油断食堂

朽木桜斎

第1話 入店

「腹減った~」


 仙崎隼人せんざき はやとがマンションを出てウォーキングをしていると、おなかから子豚のようなかわいい音が鳴った。


「さっきプロテインをたらふく飲んだんだけどな。なんでこんなに腹がすくんだ?」


 学生時代に立ちあげたアプリ開発会社も、いまでは上場して株価だってうなぎのぼりだ。


 動画チャンネルも運営していて、有名だから当然、ねたまれることも日常茶飯事である。


「何か、盛られたか?」


 自分の住んでいる高層階へ出入りできるのは、特別な手続き経て許可を得た者だけだ。


「まさかな~」


 そんなことを考えているうちに、なにやらいいにおいが鼻を突いた。


「お?」


 気がつけばいかにも昭和な区画に入っている。


 においはその一角にある、古びた大衆食堂からのようだ。


「なになに、『油断食堂』? ぷっ、なにそれ? けっこう面白いセンスかもしれないけど、こういうレトロな店だと逆にわけわからんよな」


 看板をながめてニヤニヤしていると、トタンをぶん殴るような音が響きわたった。


「うおっ!?」


 なんのことはない、戸が開かれて軋む音だった。


「兄ちゃん、飯、食っていきな」


 ゲンコツみたいな頭のオヤジが、台形に変形したコック帽姿でにゅっと顔を出した。


「な、え……?」


「汚いとこだが、味は確かだぜ? さあ、入んな」


「は、はあ……」


 見た目ですでに嫌悪感を示していたが、この流れで嫌だとも言いづらい。


「まあ、いいか……」


 意外にこういう店が穴場だったりするのかもしれない。


 そう思いながら、仙崎はオヤジに続いて暖簾をくぐった。


「う、わ……」


 そこにあったのは、マンガに出てくるようなザ・大衆食堂の光景だった。


 6時50分で針の止まっているバカでかい柱時計、30年前の日付のカレンダーは下半分が切り裂かれており、小上がりに敷いてある畳はといえば、すっかりいたんで剣山のようになっている。


 当然というか、誰ひとりとして客は、いない。


 マジかよ……


 彼は心の底から入店を後悔した。


 ただ、においだけは抜群なのは確かだった。


 自分がいままでかいだにおいの中で、一番心をくすぐられる感じがする。


「カウンター席でいいかい?」


「え、あ、はい……」


 仙崎はためらいながらも、ほとんど黒くなっている赤い椅子へと座った。


「え~と、何がうまいんですか?」


 そうたずねながら顔を上げたとき、彼はハッとした。


 オヤジがこちらを見つめながら、奇妙な笑みを浮かべているではないか。


 まるでゲンコツが握りこぶしを作ったかのような不気味さだ。


「ふふふ、兄ちゃん、油断・・、したね……?」


 仙崎の皮膚の下に、虫の這いずり回るようなおぞ気が走った。

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油断食堂 朽木桜斎 @Ohsai_Kuchiki

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