不審者通報

かどの かゆた

不審者通報


 車で田んぼの真ん中にある細く長い道を突っ切って、野菜売り場を左に曲がる。線路を越えると大きな家が身を寄せ合うみたいに並んでいて、外飼の老犬がこちらに吠えてきた。


「もう着く?」


 後部座席でみどりが目を覚ました。


「もうすぐだよ」


 私がそう言うと、みどりは黄色い声をあげる。その声のせいで、寝ていたはずの響まで起きてしまって、一緒に騒ぎ始めた。チャイルドシートがギシギシと音を立てる。


「この頃、暑くなってきたなぁ」


 運転席の夫はそう呟くと、片手で運転しながら、ライムグリーンのシャツを器用に腕まくりした。「危ない」と注意すると「ごめん」と口だけ謝る。


 そして私達家族は、車で二時間半をかけて実家を訪れた。久々の実家は、壁が白く塗り替えられていて、玄関や階段に手すりがつけられていた。出迎えてくれた両親は、子どもたちから「じいじ」「ばあば」と呼ばれて恵比須顔だ。


「これ、庭で採れた茄子を漬けたのよ」


 椅子に座って、勝手に出てくる食べ物をつまむ。ああ、楽だ。のほほんとしていたら、いつの間にか、みどりと響が居なくなっていた。


「あれ、みどりたちはどこに行ったの?」


「外だよ。田んぼでザリガニを捕まえてくるんだってさ」


「え、泥だらけにならない? 怪我とかしたらやだなぁ」


「まぁ、たまには泥だらけになるのも、良いんじゃないか? 着替えなら一応、用意してるし」


 夫はのんきにお茶を啜る。泥だらけの服を洗うのが誰なのか、というところまでは頭が回っていないらしかった。でも、泥だらけになるような機会があの子たちにはそうそう無いということも事実だ。結局、考えるのが面倒になってしまって、未来の私に全てを委ねることにした。


「二人が帰ってきたら、さくらんぼでも出そうかねぇ」


 お母さんが立ち上がり、冷蔵庫の中を確認する。


「さくらんぼって、山形の?」


「ああ、うん。そう。昔から律儀に毎年贈ってきてくれてねぇ。嬉しいんだけど、ジジババだけじゃ食べ切れないのよぉ」


 山形の親戚から大量のさくらんぼが届くのは、私にとってこの時期の風物詩だった。そういえば、実家を出て以来、さくらんぼなんて食べていない気がする。昔は食べ切れなくて余らせるくらいだったのに、妙な感じだ。

 立ち上がって、冷蔵庫の野菜室を開ける。ビニール袋に入っている大量のさくらんぼを見ていたら、年の離れた従兄弟のことが思い出された。思えばあの日も、時期の割に暑い、今日みたいな日だったっけ。


「ねぇ」

 私がお父さんの方を向くと、時代小説を読みながら「んー?」と低く声を出す。


「恵介さんって、今どうしてるんだろ」


 私の質問にお父さんは老眼鏡を外した。それから、腕組みして自らの記憶を探る。


「どうだろうなぁ。特に何も聞かんなぁ。葬式以来だろ?」


「そっか」


 それから私は、再放送のバライティー番組を視界に入れながら、恵介さんのことを思い出していた。




 その日は中学校の創立記念日で、休みだった。しかし、スパルタで有名な女子テニス部には休みなどあるはずもなく、昼過ぎ頃から隣町のコートで練習があった。お母さんにそのことを伝えると「それじゃあ」と大きなビニール袋を手渡された。


「え、なに」


「さくらんぼ。叔母さんのところに、お裾分けしに行ってきて」


「やなんだけど」


 私は口をへの字にして、お母さんの頼みを断る。あの頃の私にとって、ビニール袋に入れた果物を届けに行くという行為はなんだか田舎臭くて格好悪かったのだ。

 しかし、結局、私は半ば強引にさくらんぼを押し付けられてしまった。その日は真夏みたいに暑い日で、私はテニスバックを背負い、自転車のかごにさくらんぼを入れて出発した。日焼けでヒリヒリしている肌に、風と、日差しと、排気ガスがぶわっとぶつかる。隣町までは、すぐだった。


 私がたった一人で叔母さんの住むアパートへ行くのは初めてだった。そのアパートは住宅街の随分奥まったところにあって、辿り着くのにちょっと難儀した。どこもかしこも似たような古い家やアパートで、道の端にあるドクダミさえ似たような生え方のように見える。

