、ぼくに今、言わせて。

 ──あなたのこと、好きで好きでどうしようもないんだ。お願い。どうかぼくとずっと一緒にいてください。

 口にしようとした瞬間、あなたの声が突然、立ち塞がった。

「あなたと会うのは今日、これで最後」

 どくん、と大きな音がした。何かがいきなり止まった音。

「私、結婚することになったの」

 腕の中にいるはずのあなたの声が急に遠ざかる。現実感のない声。

「お見合いしたの。相手のひと、海外赴任が決まってて。急だけれど、今月の末」

 何を言っているのだろう、ぼくにはまるで分からない。

「だから、もうあなたとは会えない。これが最後。最後にこんな素敵な花火、ありがとう」

「聞こえない」

 半ば叫ぶようにして口にしていた。

「聞こえない。何も聞こえない。音がうるさくて」

 風が強い。あなたの髪の柔らかい匂いが風に散る。小さい肩が一層小さくなって震えている。ごめん。どうしていいか分からない。ごめん。どうすればいいのだろう。ごめん。ごめんごめんごめん。

 あなたのことを抱きしめたまま、ぼくは立ち尽くしていた。風が強い。あなたのからだはぼくに預けられたままだ。柔らかいからだ、暖かいからだ、でも、このからだはぼくではない誰かと共にこれから先を歩いていくと、今、あなたは言った。




 船が港に戻った。乗客が並んで階段を降りていく。

 いつの間に花火は終わったのだろう、空には何も見えず、音もない。

 ぼくたちは黙って船を降りた。


 無言のまま車に戻る。あなたは窓にもたれて目を瞑った。ドアミラーを見るふりをして、ぼくはあなたを盗み見る。視界の端にちらりと映るあなたはやっぱりきれいで、さっきの話は悪い冗談のようにしか思えなかった。

 それでもあなたの家の前で車を止めると、あなたはぼくの方に向き直り、言ったのだ。

「ありがとう。これが本当に最後のお願い」

 ずるい。ぼくがあなたに嫌と言えないことくらい知っているくせに。

「目を瞑ってくれる?」

 言われるまま、黙って目を瞑った。あなたが近づく気配がする。

 このまま黙って抱きしめて「どこにも行かせない」そう言えたらいいのに。でも、言えない。だって、あなたがずっと悩んでたこと、ぼくはよく知っている。

 結婚のこと、子供のこと、仕事のこと、親のこと。それなのにぼくはようやく社会人になったばかりで、そんなぼくに人生の大きな選択を今、強いるのは間違っている、そう思っていること。

 ずるい。あなたはずるいんだ。

 そうやってぼくひとり子供扱いして自分だけおとなの顔して、きれいに去っていこうとするなんて。そんなの許さない。嫌だ。絶対、絶対、認めない。

 あなたの両の手がぼくの顔を優しく包んだ。瞑ったまぶたの上に、温かく柔らかい感触。あなたの唇。

 ぱんっ。

 いきなり破裂音がした。びっくりして目を開けると、目の前にクラッカー。あなたが涙を零しながら手にしている。

「私からあなたへの花火代わり。今日の花火は一生、忘れない」

 私、幸せになる、だからあなたも幸せになってね、そう言ってあなたは車のドアを開けて出ていった。紙テープを浴びたぼくは、あなたの後ろ姿を目にしたまま動けなかった。

 そう言えば長距離船が出港する時、別れを惜しんで紙テープを船から岸に向かって投げいれるんだっけ。あなたに今日の船のことなんて何も話しちゃいなかったのに、どうしてこんなことできるんだよ。

 ずるい。本当にずるい。


 今日、ぼくがあなたに贈っていたもの、それは花火を見せることだけじゃなかったんだ。今日の花火、あの中に、あなた宛てのメッセージを添えた花火があったんだ。協賛金を払ってあの向こう側の海で読み上げてもらっているはずのそのメッセージは、まだぼくの手元にその音声データも届いてはいない。


『ずっとずっと愛しています。ぼくと結婚してください』


 言葉は海風に千切れてそのままどこかに飛んでいってしまったのだろうか。


 風が強い。強くて何も聞こえない。

 陸に戻った今も、耳鳴りのようにぼくの心には海風が吹き続けている。







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