 しばらく辺りをぐるぐる回ってようやく見つけたのは、薄ピンク色の壁をしたアパートだった。コンクリートにべったりと塗られたペンキが、噛んだ後のガムのように見えたことをよく覚えている。


「にいまるさん、にいまるさん……」


 お母さんから知らされていた部屋番号を繰り返しながら、階段を上る。自分の足音だけが響いて、本当にここに人が住んでいるのだろうか不安になった。鼓動が早くなるのを感じながら「203号室」と書かれた部屋の前に立つ。インターホンを押そうとして、私は固まった。


「不審者、通報」


 思わず、読み上げる。

 203号室の無機質な真っ白い扉に、『不審者通報』というステッカーが張られていたのだ。そのステッカーは白地に黒のゴシック文字で印刷されており、店で購入したものには見えなかった。しかもインターホンの下には、最寄りの警察署の電話番号も一緒に貼られていた。気になって他の部屋を調べてみたけれど、同じようなステッカーを貼っている部屋はこの203号室の他になかった。

 この地域には、よく不審者が出るのだろうか。静かで人通りもないから、そんな風には見えない。それとも、そういう場所だからこそ、現れるのだろうか。


 いずれにせよ、アパートの二階にある扉にステッカーを貼ることに何か効果があるとは思えない。私はそのステッカーに、不気味なもの感じた。このステッカーには、何らかの実用性がある訳ではない。ただ、何かを表明している。不気味に思うのと同時に、私はどうして叔母さんがこのステッカーを貼ったのかが気になった。


 それから私はようやくインターホンを押した。ステッカーの貼られた扉から叔母さんが出てくる。何かの病気にかかったと聞いていたが、叔母さんは元気そうだった。


「これ、お裾分けです」


 小学生の時、私はどんな口調で叔母さんに話しかけていただろうか。それが全然思い出せなくて、やけに口調が硬くなった。叔母さんはにこやかにビニール袋を受け取ると「さくらんぼ? ありがとね。ここらの道、分かりづらかったでしょ?」と喋りかけてきた。


「えっと、大丈夫でした」


 本当はちょっと迷ったのだが、私はそう言って曖昧な笑みを浮かべる。


「それにしても、大きくなったわね」


 叔母さんはこの常套句から、数分に渡ってべらべらとお喋りを始めた。息をつく暇もなく言葉を浴びせられて、私は目が回りそうだった。話もそうだが、この暑いのに玄関先でずっと立っているのも辛かった。


「ごめんね。すっかり話し込んじゃって。アイスでも食べる? 上がって上がって」


 叔母さんは私の額に浮かぶ汗に気付くと、家に入ることを勧めた。気は進まなかったが、とにかく暑かったのと、アイスが魅力的だったので、私はちょっとだけ上がらせてもらうことにした。テニスの練習までは、まだ時間があったのだ。

 叔母さんの家は、物が少なく、整頓されていて無機質だった。居間に座って待っていると、叔母さんは一箱に八つくらい入っているタイプの小さなカップアイスを出してきた。


「抹茶とチョコとバニラ、どれがいい?」


「えーっと、バニラで。その、お願いします」


 私がカップアイスの蓋を開けていると、台所の方で水の流れる音がした。それから叔母さんは大声を出す。


「恵介、さくらんぼ貰ったけど、いるー?」


 私は一瞬、恵介という人物が誰なのか分からなかった。そもそも、その日は平日で、大人は働きに出ている時間帯なのである。だから、叔母さん以外の人が家に居るということ自体が驚きだった。結局叔母さんの大声に返事はなく、代わりに、引き戸が開く音がする。それから居間に、痩せた男性が迷子の子どものような足取りでやってきた。


「……あ」


 私は彼のこけた頬を見て、ようやく恵介というのが誰だったのかを思い出す。そうだ。私には、歳が十くらい離れた従兄弟が居た。しかし何故、恵介さんはこんな時間に家に居るのだろう。私はそれが気になったが、それを面と向かって聞かないくらいの分別はあった。


「お邪魔してます」


 私はアイスをちゃぶ台に置いて、恵介さんに軽く会釈した。恵介さんは私の向かいに座ると、テレビをつける。地方のニュース番組が流れて、窃盗被害がどうとか、そんな音声を私は聞き流した。恵介さんも何となくテレビをつけただけで、ちゃんと見ている様子は無かった。テレビの騒がしさが、かえって沈黙を強調しているように思われた。恵介さんは整った身なりをしていて、髭もちゃんと剃っていた。肌も指も綺麗で、傷もシミもない。ちゃんとしている、という印象だった。だからこそ、そんな彼が平日のニュースを見ているのに違和感がある。


「その、ここら辺って、不審者が出るんですか」


 沈黙に耐えかねたのか、何かを聞き出そうとしたのか、私の口から勝手に質問が飛び出た。恵介さんは色のない瞳でこちらを見る。意図を掴みかねているみたいだ。すると恵介さんは唐突に立ち上がり、台所の方へ歩いていった。


「母さん、最近、近所で不審者って出た?」


「別に、出てないけど?」


 戸を一枚挟んで、会話が聞こえてくる。それから恵介さんは居間に戻ってきた。


「出てないみたいだ」


「そ、そうなんですね」


 私は自分で話を始めておきながら、早くも後悔していた。こんな盛り上がりもしない話、早くやめたい。そしてとにかく、この場を立ち去りたかった。


「はい、さくらんぼ」


 すると、叔母さんがようやく台所からこちらに来て、ボウルに入ったさくらんぼをちゃぶ台へ置いた。恵介さんは何の感慨も無さそうにさくらんぼへ手を伸ばそうとしてやめる。


「あー……」


 それから恵介さんは食器棚の方をちらと見た。


「あ、種用の皿ね。はいはい」


 すると、叔母さんがすかさず立ち上がり、皿を用意する。恵介さんはその様子を、ただただ見ていた。叔母さんは私の隣に腰掛け、そして再び、さくらんぼへ手を伸ばそうとする恵介さんの方を向いた。


「あれ、恵介。果物食べるのに、白い服じゃあ汚れるでしょ」


 叔母さんの指摘に恵介さんは「ああ」と声を漏らし、立ち上がって自分の部屋へ戻っていく。そしてしばらくすると、汚れの目立ちづらい黒の服を着て現れた。

 私は自分の記憶を探った。恵介さんは、私よりかなり年上で、今年、二十四か五くらいだったはず。そのはずなのだ。まぁ、歳が何歳だからどうって話でもないけれど、意識すればするほど居心地が悪かった。


「おいし」


 叔母さんは次々とさくらんぼを口に入れて、顔を綻ばせる。父方の親戚から送られてくるさくらんぼは、本当に美味しい。自分の運んできたものが喜ばれているのは、素直に気分が良かった。


「んー……」


 対して、恵介さんはあまりピンときていないようだった。


「もしかして、甘くなかったですか?」


 聞くと、恵介さんは頷いた。


「たまにあるんですよ。熟しすぎてるやつとか。でも、絶対他のやつは甘いので」


「いや、俺はもう、たくさんかな」


 恵介さんはそれきり、さくらんぼを食べるのをやめてしまった。私はその光景を見て、酷くつまらない気持ちになった。二粒目を食べられないような性格だから、この人は、平日の昼間から家に居るような生活をしているのだろう。


 さくらんぼを殆ど一人で平らげると、叔母さんは皿を洗いに再び台所へ行った。私はもうここから出る旨を伝えたかったけれど、タイミングを逃してしまい、まだ居間に座っていた。ぼーっとテレビを見ている恵介さんの横顔を見ると、文句の一つでも言いたくなってきてしまう。一体、何を考えているのだろう。どういう神経をしているのだろう。


「あの、扉のステッカーって、叔母さんが貼ったんですか」


 しかし直接文句を言うほどの度胸はやはり無く、私は先程後悔したはずの話を蒸し返した。それ以外に話題が思いつかなかったのだ。


「ああ、不審者通報ってやつ?」


 恵介さんはこちらを見もせずに、独り言のように返事をした。


「はい。不審者なんて出てないって話だったのに、どうして貼ってるんですか」


「単に防犯だと思うけど。そもそも、世の中なんて信用できない奴らばかりなんだから、別にあんなステッカーくらい変じゃないだろ」


 恵介さんは唇を尖らせて、早口で母親を擁護した。

 どうして恵介さんは、世の中が疑わしいやつらばかりだと思っているのだろうか。何か、裏切られた経験があるのだろうか。そのトラウマを抱えて、今、家に閉じこもっているのだろうか。疑問は次々と浮かんできたけれど、とうとう私は肝心なことを聞けなかった。


「でも、中には、信用できる人だって居るんじゃないですか」


 代わりに、私は恵介さんの話に反論した。台所の方をちらと見る。私は、恵介さんの態度が人間不信のそれとはどうしても思えなかった。恵介さんもまた、台所の方を見る。それから、痛々しいくらい固まった表情筋で苦笑いを浮かべた。


「いや、信用出来る人なんて、いないよ」


 酷いことを言う人だな、と思った。彼らの生活を少し覗いただけの私でも、恵介さんが甘やかされていることは分かった。あれだけ愛情を注がれていながら、誰も信用できないなんて、なんて甘えたことを言う人なのだろう。


「叔母さんが可哀想」


 中学生の頃の私は、純粋で、それ故残酷だった。ぽつりと呟いた言葉に、恵介さんは何かを言いかけて、やめた。

 私は別れ際、恵介さんに「さくらんぼは絶対他のやつは美味しいので、食べて下さい」と言った。意図せず、子どもへ注意するような口調になってしまった。恵介さんは頷いた。そうして、私はようやく叔母さん家を出ることができたのだった。




 それから数年、私と恵介さんが会うことは無かった。

 次に再会したのは、叔母さんのお葬式だ。

 毎日たった一人で家事をしていたらしい叔母さんは、ある時を境に、それまで元気だったのが嘘みたいに持病を悪化させていった。そして、半年ほど入院して亡くなったのだ。その時私は大学に進学したばかりで東京に住んでいたから、お葬式への参列が初めての帰郷となった。


「恵介くんは、一体、どうするのかしらね」


「あのままっていう訳にもいかないだろうしなぁ」


 帰ってきた実家では、お母さんとお父さんがそんな話をしていた。そこで私は初めて、恵介さんが中学生の頃と同じような生活をずっと続けていたのだということを知った。私はさくらんぼを届けたあの日のことを思い出して、不安だった。もしかしたら恵介さんは、自ら命を落としてしまうのではないかとさえ思った。


 しかし、私の不安をよそに、お葬式はつつがなく進んでいった。恵介さんはきっちりと喪服を着こなし、冷静なように見えた。それどころか、恵介さんは以前に見た時より健康そうでさえあったのだ。


「母はとても優しい人でした。すごく、すごく優しくて、僕にとって神様みたいな人でした。今は、あまりにも悲しくて、心が抉られて、何も無くなってしまったみたいな、そういう気分です。でも、母の苦しかった闘病生活が終わって……何というか、葬式で言う言葉じゃないかもしれないんですけど、ほっとしている自分もいます。とにかく、安らかに、今まで苦労した分まで安らかに眠ってほしいと、そう思います」


 恵介さんはお葬式で、そんなことを話していた。その姿は立派で、一端の社会人のようにも見える。私は叔母さんの遺影を見て、どんな思いで今まで彼女が恵介さんを養ってきたのかを考えた。


 それから叔母さんは火葬場へ出棺されて、焼き終わるのを待つ間、私を含めた参列者は大きな和室に通された。テーブルには茶菓子やちょっとしたオードブルがあり、私はそれをちょっとつまんだけれど、あまり食欲は無かったのですぐやめた。


「ちょっと、外の空気吸ってくるね」


 式の堅苦しさに肩が凝ってきて、私は席を立ち、少しの間だけ外へ出た。深く深呼吸をして、こめかみを指でぐっと押す。それから中に戻ろうとした時、たまたま恵介さんが立っているのが見えた。恵介さんは火葬場から立ち上る煙を眺めていた。ただ一人で、黙って、顔を上げていた。私は伸びをするふりをしながら、横目で彼のことを観察し続けた。よくないとは思いつつも、気になって仕方がなかった。

 よく観察すると、恵介さんの目からは、涙が流れていた。恵介さんは全く涙を拭おうとせず、頬も首も濡れているようだった。拳を震えるほど握りしめ、眉間にしわを寄せて、本気で悲しんでいる。しかし、恵介さんの口元は、笑っていた。喉の奥から染み出してきたような、小さなえづきと噛み殺した笑い声。

例えば、叔母さんがもっと早くに亡くなっていたなら、どうなっていたのだろう。私はその笑みを見て、嫌なことを考えてしまった。


「……あれ、君は」


 すると、長く観察しすぎたのか、私は恵介さんに気付かれてしまった。愛想笑いを浮かべて逃げようとしたが、涙を拭った恵介さんはこちらに近づいてきた。


「大きくなったね」


「え、はい」


 大学生にもなってそんな台詞を言われるとは思わなかったし、恵介さんが私のことを覚えているということを意外だった。どうしていいか分からず、恵介さんの前で縮こまる。


「恥ずかしいところを見られちゃったな」


 恵介さんは何かを誤魔化すようにはにかむ。それからわざとらしく目を擦って、その赤さをアピールした。


「あの、聞かれたくないことかもしれないんですけど」


 私がそう言うと、恵介さんのぎこちない笑みが引っ込んだ。


「どうして、笑ってたんですか」


「どうして、だろうね。自分でも分からない」


 恵介さんはもう一度、煙の方を見上げた。


「ステッカー」


「え?」


 聞き間違えかと思って、思わず聞き返してしまう。


「ステッカーの話、覚えてるかな」


「あ、はい。覚えてます」


「なんかあれ、今なら理由、分かる気がするんだ」


 その話は、笑っていた理由と何か関係があるのだろうか。不思議に思いつつも、私は黙って話を聞いた。


「不審者っていうのは、疑わしい奴だ。信用できない奴だ。母さんはそういう存在をずっと怖がってた。ステッカーを貼って、不審者は捕まるぞ、って繰り返して、そうやって、何かが起こるのを未然に防いでたんだ。当然だよな。不審者なんて、刑務所でもどこでも良いから、閉じ込めて、決して野放しにしないようにするよな。それが普通だ」


 私は、あの、無機質なステッカーを思い出した。恵介さんはきっと、母親のことだけをずっと信用していた。そして、その他はみんな、きっと自分さえも全く信用していなかったんだ。


「ようやく天国に行けて、母さん、安心してるだろうな」


 そう呟く横顔は、苦しそうだけれど、さっぱりもしていた。


 恵介さんはあの時からようやく、自分で信じるものを選び始めたのだろう。




 気付いた時には、もう既に日が傾いていた。

 白いカーテンの隙間からオレンジ色の光が溢れて、ペルシャ柄の絨毯を照らす。どこかから鐘の音がして、私はテニスをやっていた頃の、制汗剤の匂いを思い出した。


「そろそろ、迎えに行くかな」


 夫は自分の膝をぴしゃりと叩いて、すくっと立ち上がった。窓の外を見ていたら少し歩きたくなって、黙ったまま夫に着いていく。夫婦揃って全身に西日を浴びていると、子ども達はすぐ見つかった。田んぼの端っこで騒ぐみどりと響に、遠くから声をかける。


「もう遅いから、おしまいにしてね」


 辺りに自分の声が響いて、みどりが駆け寄ってきた。道路のコンクリートに泥で足跡がつく。


「おとーさん、ザリガニ! ザリガニ捕まえた。カエルも。もういないけどね、さっきね、白いカエルもいたんだよ。ねぇおかーさん知ってる? 白いカエルって、神様なんだって。おばあちゃんが言ってた」


「へぇ、白いカエルは珍しいんじゃないか?」


 興奮した様子のみどりと、一緒に盛り上がる夫。微笑ましくはあるけれど、とにかく、暗くなる前に遊びを止めさせないと。


「ほら、あとはもう、おしまいね。響も呼んできて」


「うん! あ、そういえば、響、ちょっとケガしてた」


「え、ケガ? ちょっと、早く響呼んでくれる?」


「響―、おかーさん呼んでるよ」


 帰りたくないと駄々をこねる響を連れて、実家の庭へ向かう。畑の水やり用のホースで、みどりと響の手足を洗った。


「いたい」


 泥を落としてみると、響の手には切り傷が見つかった。そこまで深くはないが、バイキンが入っていないか心配だ。


「どうしてケガしたの、響」


 私はてっきり、こう聞いたら響はしょぼんとしながら理由を話してくれるのだと思っていた。しかし、響は自分の傷を見ると、みどりと顔を見合わせて、クスクス笑い始めた。


「え、どうして笑うの?」


 聞いても、二人は答えてくれない。ただ口角を上げ、噛みしめるように笑うばかりだった。


「おかーさんにも、教えてほしいなぁ」


 その後も気になってしまって、しつこく問いただしたけれど、結局ケガの原因も、なぜそれで笑うのかも、分からずじまいだった。でも、私はこの子たちが何か悪いことをやってケガをした訳ではないと信じている。


 それから私達は夕飯の後に、さくらんぼを食べた。皆次々とさくらんぼを口に運んでいって、ボウルに山盛りだったのがすぐに無くなってしまう。きっと、恵介さんも今なら、どんどん食べられるんじゃないだろうか。何も噂が無いってことは、そういうことだろうと私は思った。

 


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